- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.2275 冠婚葬祭 『古事記と冠婚葬祭』 一条真也著(現代書林)
2023.10.25
115冊目の一条本『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)の見本が届きました。「神道と日本人」というサブタイトルがついています。ブログ「鎌田東二先生との対談」、ブログ「鎌田先生との対談2日目」で紹介したように、わたしは今年3月8日・9日に「バク転神道ソングライター」こと京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生と対談しましたが、その内容が本書に掲載されています。
『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)
本書の帯
本書の帯には、わたしたち2人の写真とともに「人間は神話と儀礼が必要! 日本人のDNAに刻まれた神道の姿が明らかに。」「希代の神道学者と儀式の第一人者による奇跡の対談!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、中国哲学者の加地伸行先生とわたしの対談本である『論語と冠婚葬祭』が紹介され、書影とともに「儒教研究の第一人者と、礼の求道者による画期的な対談! 葬儀も結婚式も……冠婚葬祭の儀式の本質はすべて儒教である。日本人はその歴史的背景、文化的背景を誤解している。皇室儀礼も冠婚葬祭も、日本の儀式は儒教によって生まれた!」と書かれています。
鎌田東二先生と
本書の「目次」は、以下の通りです。
まえがき
「一条真也は歌う人であり、書く人である。」
鎌田東二
第1章 神道とは何か
■三つの道
■キリスト教との違い
■仏教との違いは
■宗教とは何か
■グレート・スピリット
■伝承型宗教
■太陽信仰を考える
■儀礼と神道
■童謡「むすんでひらいて」
■教義のない宗教
■祭りとは何か
■「あっぱれ」と「あはれ」
第2章 神道と冠婚葬祭
■結婚よりも結婚式の方が先?
■神前式夫婦の方が離婚しにくい?
■宗教における葬儀の役割
■「生」と「死」について
■震災と死生観
■禊の重要性
■鎌田東二の死生観
■「人生会議」と「死生観カフェ」
第3章 現代社会と神道
■「ウェルビーイング」と「コンパッション」
■現代の神道
■アップデートする神道について
■アップデートする冠婚葬祭について
■パワースポットブーム?
■教義のない宗教
■「リメンバー・ミー」から
「リメンバー・フェス」へ
■神道の「先祖祭り」から仏教の「お盆」へ
■死者を忘れない
第4章 神話と儀礼
■儒教と神道
■儒教と儒学
■小林秀雄の『本居宣長』
■宣長の人生における最大の謎とは?
■小林秀雄と江藤淳の対話
■「宣長コード」を読み解く
■『古事記』とは何か
■歌物語としての『古事記』
■グリーフケアの書としての『古事記』
■神道ソングライター誕生
■スサノヲノミコトは不調和
■歌は気持ちをあげてくれる
■「宗教」と「礼楽」
■日本人と「見立て」の文化
■能と詩の世界
■神道と礼
■阪神。淡路大震災で変わった死生観
■変容する葬儀
■宮崎アニメ・「君の名は。」・「シン・ゴジラ」
■『鬼滅の刃』と神道
■『鬼滅の刃』と祭りと神話
■ヒノカミとは何か
■日本神話のアップグレード
■鬼滅ブームは夏祭りと盆踊りの代わりだった?
■現代社会は「大中世」
■歌と儀式がめざすもの
■結婚式と長寿祝い
■葬儀はなぜ必要なのか?
■なぜ儀式を行うか
第5章 注目すべき
人々との出会い
■聖徳太子は聖人の龍である!
■吉田兼倶から本居宣長・平田篤胤へ
■二宮尊徳の存在
■柳田国男と折口信夫
■南方熊楠と宮沢賢治
■死んだらどこへ行くのか
あとがき
「鎌田東二は、鳥の目と蟻の目で森羅万象を見通す」
一条真也
1日目の対談のようす
はじめに「一条真也は歌う人であり、書く人である。」を、鎌田先生は「一条真也は歌う人であり、書く人である。どちらも圧倒的なエネルギーと質量を持っている。余人の追随を許さないほどのボリュームと速度で。すっとばす。かっとばす。ぶっとばす。すごい。すさまじい。すばらしい。すえおそろしい」と書き出しておられます。まことに恐縮です。また、鎌田先生は「一条真也さんに初めてお会いしたのは、1990年の11月。以来、観世音菩薩の化身の数の『33年』が経った。この間に、一条さんは、33冊どころか、その3倍の100冊以上の本を出版した。そして、本書は115冊目となる。凄い!」と書かれています。恐縮です!
わたしたちの共著の数々
さらに、鎌田先生は「なぜ、これほどの数の本を短時間で書けるのか? 単純に言うと、そのアウトプットを支えるだけのインプットをしているからである。インプットとは、読むこと、見ること、考えること。つまり、読書と観賞と思考である。本を読み、映画を観、思索する。それを毎日欠かさない。その姿は、まさしく本書の第五章でも触れた二宮尊徳の示した四徳『至誠・勤労・分度・推譲』の実践である。志を持ってまことを尽し(至誠)、心を込めてアクションをし(勤労)、自分自身の等身大のサイズを現状認識して在るべきサイズに修理固成し(分度)、いのちあるものみんなと分かち合ってシェアーし合いリレーし合う(推譲)」と述べておられます。
大いに語る鎌田先生
そして、鎌田先生は「一条真也が粉骨砕身して本を書き続けることは、このような四徳の実践でもある。これによって、彼が父から受け継いだ命題『礼経一致的天下布礼的世直し心直し』ができるのである。彼にとって書くことは、私的行為ではない。常に公共的行為として行なう社会発信である。世阿弥が『風姿花伝』で能とは『天下の御祈祷』と何度も強調したことを敷衍して言えば、一条真也の書き物はすべて『天下の御布礼』の道しるべであり、道直しである」と述べられるのでした。もう穴があったら入りたいくらい恐縮の至りです。
鎌田先生のお話を拝聴しました
これまでにも鎌田先生とは何度も対談やトークショーやパネルディスカッションなどで御一緒してきました。最初は、わたしの対談集『魂をデザインする』(国書刊行会)に収録されている対談が行われた1990年11月でした。そのときに初めて鎌田先生にお会いしたので、わたしたちの親交も33年になります。わたしたちは大いに意気投合し、義兄弟の契りを結びました。今回の対談は、三分の一世紀を共に生きてきたわたしたち魂の義兄弟の一つの総決算となりました。
わたしたち義兄弟の総決算になりました
「知の巨人」である鎌田先生の肩書は「宗教哲学者・民俗学者」となっています。宗教学とは個別の宗教現象などを研究する経験主義の科学という性格を持っていますが、宗教哲学は対象そのものを捉えて、その本質を探り、抽象的な思考をするもの。「宇宙とは何か」「心とは何か」「鬼とは何か」といったテーマにも取り組む。それは、数学と天文学をミックスしたような抽象的な学問なのです。
2日目も対談しました
一方の民俗学ですが、特定の地域の祭であるとか習俗であるとか、徹底してローカルなテーマを扱います。この「蟻の目」ともいうべき緻密な現場主義が民俗学にはあるのです。鎌田先生は、「宗教哲学はマックスであり、民俗学はミニマムであり、わたしは両方を求めたい」と述べられました。わたしは、これはまったく経営にも通じる考えだと思います。経営には「理念」と「現場」の両方が必要だからです。「理念」だけでは地に足がつかないし、「現場」だけでは前に進めません。マックスとミニマム、鳥の目と虫の目、理想と現実…鎌田先生が学問で追及していることは、すべて経営者としてのわたしの課題でした!
2日目の対談のようす
その意味で、わたしは「経営も学問である!」と悟りました。けっして経営学のことではない。経営という行為そのものが学問なのです。鎌田先生は現在、ステージ4のガン患者です。ご病気のことはご本人から知らされていました。酒も煙草もやらず、比叡山への登頂を繰り返す先生の生き方を知っていたので非常に驚きましたが、その後も日本全国を飛び回る精力的な活動を続けておられ、勇気を与えられています。本書に収められた2日にわたる対談は、じつに多様なテーマで自由自在、縦横無尽に思考を巡らせ、言葉を紡いできました。
別れ際、固い握手を交わしました
対談しているうちに、わたしは「はるか昔にも、わたしたちは語り合ったことがある。それも何世代にも渡って…」という不思議な既視感をおぼえました。わたしたちが「魂の義兄弟」なら、その縁は過去からずっと何度かの転生を経て続いてきたものかもしれません。そして、それは未来へも続いていくのだと信じています。本書の最後に、わたしは「いにしへの記憶とともに 語り合ふ 神話と儀礼 未来への道」という道歌を披露しました。本書は、11月21日に発売されます。どうか1冊お求めの上、お読み下されば幸いです。