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No.2086 ホラー・ファンタジー 『ビハインド・ザ・ホラー』 リー・メラー著、五十嵐加奈子訳(青土社)
2021.11.30
『ビハインド・ザ・ホラー』リー・メラー著、五十嵐加奈子訳(青土社)を読みました。「ホラー映画になった恐怖と真実のストーリー」というサブタイトルがついています。三度の飯よりホラー映画が好きなわたしには、この上なく面白い読み物でした。ホラー映画の題材となった実際の事件や出来事がたくさん盛り込まれており、合計21本の映画と、それぞれの背景にある実話が紹介されています。著者は、イギリス生まれ、カナダを拠点に活動する犯罪学者で、猟奇殺人や性犯罪を専門とし、未解決事件の調査にも貢献しているそうです。
本書の帯
本書のカバー表紙には、ヒグチユウコ氏による不気味なイラストが使われています。子どもたちが動物のマスクを被り、手には風船を持っている姿が描かれています。帯には「『エクソシスト』『ジョーズ』から『ゾンビ伝説』『羊たちの沈黙』まで」「大ヒットしたホラー映画の数々は実際にあった戦慄の犯罪、心霊現象にインスパイアされて製作されていた――」「――エド・ゲインからセイラム魔女裁判まで、映画の背後に潜む戦慄のストーリーを、気鋭の犯罪学者が鮮やかに描き出す」と書かれています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
『M』(1931年)
ワイマール共和国のシリアルキラーたち
『ロープ』(1948年)
ボビー・フランクス殺人事件
『サイコ』(1960年)
『悪魔のいけにえ』(1974年)
エド・ゲインの犯罪
『フレンジー』(1972年)
ジョン・クリスティ
ネビル・ヒース
ジャック・ザ・ストリッパーの犯罪
『エクソシスト』(1973年)
ローランド・ドゥの悪魔祓い
『ジョーズ』(1975年)
ニュージャージー鮫襲撃事件
インディアナポリス号の沈没
フランク・マンダス
『日没を恐れた街』(1976年)
テクサーカナ月光殺人事件
『悪魔の棲む家』(1979年)
オーシャン・アベニュー112番地の心霊現象
『ポルターガイスト』(1982年)
シーフォードのポルターガイスト
『エルム街の悪夢』(1984年)
原因不明の夜間突然死症候群
『ゾンビ伝説』(1988年)
クレルヴィル・ナルシスの奇妙な話
『羊たちの沈黙』(1991年)
テッド・バンディ
グリーンリバー・キラー
ゲイリー・ハイドニック
エドモンド・ケイパー
ジェリー・ブルードス
アルフレッド・バリ・トレヴィノ
アンドレイ・チカティーロ
フィレンツェの怪物
『スクリーム』(1996年)
ジャネット・クライストマンの殺害と
ゲインズビル・リッパーの犯罪
『プロフェシー』(2002年)
ウェストバージニア州ポイントプレザントの蛾男
『ウルフクリーク/猟奇殺人谷』
(2005年)
イヴァン・ミラットの犯罪と
ピーター・ファルコニオの殺害
『死霊館』(2013年)
『アナベル死霊博物館』
(2014年)
『死霊館エンフィールド事件』
(2016年)
ペロン農場の心霊事件
アナベル人形事件
エンフィールドのポルターガイスト
『ウィッチ』(2015年)
『ライトハウス』(2019年)
セーラム魔女裁判とスモールズ灯台の悲劇
「訳者あとがき」
「図版クレジット」
「原注」
最初に取り上げられる映画は、『M』(1931年)です。太古の昔から、巷にはシリアルキラーが存在したとしながらも、そうした殺人者が特に多く生み出された時代や場所があるとして、著者は「アメリカでは、1960年代半ばから90年代にかけてシリアルキラーの数が急増した。いわゆる『ボストン絞殺魔』に始まり、ジェフリー・ダーマーで終わる時代だ。ヴィクトリア朝時代のイギリスも同様に、シリアルキラーが大量に生まれた。また、ドイツではワイマール期(1918~33年)――第1次世界大戦と第2次世界大戦のはざまの不運な共和制時代――にシリアルキラーがやたらと出現した。そこから生まれたのが、1931年に公開されたフリッツ・ラングの不朽の名作『M』に登場する架空の幼女殺し、ハンス・ベッケルトだ」と述べています。
この映画よりも4年早く封切られたアルフレッド・ヒッチコックの『下宿人』と同様、『M』もまた、殺人者をただ冷酷な”悪者”として描くのではなく、性的殺人にまつわる心理的・社会的要因を掘り下げ、新境地を開いたと指摘し、著者は「苦悩に苛まれる、一見恐ろしそうには見えないベビーフェイスの殺人者をみごと演じきったピーター・ローレは世界的スターとなり、『M』は名作映画として不動の地位を得た。ハンス・ベッケルトの人物像には、ワイマール期に出現した6人のシリアルキラーが大なり小なり影響を与えている。ヨハン・メイヤー、フリードリヒ・シューマン、カール・グロスマン、フリッツ・ハールマン、カール・デンケ、そして最も大きな影響を与えたと思われる、『デュッセルドルフの吸血鬼』ペーター・キュルテンだ」と述べています。
ヒッチコックの名作『サイコ』(1960年)も登場します。この映画を「20世紀最高のホラー映画」だと評価する人は多いですが、著者は「フリッツ・ラングの『M』やアルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』は残虐な殺人に焦点を当てたサイコロジカル・スリラーだが、ヒッチコックの『サイコ』の公開によって、「スラッシャー」と呼ばれる新ジャンルが誕生したとされる。『サイコ』では、はりつめたシーンがしばらく続いたあと、狂気を帯びたノーマン・ベイツが不意にナイフで襲いかかり女性をめった刺しにして殺す」と述べています。
『サイコ』に続いて、『悪魔のいけにえ』(1974年)が取り上げられます。『サイコ』はサイコロジカル・スリラーだと主張する評論家も多く、『サイコ』が最初のスラッシャー映画かどうかは異論があるかもしれないとして、著者は「トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』が『誰もが認めるスラッシャー』なのはまちがいない。『スラッシャー第1号』の栄誉を『サイコ』と『悪魔のいけにえ』のどちらに与えるかは別として、この2本の映画のモデルとなったのは、実在の殺人者エド・ゲインである」と書いています。
Wikipediaによれば、エド・ゲイン(1906年8月27日―1984年7月26日)は、アメリカ合衆国の殺人犯、死体泥棒。「プレイン・フィールドの屠殺解体職人」、「プレイン・フィールドの墓荒らし」との異名を取りました。ウィスコンスィン州プレイン・フィールドにある墓場から死体を盗掘し、その死体の皮膚や骨を使って創り上げた「記念品」を州当局が発見したことにより、その名を知られるようになりました。1954年に居酒屋の女主人、メアリー・ホーガンを、1957年に金物工具店の女主人、バニース・ウォーデンを殺害したことを告白。専門家委員会がゲインについて最終評価を行った結果、彼は精神病院に送られました。
著者は「エド・ゲインは殺人罪で裁判を受けるには不適格であり、裁判所への出廷が可能と見なされる日まで精神病院に収容するべきとの判断がなされた。1958年3月20日木曜日、空き家となっていたゲインの古いファームハウスで原因不明の火災が発生し、家は灰と化した。この奇妙な悲報を聞いた彼は、『かえって良かった』と、ただ肩をすくめるだけだった。1968年11月7日、エドワード・セオドア・ゲインはようやく、バーニス・ウォーデン殺害の罪で裁判を受けることが可能と判断された。結果的に、ロバート・H・ゴルマー判事は心神喪失による無罪の判決を下し、ゲインはふたたび州立中央病院へ戻された。1984年7月26日、呼吸不全により、ゲインは78歳で世を去った」と書いています。
『エクソシスト』(1973年)の項では、冒頭に「悪魔にとりつかれた『ローランド・ドー』」として、「1949年に密かに行なわれたカトリックの悪魔祓いを題材にしたウィリアム・フリードキン監督の超常現象ホラー映画『エクソシスト』は、一部の観客に深刻な影響を及ぼした。そこから、この映画によって引き起こされた顕著な精神的苦痛をあらわす新たな精神医学用語――『シネマティック・ニューロシス(映画神経症)』――が誕生した」と書かれています。また、著者は「フリードキンのこの映画の原作は、ウィリアム・ピーター・ブラッティによる同名の小説だ。ブラッティの『エクソシスト』は、1949年4月に密かに行なわれた悪魔祓いから多くの題材を得ている。悪魔祓いを受けたのは、『ローランド・ドー』という仮名でのみ知られる10代の少年だった」と述べます。
他の多くのキリスト教宗派とは異なり、カトリック教会では、悪魔の憑依はたしかに存在し、悪魔祓いによってのみ救済できるとされているとして、著者は「じつはプロテスタントによる宗教改革以前には、キリスト教世界全体で、悪魔やその能力が人間の体に宿ると信じられ、悪魔を追い払う具体的な方法まで伝えられていた。聖書によれば、イエス自身もたびたび悪魔祓いを行なったとされるが、ルーテル派を含むプロテスタント教会はのちに、たんにイエスが土着の民俗信仰に合わせて行なった行為だと位置付けている。カトリック教会は憑依の存在を信じているが、実際に助言を求められたケースは歴史上ごくまれだ。ローランド・ドーの両親はルーテル教会に所属していたが、息子のケースはまちがいなく悪魔憑きだと感じていた。カトリックの司祭に相談すべき時が来ていた」と述べています。
悪魔憑きだとされた少年ローランドが退院したあと、彼がいた病室は封鎖され、2度と開けてはならないと指示が下されました。のちに、この病院は取り壊されます。イエズス会にもまた、悪魔祓いとそれにまつわる出来事をけっして口外してはならないと箝口令が敷かれたとして、著者は「40年以上にわたり秘密はほぼ保たれたが、わずかに漏れ出た断片的な話をヒントに書かれたのが、ウィリアム・ピーター・ブラッティの1971年の小説『エクソシスト』で、その2年後に映画化された。そして1993年、トーマス・B・アレンの『Possessed(悪魔憑き)』でついに事の詳細が公になった。この本はレイモンド・ビショップ神父がつけていた日記を元にしたものだが、かなり懐疑的に受け止められ、特にメリーランド州の歴史学者マーク・オプサスニックから酷評された」と述べています。
ローランドはとんでもないいたずら好きで、手の込んだ悪だくみで他の子どもたちや、自分の母親までも怖がらせて喜んでいた事実を紹介し、著者は「あるクラスメートは、ローランドがもうひとりの少年とどちらが遠くまで唾を飛ばせるかを競い合い、約3メートル先まで正確に唾を飛ばす超人的なわざを身につけたことを思い出した。もし彼がその特異な才能をイエズス会の司祭たちに対して用いたならば、彼らは悪魔にしかできない離れ業と結論づけたかもしれない。ローランドの親友のひとりは、ブレードンズバーグ中学校で1948年に起きたある出来事を覚えていた。それは、ローランドが自分の机をものすごい速さで振動させたというものだ。教師にやめなさいと注意されたローランドは、自分は何もしていないと答え、教室から追い出された。当然ながら、彼は学校嫌いだったと記録されている」と述べます。
また、ローランドが長く伸ばした爪で自分の体に文字を書くのを目撃した司祭も何人かいました。著者は、「だがどうやら、それは警戒信号とはならず、悪魔憑きの兆候のひとつと解釈されたようだ。じつを言えば、リッター大司教から最初に調査を任されたイエズス会士――哲学の教授――は、悪魔憑きの説を一蹴し、報告された現象はすべて自然の法則に沿って説明できると結論づけていたのだった」と述べ、「彼は注目を浴びたかった。また、住んでいる土地を離れてセントルイスヘ行きたかった。そのために怒りを爆発させた。彼は自作自演のゲームを始め、その努力が実り、何人もの司祭を……過分な愛情を注いでくれる司祭たちを味方につけた」と結論づけます。
『エクソシスト』に続いてホラー映画ブームを起こした作品に『悪魔の棲む家』(1979年)があります。著者は、「『悪魔の棲む家』は映画史上初の、真に人気を博したホーンテッドハウスものと言えるだろう。その成功は、巧みなマーケティングキャンペーンと、アカデミー賞にノミネートされたサウンドトラック、そしてアンサンブル・キャスト形式による優れた演技に拠るところが大きい。だがおそらく最大の勝因は、このストーリーが”実話”であった点だろう。原作はジェイ・アンソンによる同名の本『The Amityville Horror』(邦訳版のタイトルは『ドキュメント アミティヴィルの恐怖 悪魔の棲む家』徳間書店)。そこには、ラッツ一家が1975年12月に経験したとされる数々の出来事が詳細に綴られている。オーシャン・アベニュー112番地で1974年に起きた残虐な大量殺人はまぎれもない史実だが、ラッツ一家が引っ越してきてから実際に何があったのかについては、いまなお論争の的となっている」と述べています。
1977年に出たアンソンの本を読み、それを映画化したさまざまな作品を見た何百万人もの人々は、いわゆる”アミティヴィルの恐怖”は残念ながら、ほぼでっちあげだったことを知ったとして、著者は「まず、ラッツ一家のあとに問題の家に住んだ誰からも、なんらかの超常現象が起きたとの報告はなされていない。皮肉なことに、本に登場するロングアイランドのニューズディ紙は、近所の人々やカトリック教区の神父、警察に相談したとするラッツ夫妻の主張を裏付ける証拠を何ひとつ発見できなかった。疑念を抱いた組織や出版界がラッツ夫妻の主張を調査し、作り話が少しずつ暴かれていった。ラッツ一家が去った直後にオーシャン・アベニュー112番地を購入したジェームズ・クロマティと妻のバーバラは、スケプティカル・インクワイラー誌のインタビューに答え、家にはいまもアンティークの錠前や蝶番、ドアノブがついていると語った。ラッツ夫妻の主張では、それらはすべて破壊され、場合によっては何度も交換されたはずだった」と述べるのでした。
『ポルターガイスト』(1982年)の項の冒頭には、「シーフォードのポルターガイスト」として、著者は「1982年の大ヒット映画『ポルターガイスト』は、崩れ落ちそうなゴシック様式の館から、観客の誰もが身近に感じることのできる、どこにでもある郊外の一軒家に舞台を移すことで、幽霊屋敷を現代によみがえらせた。監督のトビー・フーパーと脚本を手がけたスティーヴン・スピルバーグは、制作に必要なアイデアのすべてを、ロングアイランドのシーフォードを舞台としたハーマン一家にまつわる奇妙な物語から得た」と述べています。また、著者は「興味深いことに、『ポルターガイスト』も、もうひとつの伝説的なホーンテッドハウス映画『悪魔の棲む家』も、どちらもニューヨーク州ロングアイランドで暮らす一家に起きた出来事を題材にしている」と指摘します。
『ポルターガイスト』は『悪魔の棲む家』よりもあとにできた映画ですが、フーパー&スピルバーグ合作のこの映画の元となった出来事は、ラッツ一家がアミティヴィルに引っ越してくる18年前に起きています。著者は、「『悪魔の棲む家』は最初から『実話』を宣伝文句にしていたが、『ポルターガイスト』のほうは――実話を売りにすることは十分にできたはずだが――そのようなマーケティング戦略を用いていない。その代わり、御客がみずから映画のストーリーの由来、すなわち1958年2月3日にレッドウッド通り1648番地で起きた出来事をたどれるようにしたのだ。なお、なんの変哲もない郊外の家で起きたその出来事によって、現代の世界に『ポルターガイスト』という言葉が一気に広まったのである」と述べるのでした。
『エルム街の悪夢』(1984年)の項の冒頭には、「夜間突然死症候群」として、「1984年に公開されたウェス・クレイヴン監督の傑作ホラー映画『エルム街の悪夢』に登場する若者たちに、安らかな眠りは訪れない。代わりに眠りがもたらすものは、醜く焼けただれた顔に病的な目つき、刃付き手袋をはめた恐怖のシリアルキラー、フレディ・クルーガーだ。夢には、人を殺す力がある――そのことをありありと示したこの映画に着想を与えたのは、嘘のような実際の出来事、謎の連続突然死だ」と書かれています。また、「『M』の表現主義的スタイルや『エクソシスト』の不穏な比喩的描写など、多くのホラー映画では超現実的手法が効果的に用いられている。しかし、実際に超現実的恐怖を描いたホラー映画は、ウェス・クレイヴン監督の傑作『エルム街の悪夢』が初めてだ」と述べます。
クレイヴン監督が若い頃、夜寝ている間に突然死するラオスのモン族の人々の話を「ロサンゼルス・タイムス」紙で知りました。彼は「男たちはなぜ死んだのだろう」と考え、「夢を見たせいで死んだのだとしたら? 夢が実際に彼らを殺したのだとしたら? 全員が同じ悪夢を見たのだとしたら?」などと思いを巡らしていると、ゲイリー・ライトの1975年のヒット曲『夢織り人』が聞こえてきたそうです。著者は、「シンセサイザーが奏でるどことなく不吉なイントロ(それがそのまま、『エルム街の悪夢』の音楽のヒントとなった)と『Dream Weaver,I believe you can get me through the night(夢織り人よ、一緒ならこの夜を越えていける)』というコーラスの歌詞を聴き、クレイヴンは『夢のなかだけに存在するヴィラン(悪役)をつくりあげる』だけでなく、そこからさらに一歩進めて、夢そのものを織り上げ、自由自在に変貌させるヴィランをつくりあげた」と紹介します。
クレイヴンはまた、子どものころに悪夢を見て、目覚めたあと、「一緒に夢のなかへ入っていってぼくを守って」と母親にお願いしたのを思い出したといいます。『エルム街の悪夢』の項の最後に、著者は驚くべき事実を明かしています。「エルム街」という名前についてですが、このストリート名は、クレイヴンが映画学校に通ったニューヨーク州ポツダムにある並木道に由来するそうです。そして著者は、「だが驚くなかれ、じつはこの傑作ホラー映画のなかで『エルム街』という名が口に出されることは一度もないのだ」と書いているのです。なんとも面白い話ですね!
『羊たちの沈黙』(1991年)の項では、この映画に登場するシリアル・キラーのモデルとなった犯罪者リストとして、テッド・バンディ、グリーンリバー・キラー、ゲイリー・ハイドニック、エドモンド・ケイパー、ジェリー・ブルードス、アルフレッド・バリ・トレヴィノ、アンドレイ・チカティーロ、フィレンツェの怪物というふうに、なんと8人も名前が挙がっています。たしか、『サイコ』や『悪魔のいけにえ』のモデルとなったエド・ゲインも『羊たちの沈黙』に影響を与えたはずです。著者は、「ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』は、ハンニバル・レクター博士と『バッファロー・ビル』という架空のシリアルキラーを映画ファンにお披露目した。じつはこの二人はいずれも、ロシアからメキシコ、アメリカ西部、イタリアと、世界各地に出没した実在の殺人者を融合させたキャラクターなのだ」と書いています。
映画でアンソニー・パーキンスが怪演したハンニバル・レクター博士は、著名な精神科医であり猟奇殺人犯です。彼は投獄されていながら、他の殺人犯を逮捕するアドバイスをします。著者は、「投獄された知性派のシリアルキラーが別のシリアルキラーを逮捕するために警察に協力するというアイデアは、テッド・バンディが『グリーンリバー・キラー』を追う二人の刑事デイヴ・ライカートとロバート・ケッペルに協力を求められたエピソードに由来する。また、元FBIプロファイラーのジュン・ダグラスは、ジャック・クロフォードのモデルは自分だとたびたび自慢していた」と書きます。
しかしながら、『羊たちの沈黙』の真のすばらしさは、二人のシリアルキラーがもつ魅力にあるとして、著者は「本名よりもむしろ『バッファロー・ビル』として知られるジェイム・ガムは、実在する6人の殺人者を融合させた悪夢のようなキャラクターだ」と述べます。その6人とは、エド・ゲイン(人皮に異常な関心を示した)、テッド・バンディ(巧妙な手口で犠牲者をおびきよせた)、「グリーンリバー・キラー」(死体を川に遺棄した)、ゲイリー・ハイドニック(被害者を地下の穴に監禁した)、エドマンド・エミール・ケンパー3世(自身の犯罪を幼少期の虐待のせいにした)、そしてジェリー・ブルードス(彼の殺人には、服装倒錯の要素が含まれる)です。
『プロフェシー』(2002年)の項では、この映画が1975年に刊行されたUFO研究家ジョン・キールの著書『モスマンの黙示』と、それに続く『UFO超地球人説』を元にしていることを紹介し、著者は「キールは1966年にUFOの調査を本格的に開始したが、以前はその手のものを易々と信じない『ハードボイルドな懐疑派』だったそうだ。ところが1967年になると、彼のもとに『宇宙人』からの奇妙な電話が頻繁にかかるようになる。さらに、忽然と消える黒いキャデラックや派手な空飛ぶ乗り物に追跡され、また、たまたま目についたモーテルに入ると、なぜかすでに予約されていて、電話に理解不能なメッセージが残されていることもたびたびあった。キールが最初にウェストバージニア州ポイントプレザントを訪れたのは、その地域で相次いだ奇妙な報告について調べるためだった。彼に伝えられた数々の不気味な話は、そのあとに起きたさまざまな悲劇的出来事に照らして考えると、よりいっそう恐ろしさが増す」と書いています。
ジョン・キールによると、1966年から67年にかけて、100人を超える大人が翼のある巨大な怪物(モスマン=蛾人間)の目撃を報告しています。オハイオ川流域の住民の大半がモスマンとの遭遇を恐れる中、50歳のウッドロー・デンバーガーは、どうやら謎の存在との個人的関係を築くのに成功したといいます。このデレンバーガーの体験談を、ジョン・キールはかなり詳しく記述しています。著者は、「モスマンやUFOの目撃談が無数に存在したことから、ウッドロー・デレンバーガーが宇宙人の実験で妊娠させられたという噂がオハイオ川流域に広まりはじめたとき、人々はそれを一蹴するよりも、むしろおおかた真に受けた。さらに1年がたつころには、この一帯で多発するおかしな現象に慣れすぎて、人々はもはや何があっても驚かなくなっていた」と述べます。
ウッドロー・デレンバーガーの話を総合的に評価したキールは、最終的に「彼は世界で最も説得力のある嘘つきで、妻や子ども、友人たちにもうまいこと嘘の片棒をかつがせたか、UFO研究の限界を超えるきわめて特異な経験をしたかのどちらか」だと結論づけました。1967年12月15日、アメリカのウェストバージニア州とオハイオ州を結ぶシルバー橋がラッシュ時の交通で満杯になった時に崩壊し、46名が死亡しました。この災難は、モスマンがキールに予告していたものでした。著者は、「シルバー橋の事故のあとまもなく、キールがインタビューしたコンタクティや目撃者の多くが不幸な出来事に見舞われた。離婚した者もいれば、みずから命を絶った者、自然死した者、精神を病み施設に収容された者もいた。ジョン・キールはその後もUFOや超常現象の研究を続け、2009年7月、ニューヨーク市で79年の生涯を閉じた」と述べます。
『死霊館』(2013年)、『アナベル死霊博物館』(2014年)、『死霊館エンフィールド事件』(2016年)の項の冒頭には、「『死霊館』は、近年で最も評価が高く、商業的にも成功したホラー映画のひとつだ。現に、その成功はかなりのもので、続々とフランチャイズ映画が生まれ、『死霊館ユニバース』と呼ばれる一大シリーズを形成している。そしてこの死霊館シリーズには、ひとつの共通点がある。それは、どの作品もエド&ロレイン・ウォーレン夫妻が手がけた実際の事件をベースにしている点だ」と書かれています。また、著者は「心霊研究家のエド・ウォーレンとその妻で透視能力者のロレインは、1970年代から90年代にかけて手がけた数々の功績によりアメリカで最も有名なゴーストハンターとなった、賛否両論はあるが魅力的な人物だ。ジェームズ・ワン監督は夫妻の『事件ファイル』を大胆に使い、21世紀で最も成功したホラー映画シリーズとなる『死霊館ユニバース』をつくりあげた」と述べます。その最新作が、一条真也の新ハートフル・ブログ「死霊館 悪魔のせいなら、無罪。」で紹介した作品です。
『死霊館』(2013年)は、1970年代初頭に、英国植民地時代に建てられたロードアイランド州のファームハウスに引っ越してきたペロン一家の物語です。著者は、「悪魔にとりつかれたその家で、一家は怪現象に苦しめられ、救いの手をさしのべたウォーレン夫妻は、その地所にはバスシーバ・シャーマンという名の、わが子を悪魔のいけにえに差し出そうとした魔女の霊がとりついていることを知る。やがて一家の母親キャロリン・ペロンがバスシーバの霊にとりつかれ、自身の子どもたちをいけにえにしようとしたため、エド・ウォーレンはやむをえず、キャロリンの体から悪魔を追い払うために、悪魔祓いの儀式を行なうことになる。この映画にはまた、霊にとりつかれたアナベル人形も登場する」と述べています。
『ウィッチ』(2015年)と『ライトハウス』(2019年)を紹介する項では、著者は「『ウィッチ』は、歴史に忌まわしい名を残したセイラムの魔女裁判と、それを生んだピューリタン文化をベースとした作品で、ブラックフィリップの特徴やヤギと悪魔とのつながりは、ヨーロッパ大陸の美術や文学に根差したものだ。一方の『ライトハウス』は、ウェールズ南西岸沖で1801年に起きた『スモールズ灯台の悲劇』をベースにして描いた作品だ。二つの映画は異なる世紀が舞台だが、どちらも歴史を振り返り、孤独のなかで困難や奇妙な現象に直面したときに、ごく普通の人々がどう考え、何を信じるのかに目を向けている」と述べています。
まず、有名な「セイラムの魔女裁判」について、著者は「ボストンの北東約20キロ、ダンバーズ川の河口に位置するマサチューセッツ州セイラムの町は、1626年にピューリタンが入植した場所だ。もともとはナアムキーグという名だったが、不毛な土地に植民地が建設されると、まもなく漁業と農業がさかんな町となり、1629年、「平和」を意味するヘブライ語の「shalom」にちなんで「Salen(セイラム)」と改名された。1692年に行なわれた悪名高き魔女裁判のおもな舞台となったのは、この町のはずれにある別の入植地、セイラム村である」と説明します。
また、ずっと前からピューリタン文化には魔女狩りの種が蒔かれていたとして、著者は「ヨーロッパの歴史にはその前例があり、教会や神権国家の統治者たちが異教信仰を根絶しようとしたことから、1490年代から1650年代にかけて、火刑や絞首刑により推定5万人が虐殺された。現代人にはそうした過剰反応がばかばかしく思え、当時のヨーロッパの人々にとって魔女がいかに恐ろしい存在であったかをつい忘れてしまうのだが、魔女が行なうとされた数々の恐ろしい行為のひとつに、まだ洗礼を受けていない赤ん坊の腸を使いほうきで空を飛べるようになる膏薬をつくるというものがあった。また、毒を盛るという話もよくあり、エリザベス朝時代のイングランドで魔女として告発されたある女性は、子どもたちに毒入りのリンゴを与えたと噂された」と述べます。
さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「啓蒙主義の夜明けとともに、従来の神中心の思想に代わって、科学的手法や非宗教的統治が台頭すると、旧世界では魔女狩りに終止符が打たれた。しかし、おもに英国国教会との信仰上の相違から新世界に移住したピューリタンたちは、そうした新たな文化の届かない隔絶された場所に住んでいた。さらにまた、彼らは出エジプト記22章17にある『呪術を行う女を生かしておいてはならない』(聖書協会共同訳)という言葉を、文字通り厳格に解釈していた。この言葉は神学的に魔女の存在を裏付けているばかりか、魔女への対処法まで示している」
一条真也の新ハートフル・ブログ「ライトハウス」でも紹介した映画のモデルとなった「スモールズ灯台の悲劇」については、グリフィスとハウエルという二人の灯台守を紹介した後、「1800年から1801年にかけての冬、二人は1カ月間の任務につくため、船でスモールズ灯台へ運ばれた。そして1、2週間が過ぎたころ、グリフィスが病気になったが、ハウエルには彼を助けるすべがなかった。遭難信号を出し、二人は辛抱強く船の到着を待つ。だが、やってきたのは船どころか、桁外れに大きな嵐だった。海のなかにぽつんとある岩のかたまりへ到達できる船はなく、グリフィスは何週間も苦しんで衰弱し、ついに息絶えてしまう」とあります。
同僚が死んだと気づいたとき、ハウエルは恐ろしい結論に達しました。「もし遺体を海に捨てれば、本土の人々は彼がグリフィスを殺し、隠蔽のために証拠を海に捨てたと思うかもしれない」というのです。著者は、「万が一にもそうなっては困ると、ハウエルは救助の船が来るまで遺体を灯台に置いておくことにした。棺代わりの箱をこしらえ、そこにグリフィスの遺体を入れて蓋をし、極力そのことを考えまいとする。しかし嵐の勢いはいっこに衰えず、何週間も、何カ月も続いた」と述べます。
そのうちに、腐敗が進むグリフィスの遺体が放つ臭気にもはや耐えられなくなったハウエルは、棺を室内からデッキに出して手すりにくくりつけ、棺はそこで3週間雨ざらしにされたことを紹介し、著者は「やがて吹き荒れる強風で棺の蓋が壊れ、グリフィスの腕が飛び出したが、次に何が起きたかについては風説によって大きく異なる。おおかたの説は、死んだ男の手が風にあおられて灯台の窓に打ちつけられ、ハウエルがそれをグリフィスの幽霊が窓ガラスを叩いていると思いこんだ、というものだ。一方、遠くを航行する複数の船が、デッキで男が自分たちに向かって手を振っていると思い、灯台では何も問題が起きていないと判断したために遭難信号を黙殺してしまったという説もある」と述べています。
4ヵ月後、ようやく天候が安定し、ミルフォード・ヘイヴンから交代の灯台守を二人乗せた船が来て、スモールズ灯台に錨を下ろします。著者は、「彼らがトーマス・ハウエルのもとへ到着したとき、彼は髪が真っ白になり、飢餓と寒さで死にかけ、狂気の縁をさまよっていたと伝えられる。苦難に見舞われながら、彼はずっと灯火をともしつづけた。グリフィスの遺骸とともに本土へ連れ戻されたトーマス・ハウエルは、親しい友人が見ても彼だとわからないほど変わり果てていた。このスモールズ灯台の悲劇をきっかけに、イギリスでは灯台への人員配置が大きく変わった。以後、つねに3人で灯台を守るようになり、少なくとも1980年代の大規模な自動化で灯台守が必要なくなるまでは、それが踏襲されていた」と述べるのでした。
わたしは、本書に取り上げられた映画をすべて観ています。ですので、「あの作品のモデルは、こんな事件だったのか」とか「あの不可解な事件には、こんな解釈があったのか」と大いに楽しめました。本書の大部分を占めるのは連続殺人の記録ですが、わたしには心霊現象の真相を探る箇所が興味深かったです。悪魔や幽霊の仕業とされた超常現象の裏には宗教的思い込みや故意の捏造が存在したという指摘は、映画そのものよりも怖さを感じました。