- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.2035 宗教・精神世界 『科学するブッダ 犀の角たち』 佐々木閑著(角川ソフィア文庫)
2021.05.14
『科学するブッダ 犀の角たち』佐々木閑著(角川ソフィア文庫)を読みました。わたしがリスペクトする仏教学者の著書ですが、『犀の角たち』の題名で2006年に大蔵出版から刊行された単行本を加筆修正の上、文庫化したものです。この本、本当に面白かった! 最高の仏教入門であると思いました。
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「科学と仏教。このまったく無関係に見える二つの人間活動には、驚くべき共通性がある。生命や宇宙の解明を目指し、発展してきた科学。それは古来、賢人たちが抱いていた天動説のような『神なる視点』との決別の歴史だった。一方の仏教も、神秘的な絶対者の力を否定し、人間の存在だけをよりどころに世界観を組み上げようと生まれた宗教である。両者が向かう先を徹底した論理で探求。知られざる関係性を明らかにする知的冒険の書」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「序文」
「文庫版 まえがき」
第一章 物理学
――科学のパラダイムシフトから進展の方向性を探る
第二章 進化論
――過去に一度だけ起こった生物進化を巡って
第三章 数学
――思考だけで成り立つ美しい世界は絶対の真理なのか
付論 ペンローズ説の考察
第四章 釈尊、仏教
――自己の努力だけをよりどころにした稀有な宗教
第五章 そして大乗
――仏教の多様性はいかにして生まれ、どこに向かうのか
あとがき「未来の際の角たちへ」
「序文」で、著者はいきなり鋭いことを言います。
「ある面から見れば、科学と仏教は似ているように見えるのに、別の面から見るとまったく違うものに見える。こういうことが起こった場合、結論をいそぐと失敗する。まず考慮すべきことは、両者を並べて見る場合の、そのスケールをしっかり見きわめることである。ふたつのものを見比べるにしても、それを一体どういうスケールで見るのか、その視点の違いによって、両者は同一物に見えることもあるし、まったくの別ものに見えることもある。リンゴとミカンを100メートル先から見比べれば、区別のつかない二つの球体だが、蟻さんの視点で見ればまったくの別ものである」
続けて、著者は「このことをよくわきまえず、自分の勝手な思い込みで独断的に結論すると、科学を汚染し仏教を冒瀆する怪しい神秘論になってしまう。自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、『ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです』といった愚論を開陳するはめになるのである。肝心肝要な部分に神秘性を持ってきて、それで科学の意味づけをしようという安易な論法である。一時、思想界に病毒をまき散らしたニューサイエンスはその典型であるし、今でも、引退した科学者がひまつぶしに仏教をかじる場合など、大方こういった方向に進みやすい」と述べていますが、これには思わずニヤリとしました。何人かの特定の人物の顔が思い浮かびました(笑)。
そして、著者は「確かに科学と仏教のひとつひとつの要素を見ていけば、似ている点は見つかる。しかし実際には、その何百倍も何千倍も、似ていない点があるのだから、個々の類似点をもって、両者の総体的類似性を主張することなどできない。私は本書で、科学と仏教の関係を論じるが、両者の個々の要素の対応に関しては一切無視した。唯識と脳科学だの、マンダラと量子宇宙だの、つき合わせてみても意味がない。視点は常に、科学と仏教それぞれが目標とする世界観である。スケールはそこに合わせてある。科学は総体として、どのような方向に向かっているのか。仏教は本来、何を目指して活動していたのか。その向から先を見定めることによって、科学と仏教の知られざる関係性を明らかにしたい。それが本書の目的である」と述べるのでした。
第一章「物理学」では、「物事は確率でしか予測できない」として、著者は「量子論が科学の人間化にどれほど大きな働きを持つものか理解できるであろうそれは、我々がものを見る、観察するという行為を不確定にしてしまった。なにかはっきりと確定した世界があって、それが我々の落ち度のせいでうまく見えないというわけではない。世界はどんなに精密に、まっとうに観察しても、本質的に不確定なのである。それがどう見えるかは、我々観測者側のあり方が決めることなのである」と述べています。
また、著者は「デカルト、ニュートン、アインシュタイン。天才たちによって科学に内在する神の視点は次々に人間の視点へと移し替えられてきたが、それは同時に、彼らが後継者たちによって乗り越えられていく歴史でもある。アインシュタインが『神はサイコロ遊びをしない』と言って、自説を神の立場に喩えているところが、その対立者として現れた量子論が、より人間の視点に立つ理論であることを示している。量子論によって物理の視点はいよいよ神の世界を離れ、人間を中心に据えたものへと移り変わった。そして、直覚が要求する、単一で合理的でエレガントな理想の世界はますます遠ざかり、不可思議が支配する不条理の世界へと堕落したのである」と述べます。
第二章「進化論」では、「自然淘汰は万能ではない」として、著者は「ダーウィンは偉い人だったと思うが、どこが一番偉かったかと問うなら、やはり答えはここだ。人間化を一挙になんステップもまとめて押し進めたところに偉さがある。進化という現象から、神の存在を閉め出したとしても、普通ならばまだ神の視点に多少は縛られるものだ。ウォレスがそのいい例である。ウォレスはダーウィン同様、進化を純粋に機械論的作用であると考えたが、その機械論的作用に神の視点を残そうとした。自然淘汰という作用は万能な作用である、したがってその自然淘汰が作り上げた人間という生物は完璧な被造物であって、神なき世界での万物の霊長だ、というのがウォレスの真意であった」と述べています。
第四章「釈尊、仏教」では、「フロイトへの批判はなにを意味するのか」として、著者は「フロイトが人間の心の無意識なるものを強調する精神分析という学問を創成した時、西欧キリスト教社会はこれを強烈に批判した。神の創りたもうた生物の中でも人間だけは特別な存在であり、その人間を人間たらしめる最も重要な機能、つまり人間の精神は、この世の中で最も崇高なものでなければならない。ところがフロイトなどという怪しい医者が現れて、その人間の精神は、どろどろした無意識の汚泥であって、我々の日常の意識は、その汚泥の表面に浮かんでは消える泡のようなものだと言い出した。純真無垢な幼子や、篤信のキリスト教信者の心の奥にさえも、無意識の欲望がうずまいているという。これはまったく神への冒瀆であり、許しがたい邪説である、というのが非難者たちの言い分である」と述べています。
また、「人間化は実は仏教の話」として、著者は「科学の様々な領域で人間化が起こり、神の視点が次第に放棄され、人間固有の世界観の中でしか生きられない自分の立場を自覚していく、その先に何があるかと言えば、絶対者のいない法則性だけの世界で自己のアイデンティティーをどうやって確立していくのかという話に決まっている。それは仏教の話である。科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、気がついたら、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物質的世界観を作らねばならなくなっていた」と述べます。
続けて、著者は「一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を1本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである」と述べるのでした。
「仏教はもともと多様化していたのか」として、著者は「仏教という宗教は、2500年間にわたって東アジア全域で展開してきた宗教運動であるが、それは多様化の歴史でもあった。その中にはおよそありとあらゆる形の思想、アイデアが含まれている。どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。原子論でも相対性理論でも、心理分析でも量子論でもカオスでもなんでもいい。それらと似たものは必ず仏教の中にもある。しかしそれはあくまで『似たもの』にすぎない。意識的に似たものを探そうと思って探せば見つかるということである。同じ人間が考えることだから、洋の東西を問わず、似たような考えが生まれてくるのは当たり前のことだ。だから、それが見つかるからといって仏教が特別にすぐれているという証拠になるわけではない」と述べています。
さらに著者は、「華厳経にフラクタルを見たり、法華経と量子論をくっつけたり、宇宙論にマンダラを持ち込んできてもなんの意味もない。面白いかもしれないが、そこから何が生まれるわけでもない。ただの思考のお遊びにすぎない。むしろ驚くべきことは、なんでも見つかるその仏教の幅の広さである。これは、いま言ったように、仏教が常に分化分裂を続けた結果、きわめて多様な形態を含み込んだ複合的宗教になったことが原因である」と書いているのですが、これにもニヤリとしました。明らかに、あの宗教人類学者のことではないですか!
「侵入そして人種差別」として、インドに根づいている差別について、著者は以下のように述べています。
「つい最近まで、インドの農村では使う井戸がカーストごとに違っていた。特にチャンダーラと呼ばれる、カーストに属することさえできない最下層の人たちには、使うことのできる井戸そのものがなかった。なぜ井戸が違うのかというと、水を介して穢れが伝染するからである。低カーストの者が使って穢れた井戸の水を、高カーストの者が使うと、その穢れがうつる。まるで子供のいじめのようだが、理屈が単純なだけに効果は強烈である。穢れの概念で成り立つカーストの差別意識がどれくらい強烈かというと、インド亜大陸の文化を3000年以上支配するほど強烈だったのである。そのヴァルナ制度が生まれてきた原因がアーリア人の侵入であり、そのヴァルナ制度を否定しようという動きの中で生まれてきたのが仏教なのである」
バラモンは、自分たちの執り行う儀式が人間と神との絆になるのだから、儀式こそがこの世で最も重要な行為であると言いました。そう言うことによって、その儀式執行権を独占している自分たちの地位を絶対化しようとしたのであると指摘し、著者は「反バラモン教の人たちは、そういった儀式絶対主義も否定する。『儀式などいくらやっても意味はない。バラモンたちは儀式によって神を操ることができると言うが、たとえ神を操ることができたところで、それが真の幸福につながるわけではない。我々が目指すのは、自分自身の努力によって得られる至福の世界なのだ。もしこの世で最も上位の人間をバラモンと呼ぶのならば、自己の努力で最高の幸福を獲得しようとしている我々こそが真のバラモンなのだ』と言ったのである。神頼みの人生にさよならをして、自分の力を信じて生きていこうということである(科学の人間化との平行性に注目せよ)」と述べています。
「ブッダは瞑想を選択する」として、著者は「お経というのは、悟るための方法や心構えをブッダがお説きになった言葉。悟りのためのマニュアルである。律というのは出家したお坊さんが僧団を作って集団生活する場合の規則集。お坊さんの法律である。そして論というのは、ブッダから後の時代に誰か別の人が書いた仏教の解説書のこと。ナーガールジュナ(龍樹)という人の書いた『中論』、ヴァスバンドゥ(世親)という人の『倶舎論』などは代表的な論である。経・律・論という、これら三種をまとめて三蔵という」と述べています。
しかし実際には、ブッダが本当に語ったことはお経の中にも律の中にもほとんど入っていません。みな、後の時代の人がブッダの言葉として創作したものです。ブッダが実在したかどうかさえ判然としないのだから、その言葉が残っているかどうかという問題も当然不確定になってしまうとして、著者は「我々仏教学者の夢のひとつは、そういったあやふやな文献群の中から、もし本当に存在するものならば、ブッダの実際の言葉を見つけ出すことである。今のところ実現の可能性は見えてこないが、科学が何百年もかかって難問を解いていく様子を見ていると、仏教学だってやればできるだろうという気になってくる」と述べます。
「淡々とした人生と人間らしい最期」として、ブッダの亡くなり方が大好きだという著者は、このブッダの亡くなり方を仏教を自慢する時の一番のネタにしているそうです。そして、「人間として生まれ、人間としてできる限りの努力によって悟りを開き、そしてごくごく普通の、人間らしい亡くなり方でこの世を去っていった、そこにこそ、仏教の本義が現れている。絶対者の存在を想定しなくても、法則性の世界で最高の自己を実現することができる。奇蹟も啓示も、神秘的ないかなる経験もない普通の生活の中に、真の安らぎを見出す道がある。これがブッダの創設した仏教という宗教のおおもとの理念であ」と述べています。説得力がありますね。
さらに、「悟りとは何か」として、著者は「仏教が、世界を因果則によって理解するという態度は、残された古い時代の仏教文献に一貫して流れる基本的な姿勢である。なにか超越的な存在を頼りにするという考えは全く見られない。また、律の記録を使って当時のお坊さんたちの日常生活を調べてみても、彼らがなにか「超越者に対する祈り」に類する活動を行っていた様子は全く見られない。彼らの修行内容は、ひたすらの瞑想と、そしてブッダの言葉の理解、つまり勉強に限定されている」と述べています。
また、当時のままではないにしても、現在のスリランカや東南アジアに存続している上座部仏教は、ブッダ時代の仏教の様子をかなりよく残していると思われますが、その上座部仏教の教義には超越者の存在はないと指摘し、著者は「すべての現象を原因と結果の関係によって説明し、その因果則に縛られている我々が、それでも世の苦しみから逃れて真の平安を獲得するにはどうしたらよいか、それが上座部仏教の根本問題である」と述べます。
「努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する」として、著者は「超越者の存在を認めず、法則性だけで世界を理解しようとする仏教の立場は、現代の科学的世界観と共通するものがある。しかしその一方で、仏教と科学には決定的な違いもある。科学は、世界を物質と精神に二分したうちの物質だけを考察対象とし、その物質世界を司る基本法則の発見を使命とするものであるが、仏教の方は、物質世界にはほとんど興味を持たない。仏教の目的が、現実世界に生きることを苦しみと感じ、その状態からの脱出を願っている者たちに正しい道を指し示すことである以上、その考察領域は我々の精神に限定される。したがって、法則性によって世界を理解するという方向は共通していても、仏教の場合、その法則とは、あくまで精神世界の法則が主であって、科学のように物質法則を探求するものではない」と述べています。
さらに著者は、「仏教は今から約2500年前、ブッダの手によってインド北部で誕生した特異な宗教である。そのことはもう言った。その原初形態は、いま私が説明したようなものである。ところが、その仏教も、周囲の多神教世界の影響もあって時とともに急速に変容し、超越者を想定する一般宗教に変わっていく。自己責任制に基づいて設定されていた、瞑想中心の修行生活も変更を余儀なくされ、阿弥陀・薬師・大日・観音といった架空の超越者に対する救済要求が主体となってくる。つまりそういった超越者といかに交信し、いかに救済を要求するかが、修行の目的になってくるのである。自己修練の宗教が、救済の宗教へと変貌していったのである」と述べます。
仏教が宗教として存在しているゆえんは、悟りのプロセスにおける精神のレベルアップに関して理論的説明がなく、それを最初から信じてかからなければならないという一点にあったとして、著者は「ブッダの言葉を信頼してついていく者にだけ、真の平安があるというわけだ。もし脳科学がこの機構を解明したらどうなるのか。それがどれほど定量的に解明されるか、あるいは本当に解明され得るのか、私には判断できないが、もし仮に解明されたとしたら、仏教は完全に科学的な自己改良システムに変貌する」と述べます。
そして、著者は「欲望の起こらない清浄な環境に身を置き、できる限りの時間を瞑想に注ぐというその状態で、その上さらに精神の集中度をレベルアップする脳の機構が論理的に解明されていれば、それはもはや宗教ではなく、誰もが納得する普遍的な方法としての精神向上システムではないか。仏教は宗教の世界を離れて、科学的生活システムになる」と述べるのでした。
第五章「そして大乗」では、「合理性だけで全うできないのも人生」として、著者は「釈尊時代の仏教と、大乗仏教に優劣がつけられない」と断言します。その理由として、「釈尊時代の本来の仏教は、自分の生活のすべてを投げ出して、なにもかもを修行一本にかけていく、ある意味恵まれた境遇にある人たちの宗教である。それは科学と共通性を持つほど合理的でスマートで都会的である。できるものなら、そういうカッコいい生活を選びたい。しかし、そういう決意が心に生じる以前に、私たちの生活はすでにいろいろなしがらみでがんじがらめになっている。そんな中で、我々に日々の平安を与えてくれるのは、不合理ではあるが穏やかで、説明はできないが暖かい、そういった超越者の宗教である」と述べます。
続けて、著者は「合理性だけで人生を全うできるのならそうしたい。それは決して実行不可能な夢まぼろしではない。釈尊が、そして多くのすぐれた科学者たちがその道を行った。しかし、そうしたくてもできない者を拾いあげ救いあげる超越者の宗教は、これもまた人間社会になくてはならない大切な一機能なのである」と述べ、さらには「両者の根本的世界観が同じ次元にあるという点には確信がある。そしてそれを認識することは、自分自身が生きる世界の奥行をとても深めてくれる」と述べるのでした。これまで、著者の本は数多く読んできましたが、本書は仏教の本質について最もよくまとめられた名著であると思いました。いつか、著者にお会いして、仏教について教えていただきたいです。