No.2242 宗教・精神世界 『新仏教とは何であったか』 中西直樹著(法蔵館)

2023.05.24

『新仏教とは何であったか』中西直樹著(法蔵館)を読みました。「近代仏教改革のゆくえ」というサブタイトルがついています。著者は1961年、三重県生まれ。88年龍谷大学大学院修士課程修了。京都女子大学事務職員・筑紫女学園大学人間福祉学科准教授を経て、2011年龍谷大学准教授。現在,龍谷大学文学部教授。 著書 『日本近代の仏教女子教育』『仏教と医療・福祉の近代史』『近代西本願寺を支えた在家信者――評伝 松田甚左衛門』『明治前期の大谷派教団』(以上、法蔵館)など著書多数。

本書の帯

本書の表紙カバーには、雑誌「仏教」148号(明治32年3月)に掲載された仏教界の腐敗を揶揄した風刺画が使われています。帯には「初の本格概説書!」として、「明治から大正初年にかけて活発化した『新仏教運動』。その興亡の軌跡と歴史的背景とを、仏教界全般の動きはもとより、国内外の社会情勢や諸宗教の動向、行政側の対応なども踏まえて描きだす」と書かれています。

本書の帯の裏

アマゾンの「内容紹介」には、「新仏教運動はどのように成立し、仏教界に何をもたらしたのか? またなぜ急速に衰退することになったのか? 近代仏教における一大運動、初の本格概説書!」「明治から大正初期、『新仏教』を標榜し、仏教界の改革を訴えた青年たちと、彼らが中心となって結成された仏教結社により展開された『新仏教運動』――。その興亡の軌跡と歴史的背景とを、仏教界全般の動きはもとより、国内外の社会情勢や諸宗教の動向、行政側の対応なども踏まえて描きだす」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
第一章 通仏教的結社の胎動
 (一)廃仏状況と仏教結社の興起

 (二)明治初期仏教結社の諸相

 (三)自由民権運動の影響
第二章 各種教化結社の再編
 (一)仏教・キリスト教の衝突

 (二)仏教少年教会の創設とその広がり

 (三)仏教婦人会と付帯事業

 (四)青年仏教者の組織化

 (五)東京諸学校連合の仏教青年会
第三章 海外新宗教潮流の流入
 (一)神智学協会とオルコットの衝撃

 (二)海外宣教会の反応

 (三)平井金三と佐野正道

 (四)ユニテリアンの日本的展開

 (五)中西牛郎の新仏教

 (六)佐治実然の非宗教化路線
第四章 通仏教的結束の高揚
 (一)通仏教論の勃興

 (二)東京各宗集議所から仏教各宗協会へ

 (三)全国仏教者大懇談会

 (四)九州通仏教的結社の盛衰

 (五)仏教改革機運の退潮
第五章 日清戦争後の世論と仏教界
 (一)宗教利用論と排撃論

 (二)宗教統合論と宗教家懇談会

 (三)宗派合同論と仏教各宗協会の解散
第六章 明治三〇年代初頭
    仏教界の混乱

 (一)内地雑居問題と寺制案

 (二)巣鴨監獄教誨師事件から公認教運動へ

 (三)宗教法案賛否をめぐる対立

 (四)各宗派混乱の核心と課題
第七章 仏教清徒同志会とその時代
 (一)仏骨奉迎をめぐる狂騒

 (二)諸宗派有志連合の結社

 (三)経緯会から仏教清徒同志会へ

 (四)通仏教講演会
第八章 諸宗派体制の再編
 (一)三教会同と仏教各宗派懇話会

 (二)宗教局移管と国際問題への対応

 (三)仏教連合会と近代管長制

 (四)各種大会開催と戦時協力体制
終 章 近代日本仏教の光と闇
「あとがき」
「主要参考文献」
「図版出典一覧」
「索 引」

「まえがき」を著者は、以下のように書きだしています。
「近代以降、日本社会が大きく変貌を遂げていくなかで、仏教を取り巻く環境も大きく変化してきた。明治維新期、仏教各宗派は廃仏毀釈により大きな打撃を受け、その後もキリスト教の勢力伸張に対する危機意識が高まった。こうした状況を受けて、明治20年代・30年代には、『新仏教』を標榜する人物や結社が数多く出現した。これら人物や結社は、従来の宗派仏教を『旧仏教』と位置づけて仏教界の抜本的な改革論を訴え、斬新な諸事業を提唱・展開したのであった」

ところで、近代になって生まれた新仏教は、近世の仏教とどのような点で決定的に相違したのでしょうか。著者は、「いくつかの要素を挙げることは可能であろうが、一つには宗派をこえた結社が生まれ、仏教界全体の改革を目指す主張や運動が展開された点に求めることができよう。それは、幕藩体制の下で宗派ごとに分断・統制されていた近世の仏教には考えられないことであった」と述べています。

明治20年代・30年代に活発化した新仏教運動はどのようにして成立し、何を仏教界にもたらしたのか? また、それがなぜ大正期以降に急速に衰退していったのか? この問題を問うことは、仏教再生の道を模索していくためにも、近代の仏教を総体的に理解するうえでも、重要なテーマとなり得るとして、著者は「これまでも、新仏教運動に関しては、個別の仏教者や結社、特定の時代を対象とした研究が蓄積されてきた。しかし、新仏教運動とこれを推進した結社について、近代を通じて総体的に論じた研究はこれまでになかったように思う。また新仏教運動の衰退は、前近代的な諸宗派体制が復権・再編されていく過程で進行したと考えられるが、この点については、ほとんど問題とされてこなかった」と述べます。

本書は、明治以降に生滅した新仏教論と結社活動に着目し、近代日本仏教の歴史を、仏教をとりまく社会状況との関連にも考慮しつつ概説したものであるとして、著者は「その変遷過程は、大きく三段階に分けることが可能であろう。第一は、仏教結社運動がはじまり、そのなかから旧態依然とした宗派仏教への批判が芽生えていく段階である。続く第二は、新仏教を標榜し宗派をこえた仏教結社が登場し、盛んに仏教改革運動が展開される段階である。そして最後の第三は、新仏教の衰退が諸宗派の復権と連合体制の再編のなかで進行していく段階である。これら各段階の検証を通じて、近代に活発化した新仏教論と仏教改革運動の歴史的意義を改めて問おうというのが本書のねらいである」と述べるのでした。

第一章「通仏教的結社の胎動」の(一)「廃仏状況と仏教結社の興起」の「通仏教的結社とは」では、明治期には、現在では考えられないほど、さまざまな仏教関係者の宗派をこえた交流と結束があり、数多くの仏教結社が生まれたことが紹介されます。廃仏毀釈以後の仏教を取り巻く状況には予断を許さないものがあり、これへの危機意識が広く仏教界に共有されていたためと考えられるとして、著者は「宗派をこえた仏教者の結束を理解する際に、重要なキーワードの一つとなるのが『通仏教』という用語であろう。近代には、他にも『通俗仏教』『統一仏教』『普通仏教』などの言葉も使用され、必ずしもそれらの概念規定は明確ではない。しかし、一般的に『通仏教』とは、一宗派に偏らず仏教全般に共通する教説を指すようである。宗派ごとに分断されて強い統制下にあった近世の仏教では、ほとんど意識されてこなかった考え方と言ってよいであろう」と述べています。

第二章「各種教科結社の再編」の(三)「仏教婦人会と付帯事業」の「女性教化論とキリスト教の動向」では、当時のキリスト教は女学校経営を通じて教勢を大きく伸長しつつあったことを紹介し、著者は「官公立の女学校としては、明治5年に東京と京都に官公立の女学校が開設され、数年後には栃木・岐阜などにも設置されたが、15年に至っても、その数はわずか5校に過ぎず、生徒数も300名たらずであった。行政の対応の遅れを尻目に、キリスト教は、明治3年設立のフェリス女学校(横浜)をはじめ、8年設立の神戸英和女学校(神戸)・照暗女学校(平安女学院、大阪のち京都)、10年設立の立教女学校(東京)など、15年の時点ですでに20校近い女学校を設置していた。さらに16年からの『鹿鳴館時代』には、男尊女卑の打破・女権の拡張が開化・欧化の必須条件のごとく論じられ、欧米婦人の教養を授ける女学校は大いに活況を呈した」と述べています。

第三章「海外新宗教潮流の流入」の(一)「神智学協会とオルコットの衝撃」の「神智学協会と水谷涼然」では、明治20年代は、「通仏教」という考え方が意識されはじめ、通仏教的結束の必要性が急速に仏教者の間に浸透していった時代であることが紹介されます。その背景には、キリスト教の教勢拡大などの国内の諸事情がありましたが、神智学協会、ユニテリアンなどの海外の新宗教思潮の流入も大きく影響しました。神智学協会は、1875年にヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー、ヘンリー・スティール・オルコットらにより、ニューヨークで結成されました。著者は、「当時、欧米では既存のキリスト教会を批判する心霊主義が流行しており、神智学協会は、諸宗教間の対立をこえて根源的な神的叡智のもとへの回帰を提唱した。その活動は、仏教やヒンドゥー教などの東洋宗教を欧米に紹介・普及することに貢献し、近現代の神秘主義者たちに大きな影響を与えた。日本人で最初に神智学協会と接触したのは、真宗大谷派の僧侶笠原研寿であろう」と述べています。

(三)「平井金三と佐野正道」の「平井金三と仏教」では、神智学協会の創設者の1人であるヘンリー・スティール・オルコットを日本に招請した中心人物であった平井金三に言及しています。平井金三は、安政6(1859)年に京都で生まれました。父は儒者で書家の平井義直(号春江)、母の岩尾は京都山科西宗寺(真宗本願寺派)の出身でした。明治4(1871)年に京都の公立の洋学校(欧学舎)に入学し、ドイツ語・英語などを学び、さらに長崎に遊学して外国人と交わり語学を研究しました。長崎では、「杞憂会」というキリスト教を排撃する団体を設立しています。

明治17年に語学力を買われた平井は、太政官文書局に入り翻訳に従事しましたが、半年後に外務卿井上馨に欧化主義政策を批判する建白書を提出して退官しています。退官後、京都に帰り、18年1月に同志社に対抗して英語塾「オリエンタルホール」を開きました。塾生には、加藤堂(本名「熊一郎」、仏教学者・『明教新誌』主筆)、姉崎正治(宗教学者・東京帝国大学教授)、大道和一(京都日出新聞主筆)、松山忠次郎(読売新聞社社長)、甲斐和里子(京都女子大学の前身・顕道女学校の創始者)らがおり、僧侶の入学者も多かったといいます。

平井金三の活動は多岐にわたります。言語学研究者として著名であり、東京高等師範・外国語学校・第一高等学校・東京専門学校・慶應義塾など、多くの学校で教鞭をとるかたわら、日印協会・ローマ字ひろめ会・動物愛護会などの創立にも関わりました。また、臨済宗妙心寺派管長今川貞山のもとで得度し、「龍華」という法名を得ています。しかし、真に仏教・禅宗に帰依していたかは疑問であるとして、著者は「平井は、欧米列強がキリスト教を信奉しない日本人を野蛮人のようにみなし、日本に不平等な条約を押しつけたことに強い義憤を感じていた」と述べます。

明治25年3月に渡米した平井は、翌年シカゴで開かれた万国宗教大会に出席し、「日本の基督教に対する位地」と題して講演しました。著者は、「ここでも、キリスト教者の日本に対する偏見と、キリスト教国の不当な姿勢を痛烈に批判している。さらに日本では神仏儒の三教が反目せず平和共存しているとも述べている。平井は、キリスト教の不当性を糾弾する演説をすることはあっても、自らの信仰を吐露し仏教布教に従事することはなかった。仏教を含めた日本宗教の結束を訴えることはあっても、積極的に宗派に関わり行動することもなかった。そうしたなかで、平井が唯一積極的に仏教各宗派と関わったものに、各宗派連合の『帝国仏教大学』の設立運動がある」と述べています。

(四)「ユニテリアンの日本的展開」の「ユニテリアンと仏教」では、元来ユニテリアン運動は、キリスト教正統派の非合理的教説の批判を通して、合理的かつ自由な信仰の樹立を目指しますが、批判すべき福音主義的信仰の伝統は日本に定着しておらず、キリスト教正統派の教条・教権性を訴えても理解されないことが予想されたと書かれています。しかも、アメリカ人宣教師の眼に、日本の伝統的思想や宗教は、現実的で教条主義から比較的自由であると映ったようだとして、著者は「このため、彼らは日本の思想宗教界の現状にキリスト教正統派の信仰と同様の問題性が、なお存することを指摘しつつも、ユニテリアン精神との共通性をことさら強調することによって、運動の広がりを図ろうとする布教方針をとったと考えられる」と述べるのでした。

(五)「中西牛郎の新仏教論」の「中西牛郎の経歴」では、仏教側は、日本ユニテリアン協会にどのように対応したのかについて語られています。ユニテリアン協会は、布教開始後きわめて早い時期から、いく人かの仏教者を有力なメンバーとして受け入れましたが、その1人が中西牛郎でした。中西は、安政6年(1859)年に熊本城下の漢学者の家に生まれ、維新後に東京の勧学義塾などで英語を学んだのち、同郷の徳富蘇峰らの仲介で同志社に転学しましたが、在学中から赤松連城・南條文雄ら真宗僧侶と交わり仏教へと傾倒していきました。その後帰郷した中西は、明治14(1881)年に郷土熊本で神水義塾を開きました。神水義塾では、中西が英語・仏語を教授し、中西の盟友である真宗本願寺派僧侶の八淵蟠龍が仏教学を、中西の父惟格が漢学を担当しました。

明治22年2月に、中西は『宗教革命論』という書を出版。この書では、近い将来に仏教が新たな変革を遂げることで退勢を挽回し、キリスト教にかわって宗教界を席巻するに違いないという展望が論じられていました。著者は、「この書が真宗本願寺派法主の大谷光尊の眼にとまり、中西は京都在学中に親交があった赤松連城の呼び出しを受け、光尊との面会を果たした。その結果、真宗本願寺派の資金援助を受けて、海外視察に赴くこととなり、明治22年6月から約半年間、アメリカに滞在して当地の宗教事情を視察した。帰国後は、教頭兼教授として招かれた真宗本願寺派文学寮(普通教校の後身校、龍谷大学の前身校の一つ)で比較宗教学等を講ずるかたわら、『組織仏教論』『宗教大勢論』『新仏教論』などを次々と上梓し、活発な執筆活動を展開した」と述べています。

「仏教による世界宗教の統合」では、アメリカでの視察を通じて中西が痛感したのは、仏教が世界に雄飛するに際して、他教を感情的に攻撃する「破邪顕正」的対応がかえってマイナスであり、一定の寛容さをもって他教に接する姿勢が必要になるということであったと指摘し、著者は「こうして中西は、自由討究を重んじ、比較宗教学など最新の学術研究の成果も援用して、仏教があらゆる宗教の真理を包蔵するものであることをアピールする手法を学んだようである。帰国直後に著した『組織仏教論』には、この中西の思惑がよくあらわれており、当時アメリカの宗教潮流の最先端であったユニテリアンからの強い影響を認めることができる」と述べています。

第四章「通仏教的結束の高揚」の「仏教改革論者の去就」では、新仏教を提唱した中西牛郎は、明治25年に文学寮を追われたのちに九州仏教倶楽部を中心として九州仏教勢力の連合を目指しました。しかし、実現不能とみると、キリスト教の日本化・仏教化を企図してユニテリアンに入会。平井金三は、米国からの帰朝後、28年に京都で開催された第4回全国仏教者大懇談会の議長に選出され、なお通仏教的結束の実現に努めました。しかし、やはりその実現の困難なことを痛感し、その後、上京してユニテリアンに入会しました。著者は、「中西・平井のような宗派関係の薄い人物にとって、宗派連合の夢が潰えた以上、ユニテリアンにおいて宗教統合を目指す道しか選択肢はなかったのかもしれない」と述べています。

終章「近代日本仏教の光と闇」では、日本の宗派分立には、中国仏教が影響した側面のあることは否めないと指摘しています。多種多様な経典が同時に将来した中国では、それらを体系的に理解・解釈する多くの「学派」が生まれました。しかし、それは日本ほどセクト主義の強い教団にまで発展した例は多くはないとして、著者は「同じく中国仏教の影響を受けた台湾仏教・朝鮮仏教でも日本とは大きく状況が異なる。ゆるやかに存立していた1300余りの朝鮮寺刹に、日本仏教にならって本末制度を導入し、統制強化を図ったのは朝鮮総督府であった。朝鮮総督府は、三十本山(のちに三十一本山)を指定して全国の寺刹にそれぞれ本山への帰属を強要した。大正4(1915)年には、『三十本山連合制規』を制定し京城覚皇教堂に連合事務所を置き、一元的統制システムの構築を目指した」と述べています。

台湾の孔子廟にて

台湾では、仏教・儒教・道教が渾然一体となった寺廟が各地に存在しましたが、一般的に明確な教義を有せず布教も行われていませんでした。統一的な教団組織は存在せず、各寺廟は個別に管理人や董事(理事)などよって管理運営され、氏子・檀家のような組織も持ちませんでしたが、寺廟の祭祀行事は台湾民衆の生活と一体化して深く台湾民衆に根をおろしていました。著者は、「このように台湾では雑多な信仰形態をもつ宗教施設・団体が個々に存立していたため、朝鮮よりもさらに一元的統制システムがとりにくい状況にあった。台湾総督府は、朝鮮のように本末制度を導入せず、在来仏教による統制・連合組織の自発的構築を期待し、大正10年に『南瀛仏教会』(昭和15年に台湾仏教会に改組)を組織させた。大正4年末に日本で成立した仏教連合会が、その範型になったと考えられる」と述べます。そして、本書の最後に、著者は「今日の宗派機構は、ある意味で近世仏教以上に硬直した状態に陥っているように見受けられる。そして、その傾向は近代仏教にすでに胚胎していたのではないか――。そうした疑問のもと、近代仏教の歴史を概観した」と書いています。

「あとがき」では、学生への講義で、こんなたとえ話をすることがあるとして、著者は「伝統的な仏教諸宗派は、いわば老舗料亭である。格式が高そうで、敷居も高い。入ってみないと、メニューも値段もわからない。かといって、一度入ってしまえば、すぐに出るわけにもいかない。よほどの顧客以外には入店しにくく、客離れが進む一方である。これに対して、新宗教はファーストフードである。ガラス張りで、一応メニューもわかりやすく設定されており、店構えも気軽に入りやすい工夫がなされている。何の注文もしなくとも、すぐに出てこれそうな気もする」と書いています。わかりやすい見事な「たとえ」であると思いました。帯に「初の概説書」とある本書は、新仏教という得体の知れない宗教運動の全貌を適格に俯瞰し、適切に説明した「シン・新仏教」の入門書であると感じました。

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