No.2299 プロレス・格闘技・武道 『EASY FIGHT』 堀口恭司著(幻冬舎)

2024.02.13

『EASY FIGHT』堀口恭司著(幻冬舎)を読みました。著者は1990年、群馬県高崎市生まれ。日本の男性総合格闘家、空手家、YouTuber。アメリカ合衆国フロリダ州ココナッツクリーク在住。アメリカン・トップチーム(ATT)所属。初代・第4代RIZINバンタム級王者。現RIZINフライ級王者。第7代Bellator世界バンタム級王者。

本書の帯

本書のカバー表紙には著者の顔写真が使われ、帯には「『最強のMade in Japan』が明かす格闘家としての半生」「ごちゃごちゃ語るな。やるべきことに集中しろ。」と書かれています。また、帯の裏には「難しく考えるな」と大きく書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
まえがきにかえて「難しく考えるな」
第1章 前夜
第2章 UFC王座を目指す
第3章 師匠との別れ
第4章 日本人初の二冠王
第5章 カーフキック
第6章 格闘技をメジャーに
第7章 新格闘技団体
    「TOP BRIGHTS」の
    方向性と役割
第8章「最強」の定義を考える
あとがき「自分が求めているもの」

格闘技界において「最強のMade in Japan」と呼ばれる著者ですが、「まえがきにかえて『難しく考えるな』」の冒頭を、以下のように書きだしています。
「誰に限らず、総じて日本人は頭がいいとは思うし、賢い人が多いと思う。ただ、裏を返すと考えすぎることが多いのではないか、と思っている。それと、大したことをしているわけではないのに、それをさもすごいことのように伝えると、ビビッて挑戦しない子が増えてしまう気がしている。だからすぐに『僕には無理』なんて答えを出してしまう。何をしたいのかにもよるけど、だいたい物事は全然難しくなんかない。同じ人間なのだとしたら、他にできる人がいるなら自分にも絶対にできる。逆にいったい何が違うのか、それを教えてほしい。要は、自分で自分に-の洗脳をかけることは今すぐヤメたほうがいい」

第1章「前夜」の「全国大会で準優勝」では、5歳のときから空手の大会に出場し、小学生のときには全国大会で準優勝したことも明かすも、著者は「自分のやっていた空手は、伝統派と言われる、いわゆる寸止め空手。その中で自分は当時からスピードがあった。ただ、カラダも大して大きくないから、こっちの動きの方が相手より速くて、先に自分の攻撃が当たっていたとしても、ポイントを取ってもらえないことがあった。動きが遅いほうが残像が残るから、そっちの動きを取る場合があった。そんなことを小学校の4、5年生くらいで経験していた」と述べています。ちなみに、朝倉未来・朝倉海の兄弟や那須川天心などは寸止めでないフルコンタクトの極真空手を少年時代に習っていましたね。

その頃、小学生だった著者がテレビでヘビー級のK-1を見ていたら、当たるとバカバカと相手が倒れていったとして、著者は「だから、ちゃんとしたジャッジをしてくれないのであれば、寸止めじゃなく、きちんと相手を倒して、相手の勝ちになるほうがいいなと、その当時から思っていた。そういう審判は、周りからも『全然ダメだね。あの審判』みたいに言われていたけれど、自分からすると、寸止めの空手は本当に強いのか。その部分は疑問を持ちながら空手をやっている感じだった。実際、その当時から『伝統派(寸止め空手)=弱い』と言う人もいたし、自分も微妙にその空気を感じていたから、余計に、それでも自分は強いんだと、どこかで見せたいと思っていた」と述べます。

「山本“KID”徳郁×魔裟斗」では、著者が中学2年生のときに経験した衝撃的な出来事が紹介されます。2004年大晦日、山本“KID”徳郁×魔裟斗が試合をしたのです。著者は、「試合を見ている時には、まだよくわかっていなかったけど、後になって、二人の体重差が結構あったのに、KIDさんはそれを承知で魔裟斗戦を望んだとか、それ以前にKIDさんが本当は総合格闘技の選手なのに、魔裟斗さんが得意なK-1ルールで試合をしたとか、そういったことを知った感じだった。まだ中学生だったから、よくわからずにテレビで試合を見ていたけど、その時から自分はなぜかKIDさんに惹かれるものがった」と述べています。

第2章「UFC王座を目指す」の「KIDさんのセコンドでUFCへ」では、中学生のときに惹かれた山本“KID”徳郁の弟子となった著者が、2011年2月、KIDがUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)と契約した最初の試合が行われ、著書もそこから何試合か、アメリカでの試合のセコンドについたことが紹介されます。しかし、著者は「今だから言えるのは、自分がセコンドにつくべきではなかったのかな、ということ。理由は、その当時は考え方がアマチュアというか、まだプロとしての意識がそこまで高くなかったから、戦略にしても、その後、自分がアメリカに渡って、ATT(アメリカン・トップチーム)を拠点に活動しはじめてから、初めてプロってこういう感じなんだと学んだのであって、あの時点ではまだまだ全然ダメだったなと思っている」と述べています。

「オクタゴンの金網リングで闘う」では、2013年9月に著者がUFCと契約したことが紹介されます。最初の試合は10月、テキサス州ヒューストンのトヨタセンターでダスティン・ベイグが相手でした。著者は、「たしかに見渡す限り、すべてアメリカ人だったけど、物おじするとか、そういったことはなかった。強いて言うなら、英語が全然わからない(笑)。『は? もう出んの?』みたいな(笑)。そんな感じだった」と述べます。結果は2RのTKO勝利を収めています。翌2014年9月、UFCの日本大会が開催され、著者も試合をしました。場所は、さいたまスーパーアリーナ。著者にとってはPRIDEが同所で開催されたのをテレビで見ていたから、「ああ、これが、さいたまスーパーアリーナか」という感慨に近いものはたしかにあったそうです。ただ、「結局は試合に集中しているわけだから、会場や場所がどこであろうと、そんなことは関係なくなってしまう。そんなことよりも、自分の目的は試合に勝つこと。それだけを考えていると、それ以外のことに関する実感が湧いてこない」と述べています。

「UFC王座への初挑戦」では、2015年4月、UFCフライ級王座に挑戦したことに言及しています。契約体重でいうと、56.7キロ以下ですが、結果、著者は5R4分59秒、腕ひしぎ十字固めで負けました。生まれて初めての一本負けでしたが、著者は「悔しかった。『お前が負けたんだよ』そう言われているわけだから、悔しい以外には言葉が見当たらない。デメトリアスは、引き出しが多かった。自分が打撃だけしかできない中で、自分に対応できない技を出してきた。その時点での自分にはできない、相手の反応を見て技を変える。それができたっていう感じかな」と述べています。

「強さとは何か? プロとは何か?」では、では、UFCへの疑問や不満が綴られています。判定でコツコツ勝つよりも、KOで派手に会場を沸かせた方が優遇される現実について、著者は「プロとしては当たり前かもしれないけど、単にかつだけではUFCでは重宝されないことがわかった。それと試合数に関して、自分はもう少し試合をしたいと思っていたけど、2016年で言えば、2試合しか組んでもらえなかった。この時、自分は26歳だったけど、自分の現役生活を考えると、一番いい時かもしれない時期に試合を組んでもらえないのはツラい。次にいつ試合が組まれるのかもわからずに練習を続けていくのは、自分にも耐えがたいものがあると感じていた」と述べます。

このままUFCでやっていくことに疑問を感じてしまった著者は、「強さとは何か?」「勝利とは何か?」「プロとは何か?」について改めて考える時間が多くなったそうです。著者は、いわゆるトラッシュトークと呼ばれるような、相手をディスって試合を盛り上げるようなやり方が得意ではありませんでしたし、好きではありませんでした。でもこの時は、「それもやらないとおけないものか」と考えていたそうです。著者は、「たしかにUFCファイターでも、とくにコナー・マクレガー(元世界ライト級&元世界フェザー級王者)はそれがうまいなあとは思う。ただ、あれだけ相手をののしっても、裏では全然ペコペコしていられるマクレガーには違和感を持っていた。これはこれ、それはそれ、のように分けて考えられるのかもしれないけど、自分はそうやってキャラクターを作ることができない。というか、そのまま変える必要ないじゃん、と思っている。だから自分の性格上、それが難しい」と述べるのでした。

第3章「師匠との別れ」の「なんで負けたんだよ」では、2018年9月30日に行われた“キックの神童”那須川天心とのキックボクシング・マッチに言及しています。試合当日、関東地方に台風が直撃することがわかって、電車がストップすることが決定。その結果、本来ならメイン(13試合目)だったものが第9試合に変更されました。3分3ラウンドの試合のうち、2ラウンドが終わり、「このままだと動きがない」と思った著者は、最終ラウンドはこちらから相手の土俵に入ろうと考えたそうです。結果、天心の回転蹴りを一発食らって判定負けとなりました。著者は、「もしあのまま自分が同じ戦法を取っていたとしたら、自分が判定で勝っていた可能性が高い。でも、そんな大して見せ場のない試合をしてもしようがないし、そんなしょっぱい試合なんて誰も望んでいない。自分としては負けてしまったことは悔しいけど、試合後は『よくやったね』と言ってくれる人が多かった」と述べています。

「KIDさんとの別れ」では、天心戦まで2週間を切った2018年9月18日、山本“KID”徳郁の訃報に接します。亡くなる少し前に、KIDがSNSで癌に侵されていることを公表し、著者もそれで初めて知ったそうです。著者は、「KIDさんからは、いつだったか『ATTに行きたいんだよね』とメールをもらったことがあった。その時点で、もう病気だったのかどうか、それすらよくわからないけれど、自分はすぐに返信した。『是非来てください、一緒に練習しましょう』もう亡くなってからしばらく時間が経っているけど、今でもまったく亡くなったという感覚がない。申し訳ないけど、実感がない。それは、やはりそこまで、しょっちゅう会っているわけではなかった、というのが大きいと思う。元気な姿しか記憶にないのだから」と述べています。

第4章「日本人初の二冠王」の「メイウェザー戦が実現したら」では、2018年12月31日、さいたまスーパーアリーナで著者がRIZINバンタム級王座を獲得した直後の試合で、那須川天心がフロイド・メイウェザーと闘ったことに言及しています。メイウェザーはプロボクシングでは前人未到の5階級制覇を果たしている、文字通り“伝説の男”と呼ばれるボクサーです。ただ、天心とは体重差が10キロ以上ありましたし、ルールも天心の特異なキックを一切認めないボクシングルールで、どう考えてもメイウェザーが負けることはあり得ませんでした。著者は、「もし自分がメイウェザーと、天心くんが闘った時のルールで試合を組まれたら、自分はタックルを出しているかもしれない。もちろん、違約金なんてのは困るけど、記憶がぶっ飛んでいたら、自分の意識とは別にカラダが勝手に反応してしまうかもしれない」と述べています。

2019年の6月に入って、著者は8月のRIZINで朝倉海と闘ってほしいとのオファーを受けました。このとき、体調が最悪だったので、著者はこのオファーを断ったそうです。しかし、主催者から著者が出ないとスポンサーがつかないと言われ、出ることになったといいます。そんな調子だから、ほとんど練習らしい練習はすることができずに当日を迎え、気分が乗らなったそうです。著者は、「戦略らしい戦略も立てていなかったし、とにっかういつも通りにやれば普通に勝てるだろうと、自分も含め、周りもどう考えていた。早めに仕留めようと思ったし、短期決戦で勝ちを急いだ結果、いつもより単調な動きをしていたのかもしれない。結果、自分は負けた。本来であれば、受けていない試合なので、自分の体調管理が悪かった。負けた理由はそれだけ。すべて自分に問題があった。試合後のコメントも途切れ途切れに答えた感じだったし、ボーッとしていた。自分が負けたこともよくわかっていない感じといえばいいのだろうか」と述べるのでした。

第5章「カーフキック」の「朝倉海との再戦」では、2020年12月31日に行われた朝倉海との再戦に言及しています。前回は、人生初のKO負けを喫した著者でしたが、今回は速攻で勝利しました。多少の攻防はありましたが、すべて著者の想定内で、最後は海選手が打ってきた飛びヒザを著者が右フックで撃墜し、パウンドをフォローしてフィニッシュ。1R2分48秒のKO勝ちでした。勝利の瞬間、著者はセコンドについていたマイク・ブラウンに向かって「イージーファイト!」と叫びました。著者は、「この言葉自体は、相手を小バカにしたよくない言葉だったと思う。ただ、この言葉の意味は、直訳した時の『楽な闘い』ではなく、マイクを含めたチームに対して、『自分たちのチームからすれば、こんなの余裕だよな』という同意を求めた言葉だった。それでも自分からすれば、そこまで1年4カ月の間に積み重なっていたイライラが一気に爆発したから、『見たか、この野郎!』という感じで叫んだのだと思う」と述べています。

第6章「格闘技をメジャーに」の「ついに実現した天心×武尊戦」では、2022年6月19日、東京ドームで行われた「THE MATCH 2022」の那須川天心と武尊の一戦に言及しています。この試合、契約体重が58キロ、当日の試合3時間前の時点で計量を行って、62キロ以内でないといけないというルールでした。それを聞いた瞬間、著者はほぼ天心が勝つことを予想したといいます。天心は55キロの世界王者、武尊は60キロの世界王者でしたが、58キロという契約体重は明らかに武尊に不利です。著者は、「おそらく武尊くんは、それでも天心くんと試合をしたかったし、自信もあったのだと思う。何より契約体重はともかく、実現することを優先させたかったのかもしれない。もし自分が武尊くんの立場だったら、やっぱり実現することを優先させただろう。細かいルールなんて、そんなのはどうとでもなると、少なくとも自分は思うほうだから、それに格闘技の試合は、一発で流れが変わるし、形勢が逆転することもある。それがあるから格闘技の試合は盛り上がる」と述べます。

「格闘技をメジャーにしたい」では、最近は「BREAKING DOWN」の影響もあってか、手っ取り早くカネを稼いで、影響力を持ちたいと思う不良が格闘技の世界を目指すようになったとして、著者は「細かいことは知らないけど、傍から見ている限り、あのリングは強くなくても、キャラだけ立っていればいい、というような世界観に見える。本音を言えば、『果たしてそれでいいのかな』と思う。部外者が偉そうなことを言うなと言われるかもしれないが、あれが許されてしまうと、余計に勘違い野郎が増えてしまうのかな、と正直に言えば心配している。

例えばの話、DEEPや修斗、パンクラスをはじめ、地道に日本の格闘技団体で試合をしている選手は悩むと思う。だって自分よりも全然弱い選手が急に有名になって、世の中的に『強い』イメージで語られていくのだから、『は?』となるのは当たり前だろう。そう考えると、良い意味でも悪い意味でも、ちょっとどうなんだろう?とはなる。やっぱりリング上は『誰が一番強いのか』。ここに尽きる。もしこのテーマからハズれた瞬間に、例えば『誰が一番目立つのか』がテーマになってしまった瞬間に、本質を見失う。少なくとも自分は、そこに格闘技の未来はないと思う」と述べます。素晴らしい意見ですね。

第7章「新格闘技団体『TOP BRIGHTS』の方向性と役割」の「アスリート×不良」では、2022年9月25日、さいたまスーパーアリーナでの「RIZIN.38」での金太郎戦に言及しています。結果的に、金太郎選手は不良らしい長髪もしてきませんでした。その点は、人の良さを感じさせたと告白し、著者は「試合の前は、実績の違いから、自分の勝利が確実視されていたけど、いざゴングが鳴ったら、危ない場面もあるようには見えたと思う。ただ、自分としては全然冷静に対処できたと思っているし、フラッシュダウンがあったとしても、とくに焦りはしなかった。なぜって? それはわからない。ロボットだからじゃないのかな。たぶん、それも経験値がそうさせるのだろうと思う。要は、『焦るとロクなことはないよ』というデータが自分の意識下に、日々アップデートされているのだろうと思う」と述べます。

「朝倉未来がメイウェザーに勝つ方法」では、著者と金太郎選手の試合前には、『超RIZIN』というイベントがあり、そこではフロイド・メイウェザーと朝倉未来の非公式試合(事実上のボクシングルール戦)が行われました。結果はメイウェザーが2Rで未来選手を仕留めましたが、著者は「未来くんは頑張っていたと思う。非公式試合だから、結果が出ても公式な結果は無効試合になるのかな。パンチも当たっていたしメイウェザーが予想できない、追ってからのパンチとか。倒すまでにはいかないけど、当たっていたのはよかったと思う。仮の話、もし未来くんがメイウェザーに勝とうと思ったらどうすべきだったのか。これは格闘家における一般論の話になるけど、比較的、格闘家のガードは低い。だからもう少しガードを下げて、パンチに対してのディフェンスを覚えたほうがいいのかな、とは思う。あとは、相手がパンチを打ってきた時に、どこで合わせるか」と述べています。

「新格闘技団体『TOP BRIGHTS』の方向性と役割」では、著者が、2024年1月に「TOP BRIGHTS」という独自の格闘技団体を立ち上げることが明かされます。運営側に関わる著者は「本物志向」の団体にしたいと願っているそうです。きっかけは、朝倉未来が主宰する「BREAKING DOWN」だといいます。著者の目から見て、決して格闘技のイメージを良くするものには見えず、素人のケンカ自慢同士を闘わせるのはいいとしても、試合に至るまでの持って行き方が下品だと思ったそうです。

著者は、「せっかく格闘技が正統派の世界観を持って認知されはじめたと思ったら、感覚がヤンキーという不良を礼賛するようなイベントが大手をふりはじめた。多少注目されて発信力があったとしても、その辺にいるようなヤンキーが我が物顔をしているのは決していいことだとは思わない。その流れもあってか、最近は強さよりも影響力が先に来るパターンがある、という話を時折見聞きする。でも、それだとえったい的な強さを持った選手が現れない。口ばっかり達者なヤツが増えても、リングに上がれば、口のうまさは関係ない。もしかしたらそれなりに注目度もあって、ビジネス的には悪くないのかもしれないけど、そこは分けてほしいと思う」と述べます。

最後に、本書の刊行日は2023年12月5日ですが、同月31日の大晦日に「RIZIN.45」が、さいたまスーパーアリーナで開催。初代RIZINフライ級王者決定戦が行われ、著者は神龍誠に2R3分45秒、リアネイキッドチョークでタップを奪って初代王者に輝きました。戦前、神龍から宣言されていた「世代交代」を許さず、フライ級の真新しいベルトを巻くと、著者はマイクを手に「神龍選手、めちゃくちゃ強くて、1Rに、おっ強えなあ! って思ったんですけど、まあベテランの意地を見せました。ちょっと神龍くん、ATT(アメリカン・トップ・チーム)に来ない? 一緒に練習しましょう」と呼びかけました。会場は大いに沸きました。

その直後、著者は「あとね、もう1つ、ある方に言いたいことがあるので、川村さん、ちょっと出てきてください」と発言。モデルや女優として活動する元RIZINガールの川村那月がビジョンに大映しになりました。続けて著者は、「指輪、ちょっと忘れちゃったんですけど」と言うと、すでに左手薬指に指輪を着けていた川村が、涙から笑顔に。堀口は「このRIZINのリングで自分は川村さんと出会い、川村さんはいつも自分のことをサポートしてくれて。そんな川村さん、結婚してください」と電撃プロポーズしたのです。川村も「はい、ずっと一緒にいさせてください」と受け入れ、さいたまスーパーアリーナが大歓声に包まれました。著者はチャンピオンベルトと同時に、伴侶まで獲得したのでした。本当に、めでたい話ですね。どうか、いつまでもお幸せに!

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