No.2241 宗教・精神世界 『日本仏教の社会倫理』 島薗進著(岩波現代文庫)

2023.05.23

『日本仏教の社会倫理』島薗進著(岩波現代文庫)を読みました。「正法を生きる」というサブタイトルがついています。著者から献本していただいた本です。著者は、宗教学者。東京大学名誉教授。日本宗教学会元会長。1948年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。主な研究領域は、近代日本宗教史、宗教理論、死生学。著書に『宗教学の名著30』『新宗教を問う』(以上、ちくま新書)、『国家神道と日本人』(岩波新書)、『神聖天皇のゆくえ』(筑摩書房)、『戦後日本と国家神道』(岩波書店)、最近では一条真也の読書館『教養としての神道』『なぜ「救い」を求めるのか』で紹介した本などがあります。本書は、わがテーマの1つである「コンパッション」について考える参考書として読みました。「コンパッション」とは、仏教の「慈悲」に通じますが、本書はまさに「慈悲」についての本だからです。

本書の帯

本書の帯には、「日本仏教に本来豊かに備わっていた、サッダルマ(正法)を世に現す生き方の系譜を再発見し、新しい日本仏教史像を提示する」と書かれています。帯の裏には、「今、生きとし生けるものの幸福を願うとき、『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』[宮沢賢治の言葉]と言ってもよいかもしれない。そうできない自分たち、痛み傷つかざるをえない、痛み傷つけざるをえない私たち人間の悲しみに思いをいたしながら『結願の文』を唱えるとき、人の心に宿るのはそのような願いではないだろうか。(本書「はじめに」より)」

本書の帯の裏

またカバー前そでには、「仏教には本来、社会倫理的な実践が大きな要素として備わっていた。近代的な宗教観のもとで見落とされがちだった、そうした倫理性・社会性の側面が、現代社会の中で再び顕わになりつつある。本書は、サッダルマ(正法)を世に現す生き方の系譜に着目しながら、日本仏教の実践思想を捉え直し、宗派主義の枠を超えた新しい日本仏教史像を提示する試みである」と書かれています。

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
序章 日本仏教を捉え返す

第Ⅰ章 出家と在家

   ――近代的な仏教理解を超えて
一 日本仏教と在家主義
二 出家の意味を問う
三 出家・サンガ(僧伽)・正法
第Ⅱ章 仏教と国家

   ――正法を具現する社会
一 日本仏教史観の革新
二 統一国家と仏教社会倫理
三 正法に基づく統治の理念
第Ⅲ章 正法と慈悲

   ――仏教倫理の基礎概念
一 正法の軽さと慈悲の重さ
二 仏教倫理の根本としての慈悲
三 鎌倉仏教優越史観と慈悲の重視
第Ⅳ章 正法と末法

   ――日本仏教の形成
一 『金光明経』が示す社会倫理
二 日本の古代仏教と正法の理念
三 禅宗と浄土宗が目指したもの
四 明恵と道元の選んだ道
第Ⅴ章 正法復興運動の系譜

   ――中世から近世へ
一 正法復興運動としての新義律宗
二 日蓮による正法復興運動
三 近世の正法復興運動
第Ⅵ章 在家主義仏教と社会性の自覚

   ――近代から現代へ
一 近代仏教の正法理念と日蓮主義
二 正法理念を引き継ぐ法華=日蓮系新宗教
三 仏教の社会性の自覚
終章 東日本大震災と仏教の力

補章 近代日本仏教の社会倫理

  ――伝統仏教教団を中心に
「文献一覧」
「あとがき」
「岩波現代文庫あとがき」
「索引」

「はじめに」の冒頭を、著者は「私は仏教にも神道にもキリスト教にも新宗教にも民俗宗教にもうすうす縁がある環境に育ったが、どの宗教にも深くは親しまなかった。しかし、20歳ぐらいの頃、『人が生きる上で宗教は必要だ』と強く思うようになり、宗教学を学ぶ道を選んだ。以後、多くの宗教に惹かれ、日頃宗教のことを考えている時間が多いが、特定宗教との関わりは一時的なものにとどまる。しかし、歳をとるに従って仏教への親しみが増してきた。とりわけ仏教の倫理観や社会観に関心が強い」と書きだしています。

序章「日本仏教を捉え返す」の「オウム事件の衝撃」では、1955年生まれの麻原彰晃(本名、松本智津夫)は一時期、桐山靖雄(1921―2016)が始めた新宗教教団、阿含宗にかなり深入りしていたことが紹介されます。原始仏教への回帰を訴える桐山に心酔していたのです。だが、そこでは本格的な仏道修行ができないと感じて、佐保田鶴治(1899―1986)のヨーガ論や中沢新一、ラマ・ケツン・サンポの著作『虹の階梯』などを通じて複雑な瞑想実践やチベット仏教に親しんでいったとされています。

「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に名乗りを変える1987年頃には、自分たちオウム真理教こそ真の仏教だという主張を強く打ち出すようになっていました。そして現代日本の既成宗派や仏教系新宗教では、真の仏道修行はできないとして、信徒に出家を促し、厳しい戒律と修行の生活を課したのでした。さらには仏典の新たな翻訳を試みたり、新たな訳語で仏教思想を表現しようとしたりして、自らこそ本来の仏教に立ち帰るものだという主張を裏づけようとしました。

著者は、「こうした姿勢は著述家やマスコミから一定の評価を得て、吉本隆明のような実績ある高名な批評家・文学者も、麻原はすぐれた宗教家だと称賛するようになっていった。麻原やオウム真理教にこそ真の仏教があるのではないかと考えた若者のなかに、高学歴で宗教に知的な関心を寄せてきた者が多かったのは偶然ではなかった。麻原自身が仏教言説を巧みに咀嚼して述べる能力をもっていたこと、知識人や著述家のなかにある程度の支持者がいたことに拠っている」と述べています。

また、著者は「日本でもお寺に人が集まりにくいということをもって、人心が仏教を離れていると即断する必要はない。むしろ、仏教を求める潜在的なニーズは高いのだ」と述べます。しかし、既成仏教、寺院仏教がそれに応じていくことができるかどうかは予想できないといいます。ただ、どのようにすれば応じていくことができるのかについて、できるだけ現状から遊離せずに考えていくことはできるとのこと。著者がこの本で追究しようと思う事柄もそうした課題と関わっているとして、著者は「その際、私が力点を置くのは『社会倫理思想』の領域だ。仏教思想の可能性を生活実践、社会実践に関わるところから考えていきたい。それはまた、少数の専門家の事柄としてではなく、多くの人々が社会生活の諸局面で接するものとしての宗教に視座をすえるということでもある。民衆宗教や宗教運動はよい手がかりになるだろう。多くの人々が生きる現場から目を離さずに現代仏教の、また日本仏教の社会倫理思想を考えていきたい」と述べます。

「東日本大震災後の仏教への注目」では、東日本大震災後、仏教の働きがポジティブなものとして認知されることが多くなっていると指摘し、著者は「数多くの方が亡くなり、遺体が見つからなかったり、遺体がどなたか分からない例も少なくなかった。死者を弔う儀礼は不可欠と感じられ、僧侶が読経する姿が欠くべからざるものに思われた。津波で寺院境内の墓地が洗い流されたり、家屋の中がひどく傷めつけられ仏壇が壊れたり流されてしまった例も多かった。破壊された墓地に行って何とか遺骨を運びだそうとしたり、仏壇に納められていた位牌を避難先に移動させようと努める人々の姿がたびたびテレビ画面に映し出された」と述べています。

第Ⅰ章「出家と在家――近代的な仏教理解を超えて」の一「日本仏教と在家主義」の「民衆志向の仏教という性格」では、日本の仏教は民衆志向の仏教という性格を色濃く帯びることとなったことを指摘します。加えて江戸時代になって儒学が発展し、国家社会の秩序を支える宗教的イデオロギーは仏教以上に儒学(と一部は神道)の伝統に委ねられるようになったという事情を紹介します。著者は、「支配階級である武士は仏教よりも儒学を熱心に学ぶようになり、あるべき社会秩序は、仏教を通してより、儒教や神道を通して得られると考えられるようになった。仏教はますます民衆のための儀礼と教化活動に活路を見出すようになっていった」と述べます。

また著者は、伝統仏教教団と仏教系新宗教教団の共通点にもっと注意を払う必要があることを指摘します。確かに葬祭中心の活動形態と現世救済(現世生活の中での修行と幸福の達成という目標)中心の活動形態とは大きく異なります。僧侶中心型の実践か一般信徒参加型の実践かという点でも相違が大きいと言えます。しかし、伝統仏教寺院にも葬祭中心ではなく祈禱中心の寺院はあり、葬祭中心の寺院でも在家参加の行事はさまざまに組織していると指摘し、著者は「僧侶が人々に説く教えと仏教系新宗教の布教者が人々に説く教えには共通の内容が多い。それらは在家主義的性格をもつ日本仏教が長い歴史を経て培ってきた共通の特徴なのである」と述べます。

江戸時代を通じて強制的な檀家制度を重荷と感じる人々はおり、幕末には増大しました。また、国学や儒学の考え方が広まり、豪農層などにもその賛同者が増えていました。富士講・御嶽講のような神仏習合の宗教集団の間でも、次第に神道色が強まっていました。明治維新以降、国学や儒学の運動は弱まるが、宗教集団としては教派神道のめざましい発展がありました。これは江戸時代までは神仏習合の枠内にとどまっていた人々が、その枠を抜け出して神道の方へと向かっていったことを示しているといいます。

「国家形成に役立ち、俗人とともに実践する仏教という理念」では、伝統仏教教団にとってもっと大きな衝撃は、近代的知識体系の流入と近代教育の普及だろうと推測します。江戸時代までは仏教は儒学や国学などと競いつつ、正統的な知の体系としての地位を保っていました。伝統的な仏教的正統知というものがあり、それは伝統的な儒学(朱子学・陽明学・古学)や国学と並立するものと考えることもできました。著者は、「明治維新に際し、伝統仏教界は近代国家の形成という大目標を受け入れた上で、いかにして近代的な仏教的正統知を打ち立てるかという大きな課題に直面した。井上円了、島地黙雷など、ふつう近代仏教思想史の文脈で取り上げられる人々が、さまざまな応答を行なった」と述べています。

第Ⅱ章「仏教と国家――正法を具現する社会」の二「統一国家と仏教社会倫理」では、イエスもムハンマドもゴータマ・ブッダも帝国的な世界の中にすっかり組み込まれてはいない地域社会で教えを伝え、弟子を持ったことが紹介されます。しかし、宗教集団としての教義や組織の形成は、帝国的な秩序の形成と歩調を合わせて進められました。著者は、「帝国的な秩序の形成に伴う暴力と文明的葛藤を背景にしてこそ、仏教僧団の組織的な禁欲生活の意義を、また仏教における戒律の主導的な地位の意義を適切に理解できるだろう。仏教の社会倫理の基礎は、仏教と、帝国的・統一国家的な秩序との関わりを顧みつつ再考する必要がある」と述べるのでした。

第Ⅲ章「正法と慈悲――仏教倫理の基礎概念」の三「慈悲の理念と日本仏教」の「自他の対立を超える『空』」では、日本を代表する仏教学者であった中村元が取り上げられます。著者によれば、中村元は仏教の慈悲の教えの基礎は「自他不二」の悟りにあると見ようとしているといいます。自己のいのちは尊いが、他者も自己と一体だと悟るとき、他者のいのちも尊いものとなり、そこに高次の倫理性として慈悲が重要な意義をもつようになるというのです。「仏教の慈悲は他宗教の倫理原理を超える」では、中村の慈悲論はこのように空の理念と不可分の「自他不二」の悟りが基礎と理解され、そこからさらに他宗教・他伝統に対する仏教の優位も主張されるといいます。キリスト教の「愛」や儒教の「仁」などと比較して、仏教の慈悲の特徴は感性的なものを超えているということ、また、「無差別」「平等」たるべきものとされていることなのだといいます。

「道元における慈悲の実践をどう捉えるか」では、曹洞宗の宗祖である道元が取り上げられます。著者の理解するところでは、道元の思想は「正法」復興という理念を前提にすればもっと理解しやすくなるといいます。戒律に服し、厳正な仏道実践を行うことによって、正法が復興します。だからこそ、仏道修行は衆生への慈悲の実践になるのだといいます。倫理学者の和辻哲郎にも言及する著者は、「和辻や中村の日本仏教観では、正法興隆、正法復興のための仏道実践という倫理的理念がほとんど考慮されていない。そして、僧団(サンガ)を飛び越えて、『個』と『絶対者』が強調される鎌倉新仏教の潮流にこそ、日本仏教の深い倫理性が顕現しているはずだと予断されている。こうして、キリスト教の『愛』に対応するものとして『慈悲』が注目されることになる」と述べるのでした。

第Ⅳ章「正法と末法――日本仏教の形成」の二「日本の古代仏教と正法の理念」の「日本では痛切な罪業の自覚に発展」では、末法思想の究極について語られます。法然や親鸞に至ると、末法の凡夫としての痛切な罪業の自覚が深まり、戒律の有無という相対的な価値を超えた絶対的な価値による衆生の救済という思想への展開が起こります。仏教学者の数江教一は「これこそ日本の宗教改革とも言うべき事態だ」と見ています。著者は、「このように痛切な罪業の自覚は末法思想の内面化によってもたらされたのだが、この点では源信の『往生要集』が果たした役割が大きい」と述べます。

第Ⅴ章「正法復興運動の系譜――中世から近世へ」の一「正法復興運動としての新義律宗」の「曹洞宗が大きな宗派に発展した経緯」では、著者は「鎌倉時代の正法復興の仏教運動は栄西以来の禅の導入の運動に限られるのだろうか。確かにその後の武家政権は禅を尊び、南宋(1127―1279年)の制度にならい、五山を定めて正法を保持するサンガの象徴としようとした。だが、これらの正統的な禅仏教の勢力は高位の武士を中心とする少数の大檀越に支えられたもので、諸階層への布教に成功し、全国に根を張っていったものではなかった」と述べています。

同じく禅教団でも、広範囲の諸階層への布教に成功したのは曹洞宗で、これは道元の掲げる禅を諸階層に広めたというよりも、永平寺教団4代目の統率者であり、能登に総持寺を開いた瑩山紹瑾(1264あるいは68―1325)を経て、大幅に密教を取り込み、後には稲荷信仰、竜神信仰、天狗信仰などで庶民の支持を得るとともに、庶民のための葬祭仏教としても力を得ていきました。道元が「高祖」とよばれるのに対して、瑩山紹瑾が「太祖」とよばれるほど曹洞宗の伝統でのその地位は高いことを指摘し、著者は「この新たな禅教団の仏道は、もともとの禅宗の実践形態から大いに形を変えたものだった。権勢ある武家を主要な檀越とした臨済宗と異なり、曹洞宗は地域住民の檀家に支えられ、浄土真宗に次ぐ寺院数を数える大宗派へと発展していった」と述べます。

三「近世の正法復興運動」の「16世紀から17世紀への展開」では、16世紀の中葉以降、九州を拠点として、キリシタンが急速に広まっていったことが紹介されます。この時期には各地の大名領国においては、キリスト教国家や仏教国家のビジョンがまったく空想的なものではありませんでした。しかし、宗派仏教王国や地域的な宗教領国の可能性は、織田信長以来の将軍権力による「天下統一」によって根こぎにされます。同信者のヨコの連帯をよびさまし、下からの団結に基づく宗教的共同性を支えとする宗教権力の展望は、16世紀末の段階で消失していくのでした。

以後、仏教とともに、あるいはそれ以上に儒教や神道を政治的統合の拠り所とする政治体制が形成されます。信長による仏教諸勢力の武力制圧をもって日本の世俗化が大きく進展したという見方もあり、一定の妥当性を持っています。著者は、「16世紀には禅宗寺院を通して宋学(朱子学などの近世儒学)が流入するが、17世紀に入ると統治思想が仏教勢力から独立して発展をとげていく。広く東アジアにおいて、統治する側の思想原理としての儒教的政治理念を学び取った家産官僚(士大夫・両班・武士)が台頭し、神聖統治理念(政治神学)に基づく統治の思想が広まる趨勢だった。17世紀以降の日本の場合、その担い手は文人の士大夫ではなく、幕藩体制に服する武士の役人であり、神聖天皇への注目や将軍の神格化とも結びつき、神儒接合的な統治理念が次第に力を増してくる」と述べます。

「江戸時代の宗教統制と正法理念再興」では、近世の宗教統制の仕組みは人々に寺院帰属を強制し、僧侶に私的な次元の教えを説かせて民心安定を図るとともに、倫理的教導によって公的秩序への貢献を求めるものだったと指摘します。こうして神聖な全体秩序の維持に優先権を与え、仏教にはそれに貢献する「役」があるとする体制が形づくられます。これは近世以降の日本の国家と仏教の関係のあり方の基底部を構成するものであると指摘し、著者は「明治維新以降は、神聖な全体秩序は国家神道という形をとり、信教の自由という建て前にもかかわらず、仏教が国家神道を批判したり、はみ出したりすることは容易でなかった」と述べます。しかし、神聖な全体秩序の優先という体制は、近世の将軍権力においてすでにその基礎づけがなされていたと言ってよいでしょう。

第Ⅵ章「在家主義仏教と社会性の自覚――近代から現代へ」の二「正法理念を引き継ぐ法華=日蓮系新宗教」の「西田無学から霊友会へ」では、霊友会の原型をつくった西田無学が取り上げられます。横浜で舟の製造に関わる仕事をしていた西田は1906(明治39)年頃、衆生済度の大願を起こし、『法華経』による先祖供養を説き、常不軽無学と名乗るようになります。そして仏所護念会という同信者集団を作り、横浜と東京を中心に辻説法などで布教しました。また、墓地に入って無縁仏の墓石を洗い清め、法名を写し取って自分の家の仏壇に祀り供養したといいます。西田は1918(大正7)年に「告白書」をしたため、政府当局、府県知事、貴族院、衆議院議員などに送っています。そこでは、「教育勅語」の聖旨に沿って法律を定めて国民に先祖供養を実践させることで、日本主導による世界統一が可能になると示唆されています。

西田の仏所護念会は小さな運動にとどまりました。この西田の信仰の影響を受けながら、独自の仏教実践形態を作りあげ、後に巨大な運動群を生み出す霊友会を創始したのが久保角太郎(1892―1944)です。角太郎は千葉県安房小湊で大工修行をした後、東京で夜学に通って建築学を修得し、1919年頃、仙石家(旧大名、子爵)の家令、久保家に養子入りしました。著者は、「角太郎は久保家の養母、志んの『神経衰弱』に苦しめられ、西田無学の教えに接し、『法華経』の学習に取り組む一方、霊能者の若月チセに接して霊信仰を深めていく。そして、1920年代に、神奈川県三浦郡出身の小谷喜美(1901―71)と組んで新たな運動を始める。在家が自分自身で『法華経』による先祖供養を行うことで、この世の幸福を実現できると説く。これが霊友会の始まりで、1930(昭和5)年には発会式が行われている」と述べています。

終章「東日本大震災と仏教の力」の「仏教の力の見直し」では、2011年3月の東日本大震災は日本の社会で仏教が果たしてきた役割を再認識させてくれる機会だったと指摘します。仏教が社会的なプレゼンスを示したと言ってもよく、実際に社会集団、社会組織としての仏教は大きな力を発揮しました。伝統仏教の寺院はまず、地震や津波の、また放射能の被害から逃れる人々の身を寄せる場として大きな役割を果たしたと指摘し、著者は「たとえば、石巻の曹洞宗寺院・洞源院は、津波で甚大な被害にあった地域に近い小高い丘の上に位置していたためもあって、長期にわたって数百人が身を寄せていた。ふだんから寺院では檀信徒が参加する主婦の集い、子どもの集いなどさまざまな活動が行われていたことも力になった。寺院の日課に沿った共同生活のリズムも被災者の生活に入ってくるのだが、それでも他の避難所よりも寺院でこそ身が落ち着くと感じた人が少なくなかったという(小野崎秀通住職による)」と述べます。

「慰霊と追悼のエージェントとして」では、死を強く意識することで民衆に浸透した日本仏教は、死者をしのぶ文化と結びついて発展することになったことが指摘されます。キリシタンを排除しようとした江戸幕府によって、17世紀には死者を葬るとともに家の先祖を祀る儀礼を仏教寺院が独占する檀家制度が確立しました。それによって死者をしのぶ「仏事」「法事」が人々の日常生活に深く根づいていくことになりました。親族集団や地域社会とお寺が一体となって悲しみを力に転ずる文化を担ってきたのです。

「寄り添いに向かう仏教者」では、他者に手を差し伸べる仏教者や仏教集団による支援活動がさかんに行われ、被災者に喜ばれる機会も少なくなかったとして、著者は「仏教的な倫理性に基づき『ともに支えあう』という考え方が大きな力をもった。この場合の特徴は、他者を教え導く対象としてではなく、また、同信者の仲間に入れるという意図に沿って支援が行われるのでもなく、お互いの間の距離を距離として受け入れた上で、ニーズに沿って力になろうとする関わりのあり方が自覚的に打ち出されていることだ」と述べています。

元来、仏教には社会倫理的な関心が深く内蔵されており、たとえば「正法」という理念を通して、歴史上もそうした側面が多様に顕現してきたのだったと指摘し、著者は「社会倫理的な側面の閉塞はいつまでも続くものと悲観する必要もないだろう。私自身は近代主義的な意識構造や国民国家の意識統合の優位の中で現れにくかった仏教の社会倫理的側面が、新たな社会環境の下で本来の姿を顕現しやすくなったのではないかと考えている。また、共有する精神文化の稀薄化が深まる中で、仏教的な精神性への期待が高まっているのではないかとも考えている」と述べるのでした。

補章「近代日本仏教の社会倫理――伝統仏教教団を中心に」では、2010年代に入って、伝統仏教教団や仏教者の社会倫理的な活動は活性化しつつあると指摘します。自死遺族のための追悼法要、路上生活者支援の「ひとさじの会」、フードバンク運動に連なる「お寺おやつクラブ」、東日本大震災の支援活動から広がっていった「カフェ・デ・モンク」、ビハーラ僧や臨床宗教師がケアする死の看取り、仏教者が世話役を果たした原発被災者のための保養プログラム、介護で苦労する人たちを支える「介護カフェ」、各地のお寺で開かれる子ども食堂、防災のための自治体との協力関係などなど、多様な活動が展開しています。また、生命倫理や核兵器の廃絶や平和について、理解を深めようとする動きも持続していることが紹介されます。

著者は、これらの活動は正法(あるいは、法=ダルマ)を世に具体化していく仏教徒の運動として捉え返すことができると考えているそうです。個々人の心の平安を求める教えや実践と、他者や共同の問題に積極的に関わっていこうとする社会的実践やそれを支える思想が別々のものではないと捉えられる傾向が強まっています。本書では、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗の例をあげていますが、著者は「天台宗、真言宗、臨済宗、黄檗宗など多くの宗派でも同様だ。社会倫理という側面から現代仏教の動向を捉えることで、日本の精神文化の新たな方向性が見えてくる」といいます。

「コンパッション都市」について講義する著者

「岩波現代文庫版あとがき」の冒頭を、著者は「私は浄土宗の檀家に生まれ、今も浄土宗の檀徒である。20歳を少し過ぎる頃から宗教学を研究し、とりわけ新宗教の研究に多くの時間を費やしてきた。新宗教の指導者の人柄と考え方に大いに惹かれることもあり、その祈りの言葉を覚えて唱えるようなこともあったが、結局、新宗教の信仰者に共鳴し敬意を抱くことはあっても、自らその信仰を実践するには至らなかった」と書きだしています。一方、伝統仏教の行事は、ほぼどの宗派でもともに行事に参加することに大きな違和感がないとして、「読経の内容は、その一部を理解できるにすぎないが、それでも読経を聞くことで心が落ち着くように感じるのは、40歳代で親を喪った頃からだろう。本書にはこうした私の宗教上の位置取りが反映していると思う」と述べるのでした。ブログ「大正大学公開講義」で紹介したように、著者は「コンパッション都市」というものを日本に紹介されましたが、それは「慈悲共同体」とも訳されます。最近のわたしにとって大きなテーマである「コンパッション」を考える上で、「慈悲」の思想を追求した本書から多くの学びを得ました。

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