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No.2301 プロレス・格闘技・武道 『プロレスラー夜明け前』 瑞佐富郎著(standards)
2024.02.21
『プロレスラー夜明け前』瑞佐富郎著(standards)を読みました。「歴史をつくった21人の男たち、そのデビュー秘史と〈真実〉の言葉」というサブタイトルがついています。また、「ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ケンドー・ナガサキ、天龍源一郎、三沢光晴、初代ブラックタイガー、橋本真也、武藤敬司、ザ・ロード・ウォリアーズ、スティーブ・ウィリアムス、小橋建太、大谷晋二郎、永田裕志、本間朋晃、柴田勝頼、タイチ、オカダ・カズチカ、鷹木信悟、内藤哲也、高橋ヒロム、力道山」名前が並べられています。
本書の帯
著者は、著者は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。1993年に行われたフジテレビ「カルトQ・プロレス大会」での優勝を契機に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行しています。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)、ブログ『平成プロレス30の事件簿』、ブログ『プロレス鎮魂曲』、ブログ『さよなら、プロレス』、ブログ『コメントで見る! プロレスベストバウト』、ブログ『アントニオ猪木』、ブログ『永遠の闘魂』で紹介した本などがあります。また、ブログ『証言UWF完全崩壊の真実』、 ブログ『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』、ブログ『証言「プロレス」死の真相』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。本書の帯には、「“何が”彼らをリングに押し上げたのか。名レスラーが生まれる瞬間の“真実”を描く」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「どんな偉大なレスラーにもリングに上がる『夜明け前』がある。『プロレス鎮魂曲』『さよなら、プロレス』に続く、プロレスラーの『デビュー』をめぐる<真実>の物語」として、「日本チャンピオンになって、ブラジルに行くのが夢です」――アントニオ猪木、「いったんこうと決めたことだから、なんたってやり通す」――天龍源一郎、「デビューすることは1ヵ月くらい前には聞かされてたよ」――武藤敬司、「目標の選手ですか? 一応、いるんですけど、今は伏せておきたいと思います」――内藤哲也、と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
DEBUT01 ジャイアント馬場
「アガるということはなかったですね。観客に囲まれるのは、プロ野球で馴れていますから」
DEBUT02 アントニオ猪木
「日本チャンピオンになって、ブラジルに行くのが夢です」
DEBUT03 ケンドー・ナガサキ
「俺自身は、強くもなんともないと思ってるんだけど・・・・・・」
DEBUT04 天龍源一郎
「いったんこうと決めたことだから、なんたってやり通す」
DEBUT05 三沢光晴
「いちばん嬉しいことは、やっぱり少しでも自分のファンができたということですね」
DEBUT06 初代ブラックタイガー
「今日は何も話すことはない。勘弁して下さい・・・・・・」(初代タイガーマスク)
DEBUT07 橋本真也
「今日デビューさせてもらいました橋本です!よろしくお願いします!」
DEBUT08 武藤敬司
「デビューすることは、1ヵ月くらい前には聞かされてたよ」
DEBUT09 ザ・ロード・ウォリアーズ
「世界最強のタッグ・チームであることを証明するために来日した」
DEBUT10 スティーブ・ウィリアムス
「手に負えない感じだなぁ」(アントニオ猪木)
DEBUT11 小橋建太
「60分戦っても平気なオレが・・・・・・」
DEBUT12 大谷晋二郎
「僕の今からの目標は、アントニオ猪木、藤波辰爾、そして・・・・・・」
DEBUT13 永田裕志
「プロレス歴では下ですが、格闘技歴では僕の方が上」
DEBUT14 本間朋晃
「人が足りないんで、明日、デビューさせるかもしれないから」(グレート小鹿)
DEBUT15 柴田勝頼
「ギブアップしてない!ギブアップしてない!」
DEBUT16 タイチ
「やっとデビューすることができて本当に嬉しいです」
DEBUT17 オカダ・カズチカ
「担架で運ばれました」
DEBUT18 鷹木信悟
「このリングに、5人のレスラーと、1人の練習生がおるな」(“brother”YASSHI)
DEBUT19 内藤哲也
「目標の選手ですか?一応、いるんですけど、今は伏せておきたいと思います」
DEBUT20 高橋ヒロム
「親にもこんないい名前をつけて頂いたのに、申し訳なく思ってます」
DEBUT21 力道山
「こんなに疲れたことは、私の十年間の力士生活の勝負のあとで一度もなかった」
「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「プロレスラーは、今も昔も、常人とは違うと思う。身体的なそれ、体力的なそれ、何より、リングに上がる気持ちの強さ。そして、それらを分ける境い目にあるのが、プロ・デビュー戦ではないだろうか。振り返れば、そこには現在に繋がる、いくつものドラマが存在する。あまりにも新弟子時代のスパーリングが凄まじかったため、デビュー戦はその延長程度に捉え、ヒゲも剃らずにリングに上がった桜庭和志。やたらと歓声が多いなと思ったら、隣の会場でやっていた堀内孝雄のコンサートのそれだったという、のちのインディ界からのスーパースター、ハヤブサ。そして、『アイツは危険だ』と皆が対戦を敬遠し、やむなく、父親分の山本小鉄がデビューの相手を務めた前田日明・・・・・・etc」
本書には、デビュー戦の様子というより、それぞれのプロレスラーの興味深い人生エピソードが紹介されています。DEBUT01「ジャイアント馬場」では、プロ野球の巨人の選手だった馬場が1959年11月に退団し、大洋に移籍した後のエピソードが紹介されます。翌念2月のキャンプ中、馬場は浴場で立ちくらみを起こしガラス戸を突き破り転倒。左手に裂傷を負い、大洋を去りました。球団がテスト生扱いのまま正式契約を結ばなかったためですが、著者は「馬場自身が騒ぎを重荷に感じ、身を退いたという見方も根強い。件の入浴時、馬場は1人だった。他の選手たちが出払った瞬間を選んでいたのだ。遡るが、馬場は中学生の時、電車に乗る際は必ず車両の連結部に立っていたという逸話が残されている。理由を聞くと、馬場はこう答えた。『自分は体がでかいので、車両にいると皆さんの邪魔になりますから・・・・・・』」と書いています。
DEBUT02「アントニオ猪木」では、1960年9月30日のプロ・デビュー直後から、猪木は“ブラジル生まれの日系米人”と報道されていました。しかし、彼はれっきとした日本人であり、横浜市立の東台小学校、同じく寺尾中学校で学びました。よって、ブラジルから帰国当初はずいぶん元級友からの「嘘をつくな! お前は寛至だろう!?」という電話に悩まされたそうです。著者は、「驚くべきことに、このブラジル生まれという設定は、猪木が渡米し、帰国後、自らの新団体(東京プロレス)を旗揚げするまで続いた。事実、デビュー2年後、初出場した『ワールドリーグ戦』では、ブラジル代表としての参加であった。力道山出演のドラマ『チャンピオン太』に、まさに異国からの襲来を思わせる怪人、“死神酋長”として出演したのを知る読者も多かろう。おしなべて力道山の方針だったことは、想像に難くない。真実とは真っ赤に違う出生。つまるところ、いきなりホラを吹かされ続ける形となった猪木は、記念すべきデビュー戦の試合後、こう述べた。『日本チャンピオンになって、ブラジルに行くのが夢です』思いも寄らぬことに、この言葉は本音だった。しかも、時を経るごとに、重みを増した」とあります。
DEBUT05「三沢光晴」では、三沢の2代目タイガーマスク時代に言及しています。佐山聡の初代よりも1まわり大きな体を利した空中殺法は、劇画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎をして「初代が戦闘機なら、2代目は爆撃機」と言わしめました。佐山も、梶原に「彼はいいっすよ。本物じゃないですか」と漏らしたそうです。翌1985年には、小林邦明との抗争が話題になったとして、著者は「あまり知られていないが、うち1戦はアメリカの老舗ミニコミ誌『レスリング・オブザーバー』が選ぶ同年のベストバウトに選出されている(6月21日・日本武道館大会)。この試合には敗れたものの、リベンジ戦では、今でも滅多に観ない、リングの対角線を自らが回転しての美しい2連発のジャーマンに、最後は片羽絞めからのジャーマン・スープレックス(タイガー・スープレックス‘85)。テクニカルかつ、覚醒的な攻防が、日本のリング事情には疎いアメリカっ子も酔わせたのも想像に難くない」と書いています。
DEBUT07「橋本真也」では、1990年4月27日、「マサ齋藤&橋本真也vs武藤敬司&蝶野正洋」という、武藤の凱旋マッチが東京ベイNKホールで組まれたことが紹介されます。ここで、前年すでに帰国していた橋本が武藤を挑発しました。そのときの様子を、著者は「リングインすると、ファースト・コンタクトで武藤の左膝を思い切り前から蹴った。武藤組は結果的には勝利するも、無党派これで膝を負傷。後年ついた異名、“破壊王”に嘘もない。だが、現場においては、歓迎すべからざる響きも否定できなかった。海外での経験を経ても闘い方は変わらなかったわけで、実際、現地では、ほぼ、干されていたという。試合そのものを、していなかったのだ。同時期に同じカルガリーにいた馳浩が明かすには、対戦した外国人選手曰く、『危険なヤツ』。仲が悪いとされた佐々木健介はこれを受け、『橋本が危険な奴とは笑わせますね。彼は試合が下手なだけでしょ?』と強烈な一言を残しているが、要は、日本人でも外国人でもスタンスは不変だったわけだ」と述べています。
DEBUT08「武藤敬司」では、凱旋帰国早々に橋本から膝を破壊された武藤のもう1つの顔であるザ・グレート・ムタについて書かれています。ムタの評価の凄さは、WWEのリングに1度も上がったことがないにも関わらず、2023年3月にWWEの殿堂入りしたという事実だけでもわかります。加えて高かったのが、他ならぬ、レスラーからの評価でした。著者は、「ビッグバン・ベイダーが『日本で最高のレスラー』と評したのは有名だし、橋本真也は若い頃から、『みんな、武藤を誤解してるけど、彼は日本の柔道で3位になった男だから』(*1980年に、全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95kg以下級3位に)と敬意を払う。華やかさの陰にあるその強さに一目も二目も置いていたのだ。『(獣神サンダー・)ライガーより大きくて重いのに、ライガーより早くて高い動きができる』と、プロレスラーとしての高評価も忘れなかった」と述べています。
DEBUT11「小橋建太」では、2005年9月、小橋は生涯初めてのかつ、念願のアメリカ遠征に出たことが紹介。ハーリー・レイスの団体、WLWへの参戦でした。著者は、「初戦の前日、レイスから本人のフィギュアをもらった。ただのプレゼントかと思いきや、伏線だった。翌日、小橋が試合に勝利すると、何故か直後にレイスがリングに上がり、マイクを持ったのだ。『“ミスター・プロレス”という称号を、他人に与えられる権利があるのはこの世で私だけだ』と、自分を語る。そして言った。『この名を継ぐのは、小橋こそふさわしい!』」と書いています。じつはレイスは前年、NOAHに招待され、東京ドーム大会を観戦。メインの小橋vs秋山に深く感銘をおぼえ、「自分が観てきた中でのベストバウト」と賞賛していたそうです。前日、小橋に渡した自身のフィギュアの外箱にも英語で「ミスター・プロレスの名は、小橋に譲る」と書かれていました。そして、「その証を、今からプレゼントする」として自身のベルトを小橋に任せましたが、翌日、小橋は「非常に嬉しく、光栄でしたが、このベルトが似合うのは、やはり僕の中では、レイスさんしかいないのです」とベルトをレイスに返却したそうです。
DEBUT21「力道山」では、“日本プロレス界の父”である力道山のプロレス・デビュー戦が紹介されます。大相撲の力士だった彼が角界を後にして約1年後の1951年10月のことでした。来日した外国人レスラーたちと知遇を得て、約1ヵ月の基本練習を経ての初陣でした。試合は、基本技のヘッドロックやトーホールドはもとより、後の空手チョップの原型と言うべき張り手も繰り出し、10分1本勝負を闘い抜き、時間切れ引き分けとなりました。相手は、ハワイ・タッグ王者にもなったベテランのトミー・ブランズでした。著者は、「健闘と言って良いが、試合終了後の力道山は、控室に横たわり、ただ、天井を見上げていたという。知己の者が話しかけても、無言で答えた事実も伝わっている。のちに自伝にて、デビュー戦を、こう振り返った。『こんなに疲れたことは、私の十年間の力士生活の勝負のあとで一度もなかった』(自伝『空手チョップ世界を行く』より)あまりの疲労困憊で、声が出せなかったのだった」と書いています。このように、本書には伝説に残るプロレスラーたちの知られざるエピソードが満載で、非常に興味深く読みました。