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2021.08.19
『岸惠子自伝』岸惠子著(岩波書店)を読みました。女優として、作家・ジャーナリストとして切り拓いていった、万華鏡のように煌めく稀有な人生の軌跡を記した本です。サブタイトルは、「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」。わたしは文才のある美女が大好きなのですが、本書の著者はまさに理想の人です。なにしろ、女優として日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞していながら、作家として日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているのですから。こんな才色兼備の女性は他にいません。
著者は、1932年横浜生まれ。1951年、女優デビュー。1957年、医師・映画監督であるイヴ・シァンピとの結婚のため渡仏。1963年、長女デルフィーヌ誕生。1976年離婚。1987年NHK衛星放送「ウィークエンド・パリ」のキャスターに就任。女優として映画・TV作品に出演し、主演女優賞のほか数多くの賞を受賞。作家、国際ジャーナリストとしても活躍中。出演映画は、「君の名は」「亡命記」(東南アジア映画祭最優秀主演女優賞受賞)、「雪国」「おとうと」「怪談」「約束」「悪魔の手毬唄」「細雪」「かあちゃん」(日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞)、「たそがれ清兵衛」ほか多数。
著書は、『巴里の空はあかね雲』(新潮社、日本文芸大賞エッセイ賞受賞)、『砂の界へ』(文藝春秋)、『ベラルーシの林檎』(朝日新聞社、日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、『30年の物語』(講談社)、『風が見ていた』(新潮社)、『私の人生 ア・ラ・カルト』(講談社)、『わりなき恋』(幻冬舎)、『愛のかたち』(文藝春秋)、『孤独という道づれ』(幻冬舎)ほか。
本書の帯
本書のカバー表紙には著者の若い頃の顔写真が使われ、帯には「女優であるより自分であることを生きた日本女性の無鉄砲で潔い88年。国境や夫婦、親子の絆を越え、何度も卵の殻を破ってたどりついた豊饒な孤独」「自伝でありながら上質な連作エッセイを読んだような読後感に満たされる。――上野千鶴子(社会学者)」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「この書物は女優の芸談などではない。我々にとって未来の道しるべともいうべき書だ。最高の知性と美貌をもって古い伝統国に生まれたヒトが、世界大戦の戦火に投げ込まれ、映画女優となり、祖国を去って結婚・出産し、伴侶と別離し、世界を旅して、筆をとって思索する。通常人には経験しえない人生だ。その奇跡のヒトは、自分の殻を割り、国境の壁を破り、心の自由とは何かを考え行動したのである。そのヒトの経験からくる思索は、我々にとって遺産だ。この国は今、まるごと、私の居場所はどこ? と惑い、孤独に漂っている。とくに、若い人よ、この書を読んでほしい。この地球を生きる意味や本質を考えさせてくれるはずだ。そして、きっと、あなたの人生を変えるだろう。――磯田道史(歴史家)」とあります。
カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「戦争体験、女優デビュー、人気絶頂期の国際結婚、医師・映画監督である夫イヴ・シァンピと過ごした日々、娘デルフィーヌの逞しい成長への歓びと哀しみ……。その馥郁たる人生を、川端康成、市川崑ら文化人・映画人たちとの交流や、中東・アフリカで敢行した苛酷な取材経験なども織り交ぜ、綴る。円熟の筆が紡ぎ出す渾身の自伝」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
第Ⅰ部 横浜育ち
第Ⅱ部 映画女優として
第Ⅲ部 イヴ・シァンピとともに
第Ⅳ部 離婚、そして
国際ジャーナリストとして
第Ⅴ部 孤独を生きる
「エピローグ」
「終わりに」
「岸惠子略年譜」
「徹子の部屋」(2021・5・3)より
もともと、古い日本映画が好きなわたしは、女優としての著者のファンでした。そんなわたしが本書の存在を知ったのは、2021年5月3日(月)の13時からテレビ朝日で放送された「徹子の部屋」を偶然観たことからでした。同番組に久々に登場した著者は88歳の米寿を迎えていましたが、それが信じられないほどの美と健康を誇っており、感嘆しました。
「徹子の部屋」(2021・5・3)より
著者はコロナ禍でも多忙な日々を過ごしていたそうで、それは88年間の人生を思い起こし、自伝にまとめる作業にとりかかっていたためと語っていました。1日に6時間にもおよぶ執筆で、書斎にこもる日々を送った結果生まれたのが本書だったのです。早速、アマゾンで購入しましたが、ちょうど一条真也の新ハートフル・ブログ「加地伸行先生と対談しました」で紹介した7月7日の対談までは儒教の勉強に追われ、ようやく本書が読めたのは7月の中旬でした。一読して、「日本にこんなすごい女性がいたとは!」と感服しました。
(本書より)
第Ⅰ部「横浜育ち」の1「港町横浜」では、著者が小学生になって間もない頃に、大好きだった祖父が亡くなったときのようすが描かれていて、心に滲みます。「あまりにも静かに横たわる祖父に裏切られたような、捨てられたような恨みがほとばしった。ちいさな声で歌ってみた」として、著者は以下のように書いています。
ピーヒャララ、ヒャッ、ヒャッ。
うっすらとしたほほ笑みのまま祖父の顔は動かなかった。涙の中で、わたしの哀しみが”しゅるーん”と闌れていった。
〈おじいちゃんの「果てしない」は終わってしまったのだ〉
宇宙というものにはないとされる「死」は、人間や動物、草木にはあるんだ。いつかは死ぬんだ、と思った。すっかり大人になってからも「死」、つまり「別れ」はどんなに楽しいときも、わたしの心の裡側にじっとりと静かに横たわっている。
人生が華やいでいるときに訪れる死。
恋の死。
愛の死。
友情の死。
そしていつかは訪れる、生きることの終わりにくる確固たる肉体の死。
「死」はさまざまなかたちでわたしの持ち物になった。
(『岸惠子自伝』P.10~11)
8「『映画』という不思議」では、著者が神奈川県立横浜第一高等女学校(現県立平沼高等学校)に入学し、土日に茶華道の稽古をしながら、新橋の小牧バレエ学校に週3回通ったことを紹介し、著者は以下のように書いています。
「レッスンを終えたある日の夕暮れ。同級生の田中敦子さんとぶらぶらと有楽町まで歩いて行った。そして、映画館で掲げられた1枚の写真を見てギョッと立ちすくんだ。それは詩人ジャン・コクトーが演出したフランス映画『美女と野獣』(1948)のスティル写真だった。体毛に覆われた醜い野獣の、悲しみに満ちた瞳が切なく美しかった。観たい! と思ったが、わたしの学校では校則で保護者を同伴しない映画鑑賞は禁じられていた。『ここは東京よ。校章を外せば平気』ひるむ敦子さんを引っ張って観た映画は、わたしの一生を大きく変えることになる。白黒の映像は美しく、わたしは『映画』という不思議に魅せられた」
同級生の田中敬子の叔父が松竹の大船撮影所の所長と親友だった関係から、著者は親にも内緒で大船撮影所に見学に行きます。そのときのようすを、著者は「大きなセットの中は暗くて埃っぽく、怒鳴り声が飛び交い、雑然としていた。セットの真ん中にしゃれた洋室が建てられ、きれいな女性が男性と向き合っていた。『李香蘭』という人だと所長の高村潔さんが教えてくれた。わたしはそのカップルよりも、二人の前にデンと座っている大きな物体に圧倒された。分厚い布団を着た妖しげな代物は『ミッチェル』という撮影機で、稼働するとジージーと音がするので、台詞を録音するために布団をかぶせられていた。それがわたしの半生を虜にした『レンズ』という魔物だった。布団を割って一人のおじさんがヌウッと顔を出した。その人が『本番行こうか』と言った途端、耳が裂けそうなほど大きなベルが鳴り、あたりがシーンと静まり返った。わたしたちも思わず息を止めたほどだった」と書いています。
著者が生まれて初めて直接目にした女優は、李香蘭(山口淑子)だったのですね。この撮影所見学は1949年(昭和24年)となっていますから、この直後に公開された李香蘭出演の松竹作品は「初恋問答」と「女の流行」の2本で、ともに1950年の公開です。著者が撮影風景を見学したのは、どちらかの作品であったと思われます。著者がセットを出ると、俳優養成所の洋館が見えました。ガラス張りの部屋で十数名の男女がダンスや運動を習っていました。「背筋をもっと伸ばして」「膝を曲げて歩かない」などとキビキビと声をあげる女性がいましたが、著者は「新人たちに優雅な挙措を教えるために招かれたダンスの先生で、新人女優たちよりもずっとすてきだった。その先生はのちに津島恵子という女優になり、『お嫁さんにしたいナンバー・ワン』の大スター、そして松竹の宝物となった」と書いています。
第Ⅱ部「映画女優として」の9「女優デビュー」では、従姉の夫で川端康成の愛弟子で、雑誌『ひまわり』の編集長をしていた若槻繁が、著者が書いた小説を読んで「惠子ちゃんは女優よりも作家になったほうがいい」と言い出したことが紹介されます。若槻は後に「人間の條件」、「怪談」など傑作映画を世に送り出す大プロデューサーになる人です。小林正樹監督による「怪談」(1965年)には著者自身も雪女の役で出演しています。その若槻から川端の定宿だった東京・四谷の割烹旅館「福田屋」に連れて行ってもらったときのことを、著者は「玄関を入るなりわたしは身分ちがいの雰囲気に慄き、湖のように深い大作家の眼に見つめられて、手から桜茶を落とした。畳にこぼれた桜茶を、母がこの日のために新調してくれたデシンのワンピースで拭きながら、わたしは自分のつたない小説を座布団の下に滑り込ませて恥じ入っていた。そんなわたしを大作家はじっと見つめていらした」と書いています。
自分をじっと見つめて目を離さない文豪について、著者は「〈物書きはこういう眼をしていなければダメなんだ〉料亭を出て歩くわたしの脚に、桜茶でびしょびしょに濡れたスカートがまとわりついた」と書いています。わたしが思うに、若い女性である著者のことをじっと見つめたのは作家の観察眼というより、川端個人の性癖ではないでしょうか。彼は女性を舐めるように眺める癖があったようで、川端康成と電車の中で向かい合わせに座った石原慎太郎氏の母上などもそうやって見られたことがあるそうです。石原氏の本に書いてありました。「伊豆の踊子」などの爽やかな青春小説を代表作とする川端ですが、じつは「みずうみ」とか「眠れる美女」とか「片腕」とか変態小説でも呼ぶべきジャンルの作品群もあります。
12「大俳優の役者根性」では、19歳の冬、著者が巨匠・伊藤大輔の「治郎吉格子」(1952)に抜擢されたことが紹介され、「長谷川一夫・高峰三枝子両大スターに挟まれて、わたしは大きな荷物を背負って物を売り歩く、貧しい小娘お喜乃の役だった。撮影初日の朝、わたしは初めて鼠小僧治郎吉に扮した長谷川一夫さんに対峙した。圧倒的な存在感と目力があった。その眼がわたしの背中を覗き込んで下着をつまみ出した。つまみ出されたのは、『冬の京都は寒いから』と、母が持たせてくれた父のラクダのシャツだった。『衣装さんを呼んできて』と長谷川さんはきびしい声だった。恐縮して及び腰でやって来た衣装部の人に長谷川さんが注意した言葉を聞いて、寒いからといって太平楽に茶色いラクダのシャツを着た自分が恥ずかしかった。『いくら貧しい行商の女の子でも、紅い襟のついた襦袢ぐらい着せてやってくれ。色気は襟元が肝心だ』衣装部に引き返したわたしは、『衣装は役者の魂』と言った望月優子さんの言葉を思い出していた」と書かれています。
「うまい女優」であるよりも、「いい女優」でありたかったし、演ずることにだけ心魂を傾けて、「芸ひと筋」の人生は嫌だったという著者は、「世界に起こるさまざまな事件の焦点、それに身を絡ませて生きていきたかった。それがわたしの生きたい人生だった。だから映画の出演作は少ない。70年間で100本にも満たないと思う。わたしのラクダのシャツの話を漏れ聞いたのか、もう1人の大スター、高峰三枝子さんが素敵なセーターをくださった。『寒くなったのに、横浜のお家へ帰る暇もないでしょう。わたしのお古だけれどよかったら着てちょうだい』わたしは、岸田國士原作、吉村公三監督の『暖流』(1939)を観て、大ファンになった高峰さんのやさしさに震えるほど感動した。この時期、京都で出会った人たちは、まだ学生っぽさの抜けないド素人のわたしを親身になって心に懸けてくれた」と書いています。いい話ですね。
著者が大好きだったという伊藤大輔監督の「獅子の座」では、義兄に長谷川一夫、姉に田中絹代という当時の超大俳優の中にあって、著者の甥は美少年、津川雅彦が演じました。ある場面で、田中絹代が泣くシーンがありました。彼女さんは、スタジオに並みいるカメラとスタッフに向かって、深々と頭を下げました。「申し訳ございません。少しお待ちくださいませ」と言うや否や、くるっと後ろを向いた。誰もいないセットの暗がりを向いて、1分……2分……、肩が小刻みに揺れ出したといいます。著者は、「わたしは息を詰めた。その姿勢のまま『どうぞカメラを回してくださいませ』。監督が低いしずかな声で、『スタート』を掛けた。くるりとカメラに向かった絹代さんの顔に滂沱と涙が流れていた。大女優が心を籠めた魔法を見たような、忘れられない光景であった」と書いています。
13「美空ひばり讃歌」では、天才子役として大活躍していた美空ひばりが14、5歳のときに瑞穂春海監督の「ひばりのサーカス 悲しき小鳩」(1952年)でひばりと共演したエピソードが出てきます。ある日、四畳半ぐらいの相部屋で、ひばりと著者が2つの鏡台に向かってメイクをしていたとき、マネージャーを兼ねていたひばりの母がプロデューサーに文句兼注文付きの話は延々と30分以上も続けていたそうです。著者は、「ひばりちゃんは涼しい顔で我関せずと化粧をしていた。わたしは次第に胸苦しくなっていった。やっと長い話が終わり、プロデューサーが、恐縮顔に憮然としたニュアンスを秘めて去っていった」と書いています。
静かになった支度部屋で、ひばりがくるりと母親に向き合い、「おかあさん。ああいうことは肚で思って、口には出さないものよ」と言ったそうです。著者は、「わたしは吃驚した。〈この人すごい!〉とほとほと感心した。14、5歳で美空ひばりという人はすでに大物なのだった。わたしは演歌というものがあまり好きではない。けれど、大人になったひばりちゃんが歌う、『お祭りマンボ』や『柔』には気分が浮きたったし、『リンゴ追分』や『悲しい酒』は心に沁みた」と書いています。ひばりの母親が常識外れのステージママであったことは有名で、そのことは著者も苦々しい思いをしたようですが、ひばり本人の成熟ぶりには感心するしかありません。貴重な証言だと思います。
著者が女優として大ブレイクしたのは、なんといっても「君の名は」(1954年)でした。脚本家・菊田一夫の代表作で、あるひと組の男女の純真な愛を描き、戦後の日本で一大ブームを巻き起こした名作メロドラマです。1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得。ただし、最初の半年間は菊田が「人々の戦争体験を主題に」シリアスタッチで描いていたため、あまり人気はありませんでした。著者が演じた真知子と佐田啓二が演じた春樹との恋愛にドラマが集中し始め、初めて人気番組となりました。ラジオドラマの人気を受けて松竹で映画化されると大ヒットを記録し、真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で流行しました。
「君の名は」の人気はすさまじく、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどでした。著者と佐田啓二は名コンビとして知られましたが、著者は「今から10年ほど前、人を結ぶのに親切だった津川雅彦さんが催した晩餐会で、佐田さんの御長男、中井貴一さんに初めて会った。『親父はなぜあんなによいコンビだった岸惠子さんと結婚しなかったの? とおふくろに聞いたんですよ』岩下志麻さんや岸本加代子さんもいる席で貴一さんが言った。佐田さんは、ときとして芸能人が持つ非常識で破天荒な言動とは無縁で、常に立派な社会人だった。大好きな先輩だったが、お互い兄妹のような信頼と愛情を超えるものはなかった」と書いています。
本書には、さまざまな有名人と著者との交友が記されていますが、特に興味深かったのはプロレスの力道山とのエピソードです。かつてパリの空港のカウンターで著者と力道山は隣り合わせたことがありましたが、その後、著者は力道山からプロレス試合へ招待されます。運転手付きの車で迎えに来てくれたので、著者は自分の車を置いて出かけたとして、「会場は異様な興奮に包まれていた。割れるような拍手でリングに上がった筋肉質の力道山はカッコよかったが、相手はまるで巨大な黒いゴジラのようで気味が悪かった。スポーツというより、強烈に乱暴な格闘ショウを見ているようで、落ち着かなかった。怪物のような相手を、そのころの日本人が熱狂した空手チョップとやらで打ちのめす場面で、熱狂する会場とは裏腹に、わたしは息も出来ないくらい気分が悪くなった」と書いています。
その日の帰りは、力道山が自ら運転して著者の自宅まで車で送ってくれたそうです。自宅の近くまで来て驚いたという著者は、「普段人気なく、家屋もまばらな住宅街が、黒山の人でどよめいていた。当時のお手伝いさんが空手チョップの大ファンで、『力さんが来る!』と言い触れたらしい。車はたしかメルセデスで、扉が左右に翼のように跳ね上がると、わあーっという声が沸いて、家に入ってお茶を差し上げることさえ出来なかった。力道山は笑いながら片手を上げて、『今度は、隅田川の花火大会に御招待しますよ』と言いながら走り去った」と書いています。
どうして隅田川の花火大会かというと、送ってもらう車中、力道山が著者にプロレスの話を避けて、「映画やお芝居のほかに、見たいと思うものは何ですか?」と訊いてくれたそうです。「花火!」と答えたという著者は、「変な答えだとは思ったが、そのとき本当に花火が見たかったのだ。片手を上げて去って行った、力道山のいい笑顔を見て、もらった手紙の中身を思い出した」と書いています。その手紙には、「ぼくは、今の自分より、大関を夢見て、土俵の上で一生懸命になっていた自分のほうが好きです」と書かれていたのでした。じつは、わたしは本書を読むまで著者と力道山は恋人同士であった時期があると思っていました。かの梶原一騎の『男の星座』をはじめ、いくつかの情報源があったからですが、本書を読んで二人の実際の関係がわかった気がしました。ドライブするぐらいですから力道山のことを嫌いではなかったのでしょうが、知性を愛する著者が選ぶ男性ではなかったと思います。
第Ⅲ部「イヴ・シャンピとともに」の19「旅立ち」の冒頭を、著者は「『雪国』の撮影が長引いたため、小津安二郎監督がわたしのために書いてくれた『東京暮色』(1957)にも、今井正監督の『夜の鼓』(1958)にも出演できなかった。パリ行きを遅らせればよかったのに、一世一代の約束を変えるなんて女が廃ると思ったのだった。わたしが諦めた2つの役は、『にんじんくらぶ』の仲間、有馬稲子さんが演じてくれた」と書きだしています。
(本書より)
「にんじんくらぶ」とは、岸惠子・久我美子・有馬稲子の3人の女優を中心に1954年(昭和29年)に設立されたプロダクションです。当時、著者は松竹の専属俳優、久我と有馬は東宝の専属俳優でしたが、前年締結された五社協定を意識し、俳優活動が制限されないよう、専属契約下での他社出演を実現させるための設立となったのです。著者は、24歳の春に川端康成原作の「雪国」を撮り終えた2日後、単身パリに発ちフランス人監督イヴ・シァンピ氏と結婚しました。
(本書より)
1956年には、夫であるイヴ・シャンピ監督の日本・フランス合作の恋愛映画「忘れえぬ慕情」が作られます。出演は著者をはじめ、ダニエル・ダリュー、ジャン・マレーなどで、長崎を舞台にした日仏スター共演による悲恋物語ですが、これが劇場を十重二十重に囲む観客で超大ヒットとなりました。著者は、「フランスだけではなく、ヨーロッパや中東、多くの国が、大歓迎してくれた。それまでの日本といえば、19世紀の美術史に革命をもたらした浮世絵であり、映画では、『雨月物語』(1953)の幽玄美、『羅生門』(1950)、『七人の侍』(1954)などの傑作はあったが、今現在の日本を描いたものは少なかった。『東京物語』(1953)で小津安二郎ブームがロンドンから起こったのは、このときよりずっとあとのことだった」と書いています。
21「イヴ・シャンピ邸」では、フランスは何もかもが眩しかったという著者は、「夫の両親が世界的なピアニストであり、ヴァイオリニストであることは知っていたが、学生のときから自立している夫の住まいの、途方もなく幻想的な佇まいに息を呑んでしまった。わたしを虜にし、女優にした、ジャン・コクトーの映画『美女と野獣』は、この時代のわたしに『運命』として絡んでいたようだった。わたしを魅了したシァンピ邸の内装の美しさと奇抜なアイディアは、『美女と野獣』を担当した高名な美術監督が手掛けたものだと知って驚いた。5階、6階をぶち抜いたアトリエ風の7、8メートルもあろうかという天井の高さと、広々としたリヴィングの4分の1は、弧を描いた書棚が占め、その書棚を抱くように伸びているレトロな階段の踊り場が食堂になっていた。まるで宙に浮いたようなこの食堂で、川端康成先生がアスパラガスをパクリと食べたのだった」と書いています。
(本書より)
22「ちょっといい話――長嶋茂雄、王貞治、そして岸本加世子」では、海外旅行が自由化されていないこの時期、パリを訪れた人々はすべて公式訪問。政治家や経済界のお偉方には縁がありませんでしたが、映画界、スポーツ界の人々はシァンピ家を訪問したとして、著者は「日本で海外旅行が自由化されるのは、東京オリンピックのあった1964年なのだ。多分その前年の1963年だったと思うが、雑誌『平凡』の水野イサオ・カメラマンから依頼があった。その年に活躍したプロ野球セ・パ両リーグのMVP選手らが、エール・フランスがスポンサーとなってパリに招待された。ついてはシァンピ家で一緒に写真を撮りたい。シァンピ家は絶好の被写体であったと思う。わたしが大好きな19世紀の螺旋階段を降りてきた4人の日本男性を見て、夫が驚嘆の声をあげた。筋肉質の細い身体をすらりとした長身に包み、彼らはひどくカッコよかった。マナーも感じも素晴らしかった。長嶋茂雄、王貞治、野村克也、稲尾和久さんらであった」と書いています。それにしても凄いメンバーですね!
24「義父母に魅せられて」では、カトリックの国であるフランスの文化に戸惑う著者の本音も書かれています。「宗教に関しては、現代日本人のおおらかな無頓着さが私には好ましく思える」と1993年に上梓して、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『ベラルーシの林檎』に書いた著者は、「赤いおべべに簪さして、行きましょ神前、七五三。お宮参りに来たところ。結婚式はなんとなく、白いドレスがよく似合い、パイプオルガン鳴り響く、トレンディな教会で。あっと言う間の人生の、終着駅はお寺さま。木魚叩いて読経の、粛々美声の坊さまの法衣の袖の札束は、三途の川旅日和よく、彼岸で悟りにつけるよう、家族最後のこころざし。なんて毒のないすてきな雑駁さだろう」と書いています。
これを書いたときから30年近くが経った今も、宗教というものに馴染めないという著者は、「無知蒙昧を晒して言えば、人間を救うはずの宗教がもとで生まれる差別や偏見、血なまぐさい争いはどういうものか! それは宗教のせいではなく、愚かな人間の性ゆえとは分かっていても……。とはいえ、東海の孤島、我がうるわしの大和の国から、突如舞い降りたヨーロッパは、多宗教混ざり合う人々とどう付き合えるかの覚悟が要る、と当時、肝に銘じたものだった」と書いています。その後、著者は1975年に夫と離婚しますが、著者が萩原健一と共演し、1972年に公開された斎藤耕一監督の「約束」は素晴らしい傑作で、萩原健一の出世作となりました。影のある女を演じた著者が本当に美して魅力的で、わたしの大好きな日本映画です。著者の出演作の中でも一番好きです。
第Ⅴ部「孤独を生きる」の40「三度目の別れ」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「1999年、母が旅立ったその年の秋に娘が結婚した。ひとつの命が消え、新しい命が生まれる。こうして、時代も人も移り変わってゆくのだろう。人間の悠久なる営みを、わたしは愛おしさと切なさで感じとっていた。娘は、アパルトマンのあるパリ四区の区役所で、宗教色のない式を挙げた。夫になる人も同じキリスト教であったのに、それが2人の選択だった。わたしは、簡素な結婚式のあとの披露宴は、華々しく、国際色豊かな、思いの残るものにしてあげたかった。セーヌ川の遊覧船の中でも、一番大きくて居心地のいい豪華船を借りきって、夕方から朝方まで、セーヌ川を遊覧してゴージャスな宴を張った」
42「『わりなき』ことども」では、たった3回しかなかった著者の舞台経験の中で、憧れのジャン・コクトーに肩を抱かれた写真とともに、著者は「詩人に請われて、彼の処女戯曲『影絵――濡れ衣の妻』に出演したのは28歳のとき。『影は心です。魂です。顔で表現をせず、身体の動きで表現します。踊りのようなパントマイムのような、波のような動きが影絵となって、舞台の後ろに大きく揺れ動くのです。台詞はすべて韻をふんで、ゆっくりとうたうように……』コクトーさんの極めて特殊な演出に、バレエをやったわたしの身体が反応して、ひどく気に入っていただいた」と書いています。
そして、当時の日本におけるカルチャー・ヒーローであった三島由紀夫が登場します。当時の日本は私的な海外旅行を禁じていたため、コクトーの舞台を見てくれた日本人は、たったの6人として、著者は「今はもうだーれもいない。皆さん旅立たれてしまった。日本大使夫妻、毎日新聞パリ支局長夫妻、戦前から在住なさっていた朝吹登美子さん。そして、『ペンクラブ』の世界大会に、日本を代表してパリへいらしていた三島由紀夫さん。『パリのコンセルヴァトワールの秀才たちに囲まれて、日本人のあなたがよくぞ主役を立派に演じた』目を潤ませておっしゃる三島さんとコクトーさんの通訳をしたことは、素敵な思い出である」と書いています。三島を敬愛してやまないわたしも、この一文に深い感銘を受けました。米寿を迎えられた著者には、いつまでもお元気でいていただきたいです。