No.2267 オカルト・陰謀 『<怪異>とナショナリズム』 怪異怪談研究会監修、茂木謙之介/小松史生子/副田賢二/松下浩幸編著(青弓社)

2023.09.08

『〈怪異〉とナショナリズム』怪異怪談研究会監修、茂木謙之介/小松史生子/副田賢二/松下浩幸編著(青弓社)を読みました。カバー表紙には、「文学作品、怪談、天皇制、二・二六事件、マルクス主義と陰謀論、オカルトブーム――〈怪異〉とナショナリズムとの関係性を戦争・政治・モダニズムという3つの視点から読み解き、両者が乱反射しながら共存した近代日本の時代性を浮き彫りにする」と書かれています。

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「人々を政治的・社会的・文化的に統合し均質化する近代の国民国家は、非合理な他者の一つとして〈怪異〉を排除した。だが〈怪異〉はそのような近代社会と緊張関係をはらみながら様々に表象され、ナショナリズムにときに対抗し、ときに加担してきた。戦前・戦後の文学作品、怪談、史跡、天皇制、二・二六事件、マルクス主義と陰謀論、オカルトブーム――〈怪異〉にまつわる戦前・戦後の小説や史料、事件、社会的な現象を取り上げて、『戦争』『政治』『モダニズム』という3つの視点からナショナリズムとの関係性を読み解く。〈怪異〉とナショナリズムが乱反射しながら共存した近代日本の時代性を浮き彫りにして、両者の奇妙な関係を多面的に照らし出す」

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」(茂木謙之介)
第1部 戦争と教化
第1章 戦意高揚物語への接近と離反
    ――泉鏡花「海戦の余波」における
   〈人間ならざるものたち〉の役割(鈴木彩)
第2章 出征する〈異類〉と〈異端〉のナショナリズム
    ――「軍隊狸」を中心に(乾英治郎)
第3章 恋する死者たちの〈戦後〉
    ――『英霊の聲』と文学的なるもの(松下浩幸)
第4章 二十世紀前半の史蹟保存事業と史蹟の怪異
   (齋藤智志)
[コラム]亡霊となる戦死者(川村邦光)
第2部 政治と革命
第5章 怪異と迷信のフォークロア
    ――佐藤春夫「魔鳥」「女誡扇綺譚」における
     〈植民地的不気味なもの〉(堀井一摩)
第6章 テロルの女たちはなぜ描かれたのか
    ――宮崎夢柳「鬼啾啾」の虚無党表象をめぐる一考察
     (倉田容子)
第7章 〈怪異〉からみる二・二六事件
    ――北一輝と対馬勝雄における
       オカルト的想像力(茂木謙之介/大道晴香)
第8章 マルクス主義的陰謀論の諸相
    ――デリダ・ジェイムソン・太田竜 栗田英彦
第9章 井上円了の妖怪学と天皇神話(井関大介)
[コラム]戦争と妖怪的なるもの、三題 (成田龍一)
第3部 合理化とモダニズム
第10章 大佛次郎「銀簪」と近代的怪談
     ――山田風太郎創作メモ「小説腹案集」より
       「雪女」の記載を手がかりに(谷口基)
第11章 中井英夫「虚無への供物」考
     ――〈戦後〉という怪談、中井英夫から寺山修司へ
       (小松史生子)
第12章 浮遊する「墳墓」と永続性のゆくえ
     ――細野雲外『不滅の墳墓』の
       ナショナリズムと〈怪異〉(副田賢二)
第13章 “オカルト天皇(制)”論序説
      ――1980年代雑誌「ムー」の分析から
       (茂木謙之介)
[コラム]新宗教における怪異とナショナリズム
――初期霊友会の歴史観と日本の位置(島薗進)
「おわりに」(茂木謙之介)

「はじめに」では、東北大学大学院文学研究科准教授(表象文化論、日本近代文化史)の茂木謙之介氏が、「文化としての怪異を論じる怪異研究は、ここ20年前後の人文諸学で着々とその成果を積み重ねてきた。研究プロジェクトだけでも、1997年に始まる国際日本文化研究センターの怪異妖怪研究、2001年にスタートした東アジア恠異学会、09年発足の異類の会、12年に始動した怪異怪談研究会、15年に生まれた怪談文芸研究会と枚挙にいとまがない。それぞれの研究フィールドや関わる研究者は時として重なりあい、いまなお互いを活性化しあい続けている。そのようななかにあって、特に怪異と王権/政治/権力をめぐる問題系を提起してきたのは歴史学を中心として研究成果を積み重ねてきた東アジア恠異学会であった」と述べています。

ナショナリズム研究はグローバル化と新自由主義の深化が進んだ昨今、とみに隆盛をみているといいます。その中で繰り返されているのは「ナショナリズム」という語の定義不可能性の指摘ですが、茂木氏は「ここでは議論を明確化するためにアーネスト・ゲルナーによる『政治的な単位と民族的あるいは文化的な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理』という定義をふまえ、「ネイション」は根源的な社会的存在でも不変の社会的存在でもなく、『もっぱらある特定の、しかも歴史的に観れば新しい時代に成立したもの』であって、『ネイションが社会的存在であるのは、それがある種の近代的領域国家、「ネイション―ステイト」に関連する限りにおいてである』とするエリック・ホブズボウムの近代主義を採用する。この立場に立ったとき、ナショナリズムの問題は日本では特に明治維新以降の『近代とは何か』という問いと重なる」と述べます。

続いて、「死」の問題が取り上げられます。死の問題はナショナリズムを近代以前からの歴史的問題として扱うアントニー・D・スミスの「ナショナル・アイデンティティの機能としてもっとも重要なのは、個人的な忘却という問題にたいして、満足いく回答をあたえてくれることである。この世では「ネイション」にアイデンティティを抱くことが、死という結末を乗り越え、個人の不死への手段を確保するのにもっとも確実な方法なのである」という発言を紹介し、茂木氏は、死の問題について、「ナショナリズム研究で共通した重要課題としてある。つまり共同体にとっての死者の存在が人々に共同体への帰属意識を高めさせ、その結果ネイションを形成・維持する可能性を惹起せしめるという議論であるわけだが、ここで想定されている死者たちは、ある程度『収まりのいい』存在であることに気づかされる」と述べます。

いわば幽霊や亡霊といった「いかがわしい死者」=科学的合理性から疎外された怪異は、議論のその埒外におかれてしまうとしながらも、茂木氏は、「いみじくもアンダーソンが‘ghostly’という表現をもって表した慧眼をこれまでの諸研究は『拾いそびれてきた』といってもいいかもしれない)」と述べ、さらに「もちろん合理性の外部ゆえにそれらを論じることは無意味だという立場もありうるかもしれないが、怪異たちはそれに異議を申し立てるものでもある。その代表例はジャック・デリダの亡霊論に求めることができる。デリダは亡霊を私たちの記憶の一形態であり、死者との対話の一様式であると見なし、亡霊の前での責任=応答可能性を問う。その限りで、亡霊とは責任を浮上させる/異議申し立てをする存在として我々とともにあるのだ」と述べます。

いま1つのナショナリズム研究における怪異論の意義としては近代社会においてオカルトが嵌入してくることに求めることができるといいます。横浜国立大学教授の一柳廣孝氏は、西洋から最先端の〈科学〉として導入されたスピリチュアリズムによって科学化されそうになる「霊」とその後の国家統制と科学主義による抑圧を論じていますが、オーウェン・デイヴィスが指摘するように、近代でもなおオカルティックな想像力は社会において力を失っていないといいます。茂木氏は、「それは直近の例でいえば、コロナ禍における予言獣『アマビエ(ヱ)』の大流行という、近代主義・科学的合理性が前提のはずの状況で非合理的な存在が社会に入り込んで蔓延する現象にも見いだすことが可能だろう」と述べています。

本書では、〈怪異〉とナショナリズムを並列的に並べ、その関係性を各論的に問うていきます。茂木氏は、「〈怪異〉とナショナリズムは、ともに定義が多義的であり雑多であるという共通点をもっているが、これはその双方を具体的な何かとして実体化するのではなく、弾力性がある分析概念として使う可能性を残すものとも考えられる。分析概念として運用することによって〈怪異〉の動態としての側面をとらまえることが可能になるのとともに、多様な研究分野の知見を呼び込み、横断的に議論を展開することが可能になる。それは文学研究・歴史学・宗教学・思想史・民俗学・メディア史などの学際的な研究プロジェクトとしての怪異怪談研究会の強みを十全に生かすものにもなるだろう」と述べるのでした。

第1部「戦争と教化」の第1章「戦意高揚物語への接近と離反――泉鏡花『海戦の余波』における〈人間ならざるものたち〉の役割」の「はじめに」では、法政大学市ヶ谷リベラルアーツセンターなどで教える鈴木彩氏(日本近現代文学、日本近現代演劇)が、日清戦争について、「近代日本が初めて体験した本格的な戦争」であると同時に、それをめぐる〈物語〉が様々に生み出され、それらを通して戦争のイメージや、そこに寄与することの意義が人々の中に醸成された(またはされようとした)初めての戦争だったのではないだろうかと推測し、「その〈物語〉は初めから虚構として作られたものだけにかぎらない」と述べています。

中京大学教授(日本史)の檜山幸夫は、高級軍人や英雄的な死を遂げた戦死者の権威が「写真による偶像化と、これを解説していく戦闘記事や英雄美談、軍人亀鑑、これを補完する民衆の義挙の物語」などを通じて高められる様子や、わずかな収入のなかから軍用金を寄付する人々の美談によって「国家意識に目覚め忠良なる臣民の模範として期待される臣民像」が示されていたことなどを指摘しました。これについて、鈴木氏は「一般の人々をめぐる事実も、勇敢に活躍した/その活躍を支えたという称賛されるべき〈物語〉になり、戦争のイメージの形成と意義の伝達に一役買っていたのである」と述べます。

第2章「出征する〈異類〉と〈異端〉のナショナリズム――『軍隊狸』を中心に」では、流通経済大学流通経済学部准教授(日本近現代文学・文化)の乾英治郎氏が日露戦争に言及し、1「軍隊狸と〈不気味なもの〉」において、日露戦争中(1904―05年)の日本は、軍事大国ロシアとの無謀とも思える戦いに、挙国一致体制で臨んでいたとして、その中にはなんと狸も含まれていたことを指摘します。狸は「御国のためぢゃ、いかねばなるまい」とばかり出征したといいます。乾氏は、「戦時下のナショナリズムの高揚は、どうやら人外の者にも伝播するらしい」として、国木田独歩の短篇小説「号外」に、「通りがかりの赤の他人にさへ言葉をかけてみたいやう」な日露戦時下の国民の連帯感について書かれていることを紹介します。

凱旋式でも狸が人間に交じって提灯行列を行ったとされており、乾氏は「『国民国家』としての一体感は〈異類〉にまで及んでいたものと思われる」と述べています。狸の出征譚が民俗学専門誌などで報告されるようになるのは1930年代以降ですが、仮に戦争中に庶民の間でこの種の世間話が囁かれていたとしても、新聞をはじめとする公的媒体で取り上げられる可能性は低かったと思われます。なぜなら、狸の神通力が国難を救ったという話は、〈旧弊〉な〈迷信〉を排除することで日本の〈文明国〉化を企図する明治政府の国策とは相容れないためです。

2「赤い〈狸〉と白い〈神〉」では、日露戦争にまつわる奇聞を紹介していた『霊界消息』が紹介されます。これは、大本教(当時「皇道大本」)の機関紙「大正日日新聞」(大阪の大手新聞社を大本教が1920年8月に買収、浅野和三郎が社長を務めた)に連載された記事をまとめたもので、超常現象や奇跡を大本霊学に沿って解釈したものです。同書が説くところによれば、「兵隊さん」の正体は「神様の親兵です。其神様の親兵の多くは例の天狗さんです」、「そしてさう云ふ天狗さんには、矢張り国家社会の為めに努力した人々の霊魂が化つて居るのであります」とのこと。「護国の鬼」あるいは「祖霊神」に近いイメージだろうかと推測し、乾氏は「日本軍を援護した『天狗さん』もまた、『天祐』『神の手伝』の一様態というわけである。過去の戦勝体験を参照しながら『神国ナショナリズム』を教化/強化する言説は、限りなく体制翼賛的にみえる」

しかし、大本教は、神道系新宗教でありながら天皇(天照大神)を最上位に置かない、国家神道からすれば〈異端〉の存在でした。『霊界消息」が刊行された1921年の3月には、「不敬罪」などの適用によって内務省からの弾圧を受けています(第一次大本事件)。さらに35年には治安維持法の適用による徹底弾圧を受けることになります(第二次大本事件)。乾氏は、「これらの事件の詳細についてここで深く立ち入る余裕はないが、『神国ナショナリズム』と『国体』の関係性は必ずしも直線的でないことが了解されるだろう。『白い服紅い服の兵隊さん』は、『体制』に回収しきることのできない〈異端のナショナリズム〉に支えられた物語なのである」と述べます。また、「戦場に出現した〈異類〉がロシア兵を震撼させた、という流言が一定の説得力をもったのは、戦闘を通じて敵兵の〈迷信深さ〉を日本人が知ったせいかもしれない」とも述べています。

また、乾氏は以下のようにも述べています。
「日本人が初めて対戦したヨーロッパ文化圏の国民がみせる意外な〈迷信深さ〉――明治期の日本でそれは、払拭すべき文化的後進性の現れと見なされていたと思われる――は、戦勝という結果を得ることで、相手国よりも文化的に優位に立っているという意識を日本人に印象づけた可能性はある。日露戦争開戦に際して、新聞各紙が『文明国』としての日本と『野蛮』なロシアというイメージを強調したことも、こうした枠組み作りに一役買ったとも考えられる。ロシア兵が一方的に〈異類〉を目撃し、日本人側がその目撃談を半信半疑で聞くといった物語構造は、〈超自然的なるもの〉の加護を享受しながらも、神秘体験から一定の距離を取ることで〈文明人〉たる資格も失わないという、絶妙な均衡のうえに成立している。このように、〈不死身の日本兵〉にまつわる奇聞からは、『軍隊狸』のどこかほほ笑ましいイメージも含め、戦勝国の余裕と、敗戦国に対する優越感が感じられるのである。ところが、日中・太平洋戦争(1937-45年)になると、『軍隊狸』の影は薄くなる」

日中戦争の開戦(1937年7月)と同時に、「氏神」(あるいは地域の神仏や眷属神)が「氏子」に随行して出征するといった話が日本各地で流行します。国家総動員法(1938年4月)が施行され、戦地に招集される国民が増加するのに伴い、出征兵士の無事が民衆にとっての切迫した願望になりました。結果、兵士個々人の延命救助が神仏に求められるようになりました。鳥取短期大学の非常勤講師である喜多村理子は、当時、武運長久を神仏に祈る「兵士と家族の心の絆に介在するのは地域社会であり、国家ではなかった」ことを指摘しています。乾氏は、「軍隊狸」が庶民の語りの場から排除されてしまった理由の1つは、「御国のため」に意気揚々と戦闘に参加する〈異類〉像が、もはや共感を呼ばなかったせいかもしれないと推測しています。

3「不死身の〈狸〉と血を流す〈神〉」では、太平洋戦争期(1941-45年)になると、「軍隊狸」に代わって、九尾狐・河童・大男・「軍隊猫」などが出征したといった話が散見されることが紹介されます。例えば、安藤光樹著『太平洋戦争ミステリーーー最前線に咲いた93の奇談』(笠倉出版社、2011年)所収の「特攻隊を守った天狗」には、天狗の大群が敵艦の集中砲火を引き付けてくれたおかげで基地に生還できたという元零戦パイロットの体験談があります。この記事は、「太平洋戦争中よく怪我をした妖怪が目撃された」という印象深い一文から始まりますが、乾氏は「戦争体験者のなかに、妖怪が敵の弾から自分たちを守ってくれたと証言する者が数多くいるのだという。しかし、太平洋戦争に出征し、人間をかばって負傷したのは妖怪だけではない。〈神〉もまた血を流す」と述べるのでした。

イメージのなかの日露戦争が〈狸でさえ勝てた戦争〉であるとするならば、日中・太平洋戦争は〈神でさえ負傷する戦争〉としてイメージされていたことになると指摘し、乾しは「『神の負傷譚』の背景には、戦況を正しく伝えないマス・メディアに対する『人々の強烈な懐疑や不安』と『戦況悪化感と先行きへの不安感』が隠されていた可能性については、橋本章彦の指摘がある。この当時の情報統制は戦況の真実だけではなく、戦場の兵士たちの身体イメージをも隠蔽する形で機能していた。戦死者の死の状況に関する情報は軍機保護法の対象であり、正確なところは遺族にさえ教えられていなかった。戦局が激しくなると遺骨の回収が難しくなり、遺族には石や木片が白木の箱に入れられて送られてくることもあった。そうなると遺族は簡略な『戦死公報』を頼りに、肉親の死を半ば抽象的に受け止めるしかなかった」と述べます。

言説空間でも、「肉体破砕のイメージ」に象徴されるような、国民に厭戦感情を抱かせかねない戦場の悲惨な現実を描いたものは排除されました。このように、傷つき血を流す兵士の身体イメージを公的に語るのが難しい時代に、兵士たちの痛みを代弁して内地の人々に伝えたのが、〈負傷する神々〉だったのです。乾氏は、「日露戦争期には〈神〉の軍勢として語られていた〈幻の軍勢〉も、太平洋戦争期に似た話を求めると、必然的に〈幽霊部隊〉に行き着いてしまう」と述べます。黒沼健(探偵小説や、東宝映画『空の大怪獣ラドン』〔監督:本多猪四郎、1956年〕、『大怪獣バラン』〔監督:本多猪四郎、1958年〕の原作・原案で知られる)の実話怪談記事「戦場の怪異」には、「B29爆撃部隊が東京方面を空襲して帰投する際、彼らが駿河湾の上空のへんまでくると、必ず一団の火の玉が彼らの後を追ってくる」という話がみえます。連合軍側の兵士たちは火の玉の正体を「連合軍にやっつけられた敵の飛行隊の亡霊」と考え、恐れたということです。

そして、乾氏は「インパール作戦」に言及します。インパール作戦は、食料や軍事物資の補給路を確保しない状態での無謀な行軍の中で、参加した兵士の大部分(資料によっては3万人超)が餓死ないし病死した旧日本軍最大の愚策とされています。死屍累々の撤退路は「白骨街道」と呼ばれました。『高田歩兵第五十八連隊史』所収の「まぼろしの突撃隊」は、「われわれは当時を知っているだけに、あの山に死んで行った幾百千の戦友の執念が、幻の突撃隊となったことを何の不思議もなく信じている。たとえ幽霊の存在を信じない人でも、わが連隊の猛襲が、かくも敵の心胆を寒からしめていたことを、誰しも否定できないであろう」と結ばれています。

しかし、山田盟子『幻影の碑――戦争と怪談 兵士たちの証言』(光人社、1994年)によれば、「白骨街道」で亡くなった兵士たちの亡霊は、戦後になっても行軍を続け、現地の人々や生還した兵士たちを脅かし続けたということです。乾氏によれば、ここには「死して護国の鬼となる」といった愛国美談に回収されることを拒む、戦死者やその関係者たちの思い――小池淳一がいうところの「近代国家制度によって汲み上げられない民衆の想念」を感じ取ることができるといいます。ちなみに、『幻影の碑――戦争と怪談 兵士たちの証言』はわたしも読みましたが、ベストセラー『慰安婦たちの太平洋戦争』の著者が戦争とは何かを問いかける書き下ろし幽霊譚です。マレーの地に伝わる巨人ゲルガン、大王ケンペイ、ビルマの死霊オウサザウン、ニューギニアの悪霊ソアンギなどの妖怪や、異郷の地で果てた兵士たちにつらなる心霊写真、夢枕、予知、人魂、怨霊などの不可思議な現象の存在を明らかにして、人類の悲劇に迫る異色のノンフィクションです。

三島由紀夫の『英霊の聲』をテーマにした第3章「恋する死者たちの〈戦後〉――『英霊の聲』と文学的なるもの」の2「『神』と『人間』」では、明治大学農学部教授(日本近現代文学)の松下浩幸氏が、天皇を「われらの大元帥にしてわれらの慈母」と呼ぶ「英霊」たちは、〈母〉を慕う〈子〉のようでさえあるとして、「このような『英霊』が救われる唯一の道は、天皇による『よくやつた』という全面的な享受=承認の振る舞いだったのである。だが、〈母〉はアメリカに、あるいはマッカーサーという新たな〈父〉に寝返り、自らの意志として『神』から『人間』への転向を宣言する」と述べています。

松下氏は、原理主義的思考の特徴である救世思想と終末的世界観は、原基であった天皇を否定するものへとその意味を変え、「永久革命の形態」である「天皇信仰」の現実否定性は、やがて天皇自身をも否定するというパラドキシカルな構図を形作ることになると指摘し、「なぜ、天皇という〈母〉は神として、アメリカという新しい〈父〉の側でなく、我ら〈子〉の側にとどまってくれなかったのか。天皇という〈母〉がアメリカという新しい〈父〉の〈妻〉になったという事実を知ったとき、『英霊』たちに代表されるありうべき天皇神話は、戦後日本の新たなオイディプスの神話へと置換されることになる」と述べます。

3「加藤典洋と三島由紀夫」では、思想家の内田樹氏がジャック・ラカン『エクリ』の「発信者は受信者から、自分が出したメッセージを逆向きで聞く」という箇所に言及し、受信者は自分の聞きたいことだけを聞き、それを発信者自身に(逆向きに)伝えるのだと発言したことを紹介し、松下氏は「したがって内田は、ラカンは『死者の代弁者』を名乗る権利を誰にも認めないとし、『死者の通訳をする人間』を絶対に信用するなということを伝えるためには、『死者の声はわたしにも聞こえる。でも、何を言っているのかわからない』、あるいは『死者の遺言執行人』たちは『自分で聞きたがっているメッセージを自分宛に送り返しているにすぎない』と言うのが『有効な唯一の霊的反撃』だと述べる」と書いています。

三島由紀夫はそのことを理解していたのか、「英霊」たちの声を自身が直接代弁するのではなく、霊媒という依り代を設定することでその非難を物語的に回避しようとしていると指摘し、松下氏は「むろん、作家論的立場に立てばそれもまた三島本人の声であり、その意味では『英霊』たちの声は三島によって代弁されている。したがって、この小説での『英霊』が語るという設定には、『修羅能』的な演出という以上の意味はないだろう。つまり、小説としては死者の声を代弁したことで、死者の霊はわかりやすく意味化され、もはや追体験不可能な〈絶対的〉な他者としては機能していない。ただ、その声は世俗の戦後政治が見ないようにしてきた戦前と戦後の歪をあえて可視化させようとするものだった」

「おわりに」では、1975年10月31日の午後、昭和天皇は日本記者クラブを中心とする記者団と会見を行ったことが紹介されます。その際に、訪米時にホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べたことについて、このことは戦争に対する貴任を感じておられるという意味と解していいかと記者から問われ、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答えています。松下氏は、「この会見から、昭和天皇にとって『戦争に対する責任』という言葉がいかにトラウマであったかということがあらためて見て取れる。核心をついた記者の質問に、天皇は『言葉のアヤ』『文学方面』という言い回しで回答を控えている。だが、昭和天皇にとって『戦争の責任』というテーマが明確な言葉にしにくいものであったならば、むしろ『言葉のアヤ』や『文学方面』のレトリックを駆使し、自身の心境を示唆すべきだったのではないだろうか。実際、事あるごとに和歌を詠むことで、天皇は自身の言いがたい心の裡を表現してきている」と述べます。

そして、松下氏は以下のように述べるのでした。
「まさに昭和天皇の主体と歴史状況の問題だった『戦争責任』について、天皇自身が言葉にする機会がすでに失われてしまっているいま、歴史の忘却に抗うためにできることは、『理解するという行為に挑んでくる』そして『挑まれることを要求する』ような、他者を呼び込む優れた〈文学〉テクストを発見していくことだろう。忘却に抗い、議論を止めないこと。『英霊』なのか『戦争遂行者』なのか。天皇の戦争責任はあるのか、ないのか。〈文学〉的な営為に可能性があるならば、そのような郎答不可能な〈問い〉を、個人の主体性の問題からより公共的な議論形成のための営為へと、その言葉とともに開放することだろう。なぜなら、〈文学〉は個人の問題であると同時に、それによって新たな意味と関係を呼び寄せる場の問題でもあるのだから」

コラム「亡霊となる戦死者」では、大阪大学名誉教授(宗教学、近代文化史)の川村邦光氏が、戦死者は靖国神社に忠魂・英霊、あるいは神として祀られているはずだとしながらも、「だが、それで戦死者の残念無念は晴らされたのか。マスメディアは、戦死者の美談を垂れ流している。新聞やラジオなどの活字・電波メディアの信憑性は揺らいでいく。不穏な噂、流言蜚語、口頭伝承、いわば口コミが草むらから蔟生していく。戦死者の亡霊が現れたと誰かが語る。“戦友”と称されるような戦死者の身近にいた者、生き残りが語ったのだろう。同部隊や近くにいた別部隊の者、戦死者の実家の近隣者が第一次話者になる。それは直ちに拡散される。複数の第二次話者が脚色して伝え、第三、第四の話者へといや増して膨らみ、戦死者亡霊譚が生成され流通していく。これがおおよその戦死者亡霊譚の成立プロセスになる」と書いています。

戦死者の亡霊は口頭で、ときには新聞・雑誌の挿絵で表象され、ともあれ信憑性がある亡霊として存在できるとして、川村氏は「られてはじめて、いわばアイデンティティを確立する。亡霊を見たと語る目撃者・話者としてのアイデンティティが是認されるのと重なり合って、亡霊譚は生産・作成され、消費されていく。それは社会や文化、政治にも影響を及ぼし、行為や規制を引き起こしていくこともある。流言蜚語として、官憲によって検閲・統制されることも、処罰されることもあるだろう。それ以上に、個人また集団の行動を規制・触発して、何らかの実践へと飛躍させることもある。亡霊譚が復讐、また復讐譚を生み出すこともあるだろう。さらに、亡霊譚が活字化・書籍化されるに及んで、あらためて亡霊の表象が再編され、小説やエッセー、たまには研究論文などとして、新たに変奏された亡霊譚がいわば永続的に現れていくことになる」と書いています。

第2部「政治と革命」の第5章「怪異と迷信のフォークロア――佐藤春夫『魔鳥』『女誡扇綺譚』における〈植民地的不気味なもの〉」では、早稲田大学や津田塾大学などで日本近代文学を教える堀井一摩氏が、怪異を啓蒙の光によって照らし出し、迷信を退けることは、近代社会の重要な課題であったと指摘し、「近代とは一般に、怪異が脱神秘化され、迷信が克服された時空であり、怪異を合理約に解明しうる知の体系を所有することが『文明国』の証しであると想定されている。欧米列強による植民地化の脅威に曝されて『文明開化』を強いられた近代日本も、自らが『文明国』であることを証明するという課題に強迫観念的に取り憑かれていたのである」と述べています。

しかし、堀井氏は「近代社会を照らし出す啓蒙的理性の光が輝きを増すにつれて、その闇もまた深くなる」と言います。ジークムント・フロイトは「不気味なもの」(1919年)において、かつて親しくなじんでいたものが個体発生的には成熟の過程で、系統発生的には文明化の過程でいったん抑圧された後、何らかの契機に不意に回帰したものが不気味なものの正体であり、不気味さとはそれに直面した文明人が感じる不安や恐怖であると論じました。堀井氏は、「不気味なものが、克服されたはずの幼児期の/原始的な心性がふたたび賦活される事態を指すとすれば、その克服を可能にする文明の契機、知の契機が不気味なものの発生条件になる。テリー・キャッスルはこのような知の契機を18世紀啓蒙主義に求め、不気味なものが啓蒙期の歴史的条件のもとで『発明』されたと論じた。不気味なものとは、人間が精神発達の過程で克服したはずの原始的段階の回帰であり、その意味で、啓蒙の光によって産み落とされる影、近代の暗い分身なのである」と述べます。

2「台湾漢民族のフォークロア――『女誡扇綺譚』」では、佐藤春夫の『女誡扇綺譚』を取り上げながら、憑在論について言及します。憑在論とは、ジャック・デリダが『マルクスの亡霊たち』(1993年)で提示した用語(hantologieとontologieの合成語)であり、完全には現前しえない亡霊の効果を捉えるための概念です。堀井氏は、「憑在論はデリダの『痕跡』や『差延』の後継概念とされているが、時間の問題を前景化する点に憑在論の特徴がある。憑在論において、亡霊は過去から回帰し、現在に取り憑くものと考えられる。歴史の痕跡ともいうべき亡霊は埋葬されたままでいることを拒否し、絶えず過去から回帰することで、現在時において確かな効果を発揮する。しかし同時に、『亡霊がヨーロッパに取り憑いている――共産主義の亡霊が』というマルクス=エンゲルス『共産党宣言』の冒頭句が示唆しているように、亡霊は未来からも回帰する。ヨーロッパに取り憑く亡霊とは、いまだ到来していない共産主義の亡霊、到来する前にヨーロッパを徘徊している亡霊であり、カール・マルクスはいまだ現れていないものの亡霊的な回帰を待望しているのだ」と説明しています。

第8章「マルクス主義的陰謀論の諸相――デリダ・ジェイムソン・太田竜」の「はじめに」では、佛教大学や愛知大学などで近代宗教史を教える栗田秀彦氏が「近年、陰謀論が話題になっている。欧米圏では、2001年アメリカ同時多発テロ事件以降、9・11真相究明運動(事件の公式見解を疑い真相究明を訴える社会運動)の高まりを一つの契機として、アカデミックな陰謀論研究が飛躍的に蓄積された。日本でも、アメリカ大統領選挙やコロナ禍の陰謀論の流行を受け、21年5月に『現代思想』(青土社)で『「陰謀論」の時代』、『中央公論』(中央公論新社)で『陰謀論が世界を蝕む』と題した特集が組まれている」と書いています。

とはいえ、陰謀論は決して新しいものではなありません。フリーメイソン、イルミナティ、イエズス会の陰謀論はフランス革命期に登場し、20世紀初頭には国際ユダヤ資本の陰謀論が現れ、それらは近代日本にまで伝播しました。共産主義陰謀論も同じくらい古いとして、栗田氏は「『共産主義の先駆者』ノエル・バブーフの『陰謀』の弾圧(1796年)を嚆矢とし、1848年に公表された『共産党宣言』の冒頭も、当時のヨーロッパ諸国に共産主義陰謀論が渦巻いていることを示唆している。陰謀論での陰謀者は、常に『幽霊』のように怪しく異なるもの、すなわち〈怪異〉として表象されてきた」と述べます。

2「デリダとアイク」では、「亡霊の陰謀論と『メシア的なもの』」として、脱構築で著名なフランスの哲学者デリダが初めて本格的にマルクスを論じた『マルクスの亡霊たち』(1993年)が取り上げられます。ここで、デリダは「憑在論(hantologie)」と呼ばれる思索を展開し、〈生/死〉〈存在/非存在〉〈差異/同一性〉〈実体/現れ〉〈起源/反復〉といった形而上学的・存在論的な二項対立は、実際には決定不能=表裏一体なものだと指摘し、この決定不能性を「亡霊(spectre)」「再来霊(revenant)」「幽霊(fantôm)」と表現しました。栗田氏は、「二項対立的存在論の批判は脱構築の主題であり、デリダ自身、『亡霊的論理』は『脱構築的』であるという。デリダによれば、存在論は常に決定不能性という『亡霊』を悪魔払いすることで成立する。実は、フランス語の『悪魔払い(conjuration)』は、同時に『陰謀(conspiración)』『密議(complot)』を意味する。つまり、悪魔払いは、陰謀だというわけである。悪魔払い=陰謀論の典型例が、『共産党宣言』の冒頭の神聖同盟による『幽霊』退治であり、デリダは、その同時代版としてフランシス・フクヤマ『歴史の終わり』のブームを挙げる」と述べています。

ただし、デリダの要点は、そのような陰謀論的存在論がマルクスにもみられると指摘することにあります。栗田氏は、「例えば、『資本論』第一章で、商品の使用価値と交換価値を区別し、前者を後者に先行させる点や資本主義的生産様式が成立する端緒として本源的蓄積――農民からの土地の収奪による生産者と生産手段の分離過程――が語られる点に、である。マルクスは、いつ生産物が『商品』化するのか――マルクスのレトリックを用いるなら、いつ机が『商品』という『物神』として踊りだすかを捉えようとしているのであり、それは資本主義での商品の幽霊性を暴露して悪魔払いする陰謀論=存在論になる。これに対して、デリダは『資本論』を『憑在論』的に読解する。使用価値と交換価値の関係は相互含意の円環性にある。〈起源〉は常に〈反復〉を前提とし、それによって規定される。ここから招来するのは、世界の総幽霊化であり、例えば文化研究の前提にある〈真の形象/劣化した形象〉という差異も乗り越えられてしまうだろう」と説明します。

また、「レプティリアンへの愛」として、栗田氏は「デリダの憑在論は、陰謀論と陰謀論批判、および目的論的終末論に通底する二項対立的構造を見抜いたうえで、徹底して二項対立を回避しようとする。それは陰謀を論じていても、陰謀論(=二項対立的存在論)とは呼べないように思える。だが、二項対立を論じながら否定する陰謀論も現実に存在する。陰謀論業界の著名人、イギリスのデイヴィッド・アイクの爬虫類人陰謀論がそうである」と述べています。アイクは、もともと環境運動家として活躍し、その過程でニューエイジに深く傾倒していきましたが、1990年代から陰謀論に足を踏み入れました。アイクの『大いなる秘密』(1999年)によれば、人類および人類の文明は、竜座から到来し、地球内部の空洞に潜み、低層四次元にたゆたうレプティリアンによって地球を開発・支配するために構築されました。古代には「神々」と呼ばれたレプティリアンの純血種は人類に「変身」し、人類と交配してレプティリアン交配種を生み出しました。アイクによれば、交配種の見た目は人間ですが、純血種に「憑依」されて意のままに操られ、支配者階級を構成するといいます。

アイクによれば、支配者階級は、メディア・政治・軍事・経済・医療を使って人類の思考と感情をコントロールし、人間の能力をスポイルして圧倒的大多数の「羊人」を生み出します。栗田氏は、「レプティリアンは、人間の恐れ、敵意、罪悪感といったネガティブな感情エネルギーを輝としていて、そのため戦争・大量虐殺・性的堕落を助長する。フリーメイソン、イルミナティ、ロスチャイルド、ロックフェラー、三極委員会、外交問題評議会、ビルダーバーグ会議などの各種陰謀論のアクターがレプティリアンの支配下にあり、イギリス王室など各国王室やブッシュ父子やクリントン夫妻などのアメリカの政治指導者らを、レプティリアン純血種や交配種だと名指しする。レプティリアンの「計画」は絶望的に進展し、それは完成に近づいているという」と述べます。

第9章「井上円了の妖怪学と天皇神話」の「はじめに」を、南山大学南山宗教文化研究所研究員の井関大介氏は、「人間学・文化学的な怪異・怪談研究が近年盛んだが、井上円了(1858―1919)の妖怪学がそこで話題にのぼることは少なく、啓蒙主義的な迷信撲滅運動という従来のイメージのまま更新される気配がない。たとえは、同研究分野の隆盛のきっかけになった論文集で、小松和彦は『妖怪』を『仮怪』と『真怪』に区別し、前者を合理的に解釈することで撲滅していくこと」が円了の妖怪学であり、円了は『仮怪的妖怪を「迷信」とみなして撲滅しようと躍起になった運動家』『科学的合理主義に基づく妖怪否定論者』であると評していた」と書きだしています。

また、井関氏は以下のようにも述べています。
「マルクス主義の立場から明治思想を論じる研究者からは、やや極端な見方ではあるが、円了は自然科学的唯物論への反動として現れた『哲学的観念論と旧套イデオロギー旧勢力との連関』に与する者とみられており、小松がいう円了の『科学的合理主義』についても、『流行の自然科学主義的風潮に浅薄に迎合した迄であって、彼の「無神論」とは世界を「一心海中」に没入させる観念論でしかなく(略)三世因果や六道輪廻の観念を援護するのを妨げなかった』と評されている。円了は国粋主義を標榜する政教社の立ち上げに関与し、特に晩年は教育勅語の普及活動に熱心であったことが知られていて、むしろ科学主義に対抗して仏教や儒教など伝統思想を擁護し、天皇崇敬を鼓吹する保守的論客ともみられてきたのである。妖怪学の『科学的合理主義』もまた、このような議論をふまえて再検討される必要があるのではないか。

一方、円了が創立した哲学館の後身、東洋大学の関係者がおこなった円了研究では、妖怪学は主に哲学や仏教学の文脈で再評価され、「仮怪を払い去りて真怪を開ききたる」ことによる一種の「哲学的悟道」を目指すものであることを論じてきました。井関氏は、「円了自身による趣旨説明を素直に読めば、それが妖怪学の主たる目的だと意識していたことは明らかだろう。さらに、円了はほかにも妖怪学の目的らしきものを複数掲げていた。単純に迷信の打破を主張することもある一方で、『妖怪学応用の結果』として『生死の迷門を開きて死後の冥路を照らす』ことを挙げ、実際に『妖怪学講義』「宗教学部門」などで一種の霊魂不滅論を提示している。また、もともと心理学の応用として構想されたのが妖怪学であり、妖怪を通じて普遍的な人間心理を探究するという一面もあった」と述べています。

1「『妖怪学講義』における天皇神話」では、「『鬼神』と『神代史』」として、『妖怪学講義』本編中で前節の問題と直接の関係があるのは、「宗教学部門」での神話論であると指摘。「宗教学部門」の大部分は、「霊魂」と「鬼神」そして「冥界」についての議論で占められていて、そのうちの鬼神を論じる箇所で天皇神話も扱われていることを紹介し、井関氏は「円了によれば、『鬼神』とは、人間が自らの意志や行為で左右できないものに接することで、世界には『人知、人意の関せざる一種の力』があるという想像が生じ、それが様々に名づけられたものである。とはいえ、日常の身近な物事でさえ、突き詰めれば結局はすべて知りえないことにつながっていて、『全体の上より見るときは、一つとして鬼ならざるなく、一つとして神ならざるものなし』ということになる」と述べます。

そのため、鬼神の存在を円了は肯定してます。つまり、汎神論的な意味での神としては存在するということです。ただし、それは無形の存在であって、人々が通常思い描くような姿形がある鬼神とは別物であるとして、井関氏は「有形の鬼神は自然現象に対する恐怖などによる心理的現象、妄想・幻像であるにすぎないとされる。さらに、円了は儒教・仏教・神道、そして西洋近代の学説を紹介し、自説に位置づけていく。円了はこれらを折衷し、『宗教心は、吾人人類の古代より有したる一種の先天性が、外界の万有万化に接見して、知らず識らずの間に発育しきたりしもの』という」と紹介します。

円了によれば、人間の心には有限を感知する力と無限を感知する力の2種あり、有限相対の天地を観察しても、その背後の無限の存在を想像によって読み取ろうとするといいます。これが宗教の起源であり、神観念が生じるゆえんです。末開・古代には自然物や偶像といった有形のもので鬼神を表象しますが、人知が進むにしたがって無形とされるようになり、西洋近代には論理的にも問題がない哲学的な神観念が生じました。また、古代においても活眼達識の人は早くも通俗の神観念を論破し、哲学的なそれを開示しえたのであり、儒教や仏教がそうであるといいます。

2「円了の倫理学と日本主義」では、「『日本主義』と『宇宙主義』」として、円了の実践哲学では、追求すべき真理は抽象的な道理として独立して存在するものではなく、道理と現象世界との関係性の中にあることが説明されます。「平等に偏するも差等に偏するもともに真理にあらずして、真理はこの二者の中道にありと知るべし」というのです。井関氏は、「例えば、普遍的道理からいえば社会は上等、人権は同等であるべきものながら、人には賢愚強弱・老少男女などの別がある以上、おのずと差等異権が生じてしまう。そのため、上下の懸隔甚だしく圧政があれば平等同権説を唱えてその弊を正し、逆に財産平均論のような極端な説がおこなわれるようならば差等異権説を唱えるといった、バランスが重要だという。そのような思想に基づき、国家の独立が脅かされている明治の日本では国民の統合が急務であると考えた円了は、学者向けの普遍的理論とは別に、天皇を軸とする国家主義的な教育の必要性を主張したのだった」と述べます。

3「『術』と『方便』の思想」では、「社会教育と風俗習慣」として、円了が礼節を保ち社会秩序を維持するうえでの儀式・儀礼の重要性をしばしば主張したことが紹介されます。それは知識人の目からは「迷信の一種」とみられがちですが、「すべて儀式は道理的のものにあらずして感情的のもの」であって、その目的は理性ではなく感情を満足させることにあります。感情がその心理の一部を占めているのは誰しも同じであり、儀式を無意味という「識者」は、自らの理性的な面だけが本当の自分であると誤認しているにすぎない。感情は感情として適切に扱う術が、学とは別に必要なのであるというわけです。

また、より大きくみれば、人が生きる環境内のすべての要素が「知らず識らず吾人を感化する」と円了が論じていると紹介し、井関氏は「自然環境や社会の輿論、風俗習慣などがその主な構成要素であって、人々は生活しながら無意識のうちに影響され、それぞれの気質が作られていく。そうした意図せざる社会教育こそが実は最も広範囲にわたって人々に影響するのであり、『その個人を感化する力、実に強大なるものなり』と円了は強調する。そして、『社会教育中その影響の至大にして、しかも他の習慣風俗をも作り出だすところのもの』が、作為によって非作為的な教育環境を左右することのできる政治と宗教なのである。このような教育思想をもつ円了にとって、教育勅語や天皇神話とは、あるべき風俗習慣と国民感情を形成するために用いられる政治の術であり、狭い意味での論理的整合性を度外視してでも活用すべき方便であったと考えられる」と述べます。

「おわりに」では、明治期の新聞に掲載された妖怪に関する記事をみると、しばしば円了の名が挙げられていて、「妖怪博士」としての知名度の高さとともに、その論調から〈怪異現象に合理的説明を与えてくれる学者〉であることを人々から期待されていたことが窺えるとしています。また、よく知られた柳田国男「幽冥談」(1906年)での円了評が示すように、妖怪に関心をもつ知識人の間でも、妖怪学は合理主義的な迷信批判と見なされる場合が多かったのだろうとして、井関氏は「理論と実際、学と術の区別という思想によって、妖怪学でも論理一辺倒ではなく感情や習俗を積極的に肯定し、そのために仮怪的なものの一部を温存しながら、漸次的に進歩を促そうとするような姿勢がみられるのである」と述べています。

つまり、円了の目指した妖怪学は、「理知的に真怪の存在を開示して終わりというものではなく、有限相対界を脱して無限絶対界に向かうベクトルとは逆に、無限絶対界の認識に基づきながらも、理屈どおりにはいかない有限相対界でどう実践すべきかを論じるというベクトルもまた、妖怪学には含まれていた」というのです。後者では、論理的・科学的には誤りであるような神話も、有限相対の存在である人間に無限絶対の理想を示す表象として有用とされ、また国家・社会の進化につながる道徳教化のため、むしろ積極的に正当化されていたと指摘し、井関氏は「それは妖怪の発生原因を人間心理に求めるという妖怪学の成果を応用した、一種の術として意識されていたと思われる」と述べるのでした。

コラム「戦争と妖怪的なるもの、三題」では、日本女子大学名誉教授(近現代日本史)の成田龍一氏が、「『妖怪談義』と戦争」として、妖怪論の古典というべき柳田国男の論考「妖怪談義」の初出は日中戦争が本格化してからおおよそ半年後のことであり、「天狗の話」は日露戦争後数年たってからの執筆であると紹介し、「戦争、そして敗戦後の連合国軍(GHQ/SCAP)による占領の経験を経て、『日本人』の『畏怖』の感情が変わりつつあるという思いが、柳田にあったのではないだろうか。戦前/戦中/占領という流れのなかで変わりゆく『畏怖』の心性を、柳田は1956年の時点でまとめておきたかったように思われる」と書いています。

また、成田氏は「この時期は、ちょうど戦争とその延長である占領の時期が終わり、戦後体制への離陸の時期にあたっている。新たな心性のもとに、いま一度、戦後版の国民国家像が示されるときだった。いささか推測がすぎるのだが、これまで妖怪を生み出してきた「畏怖」が戦争と占領を経験して推移していくなか、あらためて「国が自ら識る能力を具える」ことを唱える書として『妖怪談義』が編まれたように思う。そしてこのことは、あらためて戦争――占領が、妖怪――畏怖の心性と不可分であることへと思いが浮かぶ。ナショナルなものは、戦争の高揚感のなかに煽り立てられ、鼓舞されるにとどまらず、畏怖のなかに入り込んで、大きな地歩を占めることが示唆される」とも書いています。

また、成田氏は「水木しげるの『戦争と妖怪的なるもの』」として、「戦争と妖怪的なるものといったとき、真っ先に思い浮かぶことの1つは、マンガ家・水木しげるの存在だろう。水木は戦争マンガと妖怪(怪奇)マンガとをあわせ描き、双方が順接的に結合している。1922年生まれの水木は43年5月、21歳のときに召集され、ニューブリテン島(ラバウル)に送られ、空爆によって左手を失った。敗戦後、46年に日本に引き揚げ、紙芝居の作家となり、さらに58年には、貸本マンガ家としてデビューし、戦記ものを描き始める。しかし戦記ものの製作はいったん1965年で打ち切られ、水木は妖怪(怪奇〉ものに入り込む。このとき、妖怪(怪奇)ものと戦記ものとは『互いに補完的な関係』にある、そして前者には『帰還者のグロテスクな変身という主題』があるとする四方田犬彦の見解は示唆的である)と書いています。「ユリイカ」2005年9月号所収の「戦中派水木しげる」で、水木が描くのは、南の海で怪物になり、「異形の風体のまま」日本に帰還しなければならなくなったものたちの姿と四方田は論じました。

第3部「合理化とモダニズム」の第11章「中井英夫『虚無への供物』考――〈戦後〉という怪談、中井英夫から寺山修司」では、1954年9月26日に起こった海難事故である「洞爺丸沈没事故」が取り上げられます。死者と行方不明者1000人以上を出す戦後最大級にして日本海難史上に残る悲惨な事故でしたが、これを題材にした小説が「奇書」として名高い中井英夫の『虚無への供物』でした。金城学院大学文学部教授(日本近現代文学・文化、比較文学・文化)の小松史生子氏は、「『お化けの正体』――天皇制と慰霊」として、「『虚無への供物』がこの事件を題材にした理由には、未曾有の死者数を出した海難事故というだけでなく、洞爺丸という船自体の属性にあったのではないかと推測されるためである。洞爺丸は、1946年、中日本重工(現在の三菱重工)の神戸造船所で建造が開始された。全長118・70メートル、幅15・85メートル、最高速度は17・4ノットで、乗客定員は1136人という最新設備の大型船である。建造費は1億5000万円といわれ、これは終戦直後としては大変な巨費であった。竣工は47年11月」と説明します。

ここで小松氏は、洞爺丸が当時の国鉄(運輸省鉄道総局)が誇る最新大型高速連絡船として、54年8月、全国巡幸の最後の目的地である北海道へ向けて旅立つ昭和天皇のお召し船になっていた事実に注目します。敗戦になって人間宣言をおこなった天皇は、1946年2月から54年8月にかけて、沖縄を除く日本全国46都道府県を巡幸しました。北海道はその最終巡幸地で、8月8日から8月23日までの滞在というスケジュールでした。小松氏は、「七重浜沖の海難事故が起きる、まさに1カ月前のことである。1カ月前には無事に天皇を乗せて航行した同じ船が、その1カ月後には1000人を超える民衆を遭難死させたわけだ。この偶然の符合が、もとから天皇制にアンビバレントな心情を抱く戦中派世代の中井英夫に、強烈なインパクトを与えたことは疑いない」と述べています。

日本海難史上に残る悲惨な事故を題材に、中井英夫は『虚無への供物』という推理小説を書きました。中井英夫にとって、戦中派世代が経験した〈戦争=天皇制の記憶〉は、実体験を伴うことができない「虚無」であり、「時間の罠」「第四次元の断面」を生み出すブラックホールにほかならず、その記憶は「恥の記憶」でなければならないという意識が常にあったと考えられるとして、小松氏は「この自意識に苛まれながら、同世代の死を慰霊する彼なりの方法として、無意味な死を尊厳ある死に書き替える可能性を秘めた本格推理小説という形式が選ばれたのだ」と述べています。

3「虚言の後継者」として、小松氏は「中井英夫の戦中派世代としての矜持によって見いだされたともいえる寺山修司は、やがて短歌・俳句に別れを告げることで『国家の肉的構造』(『地獄篇』思潮社、1970年)によって紡がれる家族帝国主義的な歴史を拒絶し、過去はいくらでも修正がきくものという主張を示すために、演劇活動に場を移して歴史に還元されない『一回性』にこだわっていくようになる。記憶=歴史を語る言葉は、語られると同時に虚言化するという、寺山の生涯を貫くテーマは、彼自身が少国民派世代であるにもかかわらず、中井英夫ら戦中派世代の心情を受け継ぐものでありえた」と述べます。

映画「田園に死す」(監督・脚本:寺山修司、1974年)で、突然スクリーンの中の登場人物がスクリーン外にいる視聴者を指さして告発する場面、また青森の実家の壁が倒れると現代の新宿の光景が背景に現れるというラストシーンは、とりもなおさず「虚無への供物」の〈探偵小説的どんでん返し〉を〈演劇におけるどんでん返し〉に転用したものだとしながらも、小松氏は「しかしながら、中井英夫は映画の母体になった歌集『田園に死す』(白玉書房、1965年)以降の寺山修司の傾向を『土着の情念の証し』とみて、それ以上の関心をもたなかった」と紹介するのでした。


『不滅の墳墓』より

第12章「浮遊する『墳墓』と永続性のゆくえ――細野雲外『不滅の墳墓』のナショナリズムと〈怪異〉」の「はじめに――『不滅の墳墓』という書物」として、防衛大学校人間文化学科教授(日本近代文学、雑誌メディア研究)の副田賢二氏が、「細野雲外『不滅の墳墓』(巌松堂書店、1932年)は、『思想の悪化』が叫ばれた1930年代初頭に国民思想の『善導』を企図した書物であったが、そこで提示された『不滅の墳墓』の奇妙なイメージゆえに、墳墓・葬礼史研究からの言及だけでなく、モダニズムが生んだ奇書、奇想としても扱われてきた。そこには日清・日露戦争期から同時代までの新聞・雑誌の雑多な言説が大量に捕捉されている。第一章では荒廃した皇室陵墓や古墳の記事が並べられ、第二章では民衆の墳墓の荒廃や盗掘、『白骨』『霊魂』『怪事』などの記事、軍人や海外日本人の墳墓の記事が示される。第三章では火葬場の『惨禍』のグロテスクなイメージが陳列され、そこに〈怪異〉の領域が召還される」と書かれています。

1「近代日本における『両墓制』とモニュメント意識の変容」では、明治期以降、墓制についても再編制が進み、1882年の「墓地制限」で「共葬墓地」が制度化されますが、1920年代後半になると、そこに「両墓制」の民俗学的「発見」という事態が到来したことが紹介されます。柳田國男は「葬制の沿革について」(「人類学雑誌」第四十四巻第六号、日本人類学会、1929年)で「私の生れた中国東部の村などでは、三昧〔共同墓地:引用者注〕は遠く離れた原の端に大きなものが一つあって、理葬の儀式は勿論そこに行はれ、七七中陰の読経までは、其新墓の前でしたやうに思ふ」「三年目の盆の墓参には、最早三昧の方へは行かなかった」「村民の墓に対する観念は、確かに現代のそれと異なつて居た」と述べています。國學院大学教授で民俗学者の新谷尚紀氏は、柳田が「埋墓地と石塔墓地」に対してそれぞれ「葬地」と「祭地」という概念を付与したこと」を契機に、36年に大間知篤三によってこの種の墓制が「両墓制」と名づけられたと述べています。さらに民俗学者の大間知篤三は、墓制の把握が「死体埋葬の場所に対する石塔建立の場所ととらえる図式から、柳田のように「葬地」に対する「祭地」、ととらえる新しい図式へと至った」とき「後者の概念は著しく膨張化した」が、その「後者の概念をそのままに、さらに新たに両墓制という術語が設定された」のであり、以後「問題化してくる両墓制の概念規定の不明確・不統一という状況」の原因はその「「祭地」という概念」が「範囲が広く不明確」な点にあったと指摘していることが紹介されるのでした。

第13章「“オカルト天皇(制)”論序説――1980年代雑誌『ムー』の分析から」の「はじめに」を、茂木謙之介氏は以下のように書きだしています。
「本章では、1970年代「オカルトブーム」以降のオカルト的想像力におけるナショナリズムについて、80年代を中心に月刊雑誌『ムー』(学習研究社)の天皇表像から検討する。すでに島薗進が『心霊性運動の時代』という術語を用いて述べているように、70年代前後は『ニューエイジ』や『精神世界』をキーワードとするような、宇宙や生命という大きな存在と自己とのつながりや、人間がもつ無限の潜在能力を強調し、個人の霊性・精神性を向上させることを目指す思想・実践が世界的に展開した時期であったが、続く80年代の日本では吉田司雄が指摘するように『バブル経済の消費文化がオカルトの流れを推し進めた』状況があったことが知られている。同時期はまた『靖国神社への政治家による特別な配慮と、A級戦犯合祀後の首相・閣僚による参拝の問題』が前景化した時期でもあり、宗教とナショナリズムをめぐる課題もまた浮上していたことは見逃せない」と述べています。

同時代の天皇(制)をめぐっては、島薗進氏が指摘するように、1989年の昭和天皇の死に伴う「大喪と、平成の天皇の剣璽継承の儀、翌年の即位礼および大嘗祭」がやはり注目すべきポイントであり、これらの出来事について島薗は現代日本社会において「神聖天皇的な要素が公共空間に残る」ものとして位置づけているとして、茂木氏は「一方で改元に先行する時期については、すでに冨永望が述べるように昭和天皇が高齢化する70年代後半以降に退位論があったものの盛り上がらない状況であったことが知られ、さらにさかのぼって60年代後半以降は明仁皇太子(現上皇)に対する興味の低下が顕著だったという指摘からもわかるように、天皇に対する注目の薄い時期が続いていたことには注意が必要である」と述べます。

「おわりに」では、1980年代雑誌「ムー」における天皇表象は、天皇の起源を他国にありとするグローバリティの語りと、日本における宗教的超越性を語る特殊論との交錯のなかにあり、それは雑誌の編集のあり方と共振するものだったとして、茂木氏は「特に読者参加型雑誌としての同雑誌のありようを考えたとき、例えば実用・自己開発系の記事は読者全員に超常への回路を開いていたということができるが、同時にそれは血統で成り立つ権威である天皇との相性の悪さを生むものでもありえた。しかし、重要なのはそれらの議論が決して天皇における宗教的権威性を否定するものではなかったということである。そして1980年代後半においては天皇の宗教的権威性をめぐる言論が浮上していく」と述べるのでした。

コラム「新宗教における怪異とナショナリズム――初期霊友会の歴史観と日本の一」では、東京大学名誉教授で宗教学者の島薗進氏が、「畏怖を呼び覚ます怪異と新宗教」として、「日蓮宗には、女性が神霊を還依させて霊界の言葉を語る、霊的行者の信仰の系譜がある。明治時代の末期以来、右翼的な革命思想を説き、二・二六事件の黒幕として死刑に処された北一輝もそのような信仰をもっていた。大正期に発生し、昭和期に一大勢力へと発展した霊友会では、夫婦双方の家の先祖を供養する(双系先祖供養)とともに、女性に神霊が降りて託宣を受け、それによって霊的な判示をする。怪異を有効に用いた新宗教といえるだろう」と書いています。

日蓮宗の展開としてみると、元来もっていた危機と希望が一体となった近未来変革待望思想が、近代の前進的な時間意識と合流し、大きな流れになっていきました。島薗氏は、「田中智学の日蓮主義はそれを加速させましたが、霊友会の場合、それが体験主義と結び付き、下からのナショナリズムとして大きな駆動力になっていきました。宗教的畏怖に連なる怪異体験、民衆自身の主体性を鼓舞する体験主義思想、そしてナショナリズムが結合して大きな宗教運動のうねりを引き起こした」と書いています。

本書の「おわりに」を、茂木氏は「過去20年前後はナショナリズムが再燃・変容し、それが繰り返し論じられてきた時代であった。ことに日本という場においては『右傾化』『保守主義』『排外主義』などのキーワードが浮上し、アカデミックな検討の俎上にも載せられ、また2016年の明仁天皇によるいわゆる『ビデオメッセージ』以降は、生前退位と平成から令和への改元をめぐる動向のなかで、日本でのナショナリズムを論じる言説がアカデミアの内外で大量に流通した。このような動向をふまえた本書は、怪異怪談研究会の5冊目の書籍として〈怪異〉とナショナリズムの関係を論じる端緒となるべく企画された」と書きだしています。

本書の刊行は当初の予定よりも大幅な遅延をみることとなってしまいましたが、その反面、本書と接続するような問題系があらためて浮上したことは見逃しがたく、最後に2点付言しておきたいとして、茂木氏は「1つ目は世界規模での新たなるナショナリズムの展開である。コロナ禍による国家間の交通の制限や国家単位での対策の差異は、グローバル化のなかで融解しかけていた国境についての意識を賦活させ、『自国』と『他国』の差異をことさらに強調させることになり、結果的に国民国家の存在感を再浮上させたといえる。また、ウイルスの起点をめぐる論争は排外主義的な動向をより加熱しかねない状況をも生んでおり、今後これらの動向が政治的に、また文化的にどうなっていくのか、予断を許さない状況といえるだろう」と述べています。

2つ目は、アマビエ(ヱ)・アマビコ・神社姫といった「予言獣」が呼び覚まされ、キャラクター化され、政府のキャンペーンに使用されるほど社会のあちこちで増殖していった状況です。茂木氏は、「グローバル化と新自由主義の網の目が張り巡らされた状況だからこそ流行することになった今回のウイルスの存在は、その対処の困難さを含めて〈怪異〉的であり、それを『亡霊』的と指摘した高木信『亡霊たちの中世――引用・語り・感在』(水声社、2020年)は卓見というほかないが、まさにウイルスの流行という〈怪異〉的な現象に対して『予言獣』という〈怪異〉をもって臨むという社会現象が生起し、それを国家も利用するという状況を招来しているのである。これらの状況もまた、今後〈怪異〉とナショナリズムについて思考する際に重要な参照点になってゆくのは間違いない」と述べるのでした。本書は、「怪異」と「ナショナリズム」という2つの問題を繋げる刺激的な問題意識に富んでいました。本書を読んで、若い怪異研究者をたくさん知りました。彼らのこれからの活躍に大いに期待いたします。

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