No.2126 歴史・文明・文化 『世界史とつなげて学ぶ中国全史』 岡本隆司著(東洋経済新報社)

2022.04.24

『世界史とつなげて学ぶ中国全史』岡本隆司著(東洋経済新報社)を読みました。気鋭の東洋史家による渾身の書き下ろしです。著者は、1965年京都市生まれ。現在、京都府立大学教授。京都大学大学院文学研究科東洋史学博士後期課程満期退学。博士(文学)。宮崎大学助教授を経て、現職。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会・大平正芳記念賞受賞)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会・サントリー学芸賞受賞)、『世界のなかの日清韓関係史』(講談社選書メチエ)、『李鴻章』『袁世凱』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会・樫山純三賞、アジア太平洋賞受賞)、『清朝の興亡と中華のゆくえ』(講談社)、『世界史序説』(ちくま新書)、『近代日本の中国観』(講談社選書メチエ)、『増補 中国「反日」の源流』(ちくま学芸文庫)など多数。

本書の帯

本書の帯には、「驚くほど仕事に効く知識が満載!」「現代中国を理解する最高の入門書」と書かれています。カバー前そでには、「教科書では教えてくれない真実の中国史」として、「黄河文明はどのように生まれたか/中華思想が誕生した理由/気候変動と遊牧民がつくる歴史/ソグド人が支えた唐の繁栄/『唐宋変革』で激変した中国社会/モンゴル帝国は温暖化の産物/明朝こそ現代中国の原点/なぜ『満洲』と表記するのが正しいか/明治日本の登場が中国の歴史を変えたetc.」と書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき――中国をとらえなおす」
第一章 黄河文明から「中華」の誕生まで
第二章 寒冷化の衝撃――民族大移動と混迷の三〇〇年
第三章 隋・唐の興亡――「一つの中国」のモデル
第四章 唐から宋へ――対外共存と経済成長の時代
第五章 モンゴル帝国の興亡――世界史の分岐点
第六章 現代中国の原点としての明朝
第七章 清朝時代の地域分立と官民乖離
第八章 革命の二〇世紀――国民国家への闘い
  結 現代中国と歴史
「あとがき」
「文献リスト」

「まえがき――中国をとらえなおす」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。 「現代日本人は好むと好まざるとにかかわらず、経済的にも軍事的にも大国となった隣国・中国の存在を無視して暮らしていけません。では、中国とどのように向き合っていけばよいのでしょうか。こうした問題は、日中の間に生じている目前の表層的な事象だけを追っても、おそらく見誤ります。現代の中国に関しての情報は多々ありますが、そこから思いがちなのは、たとえば民主的でもなく、国民国家でもない。政府発表の統計なども鵜呑みにできない。要は怪しい国だということでしょう。確かに、怪しい、のかもしれません。ですが、それで終わってしまっては、中国の現実を見ていることにはならないでしょう。怪しい、と決めつける前に決定的に重要なのが、歴史を正しくとらえる視点です」

第一章「黄河文明から『中華』の誕生まで」の「乾燥地域と湿潤地域が人々の暮らしを二分した」では、中国を含むユーラシアは、地球上でもっとも大きな大陸であることを指摘します。それだけ面積が広いわけですが、それは同時に海岸線が相対的に短いことを意味するとして、著者は「つまり海岸に触れていない、水と縁遠い陸地が非常に広大なわけです。当然ながら、海岸線に近いところでは湿気が多いため、湿潤気候になります。逆にいえば、水から遠い内陸地方は乾燥気候になる。これがごく簡単な気候・地域の区分の大前提です。そして前述のとおり、環境が違えば、そこに生きる人々の暮らし方も違ってきます」と述べています。

「居住地からみた農耕と遊牧の違い」では、水がすぐに調達できる湿潤地域では、植物栽培のコントロールも比較的たやすいことが指摘されます。したがって農耕が発明され、定住生活が可能になったとして、著者は「人間の生存にとってたいへん有利な環境といえるでしょう。乾燥地域はそれとは対照的に、水がほとんどないため、あらゆる生物にとって厳しい環境です。典型的なのは砂漠で、そこまでいけば、文字どおり”不毛の地”ですが、いかに乾燥していても、そんなところばかりではありません。多少は植生がある地域もあります。それがいわゆるステップ(草原地域)です」と説明します。

農耕民と遊牧民の違いは、服装をみれば、一目瞭然であるとして、著者は「形状も違いますし、そもそも原材料が異なります。農耕民の服は植物の繊維から作られました。それに対して遊牧民の服は、動物の皮革が元になっています。もちろん違うのは衣食ばかりではありません。風習・習俗そのものからして、大きく異なっていました。たとえば遊牧民は、老人より若者を尊び、敬老の精神がありません。また父兄が死ぬと、その妻を子弟が娶りますから、いわば『略奪婚』同然です。農耕民たるわれわれ日本人の感覚では、考えられないようなことばかりです」と述べます。

黄河流域は基本的に乾燥気候ですが、温度が比較的高いため、水さえ引き込めば農耕は可能でした。また、ほとんど遮蔽物のない平原だったため、遊牧民がいくらでもアクセスできる土地柄でもあったとして、著者は「ではなぜ、境界地帯で有力な文明が栄えたのか。これは、少し考えてみればわかるでしょう。乾燥地域と湿潤地域は、非常に対極的な気候、生態系、生活習慣・風習があるので、お互いに持っていないものを持っているわけです」と述べ、さらに「互いの産物を平和裏に融通し合っているのが、むしろ常態だったわけです。それはどうやって実現するか、といえば、やはり交換です。こうして境界地域において交渉や交流が始まり、お互いが行き来して交易の拠点になっていった。つまりマーケットができたわけです」と述べています。

「都市国家が覇権を争った春秋戦国時代」では、初期の中国に都市が存在したことが紹介されます。それが紀元前5世紀ごろまで続いた春秋時代で、都市は中国流の漢字で表現すれば「邑」です。「邑」という字句は、漢字の部首にすれば「おおざと」で、たとえば「都」という字の右部分を指します。ですから、この漢字の原義は都市の一種、「大きな都市」ということ。それで「みやこ」の意味にもなると説明し、著者は「日本人の感覚では、城といえば二条城や姫路城を思い浮かべますが、中国の感覚では、それらは『城』ではなく『要塞』です。また、城壁に囲まれていない日本の都市は、中国からみれば都市ではありません。単なるムラ・聚落にすぎません。この点1つとってみても、日本史が世界の歴史のスタンダードではありえません。日本史の概念がそのまま、外国史・世界史に当てはまるなどとは、夢々考えないことです」と述べます。

邑の壁は一重とはかぎらないと指摘し、著者は「より大きな都市になると、内側に『城』を築くだけではなく、外側に『郭』を築くこともありました。これを『内城外郭』といいます。たとえば、今日の北京は三重になっています。一重目は皇帝が住む場所を囲い、二重目は政府機関を囲い、三重目で市民が暮らす地域を囲っているのです。こういう姿が中国の都市でした。初期の中国では、それぞれの都市は独立した国家のようなものだったので、これを『邑制国家』と呼んでいます。そうした無数の都市国家があったのが春秋時代であり、そこから展開する戦国時代でもありました」と説明しています。

内藤湖南以来の京都東洋史学の学風を継承、発展させた宮崎市定によれば、「國」という文字自体が、当時の都市国家を表す象形文字だそうです。中の「或」の部分は、「戈(=矛)」を持つ「口(=人)」が、「一(=地面)」に立っている姿を表し、その周囲を「口(=城壁)」が囲っていると見るとして、著者は「武器を持っているということは、それぞれ政治的に自立、独立している状態を意味します。侵そうとする者が現れれば、武力ではね返すという意思表示です。この状態は、秦の始皇帝が戦国を統一する紀元前3世紀ごろまで続きました。戦国時代を通じて主要六国に収斂しますが、始皇帝がそれらをさらに一国に併合したのです」と述べます。

「『漢字』が東アジア各国の言語を変えた」では、著者は「もともと日本人は狭い列島の中で農耕や漁撈などをして暮らしていたわけですが、異なる種族や集団と交渉や交易をする機会が少なかったため、文字によるコミュニケーションは必要なかったのです。しかし中国から文明が押し寄せるとともに、文字が必要になります。そこで漢字を日本語表記に当てはめて使うようになったわけです」と述べています。

「秦漢帝国の位置づけ」では、「中華」は中華だけで成立し得なかったと指摘し、これが歴史を考える上で重要なポイントであるとして、著者は「そのプロセスと並行し、夷である遊牧民の側も、『中華』から多くの刺激を得ながら、同じ時代に並行して『匈奴』として大同団結していきました。ちなみに、秦も漢も中国をはじめて1つのパッケージにまとめた王朝政権ですから、その名称は後の中国を表す代名詞のように使われ続けました。『秦 Qin』とはChinaという横文字の語源であり、『漢』は私たちにとってもなじみ深い『漢字』の由来です」と説明します。

「東西平和の時代へ――シルクロードの恩恵」では、第7代皇帝の武帝の時代に前漢が全盛を迎えたことが紹介されます。武帝は、その力を背景に匈奴を叩こうと決意し、大きな犠牲を払ってその戦争に勝利しました。これを契機に、漢は後漢が滅びる2世紀頃まで、東アジアの盟主として君臨しました。その経済活動を支えたのは、ひとえにシルクロードでした。著者は、「オリエントからは陶器やガラス製品、金属器などの奢侈品が大量に流入したと考えられます。一方、当時の中国からは大量の金銀が産出し、また持ち出されているそうです。ところがある時期から、その流れが乏しくなって、やがてピタリと止まります。金銀を採り尽くしてしまったらしい。それほど大量に流出したということです。そこで金銀の代わりに、中国から持ち出されたのがシルクです。これは中国が蚕を家畜化して発明した、世界で中国にしか存在しなかった特産品です」と述べています。

漢王朝発展のプロセスは、時期的にもローマ帝国の発展と一致しています。キリスト紀元の始まる頃、いったん中絶した漢王朝を中興した後漢政権は、第4代皇帝の和帝あたりの時代に全盛を迎えます。ちょうど同じ時期、ローマ帝国で活躍したのがトラヤヌス帝であると指摘し、著者は「和帝については、とくに何か目立った事蹟のある君主ではありません。しかし『和』という諡をつけられたことに意味がある。それだけ平和を謳歌した時代だったということでしょう」と述べます。

一方、トラヤヌスといえば、ローマの版図を最大に広げて「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」の最盛期を築いた皇帝で、いわゆる「五賢帝」の中でも最も有能だったといわれていました。著者は、「いずれにしても、東西で同時代に平和が訪れたということです。それはけっして偶然ではなく、東西の『古代文明』が交易を通じて影響を及ぼし合い、受け合いながら発展し、それぞれ一定の到達点に至ったことを体現しているのだと思います」と述べるのでした。

第二章「寒冷化の衝撃――民族大移動と混迷の300年」の「気候変動により『民族大移動』が始まった」の冒頭を、著者は「ユーラシアの歴史は、乾燥地域と湿潤地域という二元世界のもたらすダイナミズム、とりわけ両者の境界地帯の動向が基軸になってきたプロセスでした。オリエント、インド、東アジアのそうした境界地帯それぞれが、ゆるやかに関連し合いながら文明を生みだし、紆余曲折を経ながら、2世紀末ごろには軌を一にして、平和な時代を迎えたのです。ところが3世紀あたりから、大きな場面転換が起こってきました。気候変動により、地球の寒冷化が始まったのです」と書きだしています。

遊牧民は、生存のためにやむなく草原を求めて、南への移動を開始します。これが4~5世紀のヨーロッパを中心に各地で大混乱をもたらした、いわゆる「民族大移動」の契機をなすものであるとして、著者は「寒冷化は、北半球のユーラシア全体を覆った現象です。そのため、タイムラグはあるものの、遊牧民の南下は各地で共通する行動パターンでした。たとえばカスピ海の北あたりの大草原を拠点にしていたフン族という遊牧民は、西方・東方へ大移動します。その先にいたのが、狩猟採集生活を送っていたゲルマン人です。フン族の襲撃を受けたかれらは、玉突き的に移動・移住を余儀なくされ、ローマ帝国の境界だったドナウ川・ライン川を越えていきます。しかも、その過程で集団のまま難民化しました」と説明しています。

「人口減少と強制労働の時代へ」では、東西の歴史がパラレルに進行したことは偶然ではないとして、著者は「両者はシルクロードでつながり、しかも寒冷化という同じインパクトを受け、生存の危機に直面していた。似たような形になるのもうなずけると思います。寒冷化は遊牧民のみならず、農耕民にも悪影響を及ぼします。農産物の生産量が低下し、多くの人を養えなくなるからです。したがって、それまですでに飽和状態だった人口は、淘汰されていきます。当時の戦争も、人口を減らす一因にはなりましたが、それより気候や経済の影響で減った数のほうがはるかに多いと思います」と述べます。

「『邨』の出現」では、寒冷化の時期における聚落形態の大きな変化が取り上げられます。「邨」の出現です。中国の初期の都市は「邑制国家」であり、城壁の中で暮らす生活形態が、いわば中華文明の誇りであったとして、著者は「城壁に囲まれた『邑』しか聚落形態がありませんので、その文字が聚落そのものをも意味しました。ところが、寒冷化以降はそういう都市ほど武装難民が押し寄せる標的となり、治安が悪化します。もともと都市にはマーケットがあり、富が集中していたため、狙われやすかったのです。それを城壁で守れればいいのですが、突破されれば一巻の終わり。むしろ逃げ場がないので危険でもありました」と説明しています。

その危険を避けるには城壁外で暮らしたほうがいいため、この時期からは何もない場所に小さな聚落が点在するようになりました。この形態は、「邨」という造語で称されます。日本語の「村」の本字です。そして、「統一の担い手が現れ、南北朝が終焉」では、中国社会は寒冷化への対処を模索する中で、城壁都市と村落という2種類の聚落形態を生み出し、生活パターン・就労形態・人間関係・身分構成を改めたとして、著者は「その結果、政治的には地域ブロックごとの分立や相剋、離合集散を繰り返してきましたが、それと同時に複合的・多元的な社会を実現したのです。これが世界的な寒冷化という危機の中で、中国の出した答えでした」と述べるのでした。

第三章「隋・唐の興亡――『一つの中国』のモデル」の「南北分立から南北分業の時代へ」では、秦や漢の時代の中国は、政治も経済も文化も中原に集約されていて一元的な構造でしたが、隋以降の時代の大きな特徴は、南方の開発が進み、経済的に抜きん出たことであると指摘し、著者は「乾燥気候の中原は遊牧と農耕との境界地域であり、双方の性格を合わせ持っていました。湿潤多雨の南方は、それとはかなり様相の違う農耕地域です。隋の誕生により、南北が互いの特徴をいっそう発揮するようになりました。中国史はいわば、南北分立から南北分業の時代へと移行したのです」と述べています。

「多元国家としての唐と多くの宗教」では、唐代宗教に言及します。唐とほぼ同時代、西方ではイスラームが台頭してイランまで併合します。しかしイランには、イスラーム以外の宗教を守りたい人が多数いました。ペルシア系なのでゾロアスター教(拝火教)もありましたし、西方からネストリウス派キリスト教(景教)も入っていました。あるいは両者が混じり合ったマニ教もありました。著者は、「かれらが中央アジアに逃げ出し、ソグディアナにたどり着きましたが、そこにはインド伝来の仏教も伝わっていました。そうした複雑な宗教の人々が、さらに唐と深く関わるようになったのです。つまり思想界・宗教界でも非常に多元的なことが、唐の大きな特徴でした。突厥の遊牧世界やその保護下にあるソグド人などを、すべて抱え込んだ結果といえるでしょう」と述べています。

「仏教を利用して国家の統合を図る」では、著者はこう述べています。
「秦漢帝国の時代なら、中原を中核地域として、社会構成も一元的でした。だから漢の武帝は儒教を事実上、国教化しましたが、これは理にかなっていました。もともと儒教は漢人にとって土俗的な教えだったからです。ところがその後の五胡十六国や南北朝時代になると、さまざまな人が流入して、統治の範囲も拡大しました。もはや漢人ばかりの中原ではありません。生活・習俗・人生観のまるで違う人々が、入り乱れる形になりました。必然的に各種の民間信仰や新興宗教も入り混じり、かつてなかったような社会的な軋轢や問題が浮上します。儒教だけではとうてい押さえ切れなくなってきたのです」

そこに台頭してきたのが、インドからもたらされた仏教でした。後漢時代に伝わった仏教は、やがて政権から民間まで幅広く浸透し、雲崗の石窟や「南朝四百八十寺」のような寺院も各所に作られたとして、著者は「隋の文帝はそういう仏教の影響力を背景として、課題だった南北の一体化を成し遂げた形跡があります。主に官僚として重用したのは、長安にいた武骨な北周系の人々ではなく、もっと東方の黄河下流域の北斉の貴族たちでした。かれらは仏教信仰がより深かったので、そこに依拠して政治を行おうとしたわけです」と説明しています。

記録や仏典によれば、隋の文帝は「転輪聖王」とも呼ばれていたようです。著者は、「これは古代インドのアショーカ王に付せられた理想的な君主の称号であり、仏教世界の世俗の指導者という意味です。文帝は晩年、全国各地に舎利塔も建設していますが、これもアショーカ王の故事にあやかったもののようです。いずれにせよ、単なる中原由来の皇帝・天子を超える君主をめざしていたのであり、仏教を利用して多元的な国家を1つにまとめようと苦心していたことは間違いないでしょう」と述べます。

「『金輪王』と呼ばれた則天武后」では、中国史上唯一の女帝といわれる則天武后が取り上げられます。著者は、「そもそも高宗の死後、本来なら息子たちが後を継いで即位するはずですが、それが気に入らなかったらしい。自身が皇帝になろうと画策するわけです。そこで利用したのが、やはり仏教でした。女性が君臨したり衆生を救ったりする話をかき集め、新たな経典を作り上げたのです。それによって、自身が帝位に就くことを正当化しようとしたわけです。これが奏功して即位しましたが、そこで自ら名乗ったのが『金輪王』。『金輪際』という言葉からもわかるように、これ以上はない、至上最上の君主という意味です」と説明しています。

隋の文帝は「転輪聖王」と呼ばれていました。これはあくまでも人間界だけに君臨する王という意味ですが、「金輪王」は宗教の世界も含めたあらゆる「天下」の頂点に立つ王を意味すると指摘し、著者は「隋や唐の天下のような世俗的なスケールの小さいものではなく、もっと高次の普遍性を持って、全世界を1つにまとめるという意思表示だったのでしょう。多元的な世界を1つに取りまとめるという目標自体は、隋の文帝も唐の太宗も則天武后も変わりません。そのためにそれぞれ政策を打ち出したのですが、やはり同じものではあり得ず、かれら自身の立場・意識や姿勢は、かなり違っていたこともわかると思います」と述べます。

「『安史の乱』から唐は解体へ」では、玄宗皇帝が祖母の則天武后が亡くなった後、その残党たちをクーデターで倒して即位したことが紹介されます。玄宗は仏教に頼らない方法で政策課題に立ち向かおうという意欲を持っていたようです。当初は真面目に取り組んで、滑り出しは上々でしたが、次第にうまく行かなくなりました。著者は、「理由はいくつか考えられます。則天武后を否定したので、仏教ではなく土俗的な儒教をベースに改革を進めようとしたこともその1つです。それがたとえば、多元化や国際化に対応しきれなかった一因ではないかと思います。加えて、楊貴妃との出会いがありました。中国史でも最も有名なロマンスかもしれません。白居易の『長恨歌』で有名になりました。すっかり心を奪われて政務がおろそかになり、同時に楊貴妃の血族である楊国忠を台頭させます」と述べるのでした。

第四章「唐から宋へ――対外共存と経済成長の時代」の「中華思想と他国共存」では、著者は「概して中国というと、いわゆる中華思想で、自分以外の対等な存在を認めないようなイメージがあります。しかし、そういう時代はむしろ特殊で、多くの時代は複数の国が共存を図っていたのです。宋の時代もそうですが、唐の時代も、それ以前の三国六朝の時代も同様です。たしかに中華思想の理念はずっと存在していたと思いますが、それが実現したか、現実の体制となったかどうかは、まったく別の問題です」と述べています。

英語圏の研究者は、こういう状況を「China among Equals(対等者の中の中国)」と称しているそうです。中華思想に反し、宋代のように実は対等者を認めている時代があったということで、著者は「もしこの状態が長く続けば、ヨーロッパのウェストファリア体制のようなものができていたかもしれません。ヨーロッパ各国が30年戦争を経て、ウェストファリア条約を締結したのは17世紀ですので、ずいぶん先行する動きでした。欧米ではこれがもとになって、対等な国際関係ができあがりましたので、東アジアにもそうした可能性があったともいえます」と述べます。

「今日の中国文化の源流が生まれる」では、人口が増えたことは、社会が圧倒的に豊かになった何よりの証拠であるとして、著者は「それにともない、文化や学問も発達しました。いわゆる宋学・朱子学が誕生したのも、この時期です。それまでは仏教が中心の社会でしたが、その教義を儒教に取り入れて生み出したのが朱子学です。あるいは文章も変わりました。当時は『四六駢儷体』という技巧的・装飾的で流麗な文体が流行していましたが、漢や魏の時代の素朴な文体に戻るべきだという運動が起こります。いわばルネッサンスであり、ペトラルカやダンテに相当するような文人が登場したのです。その代表的な文人8人を『唐宋八大家』といいます。このうち韓愈と柳宗元の2人は、唐末に生きた人物であり、後の時代の手本になりました。とくに韓愈は、朱子学の源流を作った人でもあります」と述べるのでした。

第五章「モンゴル帝国の興亡――世界史の分岐点」の「全ユーラシアを支配下に」では、モンゴル帝国が取り上げられます。チンギス・カンが即位したのは、13世紀初頭の1206年でした。そこから14世紀末までの200年弱を、世界史では「モンゴル時代」と呼んでいます。モンゴル帝国の出現はそれほど、歴史上の大転換期だったということです。「宣伝や威嚇に長けていたモンゴル軍」では、「なぜ、モンゴルは突然台頭したのか」という問いを掲げ、著者は「もちろん強かったからですが、その強さの意味、理由を問わなくてはならないでしょう。その要因の1つとして考えられるのが、宣伝戦の上手さです」と答えています。

モンゴル軍が強力だったことは間違いありません。軍事史上、兵器として銃火器が登場するまでは、騎馬軍の機動力が圧倒的な強さを誇っていたことを指摘し、著者は「その中でもプロフェッショナルだったのが、もともと遊牧民であるモンゴル軍だったのです。実際、チンギスの時代には、戦闘で相手を徹底的に殲滅することもありました。そういう評判が立つと、攻め込まれる可能性のある地域は、戦う前から怖気づきます。モンゴルは、むしろそれを利用して、攻め込むと脅しをかけて戦わずに降伏させていたらしい。いわば宣伝戦・威嚇戦で勝利していたわけです。しかも、支配後も相手を蹂躙するようなことはなかったようです。そのまま本領を安堵して、それまでの生活を続けさせました」と述べます。

「モンゴル軍を動かしていたのは商業資本」では、もう1つ、大きなポイントとなるのが商人との関係であると指摘します。チンギスの時代、モンゴルは草原地帯を制圧しましたが、その中にはオアシス都市群も含まれます。その時点で、そこを拠点とする商人たちとの接点が生まれました。その代表がウイグルでした。著者は、「ウイグルはもともとモンゴル高原あたりにいたトルコ系の遊牧民でした。しかし10世紀ごろに西の中央アジアのほうへ移動し、そこにいたソグド商人と混血しながら定住民化します。それが西ウイグル国です。その西隣のカラハン朝もトルコ系の遊牧民の国家なので、この時期は中央アジア全体がトルコ化していたわけです。ただし西半分のカラハン朝はイスラーム化し、東半分のウイグルでは仏教やマニ教が普及していました」と説明します。

そこに襲いかかってきたのが、チンギスの率いるモンゴルでした。しかしウイグルはしたたかなので、全面的な降伏も抵抗もしなかったとして、著者は「資金・情報を提供する代わりに、軍隊による保護と商売の権益を求める、という交渉を持ちかけるのです。これにより、ウイグルの商業資本はモンゴルの軍隊とタイアップしながら、シルクロード上に商業経営の範囲を拡大していきます。むしろ商人たちが新たな地で権益を得るために、水先案内人のようにモンゴル軍の進むべき道を先導していた可能性もあります。場合によっては、かれらが先々で降伏の交渉を行っていたのかもしれません。だとすれば、かれらこそ、モンゴル帝国拡大の立役者だったといっても過言ではないでしょう」と述べます。

「経済圏の拡大と共存」では、クビライ・カーンが登場します。モンゴルは、クビライがカーンに即位した1260年あたりを境に、軍事的な拡大を停止しています。その一方で力を注いだのが、大元ウルスを中心とした世界的スケールの経済圏の構築でした。今日の言い方でいえば「グローバリゼーション」による発展をめざしたとして、著者は「その実働部隊となったのがイラン系ムスリムやウイグル人たちであり、そのバックアップとして軍事力を主導したのが、モンゴル系やトルコ系の遊牧民でした。かれらは言語も習俗も文化も違います。その意味では相容れないはずですが、それぞれの思惑・利害で打算的に結びついていた面があります。それでも他者同士で共存する体制が整ったわけですから、人類史の上では着目すべきポイントだと思います」と述べています。

「『元寇』と『西征』の歴史的意味」では、いわゆる「元寇」が取り上げられます。日本にとって「元」といえば「蒙古襲来」・軍事侵略のイメージが強いですが、著者は「それはいささか違うかもしれません。モンゴル側の立場からすれば、あくまでも経済圏の拡大の一環で、軍事的な征服が目的ではなかったという説もあるのです。たとえば2度目の『襲来』である弘安の役のころ、10万人規模ともいわれるおびただしい人員を乗せた大船団が日本に到来しています。かれらは『江南軍』と呼ばれていますが、全員が兵士・軍人とは考えにくい。移民や商人も大量に含まれていたと思います。当時、博多あたりでは日宋貿易がおおいに栄えていました。そこに根を下ろして商売をしようと考える人がいたとしても、不思議ではありません。逆に日本からみれば、『元寇』とは単に侵略に対する防衛戦争だったのではなく、当時の『グローバリゼーション』に対する抵抗だったともいえるわけです」と述べます。

元寇と同様の戦いは、ヨーロッパでも起きています。いわゆる「バトゥの西征」のクライマックス、ポーランドを舞台にしたワールシュタットの戦いです。こちらはモンゴル軍がポーランド・ドイツの連合軍に大勝しましたが、その直後にカーンのオゴデイが急死したことにより撤退しました。著者は、「『元寇』と同じく、この戦闘に経済的な企図がいかほどあったかは、定かではありません。しかしこれによって、ロシア以西のヨーロッパにまでモンゴル帝国流の商業資本や経済システムは波及せず、根付くこともなかったのは、まぎれもない事実なのです」と述べています。

「寒冷化で衰退がはじまる」では、そうした中で、中央アジア自体も東アジアとの関係が希薄になり、いよいよイスラーム化していったと指摘し、著者は「こうして、ユーラシアの東西は完全に別の世界になりました。それまで東西を結ぶ架け橋だった中央アジアは、逆に東西を隔てる障壁に転化した、といえばいいすぎでしょうか。中央アジア以西の人が東アジアのことを何も知らず、逆に東アジア人もイスラームのことをまったく知らないという状況は、おそらくこのときから生まれたのです」と述べます。また、「大都(北京)からの撤退」では、14世紀後半になると、モンゴルは明を建国した朱元璋によって大都(北京)を追われ、今日のモンゴル高原の地域まで撤退したことを紹介し、著者は「モンゴルによって融合した東西と南北、農耕地域と遊牧地域、あるいは軍事と経済は、ふたたび分断されることになったのです。これまで築き上げられた政治・経済・社会のシステムは、モンゴル帝国の崩壊によって、ひとまずリセットされたといっていいでしょう」と述べるのでした。

第六章「現代中国の原点としての明朝」の「漢民族だけの王朝をめざした明朝」では、モンゴル帝国が消滅した15世紀初頭、ユーラシアはおおよそパミール高原・中央アジアを境に、東西に分離していたことが紹介されます。西側で台頭したのがティムール朝、そして東側の中国では明朝が登場しました。著者は、「以降、中国はおよそ300年にわたり、モンゴルが残した遊牧と農耕を結合する、あるいは文化経済と政治軍事を統合するベクトルと、両者を分離するベクトルとの間で揺れ動くことになります」と述べています。象徴的なのが、いわば対外的な鎖国政策の実施でした。陸路も海路も交通は遮断されました。著者は、「漢人だけを「中華」として内側に取り込み、それ以外の人を「外夷」として出入りを禁じたわけです。

ただし、完全に道を閉ざしたわけではありませんでした。中国内で交通または商取引したい外部の人に対しては手続きを踏むことを求めたのです。それが「朝貢」です。「朝」はご挨拶、「貢」はお土産という意味です。つまりはお土産を持って、ご挨拶に行くことであり、日常的に誰でも行っていることだとして、著者は「それを『外夷』の周辺国と『中華』の天子の間で行うと、こういういかめしい名称になるわけです。もちろん、朝貢自体は内外問わず、秦や漢の時代からありました。もともと伺候贈答、一般通例の儀礼行為ですから、当然です。しかし朱元璋が実施したのは、周辺国とのつき合い方において、朝貢以外の手段をすべて禁じたことです。ここまでエキセントリックな制度を打ち出したのは明朝だけで、歴史上はその前にも後にもありません。これを学界では『朝貢一元体制』といいます」と説明します。

明朝としては、朝貢によって自尊心を満たすことができます。それに「中華」と「外夷」を区別しながら、上下関係を明確にした秩序を構築することができます。思想と実践を結実させたわけです。一方、朝貢する側にもメリットがあったとして、著者は「中国との交流ができるのが第一ですが、それは何より実利が目的です。たとえば、持参したお土産よりはるかに高額の引き出物を授かることができたのです。これを『朝貢』に対する『回賜』といいます。かれらにとっては、文字どおり『海老で鯛を釣る』ようなものでした。そしてもう1つ、朝貢団に随行してきた使節団には、儀礼の公式行事とは別に、中国国内での売買取引が認められました。その間に中国の物産を手に入れたり、儲けたりすることができるので、かれらはこぞって朝貢団に加わったのです」と述べます。

「朝貢よりも民間の経済活動が活発に」では、日本は、室町幕府の足利義満の時代から、「朝貢一元体制」を体して明朝の永楽帝に対し朝貢を行っていたとして、著者は「やはり貿易取引が目的でしたから、これを『勘合貿易』などといっています。しかし、やがて江南の経済発展によって、民間貿易が活発になり、朝貢に附随する形の窮屈な取引をはるかにしのぐようになりますし、『勘合貿易』もそのうち行われなくなりました。これがかえって、日本の経済にも高度成長をもたらすことになるのです。時の日本は、戦国の群雄割拠の時代に入っています。そこで、各所の鉱山で金銀が採掘され、農地の開発も進み、また下剋上という社会変革が起きていました」と説明します。

金銀の採掘、農地の開発、下剋上といった社会変革自体も経済成長の糧になりましたが、けっしてそれだけではないとして、著者は「はるかシナ海の大洋を隔てた江南・中国の経済成長とパラレルな、しかも相互に関連した現象だったのです。しかし明朝の政府にとっては、こうした『倭寇』、つまり密貿易業者は、きわめてやっかいな連中でした。法律に則って弾圧しても、かえって抵抗されて治安が悪化するだけ。むしろ黙過していたほうが、受けもよかったというのです。言い換えるなら、それだけ明朝のシステムが時代に合わなくなってきたということです」と述べます。

「民間のヘゲモニーと庶民文化」では、経済の活性化は社会・文化に影響を与えたと指摘し、著者は「まず民間での旺盛な出版業と歩調を合わせた書籍の多様化です。堅いものですと、科挙の受験参考書で、経書・史書の解説本やダイジェスト版がたくさん出ました。もっと一般向きでは、白話小説です。つまり口語体の物語で、誰もが楽しめる講談から発展したものです。小説といえば、われわれにとっては普通のものですが、東アジアで本格的にはじまったのはここからで、中国古典文学でおなじみの『水滸伝』『三国志演義』などは、いずれもその産物です。こうした中国の白話小説は、日本の近世文学にも大きな影響を及ぼしていますから、単に中国だけの話でもありません。ほかには、一般に役立つ実用書がたくさんできました。受験参考書もそれに数えてもいいかもしれませんが、もっと実務的な『農政全書』や『天工開物』のほうが有名でしょう。こちらも世界とのつながり、西洋の影響がかいまみえるものです」と述べています。

「陽明学の位相」では、明代における民間の比重増大・庶民文化の隆盛を示すものとして陽明学が取り上げられます。王陽明の作った儒教の一派です。王陽明は本名を王守仁といいますが、当代きっての有能な官僚でした。明朝ではめずらしく事蹟もすぐれた官僚でしたが、やはり思想家としてみるべき人物です。著者は、「明代以降、中国の体制教学は朱子学です。エリートはみな朱子学を学び、科挙を受け、官僚になる、というのが定番のコースです。また朱子学とは、エリートの、エリートによる、エリートのための教えでしたから、このご時世には、かなりの違和感がありました。陽明学はそうした風潮に応じてあらわれたものです。陽明学の発祥は経書の文献考証と解釈を通じた、きわめて哲学的なものでした」と述べています。また、陽明学は朱子学と対極にあり、エリートを分け隔てしない学術でした。

第七章「清朝時代の地域分立と官民乖離」の「満洲人が打ち立てた清朝」では、1616年に遼東地域で満洲(マンジュ)人が建国したアイシン国が清朝の前身であるとして、著者は「満洲語のアイシンとは、金を意味します。すでに同じ種族の建てた金王朝というのが、12世紀に存在していましたので、この国のほうは、漢語で『後金』と呼ぶならわしです。その後、1636年に『大清国』に改称しました。かれらがめざしたのは、モンゴル帝国のような政権を築くことでした。それは『大清国』という国号からもわかります。クビライの作った『大元国』に見まがうような命名です。理由があります。遊牧と狩猟の違いこそあれ、満洲人はモンゴル人と似ていて、欧米人はともにタタールと呼んでいましたし、そして何より、チンギス・カンの後継と自認するようになったからです」と述べています。

「朝貢国を実態に合わせて大幅に整理」では、明朝は「北虜南倭」に悩まされましたが、逆にいえば、どれほど禁止しても「倭寇」や遊牧民との貿易が旺盛だったということが説明されます。清朝はそれを禁圧することなく、むしろ促進できるように制度を整えました。明朝の「朝貢一元体制」も変化したとして、著者は「かつて朝貢国だった朝鮮半島、琉球、ベトナムなどの東南アジアの国々は、その関係の維持を望みます。隣接する国々は貢ぎ物を持って挨拶に行くことで、強大な中国と安定した関係になるので当然でしょう。明朝を相続した清朝も異存はないので、この部分は変えません。ただし、朝貢国はこの数ヵ国だけではありません。『大明会典』という明朝の行政総覧によれば、朝貢国の数は百数十にのぼります。『朝貢一元体制』という明朝の建前としては、国交を朝貢でしか認めていません。したがって、何らかの関わりがある周辺国は、朝貢の有無にかかわらず、すべて『朝貢国』として登録されていたのです。足利義満のあと、実際に朝貢をしなくなって、『倭寇』ばかりが活躍していた日本も、その『朝貢国』の1つに数えられています」と述べます。

一方、『大清会典』という清朝の行政総覧によれば、朝貢国はほんの数ヵ国となっています。つまり、本当に朝貢している国だけリストアップしたわけで、著者は「これは、朝貢をしないその他の多くの国に対し、既成事実化していた民間貿易・『互市』を追認したことを意味します。それによって、他国との余計なトラブルを避けたわけです。たとえば日本に対しては、貿易は認めるけれども、『倭寇』に来られては困るので、中国の商人が日本へ出向けるようにしました。それによって栄えたのが長崎貿易です。あるいは外国人の往来も自由にしています。西洋人も東南アジアを経由して、訪れるようになりました。そこに禁止をかけず、なるべく干渉しないというのが、清朝のスタンスです。関わるとすれば、取引から関税を徴収する程度でしょう。またこの時期、周辺国の1つとしてロシアが加わりました」と述べます。

「銀不足によるデフレを、イギリスの茶需要が救う」では、産業革命を経たイギリスでは、都市部に労働者が急増したことが指摘されます。その彼らの間で爆発的に広まった風習が紅茶を飲むことでした。当時、茶を生産していたのは中国だけ。だからイギリスは、その対価として大量の銀を支払いました。これにより、乾隆帝の時代(1735~95年)の中国はインフレが続き、物価はV字回復を成し遂げます。著者は、「当時の中国経済にとって、いかに日本やヨーロッパが重要な役割を果たしていたかがわかるでしょう」と述べています。日本は輸入必需品の国内生産化によって、「鎖国」に踏み切りました。対照的にヨーロッパは、輸入必需品生産の世界展開を図りました。著者は、「閉鎖と開放で日欧のベクトルはまったく逆ですが、輸入代替を通じた脱中国・脱アジアという意味では、共通しているともいえるでしょう」と述べます。

「究極の『小さな政府』としての清朝」では、18世紀半ばまで1億人弱だった中国の人口は、19世紀初頭までに3億人を超え、19世紀半ばには4億人、20世紀初頭には4億5千万人に達したことが紹介されます。清代を通じて、人口は爆発的に増えていったわけです。「民衆による反乱が頻発」では、著者は「民間は、けっして豊かではありません。たしかに経済は発展し、規模も拡大しました。しかし人口はそれ以上のペースで増えているため、1人あたりの食い扶持は増えません。経済学者マルサスは『人口増加は食糧生産の増加を上回るために貧困を招く』とする『人口論』『マルサスの罠』を説きましたが、ここではまさにその典型的な現象が起きていたのです」と述べています。

清代にかぎった話ではありません。中国の歴史は、いつもこのパターンの繰り返しだとして、著者は「唐宋変革の際もそうでした。中国ではたび重なる技術革新を経験して、それによって全体として富裕にはなるのですが、より多くの人を養えるようになった分、あるいはそれ以上に人口が増えるので、個々人は豊かさを享受できないのです」と述べます。特に生活が厳しかったのは新開地の人々で、彼らは既成社会に対して不満を募らせます。そのはけ口として、新興宗教に走ったりするのですが、著者は「その結果、新開地には秘密結社のような宗教団体が多数生まれ、政府や官僚に歯向かうようになります。当然、政府は弾圧を加えますが、そうするとかれらは武装してますます反抗し、大きな反乱に至る。19世紀以降、このパターンが何度も繰り返されることになるのです」と説明します。顕著な例として、まず18世紀末には「白蓮教徒の乱」、19世紀半ばには「太平天国の乱」が起きました。太平天国とは、もともとキリスト教をベースにした上帝教という新興宗教を信仰した教団組織です。

そして20世紀初頭には「義和団事変」が発生しました。著者は、「義和団はもともと義和拳といいまして、白蓮教の一派ともいわれていますが、西洋人がBoxerといいましたように、カンフーを身につけることによって、空を飛び弾丸を跳ね返すスーパーマンになれるという宗教でした。当然、政府は鎮圧に乗り出すわけですが、ここで役立ったのが『洋務』によって西洋から仕入れた鉄砲などの武器や軍事技術でした。それでも19世紀半ば以降、清朝は「富国強兵」をめざし、軍事や技術面において西洋化・近代化を推し進めます。これを「洋務」といいますが、著者は「ちょうど日本の明治維新後の動きと似ています。この『洋務』はそれなりの成果を上げましたが、しかし日本ほどの能率で進まなかったのは、官民乖離という中国のありようが、官民一体の日本とは正反対だったからです」と述べます。

「瓜分の危機」では、朝鮮が清朝の朝貢国でしたが、あくまでも自主の国でしたから、内政・外交に大きな自治を認めていたことが指摘されます。その結果、朝鮮は清朝から離脱独立し、後に日本に併合されてしまいます。こうして早くには朝貢国の琉球が「琉球処分」で日本の一部になりましたし、ベトナムもフランスの植民地になりました。著者は、「こうした地域は朝貢国ばかりではありません。清朝の皇帝が君臨するチベットやモンゴルは『藩部』と呼ばれ、朝貢国とはまったく異なる地位にありましたが、清朝はいわばその『宗主権』は持つものの、実地の統治にほとんど関与していませんでした。清朝政府は朝鮮での失敗に鑑みて、こういう曖昧さを一掃するため、『藩部』にも軍隊を送り込み、モンゴル・チベットには清朝が『宗主権』ではなく『領土主権』を持っていると主張するようになります。ここに来て、版図を均質一色に染めようと図ったわけです」と説明しています。

「国民国家『中国』の誕生」では、中国に「領土」という概念が生まれたのは、この時からであるとして、著者は「もともとこの言葉は中国の漢語ではなく、日本語です。『知行地』や『領地』を西洋流の法制用語にした言葉のようです。それを清朝が、日本の統治システムを見習う際に仕入れたわけです。あるいは『主権』も、もともと中国では『主(あるじ)の権利』という程度の、ごく広い意味でしたが、日本からsovereigntyの訳語・『国家の権力』という意味を輸入して定着するようになりました。そしてもう1つ、国家として『中国』を名乗るのも、このころからです。これまでは、王朝名しかありませんでした。しかし清朝にアイデンティティを見出せず、むしろそのやり方に不満を持つ多くの官僚や知識人にとって、『清国人』とか『清人』と呼ばれることには違和感がある。そこで国名が必要だと考えるようになったのです」と説明するのでした。

第八章「革命の20世紀――国民国家への闘い」の「国家統合の手段として共産主義を選択」では、中華人民共和国において、政治権力がはじめて基層社会にまで浸透した時代になったことが指摘されます。その大義名分として、毛沢東は共産主義を利用しました。著者は、「もちろん共産党員の中には、社会主義理論をきちんと学び、資本家による労働者への搾取を問題視して、その撲滅を図る理論どおりの共産革命を訴えた人もいたと思います。しかし毛沢東の場合、自身が貧しい農村出身だったこともあり、とにかく農村本位が最大の政策目標でした。それを自他に納得させる正統化のシンボルとして、共産主義を掲げたのだと思います。

さらに毛沢東について、著者は「極論すれば、イデオロギーは何でもよかったのです。中国の伝統にしたがうなら儒教でもいいのですが、庶民・農村までは届かない。そこで現状を打破して国民国家を建設するための、あるいは人々を結集させるための、新たなシンボルを探していたわけです。それが蒋介石にとっては孫文のとなえた三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)であり、毛沢東にとってはマルクス・レーニンのとなえた共産主義だったということです」と述べています。ちなみに、毛沢東は4600万人を殺したとされ、「人類史上最も人を殺した男」などと呼ばれています。彼が殺した人間の数には、ヒトラーもスターリンもかないません。

「明代以降の構造的な課題が増幅された現代中国」では、1949年に建国された中華人民共和国の基本理念は、できるだけ基層社会に降りることだったことが指摘されます。いわば農村本位を前面に押し出したわけですが、著者は「日本の農地解放にあたる『土地改革』を実施して農民に土地を与えたこともその1つです。あるいはその一方で、『三反五反運動』と呼ばれる、官僚による汚職等の一掃運動を展開したり、さらに『反右派闘争』など、自らに批判的なインテリ層や資本家にも弾圧を加えたりしています。このやり方は、社会主義の政治というよりは、どうも明代の初期に自身の政策に歯向かう江南の地主などを弾圧した朱元璋のほうを髣髴させます」と述べています。

そのあげくに行き着いた先が、1966年から約10年にわたって繰り広げられた文化大革命でした。著者は、「下層の人々を持ち上げ、上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わりました。その反動のように打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線です。共産主義のイデオロギーと支配体制は残したまま、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して豊かさを追求しようとしたわけです。その姿は、中華理念と皇帝専制を残したまま、明朝の対外秩序を転換させた清朝と重なります」と述べています。

また、著者は以下のようにも述べます。
「結局、中央と下層は乖離したまま。明代以降の中国が抱える構造的な課題は、むしろ増幅されて今日に至っているようにもみえます。共産党は融合させようと腐心していますが、あまり自由を与えて民主化運動などを起こされても困る。いかにして下層をコントロールするか、まだ最も適した解答を見出せていないのが現状だと思います。習近平国家主席をはじめとする共産党がもっとも恐れているのは、下層の人々が政権から乖離するとともに、富裕層が諸外国と強く結びついて国家を顧みなくなることでしょう。それは、いま以上の格差拡大と政治・社会の分断を意味するからです」と述べています。

結「現代中国と歴史」の「ヨーロッパの影響を受けて『国民国家』をめざす」では、大航海時代の影響で、中国には南北の違いに加えて東西の違いも生まれ、空間的にはいっそうバラバラになったと指摘し、著者は「また社会的な格差でみても、従来の二元的な『士庶構造』に加え、『士』と『庶』の間にさまざまな資格・階層の人々が割り込むようになりました。中国社会はますます多元化・複雑化したのです。ちなみに日本は、地域構造も社会構造も歴史的にみれば、非常に単一的均質的です。だから西洋近代に直面した際、国民国家の形成も容易でした。そういう日本人の感覚からみると、中国社会は想像を絶するほど複雑怪奇なのです」と述べています。

清朝は辛亥革命によって倒れ、中華民国が誕生します。英米と深く関わっていました。また第二次大戦後には、毛沢東が率いる中国共産党が中華人民共和国を樹立しますした。著者は、「こちらはソ連・共産主義とコミットしていますから、ベクトルはまったく逆のようにも思えますが、実は『国民国家をつくる』という目標を掲げた点では共通しています。あくまでも国民国家をつくって、西洋や日本に対抗するための取り組みが中国の『革命』であったわけです。ところがその『革命』・国民国家形成というイデオロギーと、歴史的に多元性をきわめてきた現実の間には、容易に埋められない深いギャップがあります。だから、埋まるまで永遠に『革命』を続けなければいけない。それが、今日の中国の姿でしょう」と述べています。

「多元性と『一つの中国』の相剋」では、現実として中国は複数の民族問題、国境問題も抱えていることが指摘されるとして、著者は「たとえば民族問題でいえば、中国が『領土主権』・帰属を主張し、チベットが『高度な自治』を求めて、対立を続けている『チベット問題』は、解決の気配すらありません。また先日も、新疆ウイグル自治区の住民『数十万』人が、中国当局によって強制収容所に送られたと報じられて、われわれに衝撃を与えました。中国政府の側にも相応の言い分はあると思いますが、とにかく無理をして押さえつけている印象が拭えません。国境問題にしても、日本との尖閣諸島問題のみならず、ベトナムとは南沙諸島問題があり、さらにインドやパキスタンとも、国境をめぐる対立が続いています。あるいは香港とマカオには、『一国二制度』を導入しています」と述べています。

「儒教から『中華民族』へ」では、多元的な社会を1つにまとめようとする試みは、中国史のみならず、程度の差はありますが、アジア史・東洋史にも少なからず見られるとして、著者は「そのプロセスで生まれる軋轢をどう処理するかが、それぞれの歴史の要諦でした。その手段として用いられたのが、宗教です。だいたい世界三大宗教と呼ばれるイスラーム、キリスト教、仏教は、いずれもアジア発祥です。それはおそらく、多元性をまとめるための普遍性やイデオロギー、あるいは秩序体系を提供することが、アジアの全史を貫く課題だったからでしょう。言い換えるなら、アジア史において政教分離は成立しにくいということです。多元性の強い社会で安定した体制を存続させるには、宗教のような普遍性を有するものがどうしても欠かせません。複数の普遍性を重層させねばならない場合は、なおさらです」と述べます。

ヨーロッパで政教分離が成立したのは、そもそも社会も信仰も単一均質構造でまとまっていたからであると指摘し、著者は「分離しても社会が解体、分裂しない確信が、その背後に厳存しています。仮にアジアで政教分離を実施したら、たちまち体制や秩序はバラバラになって混乱をもたらしてしまったでしょう。中国の場合も、統合の象徴として儒教・朱子学が用意されました。ところが儒教は、漢人のイデオロギー・普遍性ですので、モンゴル・チベットと共存した清朝では、それだけでは不十分です。儒教の聖人をめざした清朝の皇帝は、同時にチベット仏教にも帰依して、普遍性の重層をはかったのですが、その体制も18世紀までしか持ちません」と述べます。

そして、著者は「近代以降では、儒教・チベット仏教もろとも、先に述べた『国民国家』や『一つの中国』が代替することになります。同時に、清代の多元共存に代わる秩序と統合のシンボルとして『五族共和』や『中華民族』のようなものがしばしば提起されました。こうして『中華民族の復興』を『中国の夢』とする習近平政権も、はるか古くからの中国史の一コマとしてとらえることができるのです」と述べるのでした。わたしは儒教研究の第一人者として知られる中国哲学者の加地伸行先生との対談が決定し、事前の予習として本書を読みました。儒教について語るには中国史の知識が欠かせないからです。中国史の本は膨大にありますが、アマゾンで高い評価を得ていた本書をテキストとして選び、徹底的に読み込みました。非常にわかりやすい名著で、中国という不可解な国についての理解が深まったように思います。帯のコピーに違わず、「現代中国を理解する最高の入門書」でした。

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