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No.1991 論語・儒教 『論語のこころ』 加地伸行著(講談社学術文庫)
2021.01.14
1月14日から、新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく緊急事態宣言の対象区域に福岡県も追加されることになりました。こういう混迷の時代には、古典を読んで、「何が正しいか」「いま、何をすべきか」を見定めることが大切だと思います。『論語のこころ』加地伸行著(講談社学術文庫)を再読しました。2005年に刊行された著者の『すらすら読める論語』(講談社)に大幅な加筆を施して再編集した文庫版です。当ブログの記事で、ひそかに人気があるのが論語関連本の書評記事です。わたしが読んできた『論語』や儒教に関する本は、ブログで取り上げた後、書評サイトである「一条真也の読書館」の「論語・儒教」のコーナーに保存しています。その内容は、いずれ『論語論』という本にまとめたいと思っているのですが、そこに本書『論語のこころ』が入っていなかったので、久々に読み返した次第です。著者は日本を代表する中国哲学者で、わたしが私淑する儒教の師です。じつは今度、著者と対談させていただくという企画が持ち上がり、大変光栄に思っております。
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「時代を超えて読み継がれる『論語』。人間のありのままに見とおし、人間にとっての幸福とは何かという視点にもとづいて道徳を論じ、読む者の人生の指針となってきた、その叡智とは? 同書から百二十余の章段を選んで体系化、解説と原文、現代語訳を配して、読み進めることで作品の理解が深まる実践的な『論語』入門。不朽の古典のエッセンスを読む!」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
「凡例」
第一章 『論語』の名句
第二章 『論語』を読む楽しさ
第三章 自分の幸せだけでいいのか
第四章 他者の幸せを求めて
第五章 「学ぶ」とは何か
第六章 教養人と知識人と
第七章 人間を磨く
第八章 若者との対話
第九章 人生用ノート
第十章 孔子像
第十一章 愛と死と孝と
第十二章 孔子の生涯とその時代と
「おわりに」
「はじめに」では、いわゆる世間では、『論語』と言えば、道徳の権化のように思われており、しかも日本人の道徳観、あるいは道徳感から言えば、『論語』が説く道徳とは、人に対して従順でひたすら耐えるようなもの、人間を抑圧するものといった捉えかたが大半であろうとして、著者は「それは大いなる誤解である。『論語』は、人間をありのままに見透し、そうした人間にとっての幸福とは何かという視点に基づいて道徳を論じ、そうありたいことを主張している。その内容は、けっして難しいものではないし、実行できるものばかりである」と述べています。
ところが、そういう基本的道徳(たとえば、親を大切にする、夫婦は仲よくする、友人にはまごころを尽くすなど)を現代人は軽視します。いや、馬鹿にさえしているとして、著者は「とりわけ高学歴の者にそういうことが多い。彼らが説く道徳とは、世界平和についてであり、社会福祉についてであり、人権についてであり、環境についてであり……とどまるところを知らない〈抽象的・観念的〉道徳である。しかし、身近な人間(両親・配偶者・友人など)に対して愛しきることができない者が、どうして人権や福祉や環境などについて配慮することができるのであろうか。ましてそういう人が平和を語るなど、空理空論でしかない」と述べます。
本書については、以下のように説明しています。
「本書は、第1章から第11章まで、各章ごとに解説を置き、そのあとにそれぞれに関わる文を『論語』から選んで並べている。これらは、私なりに体系化して順序を立てているので、最初から読み始められるのがよろしかろうと思う。もっとも、心に深い悩みをお持ちの方は、第11章の『愛と死と孝と』をまず読まれたい。そこには、儒教の本質が述べられており、また日本人の心に最も触れる問題について述べているからである」
第三章「自分の幸せだけでいいのか」では、「人間を価値で分ける」として、著者は「孔子は人間を根底から見すえた人である。冷徹とさえ言ってよい、その人間観は」として、孔子の「中人以上は、以て上を語ぐ可きなり。中人以下は、以て上を語ぐ可からず」という言葉を紹介します。すなわち、孔子は人間を二つに分け、ものごとについて、きちんと分かる人と分からない人とに区別しました。そして、その後者を〈民〉としたのです。これは差別ではなく、区別です。著者は、しかし、それは知性の問題であり、人間には、その他に感性や徳性もある。この感性や徳性について、民のそれはどのようなものであろうか。それは、己の幸福を第一とするものである。幸福――これは人間ならばだれしもが求める。けれども、幸福と言ってもさまざまだ。その中で、民は己の幸福を第一に求めるのである。これは今日においてもほぼ似た状況であろう」と述べています。
また、「法と道徳と」として、著者は「聞けば、近代法学において自然法と法実証主義との二つの対立する立場があるとのことである。自然法派とは、この世における人間の営みは、自然法(大いなる道理とか、歴史的伝統の中で生き残った人間の知恵とか、民族的同意のある慣行など)に基づくとする。孔子が重んじた礼はこの領域に入る。一方、法実証主義派とは、文章化した法律、その逆も可で、法律化した文章――それにのみ従うとする。たとえば、人類史上、最悪の悪逆無道の政治家とされるドイツのヒットラーがその政権獲得に至るまでの道は、法律に基づいていて合法的であり、法実証主義的には正しいとされている」と述べています。
第四章「他者の幸せを求めて」では、「志をもって生きよ」として、著者は「他者の幸せのために生きよう――そのように考えること、それが〈志〉を立てることなのだ。己の幸福だけを懸命に考えること、それは志を立てることではなくて、利己主義の徹底にすぎない。だからこそ、己の幸せの現実化として大富豪になったとしても、社会的高位を得たとしても、どこか空しく、どこか寂しく、どこか侘しい。まわりを振りかえれば、心の友も、まごころある後輩も、だれもいないではないか」と述べます。孔子は、弟子に〈志〉を求めました。たった1回の人生を志を持って生きよ、と。著者は、「その志すものは、現代ならばさまざまにある。医療の道、介護の道、いやそのような道徳的な〈他者のための幸せ〉だけがすべてではない。間接的ならば、食糧を運ぶことも、ニュースを伝えることも、タクシーを運転することも・・・・・・人々のための仕事である」と述べるのでした。
第五章「『学ぶ』とは何か」では、「民の事は民に聞け」として、著者は「民の学ぶべきことは、生活者の知恵・技能・経験であり、知的世界は余分なものであった。たとえば文字を知らずとも生活に特に不便はなかったのである。その意味では、わずらわしい人工的な〈知性の世界〉など拒否しようとする老荘思想の気分は、民の生活の気分と一脈相通ずるものがある」と述べています。しかし、「為政者の条件」として、「民の生活を指導する官、換言すれば、民の幸福を考える為政者(民から富を収奪する搾取者などという単純な見かたは採らない。少なくともまともな統治者は、民は人間社会の根本であるとする〈民本主義者〉である。古今東西を問わず)――道を志す者は、為政者でありたいという単なる願望だけでは志を果たすことはできない。当然、為政者としての条件が必要である」とも述べます。
また、著者は「為政者を志す者は、実務的にまず〈知〉の技術者でなくてはならなかった。文字、そして文章――ことばを使えない者は多数の民を統率することはできなかった。しかし、農民の場合、その大半は文字につながる道はなかった。今日の中国でも、文字の読めない者は相当な人数であろう。ところが、孔子の場合、母が儒集団の一員であった」と述べます。儒は、「礼」を専門とする知識人集団でした。孔子は幼いとき、儒たちの儀式を見てその真似をしていたといいます。著者は、「当然、儒たちが使っていた漢字に親しむ機会があっただろう。初歩的とはいえ、この文字の知識や儀礼感覚が孔子の生きてゆく武器となったのである。一般農民のほとんどは文字を知らないのであるから、少しでも文字を知っているのは、たいした事であった」と述べます。
さらに、「知性の鍛錬と徳性の涵養と」として、著者は孔子の教育観に言及し、「教育は単なる知的技術者を造ることが目的なのではなくて、知性に徳性を加えた人間を造ることであるとする立場である。教育は人間を造ることが目的であり、その人間とは、知性と徳性とを備えた者のことである。その具体像とは、人間社会の規範(礼)を身につけた者である。すると、他者の幸福を実現するために志を立て、為政者となるために〈学ぶ〉こととは、まず知性の鍛錬であり、延いては徳性の涵養であった」と述べています。
しかし、それは言うは易く、実現はなかなか難しいものです。著者は、「孔子の学校に集まった弟子たちにおいて、それを実現できた者は多くなかった。それどころか、早く為政者の地位に就職したいという者もいた。もちろん、孔子の推薦を受けてである。そのような人物の場合、詩・書・礼・楽の実地訓練のようなものに関心があり、知的技能が身につけばそれでよいと考えていた。これに対して孔子は批判的であり、知性の鍛錬だけに終わっている者を嫌い、徳性の涵養にも努めている人材を良しとした。そこで孔子は両者の区別をしたのである。〈君子〉と〈小人〉というふうに」と述べます。
第六章「教養人と知識人と」では、「知徳の合一が為政者の条件」として、「孔子は、知的訓練に加えて道徳的訓練を行なった。両者は、孔子の理想から言えば、どちらが欠けてもだめなのである。私の見るところ、『小人』は知的訓練のみに終わっている知識人、『君子』は、知的訓練と道徳的訓練との両者をこなしきれた人、すなわち教養人ということであろう。念のために言えば、『教養がある』と言うとき、日本語においては知識の豊かな人、いろいろなことを知っている人というふうに理解されやすい。そうではなくて、中国におけるように、知識人であって同時に道徳的な人を指して教養人と言うべきである。私はそのような意味として使っている。そこで私は、君子を教養人、小人を知識人と訳しているのである」と述べます。
また、「徳性を磨くには」として、著者は「世界に平和をとか、世界の貧しい人を救おうとか、差別をなくし人権を守ろう……といった大きなテーマは抽象的であり、どうしてよいのか分かりにくい。そのようなことで悩むよりも、自分が今すぐにでも可能な身辺の問題について徳性を磨くべきであろう。たとえば、飲料を飲み干したあとのペットボトルをそのへんに放置しないとか、列車やバスに乗れば老人や妊婦に席を譲るとか、並んだ列を乱さないとか……いくらでも身辺に徳性を磨く機会があるではないか。しかし、そのことすら実行できない知識人がどれほど多くいることであろうか。これもみな、日本の教育すなわち小人養成学校卒業の結果ということであろう」と述べています。まったく同感です。儒教は現実に即した教えなのです。
さらに、著者は儀式の専門集団であった「原儒」について、こう述べています。
「原儒集団は、大儒(親分)が小儒(子分)を指揮するという構造になっていた。いろいろな祈禱の担当の中で、喪(葬)礼の担当者でもある原儒集団にとって、喪礼は重要な収入源である。その際、大儒は小備に対して支配的指導を行なっていたことであろうが、その地位を支えるものの一つは、礼(当然、音楽も含まれる)の専門家であったことである。こうした知識や秘儀の伝承を独占的に行なっていたからこそ、小儒を支配できたのであろう」と述べています。
孔子は、こうした原儒系礼楽(小儀礼)をも吸収し、一方、都への留学によって学び得た国家的礼楽(大儀礼)を柱とする儒教体系を構成していった人物でしたが、著者は「孔子において重視されていたのは、大儀礼である。なぜなら、行政家として社会に活躍するためには、小儀礼はもちろんのこと、大儀礼に習熟する必要があったからである。この大儀礼中心の儒が君子儒であり、小儀礼中心の儒が小人儒であると考える」と述べます。孔子の「礼」に対する考え方がよくわかりますね。
第七章「人間を磨く」では、「道徳を軽視する現代の教育」として、著者は「ほとんどの人間は未熟である。礼儀は他人に言われてはじめて気づくことが多い。経験不足だからである。私が大学の学生のころであった。母の死があり、年賀の欠礼挨拶を発信したところ、折りかえし何人かの方たちから弔書をいただいた。学んだ。それ以来、人から欠礼挨拶をいただいたとき、その方に弔辞を述べてきている。当たりまえと言えば当たりまえではあるが、こうしたことを学ぶ機会がなければ、意外と気づかないものである」と述べています。この一文を読んで、わたしは冷や汗が出ました。なぜなら、以前、著者から年賀の欠礼挨拶の葉書を頂戴したことがあるからです。著者の兄上が亡くなられたろのことでしたが、わたしは弔辞を述べた葉書をお出しすることを忘れていました。「礼」の専門家を目指しているくせにお恥ずかしい限りですが、こういったことを改めて学べるにも読書の素晴らしさだと思います。
また、東北大学名誉教授を務められた金谷治先生という方がおられました。岩波文庫の『論語』の訳注を行われた儒教学の第一人者で、著者の師でもありました。著者が20代の頃、金谷先生は中国哲学の学界における中心的メンバーの1人でしたが、当然、若い著者に対しての呼びかけは「加地君」であり、それは当然のことであった。ところが、著者が研究者として一人立ちし活動していたある時期から、呼びかけが「加地さん」に変わったそうです。著者は、「これは常人にはなかなかできないことである。後輩に対して、『君』から『さん』に切り換えるには、相当の徳性が必要である。私が金谷先生に対して一段と尊敬の念を深くしたことは言うまでもない。後年、博士学位論文を先生に提出申しあげた。それは金谷先生に対する人間としての敬意の最大表現であり、恩返しであった。後輩に対しての、『君』から『さん』へ――この学んだことをいま私は実行しつつある」と述べられています。含蓄のあるお話ですね。まさに、「礼」の実践篇ではないでしょうか。
また、「古典で己を磨く」として、著者は「今日の日本で、文化・教育において最も軽視されているのは道徳であり徳性である。今日の中国もまた同様である。それは、道徳を最も重視した孔子の世界とは対極にある。ところが、実社会において、最も求められるのが徳性であり道徳なのである。実生活においてそれは微動だにしていない。たとい能力主義、実績主義が大きく取りあげられようとも、日本では、先輩後輩の序列は、そう簡単には崩れない。相手に対して、きちんと礼節を弁えている人間のほうが、そうでない人間よりも必ず成績がいい。他者の不幸を知って平気で笑っている人間は相手にされない」と書いています。
しかし、著者は「と書いてきて、いささか空しくなる」と告白し、「徳性や道徳を意識しない人間は、上述のような話を聞かせても、まず理解不能だからである。道徳的・徳性的感覚がないからである。そういう人は、学校生活よりも遥かに長い社会生活をどのようにして過ごすのであろうか。失敗や挫折が待っているだけであろう。しかも自分はその原因を知らない。とすれば、実社会に出る前、まずは学校生活・家庭生活においてきちんとした道徳教育をすることがその人のためになる。人間を磨くことの第一歩である。そのときの材料として『論語』は選ぶ価値がある」と述べます。
さらに著者は、「己を磨くとき、すなわち修養を心がけるとき、古典はそれを助けてくれる。己を磨くその状況を古典がきちんと言い表してくれるときがあるし、逆に、古典のことばに沿って己を磨くこともある。その意味で古典を読むことは重要である。もっとも、その古典も、ギリシャ神話に曰く、とか、プラトン曰く、とか、というのでは日本人の心に響かないし、浮いてしまっている。やはり日本や中国の古典でないと様にならない」と述べるのでした。これまた、まったく同感です。ちなみに、わたしは日本人に必読の古典とは、『古事記』『論語』『般若心経』であると考えています。
「サンデー毎日」2017年9月17日号
ブッダが開いた仏教、孔子が開いた儒教は、日本人の「こころ」に大きな影響を与えました。加えて、日本古来の信仰にもとづく神道の存在があります。わたしは多くの著書で、「日本人の精神文化は神道・儒教・仏教の三本柱から成り立っている」と繰り返し述べました。神儒仏が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。それをプロデュースした人物こそ、かの聖徳太子でした。宗教編集者としての太子は、自然と人間の循環調停を神道に担わせ、儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を解消しました。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、自然の部分を神道が、それぞれ平和分担する「和」の宗教国家構想を聖徳太子は説いたのです。
その三宗教の聖典こそ、『古事記』『論語』『般若心経』なのです。わたしには、それらが日本人の「過去」「現在」「未来」についての書でもあるように思えてなりません。すなわち、『古事記』とは、わたしたちが、どこから来たのかを明らかにする書『論語』とは、わたしたちが、どのように生きるべきかを説く書。『般若心経』とは、わたしたちが、死んだらどこへ行くかを示す書。この考えを知った宗教哲学者の鎌田東二氏は、「『古事記』とは、日本人の来し方行く末を明示する書。『論語』とは、人間修養を通して世界平和実現を指南する書。『般若心経』とは、迷妄執着を離れて実相世界を往来する空身心顕現の書」と述べられました。
第九章「人生用心ノート」のでは、「日本・日本人を論ずるなら」として、著者は「日本人として、日本のことを考え、日本のことを論じようとするならば、歴史的背景として、少なくとも江戸時代からの伝統を踏み、読書人のかつての必読書であった四書ぐらいは読んでおけと言いたい。俗に、かつてはだれしも儒教の四書五経を学んだとよく言われているが、それは嘘である。五経(易・詩・書・春秋・礼記)を学び切るには時間も学力も必要であり、だれもが学び切ったわけではない。しかし、五経を学習する前提としての四書を学んだ者は山ほどいた。と言うよりも、一般人としては、四書の学習をもって、ある意味では十分であった」と述べています。
第十一章「愛と死と孝と」では、「仏教の死生観」として、著者は「生きてあること自体が絶えず変化し、死への接近を意味するこの矛盾。それを形で現すようになるのが、老であり病であり、そして死である。生・老・病・死――すべてこれは常無きもの、無常であり、つまりは苦である。現世とはこうした苦の世界であるとするものの、仏教はたとい死ぬとも四十九日を経て再び生まれてくることができるとした。ただし、あくまでも苦の世界への再来であるから再び生・老・病・死の苦の一生を経て、また生まれる。そのことを繰りかえす」と述べています。
仏教のこのような死生観に対して、東北アジア(中国・朝鮮・ベトナム北部そして日本)の人々は抵抗しました。なぜなら、輪廻転生とは異なる死生観をすでに持っていたからであるとして、著者は「それは儒教の死生観であった。いや、儒教において表現されたと言うべきであろう。そこで、儒教とインド仏教とが、激しく対立したのではあったが、仏教は、中国で生きのびてゆくためには結局は儒教の死生観を取り入れざるをえず、インド仏教の死生観と儒教の死生観とを融合する形で、中国仏教が成立する。この中国仏教から日本仏教へとその形が受け継がれていった。つまり、日本仏教はインド仏教とは別の宗教なのである」と述べます。
そこで、「儒教の死生観」として、著者は「精神と肉体とは融合しているが、精神を支配するものを魂、肉体を支配するものを魄とする。この魂・魄が合一融合しているとき、生きている。死を迎えると、魂魄は分離し、魂は天上へ、魄は地下へとゆく。魂の『云』は、竜が空にいて、その尾がすこし現れた形で、『雨』冠をつけて『雲』となる。すなわち、空に浮かぶ雲が魂のイメージである。一方、地下と言っても、人間が掘ることのできる程度のものであるが、そこへ魄が行く。肉体は死を迎えると腐敗し、ついには白骨となる。この白骨の『白』が魄のイメージである。この『白』の原形は、白骨化した頭蓋骨を表している。その状態から言えば、雲はそのまま空中に浮遊しているが、魄の場合、白骨をそのままにしておくと犬や狐が骨を銜えてどこかへ持ってゆくかもしれないので、そうならないように管理するようになる。それが墓である」と述べます。なんという、わかりやすい説明でしょうか!
なお儒教では、死を遠ざけるということで、実際に亡くなった日の1日前を観念的な命日とします。ですから、観念的命日から数えて満2年目の実際の命日までは、満2年間プラス1日となります。このたった1日でも数え年という数えかたに依れば1年となるので、満2年間プラス1日は、3年になります。月数で言えば25ヵ月。そこでそれを「三年之喪」と称し、大祥と言うのです。以後、命日に祖先祭祀の儀礼を行ないます。ただし4代(亡き父母・亡祖父母・亡曾祖父母・亡高祖父母)までの命日です。また、始祖はともに常に祭り、今(当代)の5代以前はすべて始祖と合祀します。著者は、「このような考えかたが日本仏教において生きている。すなわち小祥が一周忌、大祥が三回忌、実際に亡くなった日を祥月命日と称して。また儒教の祖先祭祀を日本仏教は先祖供養と言う」と述べています。
さて、もう1つ重要な儀礼があります。葬儀です。「喪礼と葬儀と」として、著者は「人間が他の動物と決定的に異なる点は、自分の仲間(家族・友人・知人など)の死体を処理することである。インド仏教では、精神は輪廻転生してゆくが、次に生まれるときは何になるか分からないので死体には意味がなくなる。そのため、焼いて捨てる。焼かれた骨灰は、母なる川のインダス川に投ぜられる。当然、墓はないし、先祖供養もない。最近、お調子者で無学な知識人が〈散骨〉などということを主張しているが、なんのことはない、インド仏教(すべてのインド宗教も)方式のことである。しかし儒教は、精神の招魂だけではなくて、肉体の復魄も行なうから、死体を捨てたりせず、埋めて墓を建てる。その以前に、一定の規則に基づく葬儀をきちんと行なうのである」と述べています。
著者いわく、今日で言う「葬儀」は、正しくは〈喪礼〉です。死体を土に葬むる〈葬〉のは、喪礼中の1つの儀式ですから、全体を覆って〈葬儀・葬礼〉と称するのは実は正しくありません。「冠婚葬祭」ではなくて「冠婚喪祭」と表現すべきなのです。「婚」も古典的には「昏」と記します。昏――夕方の〈陰〉が進みゆくのとともに、〈陰〉である女性がそこに溶けこみつつ輿入れしてくるのです。著者は、「この葬儀もまた日本仏教の中に取り入れられ、日本人にとって重要な意味を持つ。にもかかわらず、日本仏教界の一部の者は、己が僧侶であるにもかかわらず、『葬式仏教は本来の仏教ではない』などと公言している。愚かな話である。儒教的死生観を取り入れた日本仏教はインド仏教とは別の宗教であることが分かっていないから、そのように公言するのである」と述べています。
「葬式仏教」について、著者は「葬式仏教――そのとおりである。日本人が宗教に求めるものの一つはそれである。それのどこがいけないのか。日本人が宗教的に求めるものに対して応えることができない宗教など滅ぶだけのことである。日本仏教が今もなお生き続けているのは、日本人が宗教的に求めるものにこれまで日本仏教が応えてきたからである。葬儀・建墓・先祖供養と。そのことに日本仏教者はもっと自信を持て」と喝破します。まったく同感です。この日本を代表する儒者の言葉をあらゆる僧侶に聞いてもらいたいと思います。
つまりは、儒教的死生観は日本人の原宗教意識の反映であるということだとして、著者は「あえて言えば、東北アジア地域に共通する原宗教意識を、いち早く見透し、掬いあげ、文字で表現し、体系化したのが儒教であった。だから、儒教が日本に伝来したとき、そのころの日本人たちは、自分たちの意識をきちんと反映し表現していた儒教をすっと受け容れることができたのである。そのころの日本人たちの宗教は、原神道とも言うべきものであった。その原神道が、儒教を栄養分として吸収し、神道へと展開していったのである」と述べます。
ここで、「愛と死と孝と」として、著者は「葬儀においては、親の葬儀を最も厳粛に行なうのであり、祖先祭祀においては最も鄭重に行なうことになる。儒教はこう述べる。親の〔延いては祖先の〕祭祀を行なうことを、孝の一つとする。もちろん、子の親に対する愛も孝である」と述べ、以下のように整理します。(1)祖先祭祀(過去)をきちんとすること、(2)子が親に愛情(現在)を尽くすこと、(3)子孫一族(未来)が増えること、この三者を併せて、〈孝〉としたのである。子が親に対して愛情を尽くすことだけが孝であると思うのは、儒教が言う孝の部分的理解でしかないのである。
そして、儒教が柱とする孝とは、死を背景とする宗教性を有するものでありながら、孝は同時にさまざまな道徳の源である家族道徳の基本でもあると指摘し、著者は「だから、孝を基本としてその上に、さまざまな複合道徳が重なってゆく。つまり、道徳性を有していることは言うまでもない。孝とは、宗教性と道徳性との両方があるがゆえに、東北アジアの思想として揺るがぬ地位を保ち続けてきたのである。今日、孝は死語のように見えるが、けっしてそうではない。祖先祭祀(慰霊)は、東北アジアの人々の原宗教意識であり、その原点に立ち返って孝を捉えるとき、〈生命の連続の自覚〉は可能である」と述べるのでした。単行本はすでに読んでいましたが、今回、改めて文庫版を読み返してみて、再発見したことがたくさんありました。後半は、日本の葬儀の本質に迫っており、大変勉強になりました。やはり、著者は、心から尊敬する師です。