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No.2292 プロレス・格闘技・武道 『ジャイアント馬場 16文キックの伝説』 ジャイアント馬場著(東京新聞出版)
2023.12.27
『ジャイアント馬場 16文キックの伝説』ジャイアント馬場著(東京新聞出版)を読みました。著者は、本名・馬場正平で、昭和13年1月23日、新潟県三条市生まれ。昭和30年1月、高校中退して 巨人軍に入団。32年シーズン後半公式戦初登板。35年、ひじ故障で 野球を断念し力道山道場に入門。36年7月、渡米修行。翌年16文キックを開発。38年にはメーンイベンターとなり帰国。力道山とタッグ を組む。47年10月に日本プロレスから独立し、全日本プロレスを設 立。49年、NWA王座に。平成5年4月、国内5000試合出場を達成。 2011年1月31日、肝不全のため東京都内の病院で死去。61歳。
本書の帯
本書のカバー表紙には、リング上で相手に16文キックを見舞う馬場の写真が使われ、帯には「決定版自伝『16文の熱闘人生』(1994)復刊!」「語り尽くした少年時代、巨人軍入団、海外武者修行、力道山との関係、全日本プロレス設立……元付き人の和田京平レフェリー インタビューも収録」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「馬場さんが亡くなって、四半世紀がたった。16文キックの魂は、今も若い世代の間に生き続けている。オールドファンが懐かしむプロレス黄金期のシーンを切り取った本書には、馬場さんの生き方が詰まっている。本文序章~あるプロレス記者の回想 ジャイアント馬場のいた時代~より」と書かれています。
アマゾンの内容紹介には、「伝説のプロレスラー・ジャイアント馬場の死去からまもなく25 年。1994年に出版した 馬場の決定版ともいえる自伝『16文の熱闘人生』が、満を持して復刊! 野球に熱中した新潟での少年時代、巨人軍に入団したいきさつ、プロレスへの転向、力道 山との関係、海外武者修行、日本プロレスのエース時代、全日本プロレス設立、そして円熟 の五十代半ばまでのこと……スーパースターでありながら早世した馬場の自叙伝は少なく、貴重な『肉声を聞ける一冊』となっている。 復刊にあたり、プロレス写真家・山内猛氏の写真を採用。元付き人として馬場をよく知る レフェリー・和田京平氏のインタビューなども収録した」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 あるプロレス記者の回想
ジャイアント馬場のいた時代
(大西洋和)
第一章 様変わりしたプロレス
第二章 野球に熱中した少年時代
第三章 巨人軍入団と挫折
第四章 プロレスへの転身
第五章 本場アメリカで武者修行
第六章 メーンイベンターに
第七章 プロレス戦国時代
第八章 全日本プロレスを設立
最終章 まだまだリングで
「あとがき」
和田京平インタビュー
ジャイアント馬場略年譜
序章「あるプロレス記者の回想 ジャイアント馬場のいた時代」では、東京中日スポーツ記者の大西洋和氏が、「だれにも似ていない209センチ」として、「初めて私がジャイアント馬場さんを生で見たのは1975年、中学1年生の夏休みだった。地元の田舎町に、全日本プロレスの興行がやってきた。会場は駅前のスーパーマーケット建設予定地で、屋根も柱もない、ただの空き地だ。周囲は分厚いビニールの幕でぐるっと囲われていた。70年代は、こうした青空会場でよくプロレスをやっていたのだ。蒸し暑い日暮れ前、私はためた小遣いで一番安い立見席1000円のチケットを買い、入場が始まるまで友達と一緒に入口横のパンフレット売り場をながめていた。そこに馬場さんがやって来たのである」と書いています。
すでにあたりはお祭りのような人出でにぎわっていました。大人たちは缶ビールをあけたり、うちわでパタパタあおいだりしながらたむろしていたそうです。大西氏は、「馬場さんがビニール幕を開けて中から姿を見せると、その人々がどおっと沸いた。その巨大なこと! テレビで見て大きいのは分かってあが、目の前の209センチはもう圧倒的で、まるで神社に得ている杉の大木みたいだった。注連縄が巻かれていたら、手を合わせて拝んでいたかもしれない。それほどまでに神々しかった」と書いています。
「16文キックの誕生秘話」では、本書『ジャイアント馬場 16文キックの伝説は、1004年に出版された『16文の熱闘人生』に、馬場の運転手兼付き人で、馬場を公私にわたって支え続けた和田京平レフェリーのインタビューなどを付け加えて、再出版の運びとなったことが紹介されます。本文中で、馬場は、野球に熱中した新潟での少年時代のころから、巨人軍に入団したいきさつ、プロレスへの転向、力道山との関係、海外武者修行、日本プロレスのエース時代、全日本設立、そして円熟を迎えた50代半ばごろまでのことを語っていることが明かされます。
馬場は間違いなく昭和を彩ったスーパースターですが、61歳と世間的に見れば若くして亡くなったこともあって、自叙伝は少ないです。それだけに、本書は肉声を聞ける貴重な1冊になっています。それぞれの時代のプロレス界の背景にも言及していて、マニアにとっては貴重な歴史書でもあります。著者は、「馬場さんが亡くなって、四半世紀がたた。209センチよりもっと高いところに行ってしまった馬場さんは、伝説の存在となっている。だが、国民的必殺技となった16文キックの魂は、今も若い世代の間に生き続けている。オールドファンが懐かしむプロレス黄金期のシーンを切り取った本書には、そんな馬場さんの生き方が詰まっている」と述べるのでした。
第一章「様変わりしたプロレス」の「技と笑いと……」では、「‘93ジャイアント・シリーズ」最終日の平成5年10月23日の日本武道館で、次の「’93世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終日12月3日の日本武道館のチケットを先行販売したところ、ほとんど売り切れてしまったことを紹介。まだ組み合わせや参加異国人選手も決まっていないのに、です。「全日本プロレスは自分たちをだまさない」とファンから信用されているとして、著者(馬場)は「力道山と柔道の木村政彦が対決、力道山が勝った試合は昭和29年12月のことでしたが、あのころは、ただ勝てばいいという時代でした。勝つためにはなんでもするということもあったでしょう。技術的にも、今のように進歩していませんでした。今は技も進みましたが、試合も随分違います。若手の試合は激しく、ようやる、と僕でも思うぐらいの技の応酬です」
第四章「プロレスへの転身」では、プロ野球を引退して、日本プロレスに入団したエピソードが綴られます。力道山門下になった馬場は、「1年先輩が大木金太郎でした。アントニオ猪木は、16歳のまだまだ子どもだったけど、背が高かったことは覚えていますよ。3人で力道山によくしごかれました。ヒンズー・スクワットというひざの屈伸運動は、3000回やらされたもんです。今、こんなことをやらせたら、新人はすぐ逃げ出すでしょう。僕も初めは200回ぐらいでぶっ倒れてしまいましたよ。それを3000回やるんですよ。倒れると水をかけ、起き上がってまたやっては倒れ、流れ出た汗がたまった水たまりに顔をつける。それの繰り返しなんです」と述べています。
「ダンベルをもたされ」では、力道山道場に入門してから、腕立て伏せやベンチプレスを使ったトレーニングなんかをしたことが紹介されます。力道山は弟子たちに、修行のために1個60キロのダンベルを巡業のあいだ両手に持って歩かせたそうです。両手で120キロで、階段も上がらなければならなかったとか。著者は、「普通は新人が入ってきたら、今度は新人にこういうことをやらせるでしょう。それが僕の場合、新人が入ってきたからといって、その新人にやらせると、『お前がやるんだ』と力道山から怒られるんですよ。それで、新人には荷物を持たせて、僕がバーベル持って、結局、1年間ぐらいやらされましたね。それも大木金太郎や猪木はこんなに長くはやらされなかったですね。僕だけでした。まあ、思えば、僕は野球選手でしたから、力仕事をしたことがないわけですからね。それで僕だけ、集中的にやらされた、ということは言えると思いますね」と述べています。
第五章「本場アメリカで武者修行」の「アルバイトに芝刈り」では、昭和36年7月1日に芳の里、マンモス鈴木と一緒に羽田空港を飛び立ってアメリカのロサンゼルスに武者修行に行ったことが紹介されます。しかし、現地で芳の里と鈴木は試合がありましたが、著者にはありませんでした。力道山から依頼されていた世話役のグレート東郷が借りたモーテルの1室を3人で宿舎にしていましたが、東郷は著者に「ユーは試合がないから寝ていなさい」と言ったそうです。著者は、行きの飛行機の中で芳の里から30ドルを分けてもらっていましたが、練習のロードワークの最中に落としてしまい、とうとう1文無しになったとか。
そのころ、ロサンゼルスには日本人街があり、日本人も多かったそうです。それで、芳の里と鈴木が試合に行っている間に、著者は知り合いになった日系二世の人物に「なんか、仕事みたいなものはないだろうか」と頼んだそうです。すると、その人が世話してくれて、芝刈りとかペンキ塗りのアルバイトをやったそうです。著者は、「炎天下でやって、日給25ドルでしたね。当時の大学出の人が初めてもらう給料が、週給125ドルだと言っていましたから、そう悪い日当ではなかったですが、日本では僕たちがそろってバリバリ試合をやっていると思っていたでしょう。まさか、僕が芝刈りをしているとは、考えてもいなかったでしょうね」と述べています。
「週給100ドルに」では、アメリカ・マット界でのサクセス・ストーリーが語られます。コーチ役のフレッド・アトキンスに厳しく鍛えられ、技は空手チョップぐらいでしたが、体力はついて認められてきました。アメリカに渡ってから1年近くたった昭和37年6月、著者は当時のNWA(全米レスリング連盟)世界王者だったバディ・ロジャースに挑戦することができました。このNWA世界選手権試合は5連戦の予定で、オハイオ州のコロンバスで行われました。「なるようになれ」という気持ちがよかったのか、著者は第1戦で勝ってしまいました。
いったんはNWA世界王座のチャンピオンベルトを巻いた著者ですが、この後の第4戦では、興奮した慣習がリングになだれ込み、結局は無効試合になってしまいました。ベルトはコミッション預かりになったそうです。著者は、「ロジャースは、僕が戦ったレスラーの中で世界最高のレスラーだと思っています。収入面でも、当時、アメリカのレスラーで年収10万ドル(3600万円)を稼いでいたレスラーは少なかったんですが、ロジャースは30万ドル(1億800万円)を超す収入のあるレスラーで、別格の存在でした」と述べています。
しかし、著者はすぐにロジャース以上の売れっ子レスラーになります。一条真也の読書館『1964年のジャイアント馬場』で紹介した柳澤健氏の著書によれば、ついにアメリカでブレイクした著者は、1964年(昭和39年)1月、グレート東郷から手取り年収27万ドルを提示されたそうです。契約期間は10年、現在の貨幣価値に直せば年収5〜6億円に当たる破格の条件でした。トップレスラーの1人だったジン・キニスキーが来日したとき、「昨年の俺の年収は9万7000ドルだった。念願の10万ドルレスラーまであと一歩だ。今年中には、超一流の仲間入りをしたい」と語ったそうです。10万ドルが超一流の証明だった時代に、著者は3倍近い27万ドルを保証されたわけです。日本人メジャーリーガーなど存在しなかった60年前、ジャイアント馬場はたった1人の「世界標準の男」でした。
著者の最大のライバルといえば、アントニオ猪木の名が思い浮かびます。アメリカ・マットで大成功した著者をどうしても超えたかった猪木は、異種格闘技戦に活路を求めました。第八章「全日本プロレスを設立」では、著者は「猪木とは長くタッグを組みましたが、猪木とボクシングのモハメド・アリとの対戦がありましたね。昭和51年6月のことです。アメリカのプロレスラーがあの試合について、こう言っていたのを覚えていますよ。『日本人はアメリカに対して二大ミステークをおかした。真珠湾攻撃とあの試合だ』とか言ってましたね」と述べています。ずいぶんな言い様ですが、当時は「世紀の茶番」といわれた猪木・アリ戦は現在では総合格闘技の原点として高い評価を得ています。また、著者も「あのアリとの試合を実現したことは凄い。戦うからには、プロレスラーである猪木の勝利を願っている」と語っています。
「あとがき」で、著者は「プロレスの歴史は、いかにお客さんをだますかだったと思います。切符が売れさえすればそれでいいと、出場選手の質を落としてギャラを節約し、逆に売れなくなるといいい選手を呼ぶ、というやり方だったんです。それを全日本プロレスはファンを決して裏切らない、質の高いものをやる、ということでやってきました。今20年経ってやっと信用がついてきたんです。この信用を一度でも崩したら終わりです。この信用を守っていくこと、そのためには一生懸命に、そしてまじめにやっていくしかありません。もちろん全日本プロレスのモットーである『明るく楽しく激しく』は、永久に続けていきたいと思っています」と述べるのでした。この文章が書かれたのは、1994年6月です。この4年半後の1999年1月に著者は亡くなりました。また、その後、著者が設立した全日本プロレスは選手の大量離脱で崩壊の危機に陥りました。その後の歴史を知っている者としては複雑な心境ですが、昭和を代表するヒーローの1人であるジャイアント馬場の自叙伝は大変興味深かったです。