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No.2029 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『純情 梶原一騎正伝』 小島一志著(新潮社)
2021.04.15
『純情 梶原一騎正伝』小島一志著(新潮社)を読みました。著者は栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒業。株式会社夢現舎(オフィス Mugen)代表取締役。「月刊空手道」「月刊武道空手」元編集長。講道館柔道、極真会館空手道などの有段者です。本書は、一条真也の読書館『大山倍達正伝』、『大山倍達の遺言』、『芦原英幸正伝』、『添野義二 極真鎮魂歌』で紹介したノンフィクションの続編であり、著者による一連の人物伝の集大成となる作品だと思いました。なぜなら、著者がこれまで書いてきた大山倍達、芦原英幸、添野義二の3人はいずれも梶原一騎と深い関係にあったからです。非常に読みごたえがあり、梶原一騎のイメージが一変する一冊でした。
本書の帯
帯には「徹底取材で新事実が続々!」「警察と報道により作られたイメージを根底から覆す衝撃ノンフィクション!〈漢(おとこ)〉の真の人生とは――」「超人気マンガ原作者はなぜ転落したのか?」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「昭和58年傷等の容疑で逮捕された裏事情」「当時の取調べ担当刑事の告白」「アントニオ猪木監禁事件の真相」「謎に包まれた出自」「祝福されない結婚」「大山倍達との蜜月と訣別」「妻の奇行と離婚・復縁」「凄絶なる闘病生活」「母と妻による二つの墓 他」「梶原ほど多くの人々に誤解され続けた存在は稀である。(本文より)」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 逮捕前夜
第一章 仕組まれた罪
第二章 アントニオ猪木監禁事件
第三章 高森朝樹から梶原一騎へ
第四章 時代に牙をむいた男
第五章 大山倍達との蜜月と訣別
第六章 スキャンダルの舞台裏
終章 母と妻による二つの墓
「三十五年後の『あしたのジョー』」〈亀澤優の手記〉
「あとがき」
「参考資料・文献」
本書の扉には、「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。」「輿論の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。」という2つの言葉が引用されています。出典は、芥川龍之介の『侏儒の言葉』。巻頭における引用出典のセンスにはうるさいわたしですが、『侏儒の言葉』は中学生以来の愛読書でもあり、思わずニヤリとしてしまいました。
序章「逮捕前夜」では、梶原一騎と九州は小倉の生まれである母”や江”との別れの夜をセンチメンタルに描いており、最後には「梶原の太くもあまりにも短い人生のなかで”や江”の存在がいかに大きく影響したか知る人は極めて少ない。世に知られる〈梶原一騎伝説〉、また、いっときの〈梶原一騎スキャンダル〉にはほとんど登場しない。同様に梶原の妻・篤子の存在も意外に希薄だ。だが真の意味での〈梶原一騎伝説〉は、”や江”と梶原――母と子の物語であると同時に、”梶原と篤子の夫婦愛を描いた人生ドラマといっても過言ではないだろう」と書かれています。
「梶原一騎とは何者だったのか?」という核心に迫る著者は、2つの可能性を浮かび上がらせます。1つは、彼が在日朝鮮人であったこと。もう1つは、高機能性自閉症であったという可能性です。まず、在日説ですが、証拠はありません。多くの関係者、黒崎健時、中村忠、芦原英幸、郷田勇三らの極真空手関係者、ジャーナリストの向井谷匡史らが断言しているそうです。しかし、元・新日本プロレスの新間寿は「プロレスの世界は在日が多いから私は気にしたことなかったけど、梶原先生は日本人ですよ。猪木も前田(日明)も長州(力)も在日だけど、梶原先生と親しくなかったし。猪木も在日だが、猪木との関係は大山(倍達)先生のラインだったしね」と語り、その言葉に初代タイガーマスクの佐山聡も同調したそうです。
ここで新間はさらりと「猪木も在日」などと重大発言をしていますが、これは聞いたことがありません。長州や前田は在日であることをカミングアウトしているので公然の事実ですが、猪木のことは初耳です。もちろん在日が悪いわけではありませんが、猪木は横浜出身でブラジル移民だったはずです。猪木に近かった新間が言うのですから「本当か?」とも思ってしまいますが、わたしは信用はできません。新間といえば、第二章「アントニオ猪木監禁事件」にも登場します。監禁事件では、梶原に呼び出された猪木はヤクザの空手家から膝蹴りを食らって悶絶したとか、拳銃をちらつかされて2時間以上震えながら正座していたとか、部屋を出るとき猪木の足が痺れて這うようにして退出したなど、猪木信者であるわたしには不愉快な内容でした。すべては梶原一騎たちの小芝居だったといいますが、真偽は定かではないにしろ、絶対に許せない行為です。
もう1つの可能性である「梶原一騎 高機能性自閉症説」ですが、以前から心理学や精神医療に興味があるという著者は、精神科医の石田浩純博士(中浦和メンタルクリニック医院長)に梶原の性格・気質について相談したそうです。「梶原さんの原作者としての才能は常のレベルじゃないと思うんです。それに原稿を書くとくの集中力も並みじゃなかったようです」という著者の言葉に笑みを浮かべた石田博士は、「そういう〈過集中〉の傾向が強い者を、以前は〈アスペルガー症候群〉と呼んでいました。〈ADHD〉も元々は自閉症の一種と考えられていたんですが、特にこの数年で精神医療は著しい発展を遂げています。アメリカの学会では〈アスペルガー〉という名を公的に外しました。そして広範囲に捉える思考から〈自閉症スペクトラム〉と位置づけ、梶原さんのような極めて優れた能力の持ち主を〈高機能性自閉症〉と捉えるのが妥当でしょう。〈ADHD〉にして〈高機能性自閉症〉というのは天才と言われる人に多くてね。映画監督のスピルバーグとかアップル社の創始者、スティーブ・ジョブズなどがそうだと言われています。梶原一騎さんが存命だったら是非カウンセリングをしてみたいですね」と言うのでした。
わたしの最も好きな梶原一騎の作品は、「柔道一直線」です。九州は小倉の出身である主人公・一条直也から「一条真也」というペンネームを思いついたぐらい好きな作品です。わたし自身、少年時代は柔道に打ち込んでいました。第四章「時代に牙をむいた男」では、柔道について、「1950年代後半、日本は未曾有の柔道ブームに沸いていた。富田常雄の小説『姿三四郎』はその嚆矢ともいえる名著であり、黒澤明によって映画化されて大ヒットを記録した(本作品は戦時中に制作発表されたが、鮮度1950年代初期に再公開された)。応用に『柔道一代』『柔道水滸伝』などがドラマ化され、演歌歌手・村田英雄が歌うテーマ曲も大いにヒットした。梶原は小説版の『姿三四郎』を肌身離さず繰り返し読んだ。後年発表された多くの梶原の作品には『姿三四郎』の影響が随所に見られる。現実に存在する〈世界〉のなかで〈虚像〉のキャラクターが活躍する斬新な構成。次々に現われるライバルたち。闘うごとに挑戦者は〈巨大〉になり、主人公の活動エリアは広大になっていく。『巨人の星』、『愛と誠』そして『空手バカ一代』などで繰り広げられる独特な〈世界観〉の源流は『姿三四郎』にあったと断言してもいいだろう。梶原が確立した物語の基本構成は現在のドラマやゲームにも受け継がれている」と書かれています。
後に梶原は柔道よりも空手に夢中になりますが、空手界の巨人である大山倍達との出会いも柔道が関係していました。「昭和の巌流島」で大相撲出身のプロレスラーである力道山に敗れた柔道王・木村政彦の仇を討つように、田園コロシアムで牛を倒した空手の大山に頼みに行ったのです。晩年の大山は、「梶原が私のもとを訪ねてきたのは、田園コロシアムのずっと後だった。それで言ったのは『石を割ってくれ』じゃないよ。『力道山と戦ってくれ、木村政彦の仇を討ってくれ』だよ。君ねぇ、私はプロレスラーじゃないのよ。戦うといえば実戦だよ。ケンカだよ。本当のケンカに応じるという言うならば、力道でも木村でもやってみせるよってね、そう言ってやったよ。それにね、自分は作家だというからね、『芥川賞でも獲ってから、また来なさい』って言って帰したら、本当に偉くなっちゃったから私も驚いたね」と語ったそうです。
木村政彦と大山倍達は拓殖大学の先輩・後輩の関係であり、親しい仲だったようです。事前に取り決めていた約束を破って木村の無防備な頸動脈に思い切り空手チョップを叩き込んだ力道山は勝利を収めたものの、後味悪い興行でした。マンガの「空手バカ一代」では、試合後に会場が騒然とする中で大山倍達が立ち上がり、力道山に対戦を迫ったことになっています。このエピソードを素直に信じたわたしは、力道山vs木村政彦の試合のビデオを何度も観たものですが、どこにもそれらしいシーンは映っていませんでした。その後、「空手バカ一代」は巨大なフィクションであると知ってからは、大山がリング上で力道山に挑戦したことなど信じませんでした。しかし、どうやら、これは事実だったようです。ちょっと意外で、嬉しかったです。
第五章「大山倍達との蜜月と訣別」で、格闘技・大相撲評論家の小島貞二は「木村が失神状態で倒れたとき、大山さんは叫びながら力道山に向かってリングをよじ登ろうとしていた。この目でしっかり見た。もしこのとき、大山が躍り上がり、もし力道山が『よし、来い』と身構えしたら、おそらく別の血がマットに散っていただろう。ケンカ殺法なら大山倍達の方が上ですから」と述べています。また、格闘技評論家の門茂男は『力道山の真実』の中で、力道山と大山について書いています。試合の翌日、力道山の自宅を訪ねた門は、「空手の大山倍達を知っているか?」と訊いたところ、力道山は「それがどうした?」と言ったそうです。門が「プロレスのコミッショナーが許してくれれば是非とも喧嘩マッチをしたいと大山は言っておるが、どうするつもりか? 返事は私があなたから頂くことになっているが、どうだ?」と言うと、力道山は「大山倍達なんて知らない、木村との試合は先に八百長を持ちかけたのは木村なのに、試合当日、何人ものホステスを引き連れ二日酔いでリングに上がった。木村が先に反則をしてきた」と言うばかりで話にならなかったそうです。
その後、梶原一騎は力道山と知り合う機会を得て、力道山に憧れてプロレスラーを目指す少年の物語である「チャンピオン太」の連載を開始します。以後、力道山は梶原に目をかけるようになりました。戦後のプロレスに詳しい小泉悦次は、「ファンたちは誰も気付かなかったでしょうが、力道山は体力の衰えに悩んでいた。禁止薬剤のアンフェスタミンを酒と一緒に常用していたことは有名です」「大相撲でも関脇まで行った人間です。実力じゃ大関以上だったと初代の若乃花が太鼓判を押していました。なのに〈昭和の巌流島〉で悪役にされ、それがストレスとなって心を病んでいくんです。そんなときに梶原一騎が書いてくれた。だから『チャンピオン太』がテレビで実写化されたときゲスト出演したのも不思議じゃありません。大人より邪気のない子供たちのヒーローになることは力道山本人にとっても一種の清涼剤だったはずですよ」と語っています。
しかし、梶原一騎が最も心惹かれた格闘家は力道山ではなく、大山倍達でした。一時は蜜月関係にありながら、最後には絶縁関係にあった大山と梶原ですが、真樹日佐夫は真剣な眼差しで著者にこう語ったそうです。
「大山館長に再会して意気投合したって、兄貴は興奮して帰ってきたんだ。大山倍達って〈牛殺し〉の空手家がいることは俺も知っていたが、当時の俺はもっと悪い世界でフラついていたから、何をそんなに興奮しているんだと思ったよ。でも兄貴の大山館長への想いは本物だったんだ。俺が会ったときも物凄い圧力を感じたよ。兄貴が震えたように大山倍達は本当に凄い武道家だった。力道山や木村政彦どころじゃない気迫を感じたな。とは言っても武道家も人間だ。人間的な欠点もいっぱいある。兄貴とも大山館長はどっちとも意固地だったから、何かといえばケンカしてた。ケンカするほど仲が良かったんだ。でも、いろんなことで揉めて、いつしかどっちも退けなくなって絶交せざるを得なかった。けど兄貴は死ぬまで大山館長が好きだった。最後の最後によく分かったよ、兄貴の気持ちが」
大山と出会った梶原は、1971年6月に「週刊少年マガジン」誌上で「空手バカ一代」の連載を開始。作画は、つのだじろう。梶原は、「大山倍達という孤高の超人空手家の半生を綴った大河劇画であり、正真正銘の実話である」と述べました。連載開始から1か月も経たず、大山と極真空手のすさまじいブームが巻き起こりました。多くの読者はこの劇画を「真実の物語」と信じ、1970年代から80年代後半に極真に入門した者の大半は「空手バカ一代」に強い影響を受けていました。松井派極真会館館長の松井章圭、新極真会代表の緑健児などの新世代の極真空手のリーダーはみんなそうでしたし、今は亡き黒澤浩樹(第16回全日本選手権者)は、「僕たちの世代はみんな『空手バカ一代』をバイブルのように読んで、大山倍達のように強くなりたい一心で極真会館に入門したんです。僕にとって極真空手こそが誇りでした」と語っています。
しかし、著者は以下のように述べています。
「極論を言うならば『空手バカ一代』はフィクション、つまり〈作り話〉である。それは梶原によるものでなく、その多くが大山本人による〈創作〉が土台になっている。『空手バカ一代』の原点(ベース)は1955年2月から『京都新聞』に連載された大山自身のエッセイ『手刀十年』にある。大山は天才的なストーリーテラーだった。《単身アメリカに渡りプロレスラーと真剣勝負を繰り広げ全戦全勝で帰国。猛牛と素手で戦い、牛の角を折り〈牛殺しの大山〉と呼ばれる。邪道として空手界を敵にしながら、第一回全日本空手道大会で優勝した孤高の空手家の半生気》梶原はこれを信じた。信じたいと思った。『空手バカ一代』では、梶原自身の手で〈フィクション〉をストーリーに挿入することもあった。人気原作者・梶原の真骨頂である。だが、その根底に大山倍達が語る『英雄譚』に対する憧れと信頼があったことを無視してはいけない。今回、可能な限り多くの取材を通し私は痛感した。梶原の純粋さから目を逸らしてはいけないと」
著者は1980年代末から1994年4月、大山が不治の病で倒れるまでの5年間、ほぼ毎日、早朝に大山から電話が掛かってきたそうです。表向きの用件は、大山の空手家としての集大成である『極真空手百科事典』の制作に関するものでしたが、ほとんどが雑談に終始し、梶原に関する話題も時折出たとか。梶原が逝ってから2、3年経っていたにもかかわらず大山の梶原批判が衰えを知らず、「『空手バカ一代』には感謝しているが、途中から梶原は金儲けに走ってしまった。大山倍達の一代記なのに、芦原みたいな梶原に尻尾を振る〈犬〉を撫でて、〈犬〉の言うことを信じてウソを書くようになった。私はお人好しだから、梶原を信じ切っていたんだ。なのに映画『地上最強のカラテ』の儲けは全部持って行かれ、ウィリーと猪木のプロレスも私の反対を押し切って儲けを懐に入れた。とんだ裏切り者だよ」と語気を強めて言い放ったそうです。
その猪木vsウィリー戦について、著者は「1980年2月27日、蔵前国技館にてウィリー・ウィリアムスとアントニオ猪木の〈異種格闘技戦〉が行われた。試合は〈競技〉ではなくプロレスであり、プロレスの隠語でアングルと呼ばれる〈筋書き〉ありのショーだということは大前提である。試合開始早々、ウィリーのスローモーションと見紛う後ろ回し蹴り、猪木の大袈裟なスウェーバック、ウィービングだけで試合がかみ合っていないことが分かる」と書いています。この試合に最後まで大山は反対していましたが、じつはもともと大山のアイデアでした。新間寿も、「猪木との対談でウィリーと試合したらどうかと最初に言ったのは大山先生です」と明言しています。この試合を機に決定的に断絶した大山と梶原について、著者は「残念だったことは、両者の確執の原因の多くが金銭に係るトラブルに帰着する点と、常に前面に出た梶原に対し、大山は常に弟子たちの陰に隠れて動いていたことである。そこに大山倍達という人物の自己中心性と卑怯な権謀術数を感じざるを得ない――」とまで書いています。
わたしは格闘技が好きなので、格闘技のことばかり書きました。しかしながら、本書の白眉は梶原が愛し抜いた篤子夫人への‟純情”にあります。篤子夫人の抱えた心の闇については実際に本書を読んでいただきたいと思いますが、4人の子どもを置いて何度も家出した妻を赦し、一度は離縁したものの、彼女を見捨てることができずに復縁したというエピソードは驚きでした。また、異常な逮捕や長期間の拘留生活もすべて彼女に起因するものでしたが、梶原はそれに耐え抜いて彼女を守り切ったという事実には感動をおぼえました。そして、終章「母と妻による二つの墓」の最後、著者は「ただ五十年という短い人生でありながら何人も成し得ない最大級の成功を手にしつつ、身も心もすべて愚直なまでに貫いた梶原の‟純情”が多くの裏切りによって終止符を打たれたならば、これ以上切なく悔しいことはない。願わくば、私たちが知り得ない、そして見ることが出来ない涅槃の世界で、梶原と篤子の‟純愛”が永遠のときに包まれんことを……私はそんな夢を見続けるだろう」と書くのでした。
「あとがき」では、著者自身の人生が振り返られます。それを読むと、著者がこれまで想像を絶する苦難に満ちた半生を送ってきたことがわかります。そして、その傍らには「柔道一直線」「あしたのジョー」「空手バカ一代」などの梶原作品がありました。著者は、「思えば、私の人生には常に何らかの形で〈梶原一騎〉がいた。私の初恋もまた『愛と誠』への憧れだった」と書いています。生前の梶原は、「俺が一番可愛い作品は『愛と誠』なんだ。真の愛の美学なんだ」と語っていたそうです。
そして、この「あとがき」を読めば、著者自身が‟純情”の人であり、‟純愛”によって現在の夫人と結ばれたことが窺えます。ネットなどで知る限り、著者は毀誉褒貶の激しい人物のようですが、それゆえに同じく毀誉褒貶の激しい人生を送った梶原の正体を見抜くことができたのかもしれません。それにしても、これまでの梶原一騎伝は何だったのか? 自分の本意を世に示してくれた著者に対して、あの世の梶原は感謝しているのではないでしょうか。本書の刊行は、梶原一騎という死者にとっては2つの墓にも勝る最大の供養になったように思います。