No.2232 プロレス・格闘技・武道 『証言 武藤敬司』 宝島プロレス取材班(宝島社)

2023.04.20

『証言 武藤敬司』宝島プロレス取材班(宝島社)を読みました。「平成プロレスを支配した『天才レスラー』の光と影」というサブタイトルがついています。宝島社のプロレス証言シリーズの最新刊です。

本書の帯

本書の帯には、「ガチンコ最強説」「熊本旅館破壊事件」「10・9髙田延彦戦」「全日プロ移籍」「S・ヘイト暴行事件」「WRESTLE-1休止ほか」「誰も知らない天才の素顔」「初めて明かされるあの事件と噂の真相!」「東京ドームで引退!」「川田利明、船木誠勝、大仁田厚、TARUほか12人が告白」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、以下のように書かれています。
船木誠勝 猪木さんのやり方をすごく引き継いでいる人
川田利明 プロレスの人は経営に携わっちゃダメなの!
大仁田厚 ムタvsニタは”世紀の凡戦”だった
和田京平 仁義みたいなものが武藤・全日にはなかった
TARU すべて話す!スーパー・ヘイト暴行事件の真相
永島勝司 髙田戦の価値を計算した武藤の「俺がやる」
ジミー鈴木 武藤は”友達がい”のある人間だと思っている

カバー前そでには、こう書かれています。
「新日本がプロレス団体としてこだわってきた『猪木イズム』『道場神話』『ストロングスタイル』という三種の神器を、無党派クールな視点からすべて見切っていた。他のレスラーはこの3つを看板にしてリングに上がっていたが、武藤にはその必要がなかった。だからこそ武藤はその後、『アントニオ猪木のプロレスはアメリカンプロレスだぜ』と言い放っているのだ。(「はじめに」より)」

1984年に新日本プロレスでデビュー以来、抜群の運動神経とプロレスセンスで平成プロレスを牽引、数々の名勝負を残した武藤敬司が、2023年2月21日、東京ドームで内藤哲也との引退試合に挑みました。最後は内藤の必殺技・デスティーノで敗れましたが、試合後「まだ少しエネルギーも残ってるし、灰にもなっていない。どうしてもやりたいことがひとつある」と、ゲストで来場していた闘魂三銃士の盟友・蝶野正洋を「俺と戦え」とリングに呼び込みました。蝶野のシャイニングケンカキックからのSTFでタップアウト負けし、まさかの2連敗で38年4ヵ月のプロレス人生に幕を下ろしたのです。

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」ターザン山本
第1章 天才の”覚醒”

   ――新日本プロレス時代
猪木さんのやり方をすごく引き継いでいる人
証言 船木誠勝
いまでも武藤敬司は”友達がい”のある人間だと思っている
証言 ジミー鈴木
髙田戦の価値を計算した武藤の「俺がやる!」
証言 永島勝司
ムタvsニタは”世紀の凡戦”だった
証言 大仁田厚
【まんが】新日本プロレス 熊本旅館破壊事件の真実
こうしてわかった!新日本プロレス「熊本旅館破壊事件」の真相
第2章 天才の”苦悩”

   ――全日本プロレス時代
プロレスだけやってきた人は経営に携わっちゃダメなの!
証言 川田利明
仁義みたいなものが武藤さんの全日本にはなかった
証言 和田京平
すべて話す! スーパー・ヘイト暴行事件の真相
証言 TARU
武藤さんからの忘れられない言葉、「プロレスは浪花節」
証言 諏訪魔
武藤さんは「絶対引退なんかしねえよ」と言っていた
証言 大森隆男
武藤敬司「全日本プロレス移籍」の黒幕
引退記念【特別小説】樋口毅宏
「嫌われた天才 1995年10・9”もうひとつの”武藤敬司
第3章 天才の”素顔”

    ――リングの外側
武藤さんって思ったことを口に出す人なんだな・・・
証言 橋本かずみ
世間にウケるまで10年やり続けた武藤のモノマネ
証言 神奈月
ももいろクローバーZに継承される武藤の”美学”
証言 小島和宏
「武藤敬司 1962―2023 完全年表」

「はじめに」では、ターザン山本氏が武藤敬司というプロレスラーを「別格の飛び級レスラー」と表現した上で、「前田日明は新日本の道場イズムにどっぷり心酔し、ハマったタイプだ。鬼コーチ、山本小鉄から受けた影響は計り知れない。新日本プロレスを新日本プロレスたらしめたのは『上野毛道場神話』。これに尽きる。ところが武藤はひとりだけ違っていた。柔道育ちの武藤は、自分にはとても敵わない世界基準のすごい人間を見てきたからだ。それと比較したら道場の先輩レスラーたちはそれほどでもないと思ってしまった」と述べています。

そこには武藤自身の圧倒的身体能力と運動神経があったことも背景にあると指摘し、山本氏は「相撲、アマレスでの実績を引っさげてプロレスに入ってきた新弟子も、道場ではとことんその鼻をへし折られる。根こそぎプライドをズタズタにされてしまう。このイニシエーション、儀式を通過することで初めて入門者はレスラーとして認知される。武藤にはそのイニシエーションが通用しなかった唯一の新人である。心の中で『なんだ、こんなもんか!』と思ったのだ」と述べます。

「武藤が猪木イズムに勝った日」として、山本氏は「藤原喜明が新生UWFに移籍した時、いちばん欲しかった若手は武藤だった。またメガネスーパーのSWSが旗揚げしようとした時、真っ先に狙いをつけたのが武藤である。しかし、武藤は移籍しなかった。ジャイアント馬場が亡くなったあと、元子夫人が全日本プロレスの社長に迎えたのも武藤。猪木イズムに関係ない武藤はモテモテだったのだ。これらは武藤的不思議現象と言える」と述べます。

さらに海の向こうでNWOブームが起こった時、武藤はちゃっかりペイントレスラー、グレート・ムタとして参戦したことを指摘し、山本氏は「これがまた大成功を収めたことで、自らが『反ストロングスタイル』であることを高らかに証明してみせたのだった。悪役、ヒールレスラーの存在感が希薄になっていた時代に、”悪を売りもの”として蘇らせた無党派どれだけプロレス頭がいいんだとなる」と述べるのでした。

「新日本はUインターには勝ったが武藤には負けた」では、武藤には猪木幻想が初めからないとして、山本氏は「1995年10月9日、東京ドーム、UWFインターナショナルvs新日本プロレスの宿命の激突。Uインターの大将は髙田。その髙田を迎え撃つ使命を受けたのが、ストロングスタイルの継承者ではない武藤。ここが最大の謎だ。本来なら新日本は髙田に勝つべき最強のレスラーをぶつけるべきなのだ。残念ながらそのストロングスタイルを証明できるレスラーがいなかった。というよりも新日本は内心、実は武藤がいちばん強いと考えていた。すでにこの時点で新日本のストロングスタイルは形骸化していたのだ。武藤はここでも新日本に勝った。そして髙田との決戦にも勝った」と述べています。

武藤は「プロレスはゴールがない、見えないマラソン」と名言を吐いています。山本氏は、「これは『プロレスには答えがない』と言っているのだ。だから面白さ無限大なのだ。猪木は闘魂を、馬場は王道をひとつの答えにした。いろいろな見方、考え方があっていい。武藤はプロレス人生にはゴールがあると割り切っていた。ゴールがありならそのゴールをいかにして引き伸ばせるか。それをテーマにしていた。ゴールから逆算してプロレス人生を設計、デザインしていく。それにはムタと武藤の二刀流が大いに役だった。それもまた武藤の計算。体が自由に動けなくなったらシャイニングウィザードという必殺技をあみ出した。とにかくプロレス人生の延命策に長けている」と述べるのでした。

第1章「天才の”覚醒”――新日本プロレス時代」では、「証言 船木誠勝」が興味深いです。というか、本書は12人の証言集ですが、興味深いのは船木と永島勝司の2人だけでした。「”武藤ガチンコ最強説”の真相」では、船木が新日本プロレスの道場事情に言及し、「武藤さんはホントに強かったです。新弟子の頃からほとんど極められなかったですね。藤原(喜明)さんの命令で、最初に先輩の佐野(巧真、当時・直喜)さんとやらされたんです。そうしたら佐野さんが極められなくて、藤原さんに『新弟子相手に何をやってるんだ!』と怒られていた記憶があります」と語っています。

続けて、船木は「で、藤原さんが武藤さんの相手をしたんですけど、それでも極められなかった。武藤さんの話だと、道場のガチンコでは猪木さんと藤原さんに足を1回ずつ極められただけだったみたいです。いま思うと武藤さんって下になっても、相手を抱えている姿が多かったんですよ。当時はなんだかかっこ悪いなって見てたんですけど、それって総合格闘技でいうガードポジションですよね。武藤さんは高専柔道をやっていたから、そういう柔術的な動きもできたってことですよね。だから誰も取れなかった」と語ります。

さらに、武藤が入門したのは初代タイガーマスクが出てきた直後であると指摘し、船木は「プロレスが、もしかしたら変わろうとしていた時期なんじゃないですかね。だって初代タイガーマスクがプロレスを変えちゃったじゃないですか。そこに藤波さんと長州さんの日本人対決が人気になったりして、それまでの日本人vs外国人のプロレスとは違っていったと思うんですね。あの時って猪木さんにしても異種格闘技戦の終わりの頃だったし、自分も全盛期の頃の試合はそんなに知らないんです。初めて猪木さんに会った時もお父さんという感じのイメージでした。やっぱり初代タイガーマスクや前田さん、髙田さんとかのファンで。自分の場合は藤波さんでもなかったです。おそらくプロレスが変わる瞬間に出てきたのが武藤さんだったのかもしれないです」と語るのでした。

「証言 永島勝司」の「新日本内で”独立”していた武藤」では、「平成の仕掛け人」と呼ばれた元マッチメイカーの永島氏が「マッチメイクの組み立てとして、ヘビーなら長州、ジュニアなら(獣神サンダー・)ライガーの意見を尊重しながら、まず『猪木をどうするか』というのがあって、次が橋本。そこから(佐々木)健介。その後に蝶野、武藤という順番でどうしていくかを考える。これは橋本、健介、蝶野のほうが武藤よりも格上だとかいう話じゃないよ。橋本は顕著なんだけど、こっちでいろいろとアングルを考えてやらないと、自分ではうまくやっていけない。だけど武藤はこっちが無理にアングルなどを捻り出さなくても、『次はあそこの会場であの選手との試合だよ』と伝えるだけで、ちゃんとお客さんが満足するだけのことをやってくれる。そういう安心感があったのは確かだよ。まあ、若い頃から自己プロデュースに長けていた印象はあるな」と語っています。

永島氏いわく、「敬司はやっぱり天才だからね。あの当時、猪木なんかも言ってたけど、あいつのプロレスは新日本のストロングスタイルとは違っていて、完全なアメリカンプロレスだった」といいます。また、「ジャイアント馬場の全日本プロレスがアメリカンプロレスだと言われるけど、あれはアメリカの大物レスラオを来日させたというだけで、スタイルとしては馬場のプロレスだった。本当の意味でのアメリカンスタイルを最初に日本へ持ち込んだのは武藤だよ。ムタにしても、あいつがアメリカ遠征の時に苦労して考え出したものであって、決して(ザ・グレート)カブキの姿形だけを真似しただけのものじゃない」と語ります。

そして、永島氏は「アメリカでスターになった日本人選手は他にもいるけど、長い間ずっと人気を保っているのがムタのスゴイところで、これはWWEの中邑真輔にも言えることなんだけど、本当の実力がなければそういうことにはならないよな」と語るのでした。ガチンコ最強説も生まれるほどの実力の持ち主でありながら、エンターテインメントとしてのプロレスも極めた武藤敬司。よく考えたら、そのプロレス・センスは師であるアントニオ猪木にも匹敵するものだったのかもしれません。本書を読んで、「間違いなく、武藤は猪木の後継者だ」と確信しました。

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