No.2093 宗教・精神世界 | 歴史・文明・文化 『イエス・キリストは実在したのか?』 レザー・アスラン著、白須英子訳(文春文庫)

2021.12.25

 『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳(文春文庫)を読みました。救世主(キリスト)としてのイエスは実在せず、いたのは、暴力で秩序転覆を図った革命家(ゼロット)としてのイエスだったという全米騒然の大ベストセラーです。著者は、作家・宗教学者。1972年テヘラン生まれ。1979年イラン革命時に家族とともに米国に亡命。サンタ・クララ大学で宗教学を学んだあと、ハーヴァード大学神学大学院およびアイオワ大学創作学科小説部門で修士号取得。同大学でトルーマン・カポーティ基金小説部門の特別研究員およびイスラーム入門講座の講師を務めたあと、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校で宗教史の博士号を取得。現在、同大学リバーサイド校創作学科准教授。

 本書のカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「イエスは平和と愛を説いた救世主ではなく、武力行使も辞さない革命家だった――。〈ナザレのイエス〉の弟子たちが遺した文献、史料から、聖書には何が創作され、何が史実から落とされていったかを細密に分析。キリスト教がいかにして世界宗教へと飛躍したかを明らかにし、全米を震撼させた衝撃のベストセラー。解説・若松英輔」

 さらに、アマゾンの内容紹介は以下の通りです。
「『聖書』はもともと、イエスの死後布教に携わったイエスの使徒たちの手紙や文書を、ひとつに編んだもの。著者は、それぞれの弟子たちの文献、聖書以外の歴史的な史料を比較調査することにより、聖書で、何が捏造され、何が史実から落とされていったかを明らかにしていく。イエスとは実際にはどのような人物だったのか? そしてイエスは何を実際に説いていたのか? そしてそれがどのように変質して、世界宗教へと飛躍していったのか? 『聖書』の物語と、実際の史実の差から見えてきたものとは? イスラム教徒による実証研究」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。
「本書の執筆にあたって」
「はじめに――実際のイエスを探る」
第Ⅰ部 ローマ帝国とユダヤ教
プロローグ 別種の犠牲
      テロリストよ、大祭司を刺せ!
第1章 片隅の穴、エルサレム
    ローマ帝国と手を結ぶユダヤの大祭司たち
第2章 ユダヤ人の王
    ヘロデの実像
第3章 あなたたちは私がどこの出身か知っている
    ヘロデ王は、赤子大虐殺などしていない
第4章 「第四宗派」と呼ばれた者たち
    地上の革命を求めて
第5章 ローマ帝国の海を制覇する艦隊が
           どこにあるのか?
    世界最強帝国に宣戦布告する
第6章 神の王国の元年
    聖都壊滅という形で現実化した「世の終わり」
第Ⅱ部 熱血漢、イエス
プロローグ あなたの家を思う熱情
      イエスはなぜ危険視されたのか?
第7章 荒野で呼びかける声
    イエスの蔭に隠された洗礼者ヨハネ
第8章 わたしについて来なさい
    善きサマリア人の挿話の本当の意味
第9章 神の指で
    無償で悪魔祓いをする男
第10章 御国を来たらせたまえ
     暴力革命も辞さなかった男
第11章 あなたがたは私を何者だと言うのか
     イエスは自分の使命をどう見ていたか
第12章 皇帝のほかに王はいない
     ピラト裁判は作り話だった
第Ⅲ部 キリスト教の誕生
プロローグ 人の姿で現れた神
      天界の存在とみなされたイエス
第13章 もしキリストが復活していなかったら
     ユダヤ人ディアスポラから生まれた宗教
第14章 私は使徒ではないか?
     パウロがキリスト教を世界宗教にした
第15章 義人ヤコブ
     イエスの弟が跡を継いだかに見えた
エピローグ まことの神からのまことの神
      歴史に埋没したナザレのイエスの魅力
「謝辞」
「原注」
「訳者あとがき」
「文庫版のための訳者あとがき」
「解説」若松英輔
「イエスの時代のパレスチナ」
「略年表」
「ヘロデ神殿復元図」
「参考文献」巻末

 「はじめに――実際のイエスを探る」では、著者はこう述べています。
「『ナザレのイエス』について信頼できる厳然たる歴史的事実は、イエスが1世紀の初めにパレスチナではよくあったユダヤ人の社会運動の一つをリードするユダヤ人であったことと、そうした行為のために、ローマ人が彼を十字架に架けたことの二つだけである。この二つの事実だけでは、2000年前に生きていた一人の人物の完全な人物像を再構築することはできない。だが、ローマ帝国側の史的資料はふんだんに残されているおかげで、それを『ナザレのイエス』が生きた激動の時代的背景と重ね合わせて見れば、福音書に語られているイエス像よりももっと正確な歴史上の人物像が浮かび上がってくる。実際、こうした歴史的営為の中から浮かび上がるイエスは、当時のユダヤ人がみなそうであったように、1世紀のパレスチナの宗教的、政治的混迷に巻き込まれずにはいられなかった一人の熱烈な革命家であって、初期キリスト教徒共同体で涵養されたような穏やかな羊飼いのイメージとは程遠い」

 さらに考慮に入れるべきは、十字架刑は、当時のローマ帝国が反政府的煽動罪にだけ適用していた処罰法だったことであるとして、著者は「ローマ人が苦しみもだえるイエスの頭の上に掲げた『ユダヤ人の王』と書いた札は、『罪状書き』と呼ばれるもので、一般に考えられているような、風刺的な意味を込めたものではなかった。十字架に架けられた罪人はみな、処刑の原因となった特定の罪状を表わす小板を頭上に貼られるのである。ローマ人の目から見たイエスの罪は、自分こそ王者にふさわしい支配者だと主張したこと(つまり反逆罪)で、当時の他のメシア的抱負をもつ者もみな、同罪で処刑された。死んだのはイエス一人だけではなかったのだ」と述べています。

 「福音書はユダヤ人蜂起鎮圧後に書かれた」として、著者は「長い歳月の間に、イエスは革命志向のユダヤ人ナショナリストから、現世にはなんの関心ももたない平和的な宗教指導者へと変貌していったのである。それはローマ人が受け入れることのできるイエス像であった。事実、約300年後のローマ皇帝フラウィウス・テオドシウス(395年没)の時代に、この遍歴のユダヤ人説教師の起こした運動がローマの国教として認められるようになった。今日、私たちが『正教会』として認識しているキリスト教はこうして誕生したのである」と述べています。

 また、「歴史上のイエスを再現する」として、著者は「本書の意図は、キリスト教が発足する前のイエス、歴史上の人物としてのイエスを可能なかぎり再生してみることにある。2000年前の政治意識の強いユダヤ人革命家であったイエスは、ガリラヤの田舎を歩き回り、『神の国』を設立することを目標にメシアを待ち望む運動の信奉者を集め、挑発的な態度でエルサレムに入城して、臆面もなく神殿に攻撃をしかけたが失敗に終わり、ローマ人に逮捕され、暴動煽動罪で処刑された。本書ではまた、イエスによってこの世に神の支配を樹立することが失敗に終わったあと、彼の信奉者がイエスの伝道活動と彼の独自性ばかりでなく、ユダヤ人の待望するメシアの本質と定義をどう解釈し直したのかにも触れる」と述べます。

 さらに、福音書の主張をどこまでも歴史家の目で分析するならば、聖典から文学的、神学的潤色を取り除き、歴史上の人物としてのイエスのはるかに正確な姿を構築できるはずであるとして、著者は「実際、イエスを彼が生きた時代、ユダヤ教の信仰と実践のありようを永久に変えることになるローマ人に対する蜂起がじわじわと盛り上がりつつあった時代の社会的、宗教的、政治的背景にしっかりと据えて描けば、それはそのままイエスの伝記になる」と述べるのでした。

 第1部「ローマ帝国とユダヤ教」の第2章「ユダヤ人の王」では、「貧農の反乱と『メシア』」として、著者は「『メシア』とは『油を注がれた者』を意味する。この称号は、サウル、ダビデ、ソロモンなどの王や、アロンやその息子たちのように神事を行うように聖別された祭司、イザヤやエリシャのような神との特別な関係にある預言者など、この世における神の代理人であることを示す、神と親密性を持った神聖な職業に従事する人に油を注いだり、塗ったりする風習があったことを示唆している。『メシア』はダビデ王の末裔であると一般に信じられており、その一番大事な任務は、ダビデの王国を再建し、イスラエルという民族国家を再興することだった」と述べています。

 そういうわけで、ローマの占領時代に、自分は「メシア」であると名乗ることは、ローマへの宣戦布告に等しかったのであるとして、著者は「実際、いくつかの怒りに駆られた農民ギャングが結束して、熱烈な革命家たちによる終末戦争軍団を形成し、恐れをなしたローマ人がエルサレムから逃げ出さざるをえなくなる日がやがて来るのだが、占領の初期の頃の反徒は単なる厄介者の域を出なかった。それでも、そうした連中がはびこるのを阻止しなければならない。だれかが農村部の秩序回復を図る必要があった」と述べます。

 第3章「あなたたちは私がどこの出身か知っている」では、「イエスの生誕の地はナザレか、ベツレヘムか?」として、イエスのことを「聞くところによれば、このうっとうしい説教師を黙らせて逮捕するしかないと思う連中は大勢いたらしい」と書かれています。「この男はメシアだ!」という一言は、聞き捨てならない言葉です。それは事実上、反逆行為だからです。紀元1世紀のパレスチナでは、「メシアがきた」と公共の場で大声で叫ぶことは、十字架刑に処せられる可能性のあるとんでもない不法行為でした。

 第4章「『第四宗派』と呼ばれた者たち」では、「処女降誕伝承とイエスの家族」として、著者は「イエスに兄弟がいたことは、彼の母マリアがカトリックの教義では永遠の処女とされているにもかかわらず、事実上、議論の余地はない。それについては、福音書にもパウ口の書簡にも証言がいくつもある。イエスの死後、初期のキリスト教会の最重要リーダーになるイエスの弟ヤコブについては、ヨセフスさえも言及している。イエスには、少なくともヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の兄弟と、福音書では触れられているが残念ながら名前も数もわからない姉妹もいる大家族の一員だったと考えてはいけない理由は少しもない」と述べています。

 また、イエスをめぐる謎のうち、さらに異論の多いのは、彼が既婚者だったかどうかであるとして、著者は「新約聖書には、イエスが結婚していたという証拠は何もないが、イエスの時代で30歳を過ぎた男が妻をもっていなかったとはほとんど考えられない。1世紀のパレスチナでは独身でいるのは極端に珍しい現象であった。すでに述べたエッセネ派や、もう1つのテラペウタイ派のような、ごく一部の宗派は独身主義を慣習としていたが、これらは社会とはまったく関わり合わない、修道院に近い集団だった。イエスは明らかにそうした存在ではなかった。だが、イエスは結婚していたのではないかと推測したくなる一方で、聖典とされている福音書からグノーシス派の福音書、パウロの書簡、あるいはイエスに好意的でないユダヤ人や異教徒の書いたものにさえ、彼の妻や子供についてはひとことも記述がないことを無視するわけにはいかない」と述べます。

 「セッフォリオスの復興と大工の徒弟イエス」として、著者は「『ナザレのイエス』が生まれたのは、メシアになり損ねたヒゼキヤの息子で、同じようにメシアになれなかったガリラヤのユダが熱情に燃えていきり立っていた年だった可能性が高い。ローマ軍がユダを捕え、その信奉者とともに十字架に磔にして、セッフォリスを破壊した時には、イエスは十歳くらいになっていたはずである。アンティパスがセッフォリスの再建に熱を入れ始めた頃、イエスは父親と同じ仕事ができるような青年になっていた。その頃には、実際にこの地方の職人や日雇労働者はみな、当時としては最大の復興事業に参加しようとセッフォリスへ流れ込んでいたであろう。ナザレからそう遠くないところに住んでいたイエスとその兄弟たちも、その仲間だったと思われる」と述べています。

 イエスが「大工」の徒弟として働き始めてから、遍歴の説教師として伝道を始めるまで、ナザレの小村ではなく、セッフォリスというコスモポリタン的な首都で、大都市へ来た地方出身の若者として過ごした時間の方が多かったのではないかと推測する著者は、「日の出から日の入りまで、週6日間、イエスは王座のある都市で昼間はユダヤ人貴族階級の豪壮な邸宅の建設に従事し、夜は泥と煉瓦の崩れかけた家に戻っていたのかもしれない。彼は桁違いに裕福な人々と、借金だらけの貧乏人の格差が急速に広がっているのを自分の目で見ていたに違いない。彼はまた、都市に住むギリシア化、ローマ化した人々とも接触があったであろう。そうした裕福で、気ままに暮らすユダヤ人たちは、ローマ皇帝を造物主のように誉め称えることに多くの時間を費やしていた」と述べます。

 第Ⅱ部「熱血漢、イエス」のプロローグ「あなたの家を思う熱情」では、「イエスがイエスらしかった瞬間」として、紀元30年、イエスは驢馬に乗り、両脇に「ああ救いたまえ!」と興奮して叫ぶ大勢の群衆を従えてエルサレムに入ってきたことを紹介し、著者は「この壮麗で大規模な行列は、『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って』というゼカリヤの預言(「ゼカリヤ書」9章9節)を成就させるためにイエスとその信奉者によって細心の注意を払って演出されたものだった。これは、聖都の住民に、待望のメシア――本物の『ユダヤ人の王』――がイスラエルをその軛から解放するためにやってきたことを告げる紛れもないメッセージだった」と述べています。

 そのエルサレムへの入城はさぞや挑発的だったでしょうが、翌日イエスが行ったことと比べれば影が薄いとして、著者は「彼の弟子たちと、おそらくイエスを褒め讃えながらつき従う群衆もいっしょに、イエスは『異邦人の庭』と呼ばれる神殿の境内に入り、そこを『浄化』し始めた。かっとなったイエスは両替商のテーブルをひっくり返し、安い食べ物や土産物を売る露天商を追い払った。彼は生贄用に用意されていた羊などの家畜を放し、鳩の籠を開けて鳥たちを空に逃がした。『こういうものはみな、取っ払え!』と叫びながら」と述べています。

 さらに、著者は「それから彼は弟子たちに手伝わせて、神殿內にこれ以上、商品を持ち込むのを禁止するために、境内への入り口を封鎖した。やがて、露天商、参拝人、司祭や物見高い見物人たちが大挙して、持ち主に追われて驚いて逃げ惑うパニック状態の動物のように、瓦礫や排泄物をかき分け、いくつもある神殿の門から走り出て、すでに身動きもままならないエルサレムの街路へと急ぐ間に、ローマ軍の警備隊と重装備の神殿守備隊が境内に急行して、この騒乱を起こした者を片っ端から逮捕しようと監視の目を光らせた。イエスはそこに超然と立ち、福音書によれば、落ち着いた様子で、辺りの喧騒をものともせず、『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』と叫んだ」と述べます。

 イエスはいつも同じように、そのような質問を一切無視し、代わりに彼独特の謎めいた預言で返事をし、「この神殿を壊して見よ。3日で建て直してみせる」と言いました。著者は、「群衆は仰天してものも言えず、イエスとその弟子たちが、ローマ政府なら死罪とみなし、十字架刑に処することができる民衆煽動罪を犯したあげく、静かに神殿を出て、町を去ったことにまったく気がつかなかった。神殿での商いを非難することは、祭司貴族階級を非難することに通じ、祭司貴族階級への非難は、神殿とローマとの抜き差しならない関係を考慮すれば、ローマ政府そのものを非難するに等しかった」と述べます。

 また、「『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』の本当の意味」として、著者は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさいということになる。これは革命家の最も素朴で、最も簡潔な形の論理である。そしてそれは、エルサレム当局〔総督ピラト〕にとっては、イエスに直ちに『レーステース』すなわち『反徒』、「『革命家』というレッテルを貼るのに十分な理由であったように思われる。数日後、イエスとその弟子たちは、ひっそりと過越の食事をともにしたあと、闇夜の中を「ゲッセマネの園」に向かい、節くれだったオリーブの木々と灌木の生垣のなかに身を隠した。イエスが当局に捕まったオリーブ山の西斜面からそれほど離れていないこの場所で、後年、ローマの将軍ティトゥスがエルサレムの攻囲を開始することになる。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか』とイエスは尋ねる。彼らはまさにそのような出で立ちでやってきた」と述べています。

 そして、イエスはローマとの戦争を起こした「熱心党」のメンバーではなかったことを指摘し、著者は「イエスの死からさらに30年後になるまで、そのような党は存在しなかったからだ。武力の使用に関する彼の考え方は、しばしば想定されているものよりもずっと複雑なものだったが、イエスは武装蜂起につながるような武闘派の革命家ではなかった。だが、イエスの逮捕と処刑の引き金になったことは間違いないエピソードであるエルサレム神殿でのイエスの言葉と行動を注意深く見ていただきたい。この出来事ひとつで、イエスがローマ当局によって磔刑に処せられたのは、彼のメシア的抱負がローマのパレスチナ占領を脅かし、彼の革命的熱情が神殿当局に危機感を抱かせたためであることを否定しにくくする。福音書に書かれているヨルダン川の岸辺での公的宣教活動の開始からゴルゴタの丘の十字架上の死にいたるまでの「ナザレのイエス」と知られているメシアについての詳細すべては、この奇異な事実によって潤色されざるを得なくなったはずだ」と述べるのでした。

 第7章「荒野で呼びかける声」では、「洗礼という儀式」として、「洗礼という転換の契機としての水の儀式は、古代の近東全域にほぼ共通して見られる慣習だった。シリアやパレスチナを移動してまわる複数の『洗礼を行う人々』の社会集団があって、集まってくる人々にその集団への入会のしるしとして身体を水に浸す儀式を行っていた。異邦人がユダヤ教に改宗する時にも、これまでの自分の存在基盤を捨て、選ばれた部族の一員となるための儀式的な沐浴がしばしば行われた」と書かれています。

 ユダヤ人は、水の持つ微妙な力を崇敬し、水が、不浄なものを清浄に、俗世的なものを神聖なものにというよう に、人間もしくは物体をある状態から別の状態に変える力をもっていると信じていたとして、著者は「聖書には、テントや剣などの物質に水しぶきをくぐらせてから王に献げるとか、重い皮膚病患者や月経中の女性を浄化する行為として全身を水に浸すなど、『浄め』の慣習は山ほど出てくる。エルサレムの神殿の祭司たちも、生贄を献げる祭壇に近づく前に、両手に水をそそぐ。大祭司は贖罪日に至聖所に入る前に、一度、浸礼の儀を行い、国民の罪を自ら引き受けてから、直ちにもう一度お浄めを行う」と述べます。

 エッセネ派は肉体を卑しい、汚れたものと考えていたので、儀式の清らかさを保つために、全身を水に浸す厳格な沐浴を何度も何度も行う制度がありました。しかも、エッセネ派には、自分たちの集団に新入会員を迎え入れる時には、洗礼のような、入会のための一度だけの浸礼の儀式を行う習慣もあったことを紹介し、著者は「これがヨハネの奇抜な洗礼の儀の起源であったのかもしれない。ヨハネ自身がエッセネ派であった可能性もある。両者の間には興味をそそる関連性がいくつかある」と述べています。

 しかし、ヨハネとエッセネ派の間には、さまざまな違いもあるので、両者を緊密に結びつけるには用心しなければならないとして、著者は「ヨハネは共同体の一員としてではなく、荒野で叫ぶ一匹狼の声として紹介されている。彼のメッセージは、排他的ではなく、すべてのユダヤ人に対して、よこしまな生き方を捨て、道義的に正しい人生を送れと伝えている。一番大事なのは、ヨハネが儀式としての浄めにはこだわっていないように見えることである。彼の授ける洗礼は、何度も繰り返し行われるものではなく、一度だけの禊として特別に意図されていたように思われる。それは、エッセネ派を含む当時のユダヤ教の他の宗派が行っていた水を使う儀式に影響を受けたものであったかもしれないが、ヨハネがヨルダン川の水で授けた洗礼は、彼独自の霊感に基づいた着想だったと考えられる」と述べます。

 「ヨハネの弟子として荒野に赴いたイエス」として、「洗礼者ヨハネ」がどんな人物であろうと、彼がどこの出身であろうと、彼の洗礼の儀式の意図がなんであろうと、イエスは彼の単なる1人の弟子として自分の宣教活動を始めた可能性が高いことを指摘し、著者は「ヨハネと出会う前のイエスは、本拠地のガリラヤの無名の貧農兼日雇労働者だった。ヨハネから洗礼を受けたことによって、彼は悔い改めて新たなイスラエルの民の一員になったばかりでなく、ヨハネの側近グループに仲間入りした」と述べます。

 第9章「神の指で」では、「誰もが認めていたイエスの奇跡」として、「マルコによる福音書」はほぼ3分の1がイエスの癒しと悪魔祓いの物語だけで構成されていることを指摘し、著者は「初期の教会はイエスの奇跡の生々しい記憶を保持していたばかりでなく、まさにそれを基盤にして築かれた。イエスの使徒たちは、彼の奇跡を行う技を真似て、イエスの名において人々を癒したり、悪魔祓いをしたりする能力があることで注目されていた。イエスをメシアと受けとめていなかった人々さえ、イエスを『驚くべき行為を行う人』と見ていた」と述べています。

 イエスの敵たちはその動機や源を疑うことはあっても、彼の奇跡を否定する様子は福音書のどこにも見当たらないとして、著者は「2世紀から3世紀になってから、キリスト教を公然と非難する学術論文を書いたユダヤ人有識者や異教徒哲学者たちは、イエスの祈禱師や奇跡を行う人としての地位を軽く見ていた。彼らはイエスを旅回りの魔術師のようなものと非難していたかもしれないが、その魔術師的な能力については疑いをもっていなかった」と述べます。

 「『奇跡』は珍しい現象ではなかった」として、イエスはパレスチナで唯一の祈禱師でもなかったこと、巡回するユダヤ人祈禱師はよく見かけられ、悪魔祓いそのものが、結構儲かる事業の1つだったことなどが述べられています。諸福音書には悪霊を追い出す祈禱師のことが多く記されているとして、著者は「イエスの時代に悪魔祓いがこれほど一般的だった理由は、ユダヤ人が病気を神の審判もしくは悪魔の仕業の顕われと見ていたためである。悪魔にとりつかれたのではなく身体の病気もしくは精神病、てんかんや統合失調症のような精神疾患といくら定義しようとも、パレスチナの人々がこうした問題を何かにとりつかれたしるしと解釈し、彼らがイエスを、そうしたとりつかれた人々を癒す力を持った大勢の職業的な祈講師の一人と見ていたという事実は変わらない」と述べます。

 また、著者はこうも述べています。
「イエスの祈禱師や奇跡行者としての身分は、現代の懐疑論者にとっては異様に思えるかもしれないが、1世紀の標準的なパレスチナの祈禱師や奇跡行者と大きな違いはないのである。古代の近東の人々は、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ教徒、キリスト教徒のいずれであろうと、魔術や奇跡を自分たちの世界のありふれた一面とみなしていたのだ」

 さらには、「奇跡行者か? 魔術師か?」として、紀元前1世紀半ばから4世紀初めまでのギリシアの影響を受けたローマ世界では、魔術師はどこにでもいましたが、魔術は一種のいかさまと考えられていたとして、著者は「ローマ帝国には、『呪術を使う』ことを禁じる法律も少なからずあり、魔術師は、時として『黒魔術』と呼ばれるようなものを使ったことが判明すれば、追放、もしくは処刑されることもあった。ユダヤ教でも、モーセの律法で魔術は禁じられていて、死刑になる場合もあったにもかかわらず、魔術師は結構もてはやされていた」と述べます。ヘブライ語聖書の『申命記』には、「あなたがたの間に、占い師、ト者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」とあります。

 イエスの行った奇跡の一部には魔術的な要素が見られるにもかかわらず、諸福音書にはイエスが魔術を行ったと実際に非難する人は一人も登場しないことを指摘し、著者は「イエスの敵、すなわち彼に即刻死刑を執行しようとしていたような人々には格好の非難の種だったかもしれない。だが、イエスがローマ人やユダヤ人権威者の前に立ち、自分の罪状認否を問われた時、彼は民衆の扇動、冒瀆、モーセの律法の拒否、10分の1税の支払い拒否、神殿への脅しなど数々の悪行を非難されたが、魔術師であったという非難はその中に含まれていなかった。イエスは自分のサービスに対して決して料金を取らなかったことも注目に値する。魔術師、治療師、奇跡行者、悪魔祓いの祈禱師などは、1世紀のパレスチナでは特殊技術をもったかなり収入の良い職業であった」と述べています。

 第10章「御国を来たらせたまえ」では、「平和主義者でなかったイエス」として、著者は「ひとことで言えば、『神の国』とは革命への呼びかけである。いかなる革命であろうと、とりわけ神が選ばれた民のためにとっておいた土地を強奪した帝国の軍隊と戦うのでれば、暴力と流血は避けられないであろう。もし『神の国』が途方もない空想ではないとすれば、多大な帝国駐留軍に占領されている土地に、どうやって武力を使わずにそれを樹立できるだろうか? 預言者も、反徒も、一途な革命者たちも、イエスの時代のメシアたちもみな、そのことを知っていた。彼らがこの世に神の支配を樹立するために、暴力の利用をためらわなかった理由はそこにある」と述べています。

 問題は、イエスも同じように感じていたかどうかだとして、著者は「イエスは、反徒のリーダー、ヒゼキヤ、ガリラヤのユダ、メナヘム、ギオラの息子シモン、コホバの息子シモンらの彼と同じようなメシアたちと同様に、この世に神の支配をもたらすためには暴力は必要だという考えに同意していたのか? 彼は神が聖書の中で要求していたように、すべての異邦人分子を強制的にこの土地から一掃しなければならないという一途な革命家の主義主張に従ったのだろうか? キリスト教徒の信じるキリストと、歴史上の人物としてのイエスを切り離して考えようとする者にとって、これほど重要な問題提起はない。『敵を愛しなさい』、『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい』と説く、根っからの調停者としてのイエスというよくある説明は、自分が生きている政治的動乱の時代への関心も、知識もまったくないノンポリの伝道者という人物像から樹立されたものが多い。そのようなイエス像は、完全にでっち上げであることはすでに示したとおりである」と述べるのでした。

 「最も入念に作られたイエスの死をめぐる物語」として、福音書の中で、他の部分のすべてを含めて、イエスの逮捕、裁判、処刑の物語が書かれた理由は、彼が約束されたメシアだったことを証明するためにほかならないことを指摘し、著者は「事実としての正確さの追究は筋違いで、重要なのは、キリストの本質、人格、行為の神学的解釈であって、歴史ではなかった。福音書記者たちは、明らかにイエスの死が初期のキリスト教徒共同体に不可欠な要素であることを認識していた。すると、イエスの死の物語は念入りに作り上げなければならない。イエスの死までをゆっくりと進行させて、再度、注意を集中させる必要があった」と述べます。

 すると、福音書記者の役割として、いくつかの細かい描写や潤色が必要になってくるとして、著者は「その結果、『ナザレのイエス』の物語の中で最終的な、最も重要なエピソードもまた、神学的な価値を高める為の誇張や、まったくの作り話であいまいなものとなる。現代の読者が、イエスの受難物語の中にできるだけ歴史的事実に近いものを自由に読み取るための唯一の手段は、イエスの最後の日々に宣教者たちのかけた神学的覆いを静かに取り外し、福音書から掘り起こせる、できるだけ元のままの物語に立ち戻ることである。それには、イエスが十字架に架けられたという物語の最後の部分から出発するしかない」と述べます。

 また、「十字架刑とは何か」として、「ローマでは、国事犯処罰の一形態として十字架刑が慣例になり、その執行法が統一され、とくに手足を十文字にはりつけるのが普通になった。ローマ帝国では十字架刑があまりにもありふれたものになったので、キケロはそれを『疫病』と呼んだ。市民の間では、『十字架(crux)』という言葉が、『くたばれ!』という意味に近い、庶民的な、とりわけ卑猥な嘲笑を表わす俗語になった。だが、十字架刑は死刑の一種と考えるのは正しくない。なぜなら、多くの場合、犠牲者は最初に処刑されて、それから十字架に磔にされていたからである。十字架刑の目的は、犯罪者を殺すことよりも、国家に反抗しそうな人々への見せしめだった。それゆえ、十字架刑はいつも、町角、劇場、丘の上、高台など、一般の人々がそのおぞましい光景の目撃証人にならざるを得ない公共の場所で行われた」と書かれています。

 犯罪者は死んだあとも長い間放置されるのが常で、十字架刑を受けたものが埋葬されることはほとんどなかったことを指摘し、著者は「十字架刑の純粋な目的は、犠牲者に屈辱を与え、目撃者をぎょっとさせることだったから、死体は磔の場にそのままにされ、鳥や犬などの餌食にされるのが常だった。すると、骨だけがその場に残る。イエスが磔刑に処せられた場所が『骸骨(ゴルゴタ)の丘』と呼ばれるのもそのためである。簡単に言えば、十字架刑はローマでは極刑以上のもので、帝国に刃向かう者はどうなるかを一般大衆に思い知らせる措置であった。十字架刑が、反逆罪、暴動、反乱の煽動、革命蜂起など、最高に重い政治的犯罪にのみ適用されていたのはそのためである」と述べるのでした。

 第Ⅲ部「キリスト教の誕生」のプロローグ「人の姿で現れた神」では、「イエスの復活と最初の殉教者」として、「ナザレのイエス」という問題の貧農の遺体は十字架から降ろされ、ユダヤでは最も裕福な人々のために岩を切り刻んで造った贅沢な墓地に納められていたことを紹介し、著者は「さらに驚いたのは、この富裕者用の墓所にメシアが葬られてから3日後に生き返ったと彼の信奉者が主張していたことである。神がその男を死神の手から解放し、もう一度蘇らせたのだという。カファルナウムから来た漁師シモン・ペトロというその信徒集団のスポークスマンは、自分の目で確かにメシアが復活するのを見たと断言し、他の多くの人々もそう証言した」と述べています。

 はっきりしているのは、これは、ファリサイ派は終末の時に期待していますが、サドカイ派は否定しているような、死者からの復活ではなかったことだったとして、著者は「預言者イザヤが夢見ていたような、墓石が割れて開き、大地が埋葬された死者たちをしぶしぶ露わにする復活でもなかった。預言者エゼキエルが予告したような、神が民の枯れた骨に霊を吹き込んで生き返らせる「イスラエルの全家」(「エゼキエル書」37章16節)とも無関係だった。それは確かに数日前に死んで埋葬されていた孤独な一人の人間で、決して幽霊などではなく、墓から突然、自力で立ち上がって歩いていった生身の人間だったという」と述べます。

 「生前のイエスを知る者と知らない者」として、著者は「イエスのメッセージを伝える任務を負った使徒たちは、エルサレムを去り、救世主イエスの福音を携えて国境を越え、四方八方に散った。しかし、彼らは新しい信仰について神学的に解説したり、イエスの生涯と死について有益な物語を構成したりする能力はたいへん限られていた。彼らは農夫や漁師で、読んだり書いたりはできなかったのである。イエスのメッセージの本質を明らかにする任務は、代わって、教育のある、都会化された、ギリシア語を話す離散ユダヤ人という新しい層に委ねられ、そうした人々が、この新しい信仰拡大の主要な媒体の役割を果たすようになる」と述べています。

 続けて、著者は「ギリシア哲学やヘレニズム思想にどっぷり浸っている人が多いこれらの非凡な男女が、イエスのメッセージを自分たちの仲間のギリシア語を話すユダヤ人や、離散先で知り合った異教徒の隣人たちの好みに合うように解釈するようになるにつれて、イエスは、大変革をもたらす熱烈な革命家から、ローマ風の神格化された英雄へと次第に作り変えられ、ローマ人の抑圧からユダヤ人を解放しようとして失敗した一人の人間から、浮世の問題にはまったく関心のない、天界の存在にされていったのである」とも述べます。

 エピローグ「まことの神からのまことの神」では、「新約聖書の大部分はパウロが書いた」として、著者は「『ニカイア信条』には、初期教会内の正当な異論の声を抹殺するという明らかに政治的な意図があったのではないか、と勘繰りたくなるかもしれない。この会議のあと1000年かあるいはそれ以上にわたって、キリスト教正統信仰の名のもとに、名状しがたい流血の惨事を生んできたのは確かである。だが、真相は、ニカイアに集まった司教たちばかりでなく、キリスト教徒共同体全体ですでに大多数の人々がもっていた信条を、会議のメンバーが体系化したにすぎなかった。実際、パウロの書簡の圧倒的な人気のおかげで、ニカイア会議の数百年も前から、教会内でイエスを『神』と信じる信仰が公式に認められていたのである」と述べています。

 紀元70年に存在したイエスに関する文書は、パウロの書簡だけでした。これらの書簡は50年代に各地へ送られていました。それらは、エルサレム崩壊後、キリスト教徒共同体で唯一残存していた離散ユダヤ人の共同体に宛てて書かれたものだったことを指摘し、著者は「イエスの信奉者を導く本山がなくなり、ユダヤ教と関連した運動が分断されてしまうと、キリスト教徒の次世代に救世主イエスを紹介する中心的役割はパウロが担うことになった。福音書さえもパウロの書簡の影響を深く受けている。マルコとマタイの福音書にはパウロの神学の影響が見られるが、パウロに傾倒していた弟子のルカによる福音書は、パウロの見解そのものと言えるし、『ヨハネによる福音書』は、パウロの神学を物語形式で述べたにすぎない」と述べます。

 そして、「救世主イエスと人間イエス」として、著者は「2000年後の今、パウロの創り上げた救世主は、歴史上の人物としてのイエスをすっかり包含してしまった。地上における『神の国』の樹立を目指して、弟子たち軍団を集めながらガリラヤ全土を歩き回り、社会の大変革を意図していた熱烈な革命家、エルサレムの神殿の祭司階級の権威に楯突く魅力ある伝道者、ローマの占領に反抗して敗北する急進的なユダヤ人ナショナリストとしての面影は、ほとんど完全に歴史の中に埋没してしまった。それは残念なことだ。なぜなら、歴史上の人物としてのイエスの包括的な研究で、できれば明らかにしたいのは、『ナザレのイエス』――『人間』としてのイエスで、それは『救世主』イエスに負けず劣らずカリスマ的で、人を動かさずにはいられない魅力に溢れる、賞賛に値する人だからだ。ひとことで言えば、彼は信じるに値する人物だ」と述べるのでした。

 「訳者あとがき」では、白須英子氏が「著者のアスランは、本書の冒頭に、『マタイによる福音書』10章34節にあるイエスの言葉『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ』の言葉を掲げている。本書は、ローマ帝国とそれに結託したユダヤ教の聖職者たちによる武力と重税の支配を打破し、本当のユダヤ人のための「神の国」を作るためには、剣(暴力)をとることも辞さなかった熱血漢(zealot)だったことを明らかにした本だ。信仰の対象としてのイエスではなく、実際のイエスを文献学と歴史的考察のもとに浮き彫りにしようとした本書は、アメリカで発売されるや、大反響を呼んだ」と述べています。

 そして、白須氏は「本に正しい読み方など存在しないが、もし、その可能性に言及するならば、本書は、小説家や童話作家といった『物語』を世に送りだす人々にも多くの示唆を与え、また、想像力を喚起し、ある人には―――こうした言葉遣いを著者は好まないだろうが――霊感の源泉にもなるだろう。ある詩人は『ナザレのイエス』をめぐる連詩を作るかもしれない。それほどにアスランが描き出すイエスの像は鮮烈で、生命の躍動を感じさせる」と述べるのでした。わたしは、『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)を書いたときにイエス・キリストについてはかなり調べましたが、本書を読んで新たな事実を多く知りました。いつか『聖人論』という著書を書き下ろそうと思っていますので、そのときの参考文献にしたいと思います。

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