No.2226 グリーフケア | 冠婚葬祭 『供養には意味がある』 一条真也著(産経新聞出版)

2023.04.04

111冊目の一条本となる『供養には意味がある』(産経新聞出版)の見本が届きました。「日本人が失いつつある大切なもの」というサブタイトルがついています。

供養には意味がある』(産経新聞出版)

本書の帯

本書の帯には、昨年にお亡くなりになられたアントニオ猪木氏、稲盛和夫氏、石原慎太郎氏、安倍晋三氏の遺影が使われ、「なぜ、死者を追善し感謝するのか?」「『終活』『供養』は人間の『幸福』と深く関わっている!」「季刊誌『終活読本 ソナエ』連載の大人気コラム待望の書籍化!!」と書かれています。この4人の方々の遺影が使用できたのは、ひとえに「産経新聞」「サンケイスポーツ」さんのおかげです。この4人の方々はわたしの人生にも深い関わりのある方々ばかりであり、わたしは多大な影響を受けました。本書の本文中にも、この方々の生涯や業績、そして葬儀について詳しく書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には「主な内容」として、こう書かれています。
■葬儀に迷う日本人
・・・・・・「家族葬」の罪と罰
■コロナ禍が供養の姿を変えた
・・・・・・葬儀崩壊を起こすな
■「供養の心」を季節に重ねる
・・・・・・8月は死者を想う
■忘れてはいけない供養の日
・・・・・・「追悼」と「記念」は違う
■死とグリーフ
・・・・・・『鬼滅の刃』と供養のあり方
■「供養心」の原泉
・・・・・・「遺体」と「死体」の違い
■あなたのことを忘れない
・・・・・・石原慎太郎氏、安倍晋三氏、
アントニオ猪木氏らの旅立ち

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
第1章 葬儀に迷う日本人
「家族葬」の罪と罰
家族が遺棄される社会
ご都合主義で「初七日」省略
宅地にお墓を建てる方法
沖縄で海洋散骨に立ち会う
死者を軽んじる民族は滅びる
島田裕巳氏と葬儀について対談する
「唯葬論」という考え方
なぜ、仏壇を買わないのか
お墓のかたちを考える
ブッダの教えを求めてインドへ
第2章 コロナ禍が供養の姿を変えた
葬儀崩壊を起こすな!
死を乗り越える言葉
死者儀礼としてのオリンピック
なぜ人間は死者を想うのか
インドで知った最大の平等
第3章 「供養の心」を季節に重ねる
正月には先祖供養を
茶道にある「死者への想い」
国学を通じ「日本人とは何か」を求める
8月は死者を想う月
お盆は休みのためにある?
彼岸は「お墓参りの日」
月と死のセレモニー
ハロウィンは死者の祭り
交霊術としての読書
児童虐待と供養と七五三
クリスマスはイエスの誕生日ではない
第4章 忘れてはいけない供養の日
11年目の「3・11」
のこされた あなたへ
「追悼」と「記念」、「周年」と「年」
遺体を前に葬儀をあげられる幸せ
さとうきび畑とニライカナイ
黙祷するということ
死者を忘れない
終戦70年に思う
戦後70年を飾る映画『母と暮せば』
熊本地震とグリーフケアの未来
死生観を持っていますか
第5章 死とグリーフ
グリーフケア・ソングとしての「Lemon」
陛下の慰霊とグリーフケア
人生を修めるための「修活」のすすめ
グリーフケアの時代へ
VRで故人と再会する
『鬼滅の刃』にみる供養のあり方
『エヴァンゲリオン』とグリーフケア
遺影は笑顔のほうがいい
亡き息子に会う映画『安魂』
上級グリーフケア士の誕生
「死」を乗り越えるための読書
自然の絶景が死の不安をなくす
人生を修めるノート
死が悲しくない時代がやってきた
死ぬまでにやっておきたい50のこと
古代エジプト人の「死の文化」に学ぶ
第6章 「供養心」の源泉
平成中村座にみる歌舞伎の「孝」の精神
「遺体」と「死体」の違い
上座部仏教の経典『慈経』を読む
死の本質を説く『般若心経』
『おみおくりの作法』
和を求めて
大いなる「礼」を描いた映画『海難1890』
無縁社会を乗り越える映画『縁』
家族とは迷惑をかけ合うもの
第7章 あなたのことを忘れない
愛があるから死を見られる
ジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ
石原慎太郎氏の旅立ち
稲盛和夫氏の「お別れの会」
アントニオ猪木さんらしい最期のセレモニー
安倍氏の戒名、麻生氏の弔辞
安倍元首相の国葬儀について

「新聞社系・一条本」三部作が勢揃い!

わたしは、これまで「日本経済新聞」と「毎日新聞」のグループ出版社から冠婚葬祭・年中行事・終活・供養に関する本を上梓してきました。『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)と『人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版)がそれです。このたび、産経新聞出版から刊行される本書が加わって、「新聞社系・一条本」の三部作が揃いました。

本書は、タイトルにもあるように「供養」についての本ですが、「終活」のこともたくさん書かかれています。なぜかというと、日本初の終活専門誌である『終活読本ソナエ』(産経新聞出版社)に連載した原稿を収録しているからです。季刊であった同誌は、2013年夏(7月)号から2022年春(3月)号まで全36号が刊行されました。超高齢化国でありながら、「死」をタブーとする傾向の強い日本において、同誌の創刊は非常に画期的であり、その内容はすべて興味深いものばかりでした。くれぐれも休刊が惜しまれます。

その『終活読本ソナエ』で、わたしは「一条真也の老福論」というコラムを2014年秋(9月)号から2018年夏(7月)号まで全16回にわたって連載させていただきました。同時に、『WEBソナエ』でも、「一条真也のハートフル・ライフ」を2015年1月16日から2016年5月31日まで全34回、さらにはWEB版『ソナエ安心のお墓探し』でも、「一条真也の供養論」を2018年8月から2022年9月にかけて全50回連載しました。本書には、それらの連載原稿がすべて収録されています。

終活について考えますと、日本人の寿命はついに男女とも80歳代を迎えました。言うまでもなく、現代日本は超高齢社会です。いま、年間140万人以上の人が亡くなり、2030年には160万人を超すと言われています。超高齢社会は「多死社会」でもあるわけです。多くの人々が死を意識しながら、延びた寿命を生きていくことになります。そこで終活というわけです。仏教は「生老病死」の苦悩を説きました。いま、「人生100年時代」とやらを迎え、「老」と「死」の間が長くなってきました。長くなった「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか――そのための活動が「終活」です。

日本に空前の「終活ブーム」が訪れ、『終活読本ソナエ』も創刊された次第ですが、わたしは「終活」という言葉を嫌う人も多く存在することを知ってしまいました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしは「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。

また、供養について考えてみたいと思います。わたしは、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションであると考えています。そして、供養においては、まず死者に、現状を理解させることが必要です。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質だと思います。

古代から、日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世にいくと考えていました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきたのです。夢幻能もまさに此岸彼岸を往還する霊の話です。昔の日本人はみな、直観的に「人の死後の存続」を信じていたのかもしれません。そして「人の死後の存続」を信じる心が、今日のような盆などの風習を残しているわけです。

日本人は、古来、先祖の霊によって守られることによって初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。その先祖に対する感謝の気持ちが供養という形で表わされたものが「お盆」なのです。1年に1度帰ってくるという先祖を迎えるために迎え火を燃やし、各家庭にある仏壇でおもてなしをしてから、再び送り火によってあの世に帰っていただこうという風習は、現在でも盛んに行われています。同じことは春秋の彼岸についても言えますが、この場合、先祖の霊が戻ってくるというよりも、先祖の霊が眠っていると信じられている墓地に出かけて行き、供花・供物・読経・焼香などによって供養します。

それでは、なぜこのような形で先祖を供養するかというと、もともと2つの相反する感情からはじまったと思われます。1つは死者の霊魂に対する恐怖であり、もう1つは死者に対する追慕です。やがて2つの感情が1つにまとまってゆきます。死者の霊魂は、死後一定の期間を経過すると、この世におけるケガレが浄化され、「カミ」や「ホトケ」となって子孫を守ってくれるという祖霊になります。日本人の歴史の中で、神道の「先祖祭り」が仏教の「お盆」へと継承されました。そこで、生きている自分たちを守ってくれる先祖を供養することは、感謝や報恩の表現と理解されてくるわけです。

しかし、個々の死者に対する葬式や法事の場合は、死霊に対する感謝や報恩といった意味よりも、追善・回向・冥福といった意味のほうがはるかに強いと思われます。

すなわち、死者のあの世での幸福を願う追善と、子孫である自分たちを守ってくれていることに対する感謝とにまとめられるのです。どんな人間にも必ず先祖はいます。しかも、その数は無数といってもよいでしょう。

これら無数の先祖たちの血が、たとえそれがどんなに薄くなっていようとも、必ず子孫の1人である自分の血液の中に流れているのです。「おかげさま」という言葉で示される日本人の感謝の感情の中には、自分という人間を自分であらしめてくれた直接的かつ間接的な原因のすべてが含まれています。そして、その中でも特に強く意識しているのが、自分という人間がこの世に生まれる原因となった「ご先祖さま」なのです。

盆行事に代表される供養は、仏教の僧侶によって執り行なわれます。「葬式は、要らない」とか「葬式消滅」などと言った人がいました。その人の言説の効果もあったのか、「葬式仏教」と呼ばれる日本仏教への批判の論調が盛り上がったこともあります。しかしながら、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。そして、その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。「葬式仏教」は、一種のグリーフケアの文化装置だったのです。

「死」をインとすれば、「終活」はビフォアーであり、「供養」はアフターです。そして、いずれも人間の「幸福」と深く関わっています。本書は、新型コロナウイルスに代表されるパンデミック、気候変動、格差拡大、侵略と戦争といった混迷と分断の時代を生きる日本人の不安な「こころ」が少しでも安定することを願って世に問うものです。『終活読本ソナエ』の創刊者であり、編集者であり、現在は産経新聞出版社専務取締役である赤堀正卓氏との絆によって本書は生まれました。自ら編集作業を引き受けて下さった同氏に心より感謝申し上げます。なお、本書は4月17日に発売されます。ぜひ、お買い求めの上、ご一読して下さいますようにお願い申し上げます。

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