No.2233 芸術・芸能・映画 | 評伝・自伝 『異能の男 ジャニー喜多川』 小菅宏著(徳間書店)

2023.04.27

大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の創業者、ジャニー喜多川氏(2019年に死去)から所属していたタレントが性被害を受けた疑いが浮上している問題が大きな波紋を呼んでいます。発端は、イギリスの大手メディアであるBBCが今月7日(日本では今月18日と19日)、故ジャニー喜多川氏の性的加害の問題を取り上げるドキュメンタリーを放送したことでした。そんな中、『異能の男 ジャニー喜多川』小菅宏著(徳間書店)を読みました。サブタイトルは「悲しき楽園の果て」。2019年の刊行ですが、いま読んでも内容は古くありません。

著者は、作家。東京都出身。立教大学卒、集英社入社。週刊・月刊誌歴任後に独立。徹底した現場主義で社会と日本人の内実に迫るドキュメント取材に拘る。関連著書『芸能をビッビジネスに変えた男 「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(講談社)、『アイドル帝国ジャニーズ50年の光芒』(宝島社)、『ジャニーズ魔法の泉』(竹書房)他。

本書の帯

本書の帯には、「滝沢秀明の引退、嵐の活動休止、新会社設立…など、誰も書けなかった肉声を独占掲載!」「ジャニー・擴・喜多川の秘話、揺れるジャニーズ帝国の真相をジャニーズ取材歴50年の著者が初めて赤裸々に描く――」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、以下のように書かれています。
「謎のベールに包まれたジャニー・擴・喜多川氏の真の姿を、この半世紀に出てきた本人の言葉、証言や資料を分析して明らかにする。アイドルを輩出し続ける力やプロデュース力と戦術、類まれな戦略の源泉は何か? 滝沢秀明の引退、嵐の活動休止、新会社ジャニーズアイランドの設立など彼の作ったジャニーズ事務所に激震が続く理由とは?」「ジャニー喜多川の半生を辿りながら、紆余曲折の真相に迫る」と書かれています。

カバー前そでには、「日本のショービジネスは三十年遅れている」として、「小型ヨットを駆使した堀江健一が日本人として初めて太平洋を単独横断した快挙が、全国へ知れ渡る四か月前(1962年4月)のこと。『芸能のキャリアがまったくない高校生に何ができる』『男が踊りながら唄ってどこが面白い』『まるで猿芝居。すぐに消える』との日本芸能界からの侮蔑を含む陰口に日系米人ジャニー・擴・喜多川(当時31歳)は内心ほくそ笑んだ。(本文より)」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 悲しき楽園の始まり

一章 ジャニーと「嵐」と

   滝沢秀明の距離感
「後継者」の意味を問う
二章 異能の男、誕生の謎
日本芸能界を手玉にとる策略
三章 偏見と屈辱に塗れた時代
誰にも知られたくない正体
四章 姉妹の毀誉褒貶
家族の絆の果て
五章 ジャニーズ事務所の有為転変
照る日と曇る日
六章 苦難の先に見た楽園
まだ道は続くと信じる
七章 異色の道を選ぶジャニーズたち
素質を花咲かすジャニーズ
終章 楽園の終焉へ
好きな子しか選ばない内幕
「主な参考文献・資料(順不同)」
「ジャニー・擴・喜多川 ジャニーズ事務所年表」
「『後書き』ありがとう、さようならの出会い」

序章「悲しき楽園の始まり」には、「日本のショービジネスは三十年遅れている」として、日本芸能界の「芸域の隙間」を狙ったジャニー喜多川は、「猿芝居云々」の侮辱を飲み込み、むしろ、屈辱を腹に据えて野球少年の4人組ジャニーズ(グループ名ですが、本書では以後「元祖ジャニーズ」と記しています)を創作したことが紹介されます。結果として、硬直化した日本芸能界の慣例に縛られる元凶の、言わば職能領域の「破壊」になったと見ることができるとして、著者は「旧来の日本芸能界は、歌は歌手、踊りはダンサー、演技は俳優、笑いは喜劇俳優が専門に担うといった職能の慣習で峻別され、建前上それぞれの領域を侵すことなく成立していた。そこに、歌もやり、ダンスも熟す清新な10代の少年グループの出現は、守旧の業界を震撼させるに十分なインパクトがあった」と書いています。

少年グループの背後に立つのは、少年の眼を持ち、立ち居振る舞う「ジャニー・擴・喜多川」でした。彼が日本芸能界の「隙間」をこじ開けたからです。「少年の眼を持つ」とは、成人した大人が時代を遡る意味ではなく、少年が抱く未知への不安と期待を綯い交ぜにしたある種の「純粋性」を共有する立ち位置であるとして、著者は「従来、日本の芸能界に存在しなかった『異能の男』の出現によって、『歌を聴かせるだけ』『ダンスを見せるだけ』の時代から、現代では至極当たり前の『歌もダンスも同時に見せる時代』へと転換する」と述べるのでした。

一章「ジャニーと『嵐』と滝沢秀明の距離感――『後継者』の意味を問う」の「滝沢は『ジャニー』にならない」では、著者は「結果論になってしまうが、「ジャニーの後継者はいない」。半世紀に渡り、ジャニーをウォッチしてきた筆者は拙著(『芸能をビッグビジネスに変えた男『ジャニー喜多川』の戦略と戦術』講談社・2007年)他で記したが、初対面(1968年)以降、その確信は変わらない。『踊り唄う少年グループ』を次から次へ造形して、異端児とか希代の男とか呼ばれる根幹が、彼自身の『生き方』にあると検証するからである」と述べています。

端的には、ジャニーが己の描く世界(独自のミュージカルの完成)を現実化する手立てとしての素材が「ジャニーズ」であり、彼らを独占的に求める経歴を眺めると、ジャニーの半生を構築する道程が分かるとして、著者は「それは、従来の日本芸能史上で足蹴にされてきた独自の芸能観が導いてきたと見られるからだ。ジャニーの描く芸能観とは何を指すか。筆者は、圧倒的に華麗な『「ミュージカル」の実現』がジャニーズの究極と理解し、そうした意図で創り上げた架空のステージで舞い唄う彼の代理人が『少年たち(ジャニーズ)』との分析である。なおかつ、ジャニーは少年たちに関して、『ボクは好きな子しか選ばない』と言い切る独善性を隠さない」と述べます。

「『疑問』を解く鍵」では、結果的にジャニー喜多川が元祖ジャニーズを世に送り出すのに成功したことを指摘し、著者は「あくまで、『ショーのエクササイズはアメリカ』にあったとジャニー本人から聞いた。ターニングポイントは、現在ジャニーズの頂点を走る『嵐』(1999年9月CDデビュー)以後と気づかされた。ジャニーが『チーム(グループの意)はデビュー後にアメリカへ連れて行く』のを中止した時期を考え合わせた筆者の疑念だったが、『すでに日本の若者にアメリカコンプレックスはない』とジャニーが見極めたと納得した。時代の風向き(嗜好)を読む『異能の男』の感性と理解したからである。もっとも、当時(2000年から約2年間)のジャニーの関心は他に起きていた。『ジャニーズジュニアの異常人気』である。正式にデビュー(CⅮ発売)もしていない集団は『ジュニア』と呼ばれ、彼らのリーダーがまだ18歳になる前の滝沢だった」と述べています。

「滝沢は『ジャニーの後継者にならない』理由」では、「滝沢はジャニーの後継者でない」と敢えて断言する著者は、「半世紀、ジャニーが歩んできた経歴は、ジャニー個人の『他人に知られてはならない事情』が影響しているのだ。『ボクは好きな子しか興味がない』と断言する裏に、ホモセクシャルな『噂』が付き纏う。人は誰でも性的に好き嫌いは持つ。当該の性向は一切否定されるものではないが、ジャニーはそれを自分の生きざまの『素材』にしたと見られる行為が、異色な彩りを描いたのは知られる。繰り返しになるが、『どんなに才能を感じた子でも、好きにならなくてはスターに育てる気がしない』を原則に据え、好きになった少年しかスターにする気はないのがジャニーの性情に沿う志向だ。あるときには、『ボクはどんな少年でもスターにしてみせる自信はある』とも筆者に口を開いた。問題は、『好きになる度合い』だが、ジャニーの場合は、『好きになる』とは、『(肉体的にも)愛する意味に繋がる点もあって醜聞を生んだ」と述べるのでした。

二章「異能の男、誕生の謎――日本芸能界を手玉にとる策略」の「『テレビ時代を待つ』の真意」では、強く絞った弓から放つ矢は遠くまで飛ぶとの譬えで、ファンに期待を抱かせての効果を熟知する思考がジャニーの不変の戦術となり、全盛期へと花咲かす礎になったとして、「絶好の機会を観る」、あるいは「敢えて急がない」と時期を堪えるのは、待たされればそれだけファンの期待度が膨らむ心理を操るのがジャニーの流儀であるのだと指摘します。さらに著者は、「ジャニーはそうした人間心理をわきまえている。例えば最初にグループを組んでから10年も下積みをさせた『A.B.C-Z』(2012年デビュー)を見るまでもなく、ジャニーズの『正式の顔見世(CⅮデビュー)』が難関なのは、ダンスレベルが向上したメンバーを優先し、グループのイメージを象徴するメイン(中央に立つ)を選出し、それによるメンバーのキャラクター、奇抜なカラーバランスのコスチューム(主にメリー喜多川の担当)に拘りぬくからだ」と述べています。

「四六年前の『不確かな出来事』」では、ジャニー喜多川がフォーリーブスの4人をラスベガス視察に連れて行ったときのエピソードが紹介されます。帰国後、当日のジャニーと5人の「部屋割り」で揉めたと聞いたという著者は。「何が原因で起きたのかは邪推に類するが、ジャニーはすべてのジャニーズを『ウチの子』と称するものの、『好きの度合い』があるのは仕方ないのだろうと、そのとき実感した。ジャニーにとって北はデビュー前から個人的に面倒を看て来た経緯がある。互いに信頼が深い。北が本名の松下公次から芸名を『北公次』にしたのは、ジャニーのファミリーネームの『喜多川』から『きた』の一字を貰ったという逸話がある」

北がジャニーを慕った繋がりは白夜の朝の微妙な空気に漂ったようには感じたという著者は、「一方で、ジャニーにとっての当時の『郷ひろみ』は掌中の玉だ。その場での三者三様によっての印象が安易な憶測に陥らぬよう筆者は自重したが、それから1年半後に郷は移籍をし、その5年後、フォーリーブスは解散する。ジャニーを挟んでの北と郷の関係図は微妙に保たれたまま終焉を迎えたかに思えたが、後年、北はジャニーとの関わり合いを告白する」と述べます。郷ひろみはジャニーズ事務所を離れて移籍しましたが、新しい事務所はバーニング・プロダクション。バーニングは武闘派の事務所として知られ、それゆえにジャニーズ事務所も郷ひろみに変な妨害はできませんでした。

「ジャニーの失敗」では、時代の変化を判断するジャニーの嗅覚は半歩先を見透かし、新たな少年の肖像を造形する特異性に由来すると考えるとしながらも、「アメリカ詣」のほかに失敗もあるとして、著書は「1969年に結成した4人組『ジュークボックス』は内部対立もあって4年で分解し、バックバンド『ハイソサエティー』は地味な活動に精を出したが3年で解散した。郷ひろみ移籍以後にデビューさせたソロ歌手の永田英二は個性が薄く、地味な葵テルヨシ、デビュー曲『汚れなき悪戯』はヒットしたものの性格的な問題が発生した豊川誕、優等生イメージが強く、俳優志向の井上純一、ジャニーズらしからぬ強烈なキャラクターが弱点にも働いた川﨑麻世、ドラマ人気に便乗のひかる一平らは成功とは言い難く、ダンス専門グループ『ジャPAニーズ』も3年足らずで解散する」と述べます。

最大の失敗は女性2人をグループに加えた5人組の「VIP」でした。このグループ発表はジャニーズの評価を沈下させて1年で解散。ジャニーは以後ジャニーズのメンバーに女性は禁忌との前例にしたといいます。著者は、「ジャニーの失敗例はまだある。1980年代以後、シブがき隊の金銭問題での解隊(1988年)、光GENJIの仲間割れ(1994年)、男闘呼組の分裂(1993年)、忍者の解体(1995年)など短期間での活動で表面から消えていったグループの存在だ」と述べるのでした。

四章「姉妹の毀誉褒貶――家族の絆の果て」の「メリーの上昇志向の裏」では、ジャニー喜多川の実姉であるメリー喜多川は四谷の「スポット」に顔を出し、学習院在学中に天皇の同級生で、後に作家となる藤島泰輔と結婚したことが紹介されます。藤島泰輔の小説『日本の上流社会~高貴なる秘境を探検する』にちなみ、1969年に結成し、日劇の「ウエスタンカーニバル」に連続で出演する実力を誇ったバックバンドが「ハイソサエティー(上流階層)」と名づけられました。著者によれば、メリーの上昇志向を一際感じたのは、学習院女子部の卒業生の母親の集まりである「常磐会」への参加だったそうです。

ジャニーズのグループ名のユニークさは「ジャニーズ英語」、と呼ばれます。ジャPAニーズ、光GENJI、忍者、SMAP、TOKIO、V6、KinKi Kids、関ジャニ∞、KAT-TUN以後、近年のネーミングはさらに天衣無縫というか野放図さです。Hey!Say!JUNP、Kis-My-Ft2、Sexy Zone、A.B.C-Z、そして、King&Prince……「いずれも、さらにまだデビューしないグループ名(ここでは略す)もユニークさを超える」と、著者は述べています。

五章「ジャニーズ事務所の有為転変――照る日と曇る日」の「ジャニーの意表を衝く少年選び」では、ジャニーが少年を選ぶ場合に、少年の全人格を彼自身が許容できるかをファーストオプション(第一条件)に据えると語り、選別法として「少年の笑顔」に拘るものの、ほとんどは直感だということを紹介し、著者は「笑顔に付け加えれば、肌が色白で双眸は澄んでいて清潔感の漂う皓歯という『三条件』を明かした。ジャニー美学の『笑顔の三条件』を具現化する『ジャニーズ』を列挙してみると、少年の笑顔の根拠が明確に分かる」と述べています。

「ジャニーが愛する少年」の「ジャニーズ顔は三分化して発展」では、あおい輝彦と郷ひろみをルーツにするジャニーズフェイス(顔)の伝統は、その後(1973年以後)さらに細分化され、豊川誕、井上純一、川﨑麻世の系統に分かれました。孤児が謳い文句だった豊川の寂しさを滲ませたジャニーズ顔の流れはその後しばらく途絶えますが、KinKi Kidsでデビュー(『硝子の少年』1997年)した堂本光一が引き継ぎました。都会的で洗練された井上純一の系譜は、「たのきんトリオ」として、ジャニーの絶不調期(1976~79年)に活気を吹き込んだ田原俊彦と近藤真彦が流れを汲み、紆余曲折を経て木村拓哉(元SMAP)、櫻井翔(嵐)が受け継いだといいます。

異色派と分析するのは20代以降に「男の魅力」を発揮する川﨑麻世タイプです。その後継と著者が見るのは長瀬智也(TOKIO)と森田剛(V6)と山口達也(元TOKIO)。著者は、「川﨑麻世がジャニーズとして異色なのは、それまでのジャニーズは同年代の少年に比較すれば身長が低く、可愛い印象のせいで子どもっぽかったのに比べ、背が高く男性的な匂いのイメージが優先した点だった。21世紀を迎えたジャニーズ顔は変貌期を迎え、デビュー時の川﨑麻世タイプが多くなる。中島裕翔(Hey!Say!JUNP)、玉森裕太(Kis-My-Ft2)、中島健人(Sexy Zone)、橋本良亮(A.B.C-Z)がその系譜を引き継ぐと考える」と述べます。

また、著者は、ジャニーの「人に何かを貰って、『ありがとう』、と自然に言えない子は要らない。親の育て方の違いはあると認めたうえで礼儀は最低限に持ち合わせなければダメ。その資質がないとジャニーズとしては失格。それにしても最近(2000年以後)は小学高学年や中学生がウチへ写真付き履歴書を送ってくる。最初の頃(1960年代~70年代)は高校生が中心だったから、ずいぶん若返ったなって」という言葉を紹介します。ジャニーズジュニアが300人を超す状況でのチーム編成にジャニーが拘る理由と、ジャニー本人の創成期から不変の「デビューはできるだけ遅くする」の戦術が基盤にあるとして、ジャニーの「デビューしたら勝負の大半は付いたのと同じ。世間に出したら失敗は許されない。殊にチームというグループ(団体)だとデビュー時のイメージを中途で変えるのは致命的になる。だからそれまで(デビュー前)に、個人の能力とチームの個性を最大限に磨き膨らませる戦略が効果的なわけよ」という言葉も紹介しています。

「『嵐』の顛末(一部始終)」では、ジャニーが明かすグループの個性を形成する準備期間中に、メンバーの性格が露わになるとの信念がそうさせるから、メンバーをデビュー前に変更することは辞さないことを指摘し、著者は「初期にはフォーリーブスの年少の永田英二から優等生的キャラクターの青山孝に変更し、嵐は当初、最近バラエティ番組で冴えた進行が評価される村上信五(関ジャニ∞)も構想内だったが大野智に落ち着く。理由は、ダンスや歌唱力に定評のある大野は櫻井や二宮の都会的な品性とも融和し、松本の放つ強烈なスターセンスともぶつからず、フレンドシップな相葉とチームの色彩を中和する効果があるとの判断だ。当時、ジュニアだった大野は長期間、舞台の出演(京都)をしていた関西での活動を意図していたようだ(後年、大阪のストリートダンサーとの交友も噂された)。だから大野自身には苦渋の決断だったようだがジャニーは必死で説き伏せた」と述べます。

「ジャニーの試行錯誤の脱出」では、ソロでのデビューがジャニーズの少数派となる要因は、郷ひろみ、田原俊彦、近藤真彦以外は「成功した」とは言えないからで、ジャニーの危機感は深く、振り返って、創成期の指針として掲げた「グループ人選」に戻るキッカケになることを指摘します。また、「TVドラマ『3年B組金八先生』(TBS)に出演の『たのきん』の成功は、ジャニーの『デビュー前のTVドラマ出演』(最初は郷ひろみのNHK大河ドラマ『新・平家物語』出演。1972年1月)という売り出し戦術の1つとなる意味で、ターニングポイントになる。これ以後、薬丸裕英・本木雅弘・布川敏和をTVドラマのレギュラーに出演させ、『シブがき隊』でデビューさせると、3年後に『少年隊』を披露して『トリオ編成』を一時、ジャニーズのメインに据えた」と述べます。

トリオ編成をメインに据えた理由は、後に予定する7人組「光GENJI」(『パラダイス銀河』で1988年度日本レコード大賞受賞。デビューは1987年)への布石だったといいます。「時代を盗むジャニー」では、著者は「1980年代後半に入ると日本の音楽状況が一変した。昨日までアマチュアだったグループがレコード(現在のCⅮ)デビューしてTV音楽番組の常連になり、別のジャンルの素人っぽさを前面に出す『フォークグループ』も台頭するなどプロ歌手との境目が曖昧になる状況を迎えた。端的には、歌を聴かせるのではなくて『歌を見せる時代』に変化した」と述べています。

「ジャニーの新戦略」では、従来の可愛い系ジャニーズ顔のメンバーではなく、男っぽさが色濃く匂う4人組の男闘呼組(岡本健一・高橋一也・成田昭次・前田耕陽・デビューは1988年)、意表を衝くグループネームの6人組の忍者(少年忍者改名・正木慎也・遠藤直人・柳沢超・志賀泰伸・高木延秀・古川栄司・デビューは1990年)、デビュー時は6人組のSMAP(デビューは1991年)等で、以後、ジャニーは多人数チームに、プリンス系、可愛さ、ヤンチャ、スポーティーな活動にプラスして、「笑いの要素を塗す」「リードボーカルを設定」など、アクセントを一点加える様式への転換を加速したことを指摘し、著者は「すなわち、元祖ジャニーズからの伝統は『メンバーはハモらない。斉唱(ユニゾン)に徹する』だった」と述べています。

メンバーはハモらない。斉唱(ユニゾン)に徹するという特質を徹底する方式は「ジャニーズソング」を広く世間に知らしめるに成功した戦略でした。チームにリードボーカルは不要だったのです。そうしたジャニーズルールを乗り越えたのが、1994年にデビューさせ、リードボーカルを設定する5人組のTOKIO(城島茂・山口達也・国分太一・松岡昌宏・長瀬智也)の発表でした。著者は、「リードボーカルを担った最年少の長瀬は、豊かな声量と表現力でジャニー(及びファン)の期待に応えた。自信を得たジャニーは世の動きを手玉にとるように、ファンと業界を驚かせる戦術を次々に公開する絶好調期を謳歌する」と述べるのでした。

六章「苦難の先に見た楽園――まだ道は続くと信じる」の「新しい光明」では、「たのきんトリオ」を後押しするファン層がドラマのストーリー展開とリンクし、田原・近藤・野村のキャラクターとそれぞれが演じる役柄が練られたシナリオの成果で同一視される二重の効果だったと指摘し、著者は「画面を通しての彼らの自然な演技が画面を占領する諸々の相乗効果をも生んだ。視聴者がドラマの役柄と、演じる役者本人とを混同視する心理はよくある。特にティーンエージャーをストーリーの主役に据えるドラマの特質だ。ドラマは視聴者のイメージを膨らませて演じる役者に同化しがちであるからだが、その風潮をジャニーはこの直後の時期からジャニーズのイメージ付けに援用する。アイドル性の濃い田原が1980年以後、先に人気を得て、次いで近藤が後を追った」と述べています。

「ジャニーの気遣い」では、新たにデビューするジャニーズグループに、「バックダンサー」が付くのをジャニーは徹底しましたが、バックダンサーはジュニアからの選抜で構成したことが紹介されます。著者は、「彼らを出演の場数で現場のキャリアを踏ませ、今後のグループメンバーの選定にする思惑があった。この方針が後に触れる『プロのダンサーで見せるのが義務であり責任』と主張するジュリーとの決定的な対立となる。フォーリーブスは元祖ジャニーズのバックで踊って経験と人気を勝ち得たし、光GENJIのバックはSMAP、KinKi Kidsのバックダンサーは嵐だった」と述べます。

「ジャニーの喜怒哀楽」では、21世紀を迎え、嵐(1999年にデビュー)以降、9人組のNEWS(山下智久・錦戸亮・内博貴・小山慶一郎・森内貴寛・加藤成亮・草野博紀・増田貴久・手越祐也。2003年デビュー)、8人組の関ジャニ∞(横山裕・渋谷すばる・村上信五・錦戸亮〈兼任〉・丸山隆平・安田章大・内博貴〈兼任〉・大倉忠義。2004年デビュー)、6人組KAT-TUN(2006年デビュー)と、ほぼ2、3年おきにジャニーは前述の理由から多人数グループを送り出したことを指摘し、著者は「多人数グループの泣き所は、『メンバー間の意思の疎通』だが、一方で錦戸は当初、NEWSと関ジャニ∞の掛け持ちをするなど、本人の才能が高かったとはいえメンバー構成にジャニーの混乱が見られた」と述べます。

「滝沢秀明の存在感」では、ジャニーズは「4人組」を基礎定理にスタートしたことが指摘されます。著者は、「1962年に結成した元祖ジャニーズからフォーリーブスを経てジュークボックスなど創成期(1972年の郷ひろみデビューまで)にメンバーの人数に拘ったのは、ジャニーがグループ戦略の徹底化を図る思惑のためだ。それを実現化する戦術は成果に紆余曲折あるなかで、今日の多様性にこそ『ジャニーによるジャニーズ』、という縦糸が明確化するのを見れば明らかである。その目論見を現実化させたのが、『タッキー&翼(滝沢秀明と今井翼)』だった」と述べています。

タッキー&翼の正式披露は、次代の代表格としてデビューした「嵐」から3年後(2002年9月)でしたが、「タッキー&翼」は満を持しての公開と分かるとして、著者は「何故なら、彼らの正式出発点がシングル盤ではなく、幅広い実力が試される『アルバム(『Hatachi』)』という異例の戦術だった。歌唱精度の高さは『KinKi Kids』かもしれないが、『タッキー&翼』が持つフレンドシップな雰囲気は、ジャニーが好む『少年美の結晶』に到達し、ジャニーズの集大成に映った。彼ら2人組は当時100名を超えるジャニーズジュニアの灯台の存在になり、頑張れば自分たちも『2人』のように事務所(ジャニー)の強力な後援を得てバックダンサーではなく、『晴れのステージの主役』に上り詰められるとの勇気を貰った」と述べています。

「第三期黄金時代の後始末」では、2005年のこと、ジャニーが異なるグループからのメンバーを組み合わせる、言わば「スピンオフ」のコンビを容認する稀なケースが誕生したことが紹介されます。それが「修二と彰」と名乗る亀梨和也(KAT-TUN)と山下智久(NEWS)で、CⅮ『青春アミーゴ』をリリースし、反響を得ました。著者は、「もちろん、2人のキャラクターが『陰と陽』を形成するのを計算してのジャニー戦術の成功例だ。この前後の時期は一時の危機を乗り越えたジャニーの新黄金期と言っていい。以降、『Hey!Say!JUNP』、『Kis-My-Ft2』、『Sexy Zone』、『A.B.C-Z』、『ジャニーズWEST』、『なにわ男子』、『King&Prince』など多人数グループへシフトを戻し、第三期黄金期(2004年以降スタート)へ突入する」と述べるのでした。

七章「異色の道を選ぶジャニーズたち――素質を花咲かすジャニーズ」の「それぞれの道程」では、著者は「今、ジャニーズのなかで木村拓哉(元SMAP)と岡田准一(V6)は、もっとも『俳優業』が充実しているとの見方を筆者はする。さらに挙げると、東山紀之(少年隊)、松岡昌宏(TOKIO)を先頭に、松本潤・二宮和也(共に嵐)、錦戸亮・横山裕(共に関ジャニ∞)、亀梨和也(KAT-TUN)、山下智久は役柄によって異色の持ち味を発揮するが、俳優としての別格は筆者の感想としてナチュラルな演技の中居正広(元SMAP)と思っている。商業演劇の舞台に眼を転じれば、滝沢秀明、坂本昌行・森田剛(共にV6)、第26回読売演劇大賞・最優秀男優賞(2018年)を『岸 リトラル』『ヘンリー五世』で受けた岡本健一(元男闘呼組)と堂本光一が光って見え、なかでもミュージカルの舞台に於ける堂本の充実ぶりは圧巻であるが、森田の商業演劇での評価も高い」と述べています。

「木村拓哉と岡田准一の違和感」では、ジャニーがロサンゼルス時代の青年期、当時のアーニー・パイル・シアター(本人談)での目撃体験が影響すると繰り返すとして、「1時間の激しく華やかなステージを熟して楽屋に引き上げた出演者は、ほとんど即死状態のようで疲労感が目立った。メーキャップを落とすとほとんどが40、50代だった。これが本物のエンターティナーだ」と刺激を受けた話が原点だと紹介します。ジャニーは「あの体験がジャニーズはティーンエージャーで終わる存在にしてはいけないと決心した最初。短期間で消耗するような素材は捨てようと決めたのは、ボクがその子の20年、30年先を見通す理由から」と本意の源流を語ったそうです。

「只者ではない俳優・岡田准一」では、著者が岡田准一(V6)はジャニーズ出身で「最高の俳優の1人」と評価するとして、「2015年の第38回日本アカデミー賞で快挙を達成する。岡田は『永遠の0(ゼロ)』(2013年)のパイロット役・宮部久蔵役で最優秀主演男優賞、『蜩ノ記』(2014年)の藩の侍(サムライ)・壇野庄三郎役での最優秀助演男優賞を同時受賞する。現役のジャニーズ事務所に所属する身分での受賞は初めてだ。岡田を評価する根拠の1つに、時代劇と現代劇での異なる世界観を内に秘める人物像を演じ分ける意識改革にある。時代劇も現代劇も器用に演じ分ける俳優は現代日本芸能界に幾人か挙げられる。役所広司はその代表的存在だ。岡田は役所を、「憧れの存在でした。自分は現場ではずっと役所さんを見続けていました」と語っています。

「『岡田っていいよ』の評判」では、黒澤明作品のスクリプター(記録係)で名を馳せる野上照代が、『蜩ノ記』の小泉尭史監督から「岡田っていいよ」と言われたと語ったことが紹介されます。小泉監督は「立ち回りがすごい。スピードもあって、昔の三船(敏郎)さんみたいに」と言ったとか。岡田主演映画『散り椿』(2018年)の木村大作監督も同様で、「岡田(准一)さんはいろんな武術をやっていると聞いていたけど、あそこまでやれるとは驚きました。理に適った殺陣になっているから納得できました」と述べたそうです。著者は、「岡田が『格闘技オタク』とは最近になって知られるようになったが、すでに1990年代にはアメリカのFBIも検討し、やがて採用するフィリピン発祥の『カリ』など三種の格闘技師範資格を保持するまでに技と精神を体得している」と述べます。

「厳格な監督を満足させる」では、岡田の「人間的に一回り大きくなりたい」との願いが実り、女優宮﨑あおいと結婚して男児を得た(2018年10月)のもバックボーンになったと指摘し、著者は「因みに、現在、女優と結婚したジャニーズは東山紀之、井ノ原快彦、森田剛など存在するが、ほとんど家庭の風景を表に出さない。それは、『結婚は許可するが、「幸せな家庭像」を公開してはならない』という事務所の決まりがある。ジャニーズに夢を託すファンを裏切ってはいけないという『無言の掟』だ。ストイックな役柄が増える岡田を高く買う関係者は役者だけではない。映画『散り椿』の監督木村大作は、すっと立つたたずまいや、ふっと見せる表情が『高倉健』に通じると評価する。これ以上の誉め言葉は映画界ではなかなか見いだせない」と述べます。

「アラン・ドロンの『名言』」では、1960年代から世界の映画界で象徴的存在の俳優だったフランスのアラン・ドロンを取り上げられます。彼は、NHK(BS)のロングインタビュー(2018年視聴)で「演技の学校を出たコメディアン(俳優と解する・筆者注)は『役を演じる』。演技のレッスンを受けないで映画に出た者は『役を生きる』。その違いがある。私は後者の『役を生きる』ほうだ」と発言しました。著者は、「この言葉が記憶に残るのは、『役柄に向き合う俳優の心構え』に感じたからで、私見で当て嵌めると、『役を演じる』は木村拓哉、『役を生きる』は岡田准一だろうか」と述べています。

著者は、「木村には生まれながらの『豊かな素材』を自在に抱えての俳優像を感じる。だから振り与えられた『役』によって天性の豊富な素材から自ら選択し、磨き上げる努力を惜しまない人間性が際立つ。『役を演じる』は木村の才能が迸る瞬間に輝きを強めるのを知るというように、である。他方岡田は、『身内の素材』に恵まれないとの自覚も忘れない(むろん一般的なレベルを超えるが)。それを承知するので『配役』に現実的に向き合わざるを得ず、役柄そのものに成りきろうとする。限定される身内の素材として成りきらざるを得ないのだ。こうした両者への事例は筆者の断片的な印象での感想かも知れないが、木村と岡田の俳優履歴を散見するに、アラン・ドロンの言葉が身近に理解できる気がするのは否定しようがない」とも述べます。

「東山と中居と松岡と」では、東山紀之(少年隊)の端正な風貌はジャニーがグループ構成で必ずセンターに立たせるタイプだと指摘し、著者は「SMAPのオリジナルメンバーの森且行(脱退)、KinKi Kidsの堂本光一、嵐の松本潤、NEWSのオリジナルメンバーの山下智久、関ジャニ∞の錦戸亮、KAT-TUNの亀梨和也、Hey!Say!JUNPの中島裕翔、Kis-My-Ft2の玉森裕太、Sexy Zoneの中島健人、A.B.C-Zの橋本良亮、King&Princeの平野紫耀など多彩だ」と述べています。

終章「楽園の終焉へ――好きな子しか選ばない内幕」の「ジャニーズの原型」では、「色道二道(男から見ての性愛の対象は女に限定せずの意)」が常識的な習俗であった戦国時代の三大美少年(名古屋山三郎・不和万作・浅香庄次郎)は歌舞伎などに出て来ますが、江戸の初期、美男子を代表したのは月代を剃らない総髪で形よく髭を生やした「侠客」であったと指摘し、著者は「彼らは、かぶき(傾奇)者と呼ばれ女性の憧れだった。侠客の容貌は「男振」と言われて男女に大いに好まれた」と述べています。

また、前髪を残した色白の小姓(若衆)は武家に召し抱えられ、性的な部分を含めて寵愛された史実があることを指摘する著者は、「ただ、御家断絶を避ける慣習が強くなった江戸中期以後、男色は衰え、残った対象は中性的な美少年がもてはやされる傾向に変わる。江戸後期の画家・歌川国芳が描く役者絵の外見は勇猛果敢に見えるが、顔立ちは色白で髭はなく、清涼感さえ漂わせる印象があるのは、唐突だがジャニーが求める「ジャニーズ」の原型に繋がっているように思えた」とも述べます。

「ジャニーの実像と虚像の落差」では、著者は「短絡的だが、極楽、パラダイス、浄土と意味を辿れば人にとっての楽園とは、『居心地のいい最高の場所』となる。当然、好きなウチの子と過ごせる『空間』をジャニーは何より守りたいと外部の偏見と闘い、それゆえ『他人の眼』を嫌う。問題は、果たしてジャニーにとってのみ楽園で、少年たちにとっての楽園だったかが定かでない一点だろう。何故なら『合宿所』で暮らした幾人かのジャニーズ、そしてジュニアが『暗闇の時間』を外部に洩らす事実が集中して起きたからだ」と述べています。

「稼ぎ頭『嵐』の存在」では、嵐のメンバー選びは久しぶりに「ジャニーの本流(元祖ジャンーズ)」を意味したとして、著者は「貴公子の松本、優等生の櫻井、甘い二宮、地味に支える大野、明るい相葉。このグループバランスはジャニーの理想像を造形する。しかし、嵐のデビュー後、先行するSMAPとあらゆる面で拮抗し始めたのは、TV局を優先するジュリーの営業力に負うところが多かった」と述べています。

「ジャニーの涙の理由」では、ジャニーには戦争体験があることを指摘し、著者は「軍隊での上下関係が厳しいのは、戦意を統一させることで軍勇の高揚のためだが、その基本は「言葉遣い」にある。ジャニーがジャニーズの言葉遣いに厳しく接するのは、このような軍隊生活(実際は通訳)での影響があったのだろう。『挨拶は人間関係の基本。それができないのはジャニーズではない』ジャニー語録である。だから、ジャニーズの言葉遣いには神経を遣う」と述べています。

「楽園の終焉、そして」では、「成功の秘訣は目的の一定不変なるにあり」というサミュエル・スマイルズの言葉を紹介しながら、著者は「ジャニーズの誕生とは、彼らを「ピース(一片)」に譬える『楽園の君主ジャニー』の性的特質や、身の丈を超える故郷(ロサンゼルス)への凱旋と日本同化への執念を原点にするものであった。異能の男の半世紀は、周囲の人間を巻き込んで紆余曲折が相半ばした半生、と記して筆を擱く」と述べるのでした。

本書の刊行は2019年ですが、最近のジャニー喜多川に関する報道を理解する上でも最高のテキストとなる内容でした。ジャニー喜多川氏のCIAスパイ説というのは初めて知りましたが、「そういえば…」という点があるのは確かです。著者は不躾とは思いつつ、ジャニー氏に「CIAのスパイだったの?」と尋ねたことがあるそうです。すると、ジャニー氏は「米国の情報機関で働いたことはあるけど、それ以上はノーコメント」と言ったとか。著者は、「ことアイドル像については多弁な彼も、自身の過去については口を閉ざしていた」と書いています。いずれにせよ、自身の嗜好を満足させる楽園を築け、それが最高のビジネスにもなったなんて、ある意味で最高に幸せな人だったと思います。

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