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No.2279 芸術・芸能・映画 『裸のジャニーズ』 山瀬浩著(太陽出版)
2023.11.09
『裸のジャニーズ』山瀬浩著(太陽出版)を読みました。サブタイトルは、「誰も語らなかった“ジャニーズの真実”」。知らなかったことが多く書かれていて、非常に興味深かったです。著者は、元テレビ朝日音楽番組プロデューサー。旧社屋に存在していた「ジャニーズJr.レッスン室」時代からジャニーズ事務所、ジャニー喜多川氏とは緊密な関係を構築。すべてを知る“前時代のギョーカイ人”。10年近く前に退職後、自戒の日々を過ごしていたと振り返ります。現在はジャーナリストとしても活動中。
本書の帯
本書の帯には、「門外不出の数々のエピソードをもとに初めて明かす“ジャニーズの真の姿”」「ジャニーズの表と裏を知り尽くす著者が自らの体験と取材をもとに語る――真実のジャニーズ――」と書かれています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
プロローグ
ジャニーズ年表
第1章*始まり
“合宿所”の始まり
“謎の広報担当Cさん”の登場で始まった「噂」
Cさんが守っていたルール
ジャニー喜多川の“喜多(北)”を
芸名に授けられた秘蔵っ子
ジャニー喜多川が人生で一番愛したタレント
第2章*メリー喜多川の恐怖政治
ジャニーズ事務所が歩みだした“独自路線”
メリー喜多川が生み出した“ジャニーズ流錬金術”
メリー喜多川にとって“最も大切なアイドル”
ギョーカイに“恐怖の楔”を打ち込んだ
「中森明菜金屏風会見」
光GENJIがきっかけとなった
ジャニーズ事務所と賞レースとの“蜜月の終焉”
第3章*対立と蜜月
少年隊“全米デビュー”の夢を潰したメリー喜多川
ジャニー喜多川“最大の大失敗”と“決定権の剥奪”
ジャニーズ事務所とテレビ東京の蜜月関係
ジャニーズJr.が“商売になる”
ことを見抜いたテレビ朝日
ジャニーズ事務所への“忖度”の実態
第4章*ジャニーズJr.黄金期
オーディションの実態と滝沢秀明の発掘
「ジャニーズJr.黄金期」を作り上げた
滝沢秀明が“望んだ道”
ジャニーズの分岐点となった
ジャニーズJr.『特急投球コンサート』
関西ジャニーズJr.の創立と不遇時代
KinkiKidsへの寵愛ぶりと破格の待遇
第5章*SMAPvs嵐
ジャニー喜多川vsメリー喜多川
『SMAPvs嵐』の代理戦争勃発
SMAPと嵐の“本当の関係”
ジャニー喜多川が“絶大なる信頼”を
置いていた中居正広の才能
ジャニー喜多川が“嵐を買っていなかった”理由
第6章*“スペオキ”と呼ばれた
メンバーたち
ジャニーズJr.の歴史に残る“推されメンバー”
ジャニー喜多川に“才能を認められた”井ノ原快彦
『兎と亀』の“亀”で成功を掴んだ生田斗真
長瀬智也とジャニー喜多川の間にあった“確執”の真相
亀梨和也を苦しめるジャニー喜多川が遺した“負の遺産”
第7章*これからのジャニーズ
民放各局がアンチジャニーズに転じた“本当の理由”
“辞めジャニ組”TOBEの可能性
押し寄せる“CM契約解除”のうねり
ジャニーズ復活の可能性―
ジャニーズWEST・中間淳太の高い意識と覚悟
ジャニーズ再建―ジュリー氏が
新社長を任せたかった人物
エピローグ
また、アマゾンの【主な収録内容】は以下の通りです。
・すべての始まり、“合宿所”とは?
・性加害の噂の原点
・ジャニーさんの趣味を決定付けた出会い
・ジャニー喜多川が“最も愛した男”
・メリー喜多川の恐怖政治
~強権の始まりは郷ひろみの独立
・たのきんに全力投球
~バラエティ・ドラマ進出の原点
・近藤真彦とメリー喜多川の特別な関係
・中森明菜がきっかけでギョーカイに轟かせた
『メリー喜多川は恐い』代名詞
・少年隊に懸けた世界進出の夢とメリー喜多川の反対
・メリー喜多川が生み出した錬金術
・テレビ局側(バラエティ番組・音楽番組)
の忖度はあったのか?
・デビューの仕組みを根底から覆した滝沢秀明への寵愛
・第1次ジャニーズJr.黄金期
・関西ジャニーズJr.の創立
・KinKi Kidsとの出会い
・SMAP VS 嵐
・SMAPに対するジャニー喜多川の親愛
・“スペオキ”と呼ばれたメンバーたち
・ジャニー喜多川を“裏切った”メンバーたち
・新しい地図、TOBE台頭の可能性は?
・これからのジャニーズ事務所
~ジャニーズ復活の可能性
第1章「始まり」の「“合宿所”の始まり」では、ジャニーズ事務所は1962年から業務を始めていますが、初代所属タレントのジャニーズはもちろんのこと、フォーリーブス、郷ひろみ、豊川誕らがレコードデビューしたときは渡辺プロダクション(現ワタナベエンターテインメント)の系列事務所に過ぎず、特に故メリー喜多川氏の経営手法、経営手腕は、渡辺プロから学んだものであることが明かされます。著者は、「テレビ局側や広告代理店側への圧力やプレッシャーは渡辺プロ譲り。正直なところ、ジャニーズ事務所よりも強引な出演交渉をする大手プロダクションは1つや2つではない」と述べています。
また、“合宿所”の始まりについては、某人気放送作家の「系列である以上、わかりやすく言えば“上納金”のようなものを納める必要もあったはず。系列事務所当時は、メリーさんもジャニーさんも決して裕福な生活ではなかったでしょう。現にメリーさんは芸能だけでは食えずに四谷三丁目でバーを経営していたし、ジャニーさんはそのバーの2階に間借りしていた。そんな状況の中、大阪でスカウトしたフォーリーブスの北公次、福岡から上京してきた郷ひろみ、同じく大阪でスカウトした豊川誕を“とりあえず”同居させていたのが合宿所の始まりです」という発言を紹介。
つまり、合宿所とは所属タレントやファン側の“意識”の問題で、実際には単に“故ジャニー喜多川氏の自宅”なのであるとして、人気放送作家の「基本、ジャニーズJr.には“一般常識を身につけさせる”目的で、パニックを起こしそうなごく一部の超人気メンバーを除き、公共交通機関による自宅からの通勤通学を義務付けていました。それでも地方出身者や早朝深夜に集合、解散するような個人仕事に就いているJr.を“自宅に泊めて面倒をみる”のも経費節約の1つです」という発言を紹介しています。
ジャニー喜多川の自宅(合宿所)は何度か移転していますが、性加害の主な舞台は原宿の合宿所と六本木1丁目・アークヒルズになるそうです。特にアークヒルズはワンフロア貸し切りで入居していたので、関西ジャニーズJr.(ほぼ関ジャニ∞世代まで)が宿泊する部屋や小・中学生Jr.がテレビゲームを楽しむ部屋、シアタールームなど用途に応じた部屋が完備されていたとか。またその気になれば徒歩15分程度で通える場所のスタジオビルを購入。24時間、いつでも本格的なレッスン、リハーサルが行える環境を整えていったようです。しかし、著者は「こうした“裕福さ”ゆえに、性加害が助長されていったのは間違いない」と述べています。
人気放送作家の「青山のマンションにはいわゆる“スぺオキ”しか出入りできなかったはずですし、それもすでにCDデビューしていた堂本剛、滝沢秀明、中山優馬らに限られていたと聞いています。当時、1931年生まれの故ジャニー喜多川さんは70才を越えていたので、この頃からは性加害のペースも落ちていた。またあまりにも合宿所の場所や集まるジャニーズJr.の数が増えて目が届かなくなったため、合宿所のシステム自体は2010年代には終わりを迎え、一部が自由に使える宿泊施設に転用されたのです」という人気放送作家の言葉を紹介し、著者は「始まりは地方出身のメンバーのため、彼らに“帰れる場所”を作るために自宅スペースを提供する“純な気持ち”だったものが、皮肉にもジャニーズ事務所の発展、繁栄こそが故ジャニーズ喜多川氏の“箍(たが)”を外してしまったのだ」と述べ、人気放送作家の「裕福になって自分の男色趣味を満足させていたわけですから、どんな言い訳も通じないし、単なる金持ちのエロ親父に過ぎません」という言葉を紹介しています。確かに、その通り!
「“謎の広報担当Cさん”の登場で広まった『噂』」では、ジャニーズ事務所が渡辺プロの系列から独立したのは1975年であり、今やネットでも話題の白波瀬傑・前ジャニーズ事務所副所長が渡辺プロの社員からジャニーズ事務所の社員へと転籍したことが明かされます。白波瀬氏は郷博美や田原俊彦のマネージャーを経て、1980年代初めから半ばにかけて、ジャニーズ事務所の窓口“広報”の仕事を担うようになっていきました。著者は、「当時のテレビ局関係者、ラジオ局関係者は“故メリー喜多川氏の右腕”かつ“現場のボス”然とした白波瀬氏の言動に誰もが驚かされたと明かす。そこには1つ決定的な理由がある。それは白波瀬氏が“オネエ言葉”を自在に操っていたからだ」と述べます。故メリー喜多川氏以下のジャニーズ事務所スタッフが白波瀬氏を「C(しー)さん」と“女性呼び”していたことも名物広報の存在感を際立たせるものになったとか。
「ジャニー喜多川が人生で一番愛したタレント」では、郷ひろみについて書かれています。郷ひろみの芸名(本名・原武裕美)に使われている“郷(5)”は、公式にはフォー(4)リーブスの弟分として1つ大きい数字につなんでいるとされていますが、元ジャニーズJr.のN氏によれば「フォー(4)リーブスを超える存在になるように。だから1つ大きい数字(5)にちなんだ――と、当時ジャニーズの内部にいた人間ならみんな知っている)といいます。1971年公開の映画「潮騒」のオーデイションオーデイション会場で出会った故ジャニー喜多川氏に“一目惚れ”された原武裕美少年は、その場で熱心なスカウトを受け、ジャニーズ事務所に入所。当時、父親の関係で品川区に住んでいた彼は、ジャニー氏のたっての願いで合宿所生活に入ります。しかも他のJr.たちとは違い、合宿所では彼一人だけにジャニー氏と同じ食事メニューが与えられ、その超VIP待遇のせいで先輩たちに疎まれたそうです。
第2章「メリー喜多川の恐怖政治」の「ジャニーズ事務所が歩み出した“独自路線”」では、ベテラン放送作家の「ジャニーズ事務所が渡辺プロの系列から独立し、様々な苦労から故ジャニーさんが入院(十二指腸潰瘍)、その隙を突くかのように郷ひろみさんがジャニーズ事務所を離れ、ジャニーさんは荒れにされたことでしょう。もちろん性加害を容認することはできませんが、昭和50年代初めの芸能界や日本社会の情勢を鑑みると、姉であり共同経営者であるからこそ、加速する弟の趣味を野放しにしてしまった……とも考えられます。繰り返しになりますが、だからといって性加害を容認も肯定もできません」という発言が紹介されています。
「弟が“最愛”の郷ひろみ移籍のショックから立ち直るならば」と故メリー喜多川氏が「見逃していた」のだとすれば、「その責任は同等以上に重い」と著者は言います。元ジャニーズJr.のN氏は、「そういえば昔、ジャニーさんが『所詮、人は離れていく』と話し手いたことがあって、そのときは辞めていくスタッフのことなのかレッスン生のことなのか深くは考えなかったけど、仮に郷さんのことを指していたのだとしたら、今思えば“どうせ離れていくなら手を出してしまえ”の気持ちで性加害が加速していたのでは?」と語っています。ある意味では、寵愛していた郷ひろみを失ったというグリーフが、故ジャニー喜多川氏の性加害を加速させたという見方もできるのです。
「光GENJIがきっかけとなったジャニーズ事務所と賞レースとの“蜜月の終焉”」では、独立創業年の郷ひろみ独立も影響し、1970年代は芸能界、テレビ界を席巻するほど大きな存在感を示すことはなかったジャニーズ事務所でしたが、1979年10月クールにスタートした武田鉄矢主演の名作学園ドラマ「3年B組 金八先生」第1シリーズの生徒役に田原俊彦、野村義男、近藤真彦の「たのきんトリオ」を送り込みました。このトリオは昭和歌謡の「御三家(西郷輝彦・舟木一夫・橋幸夫)「新御三家(郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎)」に続く、言うなれば「新人々御三家」的な扱いを受けたこと、さらに1980年代の爆発的なアイドル(男女ともに)ブーム到来によって、そのど真ん中にジャニーズ事務所が鎮座しました。
著者は、元TBSテレビ編成マンという人物の「1980年代のアイドルブームとジャニーズ事務所の隆盛は、日本レコード大賞と日本歌謡対象がもたらせてくれたと言っても過言ではありません。なにせ1980年の田原俊彦に始まり、1981年の近藤真彦、1982年のシブがき隊、1983年の野村義男(THE GOOD‐BYE)、1986年の少年隊、1988年の男闘呼組……と、80年代で4年連続を含む6組が両賞の最優秀新人賞を独占したのですから」という言葉を紹介し、「同年に2組以上レコードデビューさせない初期ジャニーズ事務所の戦略は、日本レコード大賞、日本歌謡大賞の両『最優秀新人賞』独占が目的だったからだ」と述べています。
1987年に近藤真彦がジャニーズ史上初の日本レコード大賞を受賞すると、翌1988年には光GENJIが日本レコード大賞を受賞。そして1989年、ジャニーズ事務所としての“レコ大3連覇”、光GENJIの“レコ大連覇”でさらなる栄誉を得ようとしました。しかし、著者は「もう他の事務所を黙ってはおらず、本命の光るGENJIは大賞ノミネートの金賞に甘んじてしまい、このあたりかたジャニーズ事務所と賞レースの蜜月は坂道を転がり落ちていく」と述べます。1989年の日本レコード大賞はWinkの「淋しい熱帯魚」に奪われました。
さらに1990年からレコード大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割することが発表されると、ジャニーズ事務所は同賞の価値の低下を指摘し、賞レースからの辞退を表明しました。ちなみに。1990年にデビューさせた忍者が不人気で、しかも分割されたレコ大の「ポップス・ロック部門」にノミネートされましたが、ジャニー氏は「忍者は演歌だ!」と譲らず、怒ったとか。結果的にレコ大は1990年以降、急速に価値を落としていきました。ジャニーズとしては最も良いタイミングで賞レースから撤退することができたのです。
第4章「ジャニーズJr.黄金期」の「『ジャニーズJr.黄金期』を作り上げた滝沢秀明が“望んだ道”」の冒頭では、テレビ朝日関係者という人物の「こんなことを言っては何ですが、亡くなったジャニーさんは家庭環境が複雑な少年を可愛がる傾向がありました。中学卒業後、集団就職で和歌山から名古屋に出て、その後、勤め先をバックレて大阪在住の兄の下に身を寄せていた北公次。推定2才のときに親に捨てられ、児童養護施設で育った経験を持つ豊川誕。東山紀之新社長も滝沢秀明TOBE社長も、幼少期に実親の離婚を経験している。ジャニーさんは家庭環境が複雑な少年たちほど“強い”と評価し、『逆境を乗り越える力を持っている』とも話していました。そこには自身とメリー氏もアメリカで生まれ育ち、肌の色で差別された経験も少なからず影響しているのでしょう」という発言が紹介されています。これは説得力がありますね。
「関西ジャニーズjr.の創立と不遇時代」では、基本的に故ジャニー喜多川氏は関西人、いや関西弁が好きであると指摘されます。ジャニーズ事務所草創期の北公次(フォーリーブス)をはじめ、1970年代の豊川誕、川崎麻世。1980年代の佐藤アツヒロ(敦啓 光GENJI)、1990年代には城島茂(TOKIO)、KinKi Kids、岡田准一(V6)らがデビューを果たすと、2000年代以降も関ジャニ∞、中山優馬、ジャニーズWESTまで、Jr.時代からジャニー氏がデビューに関わった関西メンバーの名前がズラリと並ぶとして、著者は「こうしてみるとジャニー氏は、関西人云々ではなく“関西弁でイジられるのが好き”だったのではないだろうか? 直接ツッコまれたり、本人不在でもネタにされたり。川崎麻世にあまり可愛がられていた印象がないのは、彼は大阪時代から将来の上京を見越し、標準語を話す練習をしていたからだろうか」と述べています。なるほど、鋭い見方ですね。
第5章「SMAPvs嵐」の「SMAPと嵐の“本当の関係”」では、2組はいい意味で単なる“先輩後輩”でしかないと指摘します。1991年デビューのSMAPと1999年デビューの嵐の間には8年のデビュー差があり、中居正広がよく「SMAPのバックについた最後の世代はKinki Kids」とことさら強調し、また嵐のほうも櫻井翔が「俺たちの世代はV6のバックについて学ばせてもらった」と、さもV6こそが“憧れの先輩”的な物言いをしています。Kinki Kidsは1993年4月クールから1996年7月クールに放送されていた「キスした?SMAP」(テレビ朝日系)初回放送からレギュラー出演していた“SMAPにとって最も身近なジャニーズJr.”でした。SMAPから見た嵐とは、あくまでも「1999年のバレーボールW杯でできたグループ」であり、1999年時点でのSMAPはバックにジャニーズJr.をつけていませんでした。わたしも初めて知りました。
「ジャニー喜多川が“嵐を買っていなかった”理由」では、藤島ジュリー景子氏が櫻井翔に絶大な信頼を置いているとして、日本テレビで過去に嵐の番組を担当したことがあるというプロデューサーの「ジュリーさんは『嵐の中で櫻井にだけは私から小言を言ったことがない』と周囲に話すほど、櫻井くんの優等生ぶりをいつも褒めています。でも、“それだけ”なんですよね。かつて僕の先輩のプロデューサーが嵐を24時間テレビに起用したとき、ジャニーさんが“嵐のことあまり買ってなかった”と聞いたんですけど、“優等生すぎるから好きじゃないのかも”……と、その先輩は言ってました。ジャニーさんは不良っぽい少年とか、“反抗期だけどやることはやる!”みたいな少年が好きらしいので」という発言を紹介しています。
また、同じ人物が「これは個人的な意見ですが、ジャニーさんが嵐のことをあまり買ってなかったのは、すべてSMAPやTOKIO、V6など先輩グループの真似事、中でもSMAPの真似事しかしてこなかったからでしょう。グループの1人がMCで目立ち、他のメンバーは役者で高く評価される。大野智くんのアーティスト活動も、すでに香取慎吾くんが先鞭をつけている。確かに全盛期の嵐はSMAPと並ぶ二枚看板でしたが、そこに“嵐にしかできない”オリジナルは存在していなかった。またマネージャーとしてもジュリーさんは飯島さんの真似をしているだけ。SMAPを作り上げた飯島さんと、SMAPの真似をする嵐を担当するジュリーさん。亡くなったジャニーさんがどちらを買っていた、可愛がっていたかは一目瞭然でしょう」と語っています。この意見は非常に説得力がありますね。
第6章「“スぺオキ”と呼ばれたメンバーたち」では、ジャニー氏のスペシャルお気に入り(スぺオキ)について書かれています。よく知られている北公次、郷ひろみ、田原俊彦、東山紀之、内海光司、堂本剛、滝沢秀明、松本潤、佐藤勝利、平野紫耀といった面々の他に、ここでは、中山優馬、井ノ原快彦、生田斗真らについて言及されています。現在、俳優として活躍している生田斗真はアイドルグループのメンバーとしては本格的にデビューできませんでしたが、著者は、日本テレビ関係者の「“スぺオキとCDデビュー”はまた別の話。今回、故ジャニー喜多川氏の性加害が認定された調査の中で被害者として名乗り出た人たちは“デビューのために我慢した”と主張されていますが、結果的には彼らの99%がデビューどころかJr.の中でも目立つポジションにも抜擢されていない。つまり故ジャニーさんにとって性加害と仕事は別物だったのと同じように、スぺオキとデビューは決して“イコール”ではないのです」という発言を紹介しています。
第7章「これからのジャニーズ」の「民放各局がアンチジャニーズに転じた“本当の理由”」では、民放各局の現場から、直接ジャニー氏と関わりのあったテレビ局員や外部スタッフが定年や高齢を理由に追い出され、ジャニーズを庇う重石がなくなったことが指摘されます。重石がなくなれば下の者は遠慮なくジャニーズを叩けます。これまでその重石から一方的に言うことを聞かされてきた鬱憤も溜まっているといいます。ある日本テレビスタッフは、「今の現場で上の立場にいる人たちは“ジャニーさんの伝説は知っていても、直接会ったことがない”人ばかりで、故ジャニーさんに対する“畏敬の念”も持ち合わせていない。それどころかジャニーズ事務所の名前を笠に高圧的な態度を取り続けた藤島ジュリー景子氏に、いつか意趣返しをするチャンスを窺っていたほど。そんな連中が上にいたら、弱ったチャンスにアンチジャニーズに回るのも当然でしょう」と語ったそうです。確かに、その通りだと思います。
「エピローグ」では、3代目ジャニーズ事務所社長に就任した東山紀之(57)が自分の後継者に木村拓哉を考えていると推測し、著者は「後継候補の筆頭は、ジャニーズJr.を統括する井ノ原快彦ジャニーズアイランド社長(47)か、3代目社長人事で藤島ジュリー景子前社長と白波瀬傑前副社長が推した株式会社TOKIO副社長・株式会社TOKIO-BA社長の国分太一(49)が妥当なところだが、なぜか東山新社長は、この11月13日で51才の誕生日を迎える(3人の中では)年長の木村拓哉を後継候補筆頭に考えているというではないか」と述べ、最後に「新生ジャニーズ事務所は“茨の道”への第一歩を踏み出したに過ぎないのだ」と述べるのでした。本書は、匿名の人物の発言が多いことが特徴です。それがもどかしくはあるものの、実際のテレビ関係者だったら実名を出すだけにはいかないのでしょうね。それでも、業界内の声を知ることができて勉強になりました。