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No.2107 グリーフケア 『ケアとは何か』 村上靖彦著(中公新書)
2022.02.20
『ケアとは何か』村上靖彦著(中公新書)を読みました。「看護・福祉で大事なこと」というサブタイトルがついています。著者は1970年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程満期退学。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。専門は現象学的な質的研究。著書に『自閉症の現象学』(勁草書房)『治癒の現象学』(講談社選書メチエ)、『傷と再生の現象学』(青土社)、『摘便とお花見』(医学書院)、『仙人と妄想デートする』(人文書院)、『母親の孤独から回復する』(講談社選書メチエ)、『在宅無限大』(医学書院)、『子どもたちがつくる町』(世界思想社)など多数。
本書の帯
本書の帯には「弱さを肯定し、支える営み」と大書され、「医療や介護、育児、地域活動まで――より良い『支援』のために」と書かれています。帯の裏には「実践の現場から学ぶ、看護・福祉の本質」として、「やがて訪れる死や衰弱は、誰にも避けられない。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、私たちは『独りでは生きていけない』と痛感する。ケアとは、そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みである。本書は、ケアを受ける人や医療従事者、ソーシャルワーカーへの聞き取りを通じて、より良いケアのあり方を模索。介護や地域活動に通底する『当事者主体の支援』を探り、コロナ後の課題についても論じる」と書かれています。
本書の帯の裏
アマゾンの「内容紹介」には、「病やケガ、衰弱や死は避けて通れない。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、私たちは『独りでは生きていけない』ことを痛感する。そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みがケアである。本書では、看護の現象学の第一人者が、当事者やケアワーカーへの聞き取りをもとに、医療行為を超えたところで求められるケアの本質について論じる。育児や地域福祉、貧困対策のあり方にも通底する『当事者主体の支援』とは。〈実践〉のための哲学書」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
第一章 コミュニケーションを取る
――「困難な意思疎通」とケア
1 サインをキャッチする
2 声をかける
3 相手の位置に立つ
4 コミュニケーションを阻む要因
第二章 〈小さな願い〉と落ち着ける場所
――「その人らしさ」をつくるケア
1 人生会議、ACP、インフォームド・コンセント
2 「食べたい」という願い
3 文化的な願い
4 生活への想像力
5 チームワークで願いを叶える
6 本来の居場所へ
第三章 存在を肯定する
――「居る」を支えるケア
1 存在の実感を支える
2 〈からだ〉を見つけなおす
3 社会のなかの居場所づくり
第四章 死や逆境に向き合う
――「言葉にならないこと」を言葉にする
1 「不条理な現実」と苦痛
2 孤立した人とつながる
3 SOSのケイパビリティ
4 言葉にできるようになること
5 行為の証人となる
6 「答えのなさ」に耐える
第五章 ケアのゆくえ
――当事者とケアラーのあいだで
1 切断されるケア
2 ピアの文化
3 「当事者」とは誰のことか
4 ケアラーの立ち位置とその支援
「あとがき」
「主要参考文献」
「まえがき」で、著者は「病・ケガや死は避けたいものであるが、避けられない。それを前提とした上で、生を肯定し、支える営みがケアである。治療が不可能になったときにもケアは続く。ケアの必要性は、患者や障害者とその家族、あるいは困窮した状況に追い込まれた人に立ち会うときに生じる」と述べています。著者自身自身は患者・当事者でも医療者でもない研究者であると断った上で、「誰の助けにもならず、何も知らない傍観者として、医師、看護師、心理士、保育士、社会福祉士といったさまざまな人たちと出会った。それぞれの支援の具体的な内容はひとくくりにできるようなものではなく、多様である。しかしながら、苦痛や逆境に置かれた人たちを支えているという点は、すべての分野のケアラー(援助職であるなしにかかわらず、『ケアする人』を表す広義の呼称)に共通している」と述べます。
内側から感じる〈からだ〉の感覚や動き、好不調、気分といったものは、日常的に「心」と呼ばれているものと混じり合います。つまり、わたしたちの内側からの感覚という視点に立ったとき、身体は客観的に扱うことのできる「臓器」ではなくなり、心と〈からだ〉の区別はあいまいになっていくのだと指摘し、著者は「ケアは、このようにあいまいな〈からだ〉と積極的に関わるものである。身体を治療する医療と、〈からだ〉にアプローチするケア。この両者は、微妙に重なり合いつつも、区別される。たとえば終末期に身体的な治療が難しくなった場面でも、〈からだ〉を通したケアは続く。あえて本書では、医療行為を超えたところにあるケアの場面を浮き彫りにするような記述を試みたい」と述べています。
また、著者は「ケアは人間の本質そのものでもある」と述べます。そもそも、人間は自力では生存することができない未熟な状態で生まれてきます。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質であると指摘し、「誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、『独りでは生存することができない仲間を助ける生物』として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか」と述べるのでした。
第一章「コミュニケーションを取る――『困難な意思疎通』とケア」の1「サインをキャッチする」の「ケアの目的」では、著者は「ケアとは生きることを肯定する営みだ。たとえ大きな苦痛や逆境の果てに、定めとしての死に至るプロセスであったとしても、生を肯定する。『では、どうやって?』それを考えていくことが、本書全体を貫く主題である。まずはケアのゴールから考えたい。それはおそらく、患者や苦境の当事者が自分の力を発揮しながら生き抜き、自らを表現し、自らの願いに沿って行為することであろう。これは一見奇妙な回答に見えるかもしれない」と述べています。
なぜなら、ケアというのは、苦しんでいる人の苦痛を緩和したり、生活に困難を抱えた人の身の回りの世話をすることだというのが一般的な捉え方だからだといいます。しかし「ゴール」という意味でいえば、当事者が自身の〈からだ〉の感覚を再発見し、自らの願いを保てる、そのような力の発揮を目指すことこそがケアのゴールだということを、著者は援助職の人々から教わってきたとして、「もちろん、ケアの当事者は自分が持つ力を独りで発揮することはできない。誰かとつながったときに、孤立した状況下で委縮していた本来の力を発揮することができるようになる」と述べます。
「サインをキャッチする力」では、サインをキャッチする力は、おそらくもっとも根源的な哺乳類の機能であるとして、著者は「こちらに向かって訴えかけてくる何かをキャッチする力、すなわち誰かからの声かけに気づく、あるいは眼差しに気づくという力は、人間にとって本来的なものだ。新生児が生後すぐに自分の母親の声を聞き分け、アンテナを強く向けるという研究もある。呼びかけを受け止める力というのは人間にほぼ生得的に備わっている力であり、ケアとはある意味、この力を最大限追求する営みだということもできるだろう」と述べます。
2「声をかける」の「声かけと〈出会いの場〉」では、意識が戻ることがないであろう人も、声をかけることで決して独りにしない――。このようなコミュニケーションに向けての強い意志は、患者から医療者への信頼を支えると指摘し、著者は「相手からのサインが発せられないとしても、声をかけることによってケアラーの側から〈出会いの場〉を開くのだ。前節までの場面では、当事者の繊細なサインを感じ取るための感受性が問われていたが、ここからは積極的に〈出会いの場〉を開くための能動性について考える。その重要な論点が『声かけ』である」と述べています。
ここで、看護師の宇都宮明美さんという方が、声かけの持つ働きを印象的に語っています。宇都宮さんが新人だった頃、叔母さんの葬儀の思い出です。叔母さんは、下の子が小学生、上のお姉ちゃんが中学生ぐらいのときに、胃がんで亡くなったそうです。そのお通夜からずっと2人の遺児たちと一緒にいたとき、宇都宮さんは「ああすごくかわいそう」という気持ちはあるけれども、どう声をかけていいか分からなかったそうです。そうすると、彼女のお母さんが「ひゅって」その2人に寄っていって、「悲しい?」と訊いたそうです。それを聞いた宇都宮さんは「悲しいに決まっているじゃない!」と思い、「なんてことを訊くんだろう」「うちの母、本当にぶしつけだな」とも思ったそうです。
しかし、それまで全然(悲しそうなそぶりを見せずに)、普通にきょとんとしていた感じだった2人が、すごくそのときに泣いたそうです。宇都宮さんは、「なんていうのかな、お母さんとの思い出をわあっと語ったんですよね。それで私はすごくびっくりして、「本当はなんかいろいろ言いたかったんだな」というのが分かったんです。『その最初の一言が誰にもかけられなくって、言えなかったのかな』と思ったときに、『ああやってストレートに訊くって実は大事なんだな』っていうことを、私気づかされて。まったく素人の母親に気づかされて。それで、『ああ、これからはストレートに訊こう』って思ったんですよね。なので、なるべくストレートに訊くようにしているし、『自分が感じた感覚を返そう』と思ったんですね」と語っています。
この宇都宮さんの体験について、著者は「母親を失い、途方に暮れているきょうだいは葬儀の集まりのなかで孤立している。泣くこともできずに押し黙っている。そこに叔母が『ひゅって』その2人に寄っていって、『「悲しい?」って』声をかけたことで、初めてきょうだいは『わあっと』自分の感情を表現する。声かけによって『きょとんと』『ひゅっ』『わあっ』という身体のリズムが生まれる。身体のリズムが活性化し、子どもの〈からだ〉は生き生きとした様子を回復する。そうして、子どもたちは世界のなかに存在を獲得する。さらに声かけを通じて対話の回路を開くことで、子どもたちは母親を失った悲しさを言葉で他の人に伝えられるようになる。〈からだ〉と言葉が関係としてつながることで、子どもたちが直面している母親の死という受け入れがたい現実に対して、言葉が与えられる。『本当はなんかいろいろ言いたかったんだな』ということがこのとき判明する。この声かけがなかったとしたら、子どもたちには母親の死を悼む機会も、周りの人に悲しさを伝える機会もなかったかもしれない」と述べています。
3「相手の位置に立つ」の「1.5人称の看護」では、宇都宮さんが、患者の立場に立つ努力を「1.5人称の看護」と表現していることが紹介されます。2人称ではまだ〈私〉と〈あなた〉の距離がある。相手の立場に十分立っているとはいえない。そのため、〈私〉と〈あなた〉の中間の1.5人称にまで踏み込む努力をするというのです。この「1.5人称の看護」について、著者は「興味深いのは、相手の立場に立つということが、共感や想像力ではなく、声かけという具体的な身振りとして立ち現れるということだ。相手を想像することは難しく、常に思い込みをはらむ。でも、相手を理解することが難しいならば、相手自身に尋ねればいい。つまり、一歩踏み込んで相手の位置に立つということが、相手の声を聴くことに直結する。声かけはその出発点となる」と述べています。
「相手の声に耳を傾ける」では、相手の立場に立って話を聴く行為は、語り手と聴き手双方にとってのケアとなりうると指摘し、著者は「聴き手にとっては、経験を共有することで、今まで蓋をしてきた自分自身の経験に言葉が与えられ、自分が1人ではないことを確認することにつながる。そのことは、話を聴いてもらっている語り手にとっても大事な意味を持つ。『共に居る』ことで〈出会いの場〉をつくり、聴くことで『相手の位置に立つ』。聴くことを出発点として、『ああ、自分も話していいんやなあ』と気づき、語る力が生まれる。つまり、聴くことはケアすることでもあり、ケアされることでもあるのだ」と述べます。
4「コミュニケーションを阻む要因」の「器械への依存」では、臨終のときは声をかけることができなくても、亡くなった患者に丁寧なエンゼルケアを施し、敬意を込めて「お疲れ様でした」と声をかけるという医療者もいたことが紹介されます。しかし、いずれの場合でも、声かけがそれ自体倫理的な重要性を持っていることが分かるとして、著者は以下のように述べています。
「もしもそれが欠落していたとしたら、ケアそのものの意味が失われることもある。同時に、声かけの欠如は医療技術の進歩が強いた制限でもある。医療が不十分な時代であれば、介護をする人たちは患者を見守り、声をかけながら最期の瞬間を迎えたであろう。器械の導入は不可避的に患者をモノ化し、患者から目をそらさせる圧力となる。モニターを通じて身体は数値化され、点滴や透析の管で循環するシステムの一部になる。器械化が進んでいるがゆえに、このようなモノ化に抗って、あえてコミュニケーションを取る努力、患者の生命を直接感じ取ろうとする努力が必要となる。医療技術のなかにコミュニケーションを目指す意志が加わったところで医療的なケアが生まれる」
「ヒエラルキーを脇に置く」では、日本では、医療の世界に強いピラミッド構造があり、それがコミュニケーションの妨げになる場合があるようだとして、著者は「ケアラーと当事者のあいだにヒエラルキーができてしまうと、真の対話が成立しにくい。とりわけ『医師は偉い』と日本社会では思われがちであるため、ヒエラルキーを意識的に取り崩す努力が必要である。オープンダイアローグの実践者たちが『先生』という呼称を使わないのは、無用な上下関係をつくらないための努力といえる」と述べるのでした。プラシーボといった精神的な効果から言えば、「医師は偉い」と思った方が効果があるのかもしれませんが、医師側には「患者よりも偉い」といった意識を持たずに、「患者さんとは平等な関係である」と考えることが必要ですね。
第二章「〈小さな願い〉と落ち着ける場所――『その人らしさ』をつくるケア」の2「『食べたい』という願い」では、食べることは「〈からだ〉とは何か」という問いに直結するとして、著者は「一連の食べる動作や、美味しいという感覚、それらすべてが本人にとっての〈からだ〉となる。それゆえ、『大好きなお寿司を食べて満足する』というようなことが、病気による衰弱と医療による制限のなかで失われかけた自分の〈からだ〉を回復する出来事となる」と述べます。また、「お食い締め」では、「お食い初め」ならぬ「お食い締め」という実践があることを紹介し、「人生の最期にさしかかって、自由にものを食べることがついに難しくなってきたとき、家族に見守られながら、本人がとりわけ食べたいものを食べるという行為だ」と述べるのでした。
6「本来の居場所へ」の「落ち着く場所」では、自分の願いを実現化することと、願いを表現できる場を持つことはセットになっていることを指摘し、著者は「願いは安心が得られるところで発現する。そこで、安心を確保できる場所が必要だ。落ち着ける場所をつくることは、ケアの第一歩となる。居場所はその人の自由と深く関わる部分だからである」と述べています。また、ここでいう自由とは、ひとつは痛みや逆境からの避難の意であり、もうひとつは病と医療が課す制限からの自由、さらに生活環境を自分で選べる自由の意味もあると指摘し、著者は「こうした自由は、多くの人が自明に持っているものであり、特に目新しいものではない。当事者が勝ち取ろうとしているのも、多くの場合、こうした当たり前の自由が手に入る環境である。いまだかつて経験したことがないような新しい生活様式などではなく、これまでの経験からイメージできる暮らし、身体的な安全や対人関係などもふくめて、自分が安心して落ち着くことができる馴染み深い居場所である」と述べます。
第三章「存在を肯定する――『居る』を支えるケア」の「ユマニチュードとホールディング」では、認知症のケアに由来するユマニチュードの考え方に言及し、「”人間として扱われているという感覚”を失ってしまうおそれがあ」るがゆえ、ユマニチュードは、眼差し、声かけ、そして優しく触れることをケアの出発点に置くとして、著者は「ここでは、高齢者ケアと乳児期のケアが結びつけられている。コミュニケーションを取りにくいとされる認知症の人に眼差しを向けたり、言葉をかけたりすることが、尊厳の核にある存在の感覚を守ることになる」と述べます。
イギリスの小児科医で精神分析家のドナルド・ウィニコットは、「存在する」という感覚が乳児期の母子関係(あるいは養育者との関係)によって生まれると論じました。そのウィニコットは「居る」を支えるケアのことをホールディングと呼びました。ホールディングとは「抱っこ」を意味する言葉であり、文字どおり心理的なケアのことだけを意味するのではありません。著者は、「あかちゃんをきれいにし、授乳し、あたたかく快適な環境を維持し、騒音や不快な刺激から守る――これら一連の身体的ケアや環境整備もホールディングにふくまれる。看護や介護、福祉の別を問わず、対人関係のなかで営まれるあらゆるケアは、潜在的にホールディングの一種である。たとえ自立を促す場合でも、その前提に支えとしてのホールディングがある」と説明しています。
また、著者は「ホールディング」について、以下のようにも述べています。
「抱っこをする。授乳する、おむつを取り替える、あやす、などといった育児におけるケアの働きかけが、子どもに『自分というものが存在している』という実感を生む。〈私〉がはじめからあるわけではなく、ケアこそがあかちゃんの存在を生み出すのだと、ウィニコットは論じたのだった。生まれたときから死ぬまで、人の存在は他者によって与えられる。認知症ケアから生まれたユマニチュードが、子どもの臨床を通して生まれたウィニコットの理論と同じ結論に至っていることは非常に興味深い」
2「〈からだ〉を見つけなおす」の「〈からだ〉の緊張をゼロにする」では、痛みに占有されてせん妄に陥るという例が挙げられます。これは非日常的なものに思えるかもしれませんが、「忙しさのあまりに自分を見失う」という経験は多くの人にあるだろうとして、著者は「核にある自己の存在を忘却するという点で、両者は地続きのものだ。体の酷使、インプットやアウトプット過多による脳への負担、心理的ストレスによる気忙しさなど、忙しさにもいろいろなタイプがある。いずれの場合も、自分自身の〈からだ〉に落ち着くということができなくなっているという共通点が見られる。気忙しさを解除するケアについては、自律訓練法や瞑想といったような多様な心理療法が提示され、注目されてきた。〈からだ〉の緊張をゼロにすることが自己感の回復につながるという考え方は、心理療法にも見られる。たとえばマインドフルネスと呼ばれる瞑想法に由来するリラクゼーション技法も、まさに自己の安定した身体感覚の回復を目指す技法である」と述べています。
薬物依存症をくぐり抜けた女性たちのピアグループである「ダルク女性ハウス」の代表を務める上岡陽江氏は、大嶋栄子氏との共著『その後の不自由』の中で、「お風呂に入ったら気持ちがいいとか、髪の毛を洗ったらすっきりするとか、みんなで一緒にご飯を食べると楽しくておいしいとか、そういった”快”を体感してほしい。実は、メンバーにとってそういう幸せは、うしろめたかったり居心地が悪かったりして、いたたまれない状態でもあるのです。しかし、それをみんなで『居心地悪いねえ』と言いながらガマンする。そして『自分に優しくすると安全だ』ということに徐々に慣れてもらう」と述べています。
この上岡氏の発言について、著者は「彼女たちは薬物に依存せざるをえないほどの逆境に生きてきた。彼女たちが薬物に依存したのは、苦痛をシャットアウトしなければ逆境を生き抜けなかったからだ。最終的には〈からだ〉に大きな苦痛をともなうとしても、困難な環境のなかで生き延びていくための手段として薬物が選ばれた。そんな逆境が通常の状態だった彼女たちにとっては、本来もっともくつろげるはずの入浴や美味しい食事すらも、『居心地悪い』ものと感じられる。つまり、快の感覚が自分のものではなくなってしまっているのだ。そのため、語り合う人間関係のなかで体の快適さを発見すること、居心地の良さを取り戻すことが最初のゴールとなる」と述べます。
3「社会のなかの居場所づくり」の「依存を支える場」では、居場所は、自己感が育まれる場所でもあるとして、著者は「周囲の人が自分のことを深く知っている場合も知らない場合もあるだろうが、見守りの連続性とあるがままの存在の肯定がそこにはある。私とのインタビューのなかで、ある成人女性は『今になって[こどもの]里のありがたさとか、存在[意義]が分かったし』と語っていた。居場所は社会のなかでの困難を吸収してくれる安全基地として働く」と述べるのでした。
第四章「死や逆境に向き合う――「『言葉にならないこと』を言葉にする」の1 「『不条理な現実』と苦痛」の「死に向き合うということ」では、著者は「意味づけできない現実というものがある。それは大切な人が亡くなる出来事であったり、虐待やいじめなどによって自らの存在が脅かされる体験であったりする」と述べ、2「孤立した人とつながる」の「患者と家族に声をかける」では、「コミュニケーションを取ろうとすること自体が本質的にケアの営為であり、患者の存在を支える力になりうる。出発点となるのが、繰り返し述べているように『声をかけること』だ」と強調しています。
病や死、逆境のなかで人は孤立します。孤立とは、外からの声が届いていないことと対になる現象であり、いわば、ホールディングを失っている状況だと指摘し、著者は「世界から切り離され、周りの人からも切り離されたとき、人は自らの置かれた状況に耐える術を失う。そのとき自分の存在を確保することもできなくなる。しかし、たとえば死という状況そのものを劇的に変化させることはできなくとも、声をかけることによって〈出会いの場〉を開き、孤立に代わる新たな意味を生むことはできる」と述べます。
児童虐待への対応としてもっとも大事なことは、事件が起きたあとの児童相談所による介入ではないといいます。著者は、「虐待が深刻化する前に、あるいは始まる前に、家族の生活や子育てにサポートがなされることだ。これは介護の疲労による家族の虐待や殺害のような場面でも、同じことがいえる。こうした悲劇を防ぐための最初の一歩として、声を出せない人が見えてくるまで町のことをよく知り、たとえドアが開かなくても、反応があるまで声をかけ続けることが大事になるだろう」と述べるのでした。
4「言葉にできるようになること」の「予後告知の意味」では、通常、人は「理解しがたいもの/言葉にならないもの」を言葉に変換しようとするとして、著者は「こうした営みこそ〈知〉と呼ぶこともできる。私たちの人生の重要な瞬間は、理解が難しいことをなんとかして理解しようとする営みから成り立っている。他方で、不条理を理解することは不可能である。不条理は得体の知れない状況としてのしかかる。必然的に、不条理な現実の出現には、言葉にならないものを言葉にするという仕方での応答がなされることになる」と述べています。
また、不条理であることを自覚することは、「得体の知れない不条理」に対するぎりぎりの応答手段であるとして、著者は「状況そのものを変化させることはできないとしても、自覚すること、ストーリー(物語)を紡ぎ出すことが、過酷な状況のなかでの行動となる。ストーリーとは、因果関係では説明できない偶然と不条理に対して、意味を与えようとする営みだ。この場合、ケア従事者の役割は、不条理を語るストーリーが手に入るための触媒となること、および受け皿となることであろう。医療情報の提供や予後の説明は、そのための補助となりうる」と述べます。
5「行為の証人となる」の「行為としての言葉」では、ユーモアの重要性に言及し、著者は「ユーモアは言葉による状況への応答の技法のひとつだ。ユーモアも聞き手がいないと成立しない。ユーモアは閉塞感のある現状とは異なる新しい世界を開く。現実には何も変化していなくとも、ユーモアは聴き手とのあいだに別の世界を開くのだ。ここでは死がオルタナティブな意味をまとって、新しい世界として描かれる」と述べています。
第五章「ケアのゆくえ――当事者とケアラーのあいだで」の1「切断されるケア」では、2020年、日本全国で自死が増加したことが報じられたことに言及し、著者は「特に若い女性にその傾向が顕著だった。このことは、社会の切断によって家庭内に生じた軋轢のしわ寄せが、特定の層に集中したことを暗示している。他方で、休校措置で給食がなくなったことによって、貧困層の子どもたちの栄養状態が悪化したという報告もある(私が調査している「にしなり☆こども食堂」は、そうした懸念ゆえ週6日の開催に踏み切った)」と述べています。また、コロナ禍は、ケアの核心をなす「人とのつながり」が広範かつ繊細なものであることを、その不在を通して露わにしたとして、著者は「すなわち、この深刻な感染症によって、ケアとは何か、いかにしてケアは可能なのかという問いを、私たちはあらためて突きつけられたといえよう」と述べます。
2「ピアの文化」の「対話とケア」では、21世紀に入った頃から、さまざまな対話のグループが日本各地で拡がっていき、著者自身もいくつかの場に関わってきたとして、「ケアの文脈でいえば、今世紀は『対話の場』が拡がった時代だといえる。そのなかでも特に勢いよく拡大していたのが、病や障害、逆境の当事者たちによるピアグループである」と述べています。「仲間をつくること」では、「孤立した人が仲間をつくれるようになること、これがピアグループの効果だと言い換えてもよい」と述べます。
「ピアの土台としての『地域』」では、ケアの文脈で考えたときに、地域の中の人の縁、安全安心な居場所、そして苦労を分かち合い、仲間を見つけられるピアグループといった、さまざまな段階のつながりの仕組みを考えることが大事であるとして、著者は「専門職による1対1の関係だけがケアではない。コロナ禍という対面が極端に制限される情勢のなかで、地域の力の結晶としての居場所、そしてサポートのあり方について、あらためて真剣に考えていく必要がある」と述べています。
3「『当事者』とは誰のことか」の「ヤングケアラー」では、家族にケアを要する人がいるために、家事や家族の世話などを行っている、18歳未満の子どもを指す「ヤングケアラー」について述べられています。著者は、「慢性的な病気や障がい、精神的な問題などのために、家族の誰かが長期のサポートや看護、見守りを必要とし、そのケアを支える人手が充分にない時には、未成年の子どもであっても、大人が担うようなケア責任を引き受け、家族の世話をする状況が生じる」と述べます。
子どもには学校に通って勉強しながら友だちをつくり、遊ぶという基本的な権利があります。著者は、「これらの権利が侵されることは避ける必要があり、行政的なサポートが強く求められる(家族介護を前提としている介護保険の仕組みにも改善の余地があるだろう)。そして、もう1つ重要な点は、ヤングケアラーだけでなく、家族介護者のなかに、ケアをする人であると同時にサポートを必要とする当事者であるという、両義的な立場に置かれている人が少なくないということだ。家族介護者や、ひとり親家庭で子育てを行う保護者が典型である。そして、こうした両義的な立場にいる人たちは、往々にして孤立しやすい」と述べるのでした。まったく同感です。
本書を読んで、わたしは多くの学びを得ました。わが社の「ケア」におけるキーマン数人に本書をプレゼントしたところ、上級グリーフケア士である金沢紫雲閣の大谷賢博総支配人が次の素晴らしい感想を寄せてくれました。
「『ケアとは何か』を読みました。医療従事者やソーシャルワーカーのみならず、終末期を迎えている当事者の聞き取りを通じてケアの本質について書かれておりましたが、凄い内容の本でした。どのような状況の人に対しても「生を徹底的に肯定する」という事がとても大切で、人間の弱さを前提とした上で生を肯定し支える営みがケアであることが分かりました。医療や介護従事者が本人を支えているならば、その方が亡くなった後は葬祭従事者がバトンを受け継いで遺族となる家族を支えていかねばと強く思いました。そして不遇な環境に置かれている子供たちに対して『希望がかすかにあっても、成功体験が少ない子供はあきらめてしまう。あきらめとは願いを失うこと。選択肢ができるだけ増えるように環境を整え、あきらめないように願いを口にできる環境を確保する』という考えは、 サンレーの取り組みが子供たちに希望を持てる社会環境作りをしているのだと再認識いたしました。学ぶ事は無限にあって、この本を読んで更にレベルアップ出来たと思います。ありがとうございました」
このブログがUPされた直後、もう1人のわが社の上級グリーフケア士で、グリーフケア推進課の市原泰人課長が「読み応えのあるブログを拝見いたしました。大谷支配人の感想も併せて拝見いたしました。この本の中ではヒエラルキーを無くす部分に関しては葬祭の現場の課題、サービスとケアの違いに通じるものがあると感じ考えています。また相互にケアが行われている関係についても考えさせられます。学んだことをどう伝えていくかはこれからの大きな課題であり、大谷支配人のいう自己の肯定はこれからグリーフケアを行わんとする者にとって力強い後押しになると感じます。佐久間社長がこのような発信をしていただくことも日々力強い後押しになっていると感じています」とのメッセージを送ってくれました。わが社では、2010年よりグリーフケアに取り組み、サービス業からケア業への進化を試みています。「ケア」というのは分かったようで分かりにくい概念ですが、本書は「ケア」の本質を見事に説明した最高の入門書であると思います。わが社の社員のみならず、上級グリーフケア士およびグリーフケア士を目指している全国の同志たちにもぜひ読んでいただきたい名著です。