No.2234 芸術・芸能・映画 | 評伝・自伝 『女帝 メリー喜多川』 小菅宏著(青志社)

2023.04.28

『女帝 メリー喜多川』小菅宏著(青志社)を読みました。一条真也の読書館『異能の男 ジャニー喜多川』で紹介した本の続編です。メリー喜多川は、ジャニー喜多川の実姉です。本書はメリー死去後の2022年に刊行されました。著者は、作家。東京都出身。立教大学卒、集英社入社。週刊・月刊誌歴任後に独立。徹底した現場主義で社会と日本人の内実に迫るドキュメント取材に拘る。関連著書『芸能をビッビジネスに変えた男 「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(講談社)、『アイドル帝国ジャニーズ50年の光芒』(宝島社)、『ジャニーズ魔法の泉』(竹書房)他。

本書の帯

本書のカバーに使用されている船舶写真は、北米と日本を就航した貨客船「秩父丸」。カバー前そでには、「日米関係の危機が叫ばれ始めた1933年(昭和8年)、米国生まれのメリー喜多川と弟のジャニー擴(ひろむ)喜多川は、家族とともにこの秩父丸でロサンゼルスから一時帰国して、日本の土を初めて踏んだ。姉弟の波乱にとんだ人生の航路が始まった――」と書かれています。本書の帯には「『SMAP』『嵐』をめぐる真相と決断、 一途なる経営理念。年商1千億円。ジャニーズ帝国を築き上げた鉄の女の誰も書けなかった禁断の素顔」「ノンフィクション」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、「メリーが口癖のように繰り返し、語った内容は、おおよそ次の言葉である。『ニッポン人は自分の意見に合う人としか付き合わない。ディスカッションが苦手よね。ワタシは自分が信じたことは主張するし、絶対に行動することを躊躇わない。その生き方を受け入れない人はそれでいい。ワタシは自分が信じたことはどんなに非難されても曲げない。大袈裟かも知れないけど今のニッポン人にはそれが少し足りない気がする。すべてがアメリカ第一と言うつもりはないけど』(本文より)」

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「誰も書けないその素顔」
第一章 原点は「ウチの子」

第二章 SMAPの光と影

第三章 嵐と血族

第四章 女帝メリーの本音

第五章 メリーとジャニーの

    決定的対立

第六章 てっぺん
あとがき「女帝ではなく、むしろ女傑の人生」

「誰も書けないその素顔」の冒頭を、著者は「『女帝』と呼ばれた彼女たち(例えばクレオパトラ・カテリーナスフォルツァ・ポンパドゥール・エカテリーナ2世・北条政子・西太后ら)の肖像画は、本物以上に美しく華麗に描かれると聞く。女帝の源流は紀元前50年ごろのエジプト最後の王朝7世クレオパトラと伝えられる。彼女らは異常な権勢力と財政力への欲求が人一倍に強かったとの人物像で共通する──」と書きだしています。

本書が刊行された2022年(令和4年)は元祖ジャニーズ(あおい輝彦・飯野おさみ・真家ひろみ・中谷良)が結成され、ジャニーズ事務所が創業(1962年4月・昭和37年)して丸60年で、ある意味、半世紀を超える記念碑的な年回りでした。著者は、「一口に半世紀と言っても、限られた人生しか与えられない私たちにはかなり長い年数ではある。私はメリーとジャニーに出会ってその半世紀を超える日数を経験した。むろん、一族郎党の血縁ではないし、仕事のうえでの付き合いでしかない。けれども半世紀は長い。これほどの年月を経験するとは夢想もしなかった」と述べます。

ジャニーズ事務所の半世紀を超える原動力の根源は晩年に女帝と呼ばれたメリー喜多川の圧倒的な力を抜きにして語れないとして、著者は「本著はこれまで明かされなかったメリーの貪欲な野望の生きざまを、週刊誌の担当編集者として(後に物書きとして独立)仕事をしてきた著者の、50年にわたる全記録である」と述べるのでした。

第一章「原点は『ウチの子』」の「ニッポン同化への執着」では、ジャニー喜多川は女性心理を綿密に分析して、自ら「おんな(心)」となり、単独の男子では理想の男子像を組み立てられないと見極め、「グループ」という形式を基本にしたと指摘し、著者は「ジャニーの『おんなの心』とは彼自身が異性の感性で少年の全体像を観察して愛せる能力を有すると私は見る」と述べています。

また、複数の個性をグループに組み立てればそれぞれのキャラクターの味付けが加わることで、女性心理の理想形になるとの原理を先天的な感覚として持つジャニーは、緻密に計算ができたと指摘し、著者は「彼はグループとは呼称せず、チーム、と呼び、メンバーを『ウチの子』と称した。『そのキャプテン格を自身が兼務するのを生き甲斐にした』と私に打ち明けた背景が原点にある。その彼の感性から誕生したグループを側面から全力でサポートしたのが姉のメリーだった」と述べます。

「『ワタシは真っ白なスケジュールが嫌いなの』の持論」では、ジャニーズ事務所は1962年(昭和37)4月から、元祖ジャニーズのスケジュールのデスクとして間借りしていた渡辺プロダクション(旧)から、ジャニー喜多川が独立して元祖ジャニーズを手元に置いて創業したのが始まりであると紹介されますが、「ただし、ジャニーズ事務所はジャニーの個人事業のための『商号』であって、法人登記して株式会社にするのは1975年(昭和50)1月になってからだ。元祖ジャニーズ(あおい輝彦・飯野おさみ・真家ひろみ・中谷良)が解散(1967年・昭和42年12月)して、単独にマンションの1階を借り、その後に場所を変えた後、東京・渋谷の児童会館(当時)の前に移った」と説明されます。

「メリーの抱く野心」では、ジャニーズアイドルが事務所を退所する際に、著作権を盾にメリーが取りつける一項目は、ジャニーズアイドル時代の「芸名使用」権だ。退所後にこのことは一切許さなかったことが紹介されます。著者は、「あれほど可愛がった豊川誕にしても同様の処置を断行した。豊川は『豊川ジョー』としか名乗れず、落ちこぼれていった。ジャニーズ事務所に所属していた期間に使った写真・映像とともに、メリーは外部での芸名使用は許さなかった」と述べます。

飛び去った元ジャニーズアイドル。それは「ウチの子」として育てた自分やジャニーへの裏切りと映ります。著者は、「許しがたい。メリーの矜持を突き破るからである。唯一の例外として『郷ひろみ(本名・原武裕美)』の芸名をメリーは許した。メリーはそのときの詳細を明かさないが、「郷ひろみはジャニーと自分が育てたウチの子」のプライドが捨てられなかったと私は考える。『ワタシとジャニーがいたから郷ひろみは芸能界に存在する』とのプライドは揺るがないと考察できる」と述べています。

「『ウチの子』への愛情表現」では、タフなネゴシエイター(交渉人)、それが交渉人メリー喜多川の裏の顔だとして、メリーの特質を言い表す独特の言い回しとして「ワタシにとってウチの子はジャニーが育てた子だけ。そしてワタシの手元で成長した子だけ。それしか興味が持てないもの。出ていっちゃった子はもう他人。他人に愛情は捧げられない」という発言を紹介し、著者は「私は初期の段階にこの発言を耳にして、メリーの愛情は片翼の天使なのかと感じた。つまり、自分の手の内にいる者にしか興味を示さず、懐から飛び去ったアイドルにはまったく関心を喪失する。ときに憎しみさえも抱くほど価値観を違える」と述べるのでした。

第二章「SMAPの光と闇」の「SMAPの解散の余話」では、メリーの発言が事務所内では絶対であり、「女帝」と呼ばれることに恥じない発言と振る舞いをすることが許されることが紹介されます。事務所内の決定権も選択権もメリーの手の内にあります。メリーの意思が「掟」なのだから絶対である、と。著者は、「メリーは昔から家族愛が強い。異常なほど血族にこだわる」と述べています。誰にも止められない権力を行使することが可能であり、決定権を独占的に保持する現状にあってはジャニーでさえ黙認したそうです。

世評はメリー喜多川をジャニーズ事務所の最高権力者として見たと指摘し、著者は「メリーが決めたことがジャニーズ事務所の『決まり事項』に横滑りすることで、女帝と呼ばれるのを本人は恥じらいなく受け入れた。そして、血を継ぐ者に後継は限られると言う。『ジャニーズが家業』と語る娘ジュリー景子藤島が事務所の後を継ぐのは決定事項とメリーは声高に述べた。『何をいまさら』がメリーからすれば世間に向ける発言を後押しした」と述べます。

「ジャニーのエネルギー源」では、滝沢歌舞伎が取り上げられます。元祖ジャニーズのデビューした1962年(昭和37)4月から約半世紀。メリーがジャニーとともに辿り着いた着地点は「ニッポンの伝統芸能」でした。著者は、「事務所創設期に、『アメリカの物真似で何ができる』『日本文化を舐めるな』という無視する視線を浴びた出発点を振り返ると、特に感慨深い到達点ではなかったろうか。それらすべての感慨は、『ウチの子』たちの双肩にあったのをメリーは忘れていなかったと思う。徹底して行動できたエネルギー源は、『彼ら(ジャニーズアイドル)』の存在であり、それがメリーの生き方を支えたのだ」と述べます。

「メリーとSMAPの微妙な関係」では、ジャニーズグループの歌唱法は伝統的にユニゾン(平等歌唱)であることが指摘されます。SMAPに限れば森且行の存在なしでは考えられなかったといいます。しかし、ジャニーが期待したほどデビュー後のSMAP人気は爆発しませんでした。歌唱もダンスも平均的で同世代女子への強力な訴求力に欠けました。市場の評価はすべて平均的と判定されました。著者は、「ジャニーは内心焦ったと思うが、アイドルグループは歌もダンスも平均的では人気が沸かないのを誰よりもメリーは気づいていた」と述べます。

焦ったジャニーはメリーにプッシュされて新しいグループ作りに前のめりになり、SMAPから遠のきました。メリーも半ば、SMAPを見限ったように、「アンタ、SMAPの面倒を見てちょうだい」と事務所の少年隊(錦織一清・植草克秀・東山紀之)のデスクだった飯島三智に丸投げしました。仕事の少ないSMAPのメンバーは事務所に集まる機会が多くなり、結果としてデスクの飯島に悩みを打ち明ける間柄になる。飯島も丁寧に彼らと相対したことで相互信頼が生じたのでした。

「ジャニーの才能の見つけ方」では、ジャニー喜多川の「歌は声質を除けばよほどの音痴でない限りレッスンをすれば何とかなる。でもダンスは運動神経よ。スポーツを好きな子は運動能力があると分かるのよ。それを見分ける自信があるもの。ボクの個人的なカンだけど。その才能(スポーツ)がない子は幾らダンスのレッスンをしても、ある一定のレベルにしか到達しない。それではダメなの。ボクが目指しているのはそんなレベルじゃない。ミュージカルの世界はダイナミックなダンスと歌と芝居の合体。そのなかでもダンスは欠かせないポイントになるわけ。ボクが彼ら(ジュニア)にリクエストする最初は歌でも芝居でもなく、ダンスよ」という発言が紹介されます。

「事務所の後継者問題」では、アメリカ帰りと差別され、ジャニーズ英語だと奇異な視線に曝された日々への反抗心がメリーを一層、血族へ回帰させたというのが著者の正直な感想であるとしながらも、「反面、ジャニーは外部の声に比較的冷静だったように感じたのも、ジャニーズアイドル全員を自分で見つけ(選抜)、磨いて(訓練)、育てあげた(デビュー)絶対的な自己確信が揺るがないからだと私には窺えた。外部から見ると、メリーとジャニーのジャニーズアイドルへのスタンス(立ち向かい方)は矛盾しているようにも思えるが、実はこの立ち位置の異なる現実の構造の両立で、ジャニーズ事務所は全盛を極めたとも指摘できる。少なくとも外部的に穏便に見えていた事務所内の生々しい真相とは、血族の争いに発展する始まりになっていたのだが、おそらくその動きをジャニーは見過ごし、メリーは予見していたと思うのである」と述べています。

「派閥争いの結末」では、SMAP低迷時期(1991年・平成3年)以降、財政面での事務所経営と闘うメリーに背中を押される形で、ジャニーは新しいグループの結成に励んだことが紹介されます。その結果、TOKIO(1994年9月)、V6(1995年11月)、KinKi Kids(1997年7月)、1999年9月に嵐のデビューとなりました。それ以後も立て続けにタッキー&翼(2002年9月)、NEWS(2003年11月)、関ジャニ∞(エイト)(2004年8月)など以前に比べると、手持ちを整理するような手際での間隔で、ジャニーズジュニアを選んでは組ませる(チーム編成)作業が目についた。その性急と見えた傾向を「ジャニーは焦っている」と噂されましたが、それは事務所の裏面(財政的状況)を知らぬ人間の憶測だったといいます。

1950年代、メリー喜多川は東京・四谷にカウンター・バー「スポット」という店を経営していました。戦後、アメリカンポップスが流入されて、日本は完全にアメリカ文化の占領下になりました。メリーが営む「スポット」の雰囲気は、まさに「アメリカ」でした。著者は、「カウンターに並べられたのは和風料理とは真逆のアメリカンテイスト満載の食べ物だ。最初、客は眼を丸くした。ほとんどの庶民は現物を見たことがなかったのだから当然だったろう。日本人客が経験のない味覚の虜になったのはメリーの手作りした西洋風料理だ。むろん有料だが、味付けは日本人好みに変える手際よさもメリーの差配によったのだった」と述べています。

「不安の芽生え」では、ステージで「幸せを売るスター」を次々に誕生させたジャニーズアイドルの裏に、ジャニーが矛先を定めたのが実の姉(メリー喜多川)だったのは皮肉だとして、著者は「ウチの子だからこそ愛し、ウチの子だから守る。メリーにはその二者しか存在しない。それがメリーの生き方であり、結果は女帝(晩年は名誉会長)と呼ばれた権力誇示で、ジャパニーズドリームを叶え、日本有数の資産を抱える億万長者に昇り詰めた。その事実が証明するのは手にした物的資産とジャニーズアイドルの人的資産であった」と述べます。

「SMAP解散とメリー」では、SMAPの栄光を面前に、負けず嫌いのメリーは逃れられない苦渋に耐えなければならなかったことが指摘されます。自尊心を痛める存在がSMAPだったのは苦悶以外、何物でもありませんでした。その最大の元凶は自分の「丸投げ」であって、その事実が消せない過去から逃れられない憂鬱の源流になったのです。著者は、「思えば皮肉である。ウチの子は可愛い存在であり、利益をもたらしてくれる存在なのに、SMAPはウチの子として懐に入れにくく、にもかかわらず彼らからもたらされる利益は増大する一方だ。嬉しさも半分ではない。メリーからすれば悔しさ全部なのだ。少なくともSMAPに関してのメリーの立ち向かい方は、常に過去の自分への遺恨だった気がするのだ」と述べるのでした。

第三章「嵐と血族」では、かつてメリー喜多川は著者に「人を惹きつける磁石みたいな存在、それがスターよ」と漏らしたそうです。その本音は正論であるとして、著者は「その個性の魅力に惹き寄せられ、母性に訴えかける「少年の陰鬱な影」をメリーは本能的に嗅ぎつけ、愛した。具体的には北公次、近藤真彦、豊川誕のタイプだ。『魔力みたいなものを持つ人がスター。ワタシはそう信じる』と明かすが、メリーが納得するジャニーズアイドルの本質は、『何とかしてあげたいので応援する』といった母性に揺り動かされた魔力と見た。となれば北、近藤、豊川はメリーの異性としての個人的な好みだったと分かる。メリーは近藤(マッチ)を最晩年まで可愛がった。近藤の母親との交流もあった。メリーは遠慮なく甘えて来る近藤の母性をくすぐる少年っぽさが好きで、近藤もメリーの私的電話に連絡を欠かさなかった」と述べています。

2020年(令和2年)、メリー喜多川と近藤真彦の関係が亀裂しました。肝心の近藤は、よりによって不倫事件を起こしてメリーを苛立たせ、事務所から退所せざるを得なくなります。著者は、「創業時からメリーはジャニーズアイドルの異性関係を注視し、厳重に禁じた。とは言うものの、当時の現実として近年、ジャニーズアイドルの結婚が連続する。だが、それを許可する条件に、『絶対に家族写真は公開しない』ことをメリーは厳守させた。ファンあってのジャニーズであって、スケジュールを真っ黒にする重要な要件になる、と固く信じたからである」と述べます。

「時代の風を読む感性」では、1980年(昭和55)の山口百恵の引退が発火点になり、怒涛のように女性アイドル歌手がデビューし、日本の芸能界に旋風を起こしたことが紹介されます。著者は、「世間の流れを見極める眼力に恵まれたメリーが立て、ジャニーに進言したからではないかと見る」と推測します。松田聖子を筆頭に、河合奈保子・柏原芳恵・三原順子(以上1980年)、松本伊代・伊藤つかさ(以上1981年)、小泉今日子・中森明菜・早見優・石川秀美・わらべ(以上1982年)、荻野目洋子・長山洋子・岡田有希子・菊池桃子(以上1984年)、南野陽子・斉藤由貴・本田美奈子・おニャン子クラブ(以上1985年)、国生さゆり・新田恵利・西村知美(以上1986年)、工藤静香・酒井法子・森高千里(以上1987年)、西田ひかる・Wink(以上1988年)など目白押し状況で、右も左も女性歌手のオンパレードで人気を競い合いました。

「メリーの3人の秘蔵っ子」では、メリー喜多川が「ウチの子の長男」と口にして眼を掛けた北公次が、性格が好みの近藤真彦が、ギミックのモデルにした豊川誕が、長期間ジャニーズアイドルとして活動しなかったのは皮肉であると指摘し、著者は「メリーにとっての「魔力を持つジャニーズアイドルたち」は、それぞれメリーを裏切り、メリーの懐から飛び立っていった。おそらくは歯噛みをする思いだったろうが、それに関して一切、メリーは私の質問に無言を通した。そしてそのたび公私の区別の曖昧さを裏切るように私に向かい、これだけは言ったのだ。『スターは魅力のかたまりの人がスターと呼ばれる資格がある。だから危険な香りがする』と。『その(危険な)香りに惹かれる』とは語尾を曖昧にして口にしなかったが、滅多に見せないメリーの女の素顔を見た気がした。端的に言えばメリーが愛した『スター』は悲劇性のヒーローだった。彼らについて言葉が少なくなるのは当然で、さすがにそのときだけは強気に満ちるメリーの面貌に血が通って見えたのは事実である」と述べます。

「吹き荒れる嵐旋風」では、2000年(平成12)以後、「嵐」はまさに嵐のように吹き荒れ始めたことが紹介されます。著者の根拠は、グループ構成(相変わらずジャニーはチームと称した)を同世代に設定したこと、光GENJIの7人組をジャニーが得意にする少数精鋭5人組にしたこと、初期のジャニーイズムを原型にして組み直したことなどから推断が成り立ったといいます。著者は、「5人のキャラクター設定を優等生タイプの櫻井翔、プリンスタイプの松本潤、ナチュラルな二宮和也、お茶目な親しみのある相葉雅紀、そしてキャプテンに指名された大野智。なかでも大野の起用はジャニーが好む『哀愁を漂わせる雰囲気』が必要と判断した選択の主旨が私に分かる。『これで万全』とジャニーは思ったに違いないと」と述べます。

「姉弟の確執」では、皮肉なことに、嵐がジャニーズ事務所の屋台骨を背負う存在になるにつれ、ジャニーから嵐の活動に関しての発言は少なくなり、それを代弁するかのようにジュリーの側面援助を強化して、メリーが表立つ姿勢が目立つようになりました。著者は、「ジャニーは若い世代だけではなく、中年世代になっても芸の活動が可能な人材を『ジャニーズ』として世に送りたいと念願した。メリーはと言うと、時代の風の行く末を独自のモノの見方(現実直視)を強く保ち続け、実利的に動いた。メリーには過剰と見えた母性が物事の決定に影響をした時期の絶頂期(2000年以降)に感じた」と述べています。

第四章「女帝メリーの本音」の「北公次のもうひとりの母として」では、少年選択の分野でのメリーの個人的な見方はジャニーと決定的に異なると指摘し、著者は「私見だが、メリーは孤独感を漂わせつつ、その寂しさをステージにぶつけるタイプが気に入っている。私が知る限りでは先に例に挙げた北公次、近藤真彦、豊川誕だ。メリーはことの外、彼らに母性的な眼差しを注ぐのが第三者の私にも伝わった。彼らに対しては『可愛くてしようがない』という微笑を降り注ぎ、母性丸出しに見えた。ジャニーは当の本人の内包する可能性を独自の好み(少年への熱情)で見抜くが、生来の情愛が先行するメリーの持論は家族、特に母親に注目することに私は興味を引かれたのであえてそのことは記しておきたい」と述べています。

事務所の草創期(1962年以降)、メリー喜多川は夜なべしてジャニーズアイドルのステージ衣装を考える時間を好んだそうです。不眠不休で衣装のほつれを縫い直しもした時期があったとか。著者は、「財政面での苦悩で孤独を背負い込むのは当時、メリーだけだった。その後ろ姿は『メンバーの母親』だったとジャニーズアイドルのひとりだった江木敏夫は振り返る。そのせいかメリーはジャニーズ事務所に所属するアイドルの母親との交流を欠かさなかったのが一例だ。なかでも、近藤真彦や田原俊彦の母親との交流は知られる」と述べます。メリーは、「その子を一目見れば家族の雰囲気が伝わるの。どんな育て方をされたかって。それには母親に会えば分かる。礼儀ができるかどうかは育ち方に影響される。これはワタシの変わらない持論なのよ」と語ったそうです。

著者は、ご機嫌なときのメリー喜多川の「ウチの子たちは礼儀正しいって外部の人から言われるのは嬉しい」という言葉が耳に残っているそうです。また、メリーは「何でも礼に始まり礼に終わるのは基本。それだけは彼ら(ジャニーズアイドル)に厳しく躾をしている。外見がいくら見栄えしても礼儀知らずの人間は最低。ウチの子たちにそれだけはさせない。礼儀はその人の性格を通して信頼されるゲート(門口・著者註)よ。人に対する礼儀。これはワタシの基本だから。人の感性は家族と関係してくると思う。それをワタシは厳しく両親から学んだから。父親が宗教者(真言仏教の導師)だったので人との関わり合いには厳しかった。思いやる心を植えつけられた影響がワタシには根付いている。その気持ちは絶対に嘘じゃないと思っているけど」とも語ったといいます。

「念願の紅白出場に狂喜」では、元祖ジャニーズを抱えた当時、ジャニーは芸能界最大手の渡辺プロダクション(当時)の事務所の一角にデスクを借り、自らはマネージメントと、メンバーの運転手をやったことが紹介されます。いつかはショービジネスの世界へ飛び込みたいと繰り返していたまだアメリカ国籍のジャニーが、兄の真一とともに朝鮮戦争に従軍後(空軍・1950~53年)、終戦で再来日しての日々、まだアメリカ大使館付きの仕事(通訳)をしていた当時に、ジャニーに向かってメリーは「ジャニー、ギブアップしてはいけない。だってニッポンのショービジネスは本土(アメリカ)に比べれば30年も遅れているって言っていたじゃない。諦めるなら最初から止めなさい」と励ましたといいます。メリーは「ジャニーは絶対にニッポンのショービジネスに飛び込むと思った」と思ったそうで、弟の、少年の素質を発掘する特異な才能と情熱を初期段階から認め、最大の後押しの決意が日本芸能界での成功の階段を昇る第一歩になりました。

「もう一つの野望」では、NHK紅白出場と並んでメリーがどうしても成し遂げたい「こと」があったことに言及します。その事実は簡単に遂げられる現実ではありませんでしたが、真相は皇室関係への接近でした。日本人が皇室を象徴的に崇める姿勢は、その心理を察知した帰国子女のメリーに羨望の的と映りました。実際、メリーはジャニーズ所属初のバンド名に富裕層階級を意味する「ハイソサエティ(上流社会)」と名付けました。著者は、「風雪の日々がメリーの心を鍛え、生きる意欲を上昇志向へと育てたとも考えたが、実際は他人に分からない差別、偏見、蔑視はメリーの気持ちを奮い立たせたに違いなく、結果として上流階層への羨望となった生き方と繋がる気がした。そして、ジャニーズアイドルこそ喜多川家の『成功者』への隠し玉と確信したのだとも感じた」と述べています。

「ジャニーズダンス」では、元祖ジャニーズが正式に「デビューした」と認定されたのは、伊藤ゆかりのバックで踊った1年半後の1964年8月でした。まさに弓矢の矢を目いっぱい引き絞っての発射だったとの事実が残るとして、著者は「人気が高まるまで矢を目いっぱい引き絞ってからデビューさせる前記『習うより慣れろ』の方法論はジャニーの信念に基づき、SnowManとSixTONESの同時デビューの2019年1月まで続いた。この売り出し法がジャニーズアイドルのセールスポイントであって、創成期からの伝家の宝刀になってジャニーの得意戦術になった」と述べます。

「ジャニーが創り出した伝統のスタイル」では、元来、日本人にミュージカルは馴染まなかったことが指摘。それは榎本健一(エノケン)のように唄って芝居をする俳優は少数派で、日本芸能界の決まりは分業制が徹底していたのです。互いの分野を侵さないという約束事で、専門分野の生活が成り立ったからです。著者は、「ところがジャニーズは全員が唄って踊る二役を熟した。しかもまったく新しい振り付けと歌唱力を織り交ぜたのは、彼らの背景が『ミュージカル』だったからだ。この一手がジャニーズアイドルに触れる際に外せない要素である」と述べています。

ジャニー喜多川が最も愛したジャニーズのグループとは?著者は、ジャニーはSMAPを最も愛していたとして、「中途半端な状況が続く彼らに、打開策を投じたいと思案していたのを私は知る。そうした試行錯誤の果ての、お笑い系への進出だ。SMAPの全盛期が他のグループに比べ一段と長期に渡るのは、TVドラマ、映画、舞台とともにTVのバラエティー番組での足掛かりを持ったからであり、さらに情報番組の司会への起用が拍車をかけた史実は『芸能史』が証明する。この足跡を忠実に辿ったのが嵐であった」と述べています。

第五章「メリーとジャニーの決定的対立」の「ジャニーズイングリッシュ」では、ジャニー喜多川のネーミングセンスが取り上げられます。ジャニーズアイドルのグループ名(チーム名)の奇妙奇天烈さは日本人の感性にはない独特の発想でした。特に1988年以降にデビューさせたグループ名はジャニーズ英語の独壇場でした。一例を挙げると、男闘呼組、少年忍者、SMAP、TOKIO、V6、KinKi Kids、嵐、タッキー&翼、NEWS、関ジャニ∞、KAT-TUN、King&Prince、SnowMan、SixTONESなど……著者は、これらのネーミングには「ジャニーとメリーのアイデアが詰まっていると判断する」と述べています。

「偽作されたアイドル」では、ジャニーズアイドル誕生秘話の突飛な逸話の偽作として「豊川誕」が紹介されます。その陰のリーダーシップはメリーでした。「豊川稲荷に密かに捨てられていて、物心がつくまでそこで育った」という偽物語(ギミック)はメリーも是認の創作というのが定説です。だからデビューまで豊川の本名も出生場所もすべて抹消され、極秘とされました。輝くスポットライトの華やかさに浮き出される芸能界だからこそ、陰のジャンルもあってしかるべきとメリーは考えたとして、著者は「日本の芸能界でこれほど創作されてデビューした歌手は少ない。デビュー曲が生まれの窮乏をバックボーンに、『怨歌』とセールスされた藤圭子でさえ、両親は芸能の人であったと知られた」と述べます。

第六章「てっぺん」の「フォーリーブス解散」では、メリー喜多川が「ウチの子」として可愛がったフォーリーブスにさえ再結成は許可せず、グループ名の使用も禁じたことが紹介されます。しかし、それを裏切った形にしたのは著者だったそうです。解散から7年後の1985年(昭和60年)3月。フォーリーブスが郷ひろみを伴い、東京・新宿の京王プラザに揃いました。解散以来、人前では初めてのことでした。著者は、「その日は私の結婚式で、親しかった江木敏夫が司会をしてくれることになり、彼が他のメンバーを呼んでくれた経緯がある。それをメリーが聞き及んだと後で聞いたが、焦点は私的な結婚式にしても一世を風靡した4人組が揃って世間の前に顔を揃えた『事実』にメリーは激怒した、と聞いた」と述べています。メリーは「フォーリーブスは解散したのよ。揃って人前に顔を見せるのはダメよ」と言ったそうです。

「最晩年の対立」では、ジャニー喜多川が人生のフィナーレとも思えたエネルギーを燃やしたグループは、King&Prince(キンプリ)だと指摘し、著者は「途中でメンバーが病気で1人抜けたが、メンバーの現代的なゼネレーションのバランスが鮮やかで、メンバー間のキャラクターが均衡する爽やかなグループのイメージは、ジャニーが創業期に手がけた元祖ジャニーズやフォーリーブスを思い起こさせた」と述べます。ジャニー本人は何も明かさなかったそうですが、メリーはKing&Prince(キンプリ)に過去の経験から嵐を継ぐ可能性を予感したといいます。「あの子たちはウチの大黒柱になれる」と。メリーの脳裏には元祖ジャニーズやフォーリーブスの、「明るく爽やかで清潔感」の三大要素を見抜いたのでした。

「黄金コンビの終わり方」では、ジャパニーズドリームを叶えたメリー(泰子喜多川・藤島)は2021年8月14日、都内の病院で逝ったことが紹介されます。娘のジュリーとジュリーの長女がメリーを看取りました。享年94。入院中、病室には本人が懇願してフォーリーブスや近藤真彦の聞きなれた曲が流れたといいます。著者は、「おそらく、『ウチの子たち』との楽しかった昔日をよみがえらせていたかもしれない。私には彼らの歌声が当時とは異なり、『さらば、女帝の季節』の葬送曲として心に聴こえてきたような気がした」と述べるのでした。本書を読み終えたわたしは、メリー喜多川という女性の気性の激しさ、情の深さに圧倒された思いでした。メリー喜多川も、ジャニー喜多川も、個性的な姉弟でした。この姉弟が日本の芸能界に帝国を築いたのですが、その帝国が音を立てて崩れ落ちようとしている今、本書の価値は大きいと思いました。

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