- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.2307 哲学・思想・科学 『天災と日本人』 寺田寅彦著・山折哲雄編(角川ソフィア文庫)
2024.03.11
今日は、2024年3月11日。能登半島地震の発生から71日目であり、東日本大震災の発生から13年目となるこの日、名著『天災と日本人』寺田寅彦著・山折哲雄編(角川ソフィア文庫)を紹介いたします。「寺田寅彦随筆選」というサブタイトルがついています。著者は、1878年-1935年。東京生まれ(高知県出身)。熊本の五校で夏目漱石に英語を習う。東大物理学科を卒業し、ヨーロッパ留学後、東大教授。理化学研究所、東大地震研究所の研究員としても活躍。物理学者、俳人、随筆家。
カバー裏表紙には、「長い時を経て日本列島に築かれた文明の本質を、自然科学と人文学の両面から明らかにした寺田寅彦。その鋭い考察は、地震列島に生きる私たちへ、今なお新鮮な衝撃を与え続けている。日本固有の自然風土と科学技術のあり方を問う『日本人の自然観』、災害に対する備えの大切さを説く『天災と国防』、科学を政治の血肉にしなければ日本の発展はないと訴える『政治と科学』ほか、日本人への深い提言が詰まった傑作選。解説・山折哲雄」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」山折哲雄
天災と国防
津浪と人間
流言蜚語
政治と科学
何故泣くか
震災日記より
颱風雑俎
災難雑考
日本人の自然観
「解説」山折哲雄
編者である山折哲雄氏は、「はじめに」の冒頭を「いま、なぜ、寺田寅彦なのか。2011年の3月11日、われわれのほとんどが想像できなかった大地震と大津波がこの日本列島を襲い、福島の原子力発電所が壊れて、火を噴いたからである。この地震列島に生きる日本人は、この災害をこれからさきどのように受けとめ、どのように生きていったらよいのか、そのことを根本的に考えなければならない事態に追いこまれたといっていいのではないだろうか」と書きだしています。
2011年3月11日に東北地方を襲った「3・11」について、山折氏は「恐怖の第一波は、文明の心臓部に襲いかかる自然の猛威だった。そしてその第二波が、文明をつくってきた人間たちのあり方を根底から脅かす自然の怖ろしさだった。最後にその第三波が、自然界の秩序そのものを突如として攪乱しカオスにつきおとす自然そのものの巨大な破壊力だった。自然が自然そのものに刃向うときの得体の知れない怖ろしさだった」と書いています。
このような自然のあり方を指して、寺田寅彦は「厳父のごとき自然」と表現していました。わたしたちが日常的に慣れ親しんできた美しく、優しい自然、すなわち「慈母のごとき自然」にたいして、そう呼んだのです。山折氏は、「そのようなほんらい自然そのものがもっている二面性について、歴史的な背景を含めて科学的に明らかにしたのが寺田寅彦だった」と述べています。
昭和10年(1935)に58歳でこの世を去った寺田寅彦が宮沢賢治とほとんど同時代を生きていることを指摘し、山折氏は「奇しき因縁というほかはないのである。1500年の長きにわたって日本列島に築きあげられてきた文明の本質を、自然科学と人文学両方の側面から鋭く分析し、明らかにした先駆者の一人、それが寺田寅彦であった。かれが考えつづけた自然災害と科学技術のあり方、そしてそこに立脚する日本人の精神性についての鋭い指摘を、今こそ考えなければならないときにきていると思うのである」と述べます。
昭和9年11月に「経済往来」に発表した「天災と国防」において、著者(寺田寅彦)は「日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的に殊な関係が生じ色々な仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである」と述べます。
戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないでしょうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけにはいきません。その上に、何時如何なる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができないとして、著者は「最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない」と述べます。
たとえば、安政元年の大地震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡に到るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがあるとして、著者は「万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗闇になり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる」と述べます。
この文章が書かれた昭和9年は戦前であり、日本では「大和魂」というものが叫ばれていました。人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思うとして、著者は「砲烟弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待して然るべきことはないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない20世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的様式があって然るべきではないかと思う次第である」と述べるのでした。
昭和8年5月、「鉄塔」に発表された「津浪と人間」では、冒頭で、昭和8年3月3日の早朝に東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端からなぎ倒し洗い流し、多数の人命と多額の財物を奪い去ったことが紹介されます。37年前の明治29年6月15日には、同地方でいわゆる「三陸大津浪」が起こっています。著者は「夜というものが24時間ごとに繰り返されるからよいが、約50年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合わせてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起こるであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起こらないとは限らない」と述べています。
「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである」と、著者は言います。たとえば、津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのですが、これから先の日本ではそれがどうであるかはなはだ心細いような気がするとして、著者は「2000年来伝わった日本人の魂でさえも、打ち砕いて夷狄の犬に喰わせようと云う人も少なくない世の中である。一代前の云い置きなどを歯牙にかける人はありそうもない。しかし、困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実です。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである」と述べています。
紀元前20世紀にあったことが紀元20世紀にもまったく同じように行われるのです。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」です。著者は、「自然ほど伝統に忠実なものはないのである」と喝破します。災害を防ぐには、人間の寿命を10倍か100倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を10分の1か100分の1に縮めるかすればよいとして、著者は「そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」と述べるのでした。
大正13年9月に「東京日日新聞」に発表された「流言蜚語」では、前年の大正12年(1923年)9月1日に関東大地震が発生した直後の流言蜚語について書かれています。そのとき、朝鮮人が放火し暴れたり、井戸に毒を投げ入れているなどの流言蜚語が広まりました。戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」といった内容の警報を打電。その結果、一条真也の映画館「福田村事件」で紹介した映画で描かれたような虐殺事件が発生しました。このような流言蜚語がいかに非科学的で非現実的なものであるかを例証し、著者は「科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ビタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う」と述べます。
昭和10年4月、『中央公論』の「自由画稿」掲載の「政治と科学」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「日本では政事を『まつりごと』と云う。政治と祭祀とが密接に結合していたからである。これはおそらく世界共通の現象で、現在でも未開国ではその片影を認めることが出来るようである。祭祀その他宗教的儀式と聯関して色々の巫術魔術と云ったようなものも民族の統治者の主権のもとに行われてそれが政治の重要な項目の一つになっていたように思われる。そうした祭祀や魔術の目的は色々であったろうが、その一つの目的は吾々人間の力でどうにもならない、広い意味での『自然』の力を何かしら超自然の力を借りて制御し自由にしたいという欲望の実現ということにあったようである」
昭和10年5月、『中央公論』の「自由画稿」に発表された「何故泣くか」では、グリーフケアの問題が扱われています。「人間は何故泣くか、泣くとは何を意味するか」と、著者は問いかけます、「悲しいから泣く」という普通の解釈はまるで嘘ではないまでも、けっして本当ではないようだといいます。「泣く」ということは涙を流して顔面の筋にある特定の収縮を起こすことであると仮定し、そうした動作に伴う感情を「悲しい」と名づけるとすると、「泣く」と「悲しい」との間の因果関係はむしろ普通に云うのと逆になるかもしれないというのです。
「悲しいから」というのを「悲しむべき事情が身辺に迫ったから」という意味に解釈する、たとえば自身にもっとも親しい者が非業の死をとげたからというふうに理解すると、それはたしかに泣くことの1つの条件にはなりますが、それだけでは泣くための必要条件はけっして揃わないのであるとして、著者は「たとえば、ある書物に引用された実例に拠ると、ある医者は、街上で轢かれた10歳になる我が子の瀕死の状態を見ても涙一滴こぼさず、応急手当に全力を注いだ。数時間後に絶命した後にもまだ涙は見せなかった。しばらくして後にその子の母から、その日の朝その子供のしたある可愛い行動について聞かされたときに始めて流涕したそうである。これと似た経験はおそらく多数の人がもち合わせていることと思われる」と述べます。
また、以下のようなある男性の告白が紹介されます。
「自分が若くて妻を亡ったときも、ちっとも涙なんか出なかった。ただ非常に緊張したような気持ちであった。親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、生々しい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は2歳になる遺児を膝にのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然凪いだかのように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の樹立ちも墓地から見下ろされる麓の田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見馴れた景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の光の下に無心の母なき子を抱いて俯向いている自分自身の姿をはっきり客観した、その瞬間に思いもかけず熱い涙が湧くように流れ出した」
こうした種類の涙は異常な不快な緊張が持続した後にそれがようやく弛緩し始める際に流れ出すものらしいとして、著者は「嬉し泣きでも同様である。たいてい死んだであろうと思われていた息子が無事に帰ったとか、それほどでなくとも、心配していた子供の入学試験がうまく通ったというのでもやはり緊張の弛む瞬間に涙が出るのである。頑固親爺が不孝息子を折檻するときでも、こらえこらえた怒りを動作に移してなぐりつける瞬間に不覚の涙をぽろぽろとこぼすのである。これにはもちろん子を憐れみまた自分を憐れむ複雑な心理が伴ってはいるが、しかしともかくもそうした直接行動によって憤怒の緊張は緩和され、そうして自己を客観することの出来るだけに余裕のある状態に移って行くのである。そうして可愛い我が子を折檻しなければならない我が身の悲運を客観するときにはじめて泣くことが出来るらしい」と述べます。
こういうふうに考えてくると流涕して泣くという動作には常にもっとも不快不安な緊張の絶頂からの解放という、消極的ではあるがとにかく一種の快感が伴っていて、それが一道の暗流のように感情の底層を流れているように思われるとして、著者は「嬉しい事は、嬉しくないことの続いた後に来てはじめて嬉しさを十分に発揮する。このように、遂げられなかった欲望がやっと遂げられたときの狂喜と、底なしの絶望の闇に一道の希望の微光がさしはじめた瞬間の慟哭とは一見無関係のようではあるが、実は一つの階段の上層と下層とに配列されるべきものではないかと思われる」と述べています。
泣くことの快感だけを存分に味わうための最も便利な方法とは何か。それは、芝居、特にいわゆる大甘物の通俗劇を見物することであるといいます。著者は、「劇中の人物に自己を投射しあるいは主人公を自分に投入することによって、その劇中人物が実際の場合に経験するであろうところの緊張とそれに次いで来るように設計された弛緩とを如実に体験すると同等の効果を満喫して涙を流しはなをすする、と同時に泣くことの快感に浸るのである。しかもこの場合劇中人物のあらゆる事件葛藤は観客自身の利害と感情的にはとにかく事実的に何の交渉もないのであるから、涙の中から顔を出して来るような将来への不安も心配も何もないのである」と述べます。
言い換えれば、泣くことの快楽をもっとも純粋なる形において享楽するのです。この享楽をいっそう純粋ならしめるためには芝居の筋などはむしろなるべく簡単なほうがいいらしいとして、著者は「深刻なモラールやフィロソフィーなどの薬味が利き過ぎて、おおいに考えさせられたりひどく感心させられたりするようだと、大脳皮質の余計な部分の活動に牽制されて、泣くことの純粋さが害われることになる。そうした芸術的に高等な芝居が、生理的享楽のために泣きに行く観客に評判のわるいのはきわめて当然なことであろうと思う」と述べます。
日本では昔から「ものの哀れ」ということが色々な芸術の指導原理か骨髄かあるいは少なくも薬味ないしビタミンのごときものであると考えられていました。西洋でも、19世紀イギリスのヴィクトリア時代を代表する評論家のジョン・ラスキンなどは「一抹の悲哀を含まないものに真の美はあり得ない」と述べたそうです。著者は、「これから考えても悲哀ということ自身はけっして厭わしい恐るべきことではなくてかえって多くの人間の自然に本能的に欲求するものであることが推測される。ただ悲哀に随伴する現実的利害関係が迷惑なのである」と述べるのでした。
昭和10年10月に書かれた「震災日記」では、関東大震災の体験談が生々しく綴られています。地震は大正12年9月1日11時58分に発生しましたが、9月2日の日記には「帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその説は信ぜられなかった」と書かれています。
昭和10年2月の『思想』に発表された「颱風雑俎」では、颱風が日本の国土に及ぼす影響は単に物質的なものばかりではないだろうと述べます。日本の国の歴史に、また日本国民の国民性にこの特異な自然現象が及ぼした効果は普通に考えられているよりも深刻なものがありはしないかと思われるとして、著者は「弘安4年に日本に襲来した蒙古の軍船が折からの颱風のために覆没してそのために国難を免れたのはあまりに有名な話である。日本武尊東征の途中の遭難とか、義経の大物浦の物語とかははたして颱風であったかどうか分からないから別として、日本書紀時代における遣唐使がしばしば颱風のために苦しめられたのは事実であるらしい」と述べています。
颱風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方の安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見えます。しかし、逆説的に聞こえるかもしれませんが、その同じ颱風はまた思いもかけない遠い国土と日本とを結びつける役目をつとめたかもしれないとして、著者は「というのは、この颱風のおかげで南洋方面や日本海の対岸あたりから意外な珍客が珍奇な文化を齎して漂着したことがしばしばあったらしいということが歴史の記録から想像されるからである。ことによると日本の歴史以前の諸先住民族の中にはそうした漂流者の群れが存外多かったかもしれないのである」と述べます。
また、地を相するといは畢竟自然の威力を畏れ、その命令に逆らわないようにするための用意であると指摘し、著者は「安倍能成君が西洋人と日本人とで自然に対する態度に根本的の差違があるという事を論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが日本人は自然に帰し自然に従おうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には颱風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである」と述べています。
昭和10年7月の『中央公論』に発表した「災害雑考」では、平生地震の研究に関係している人間の眼から見ると、日本の国土全体が1つの吊り橋の上にかかっているようなもので、しかも、その吊り橋の鋼索が明日にも断たれるかもしれないというかなりな可能性を前に控えているような気がしないわけには行かないとして、著者は「来年にもあるいは明日にも、宝永4年または安政元年のような大規模な広区域地震が突発すれば、箱根の吊り橋の墜落とは少しばかり桁数の違った損害を国民国家全体が背負わされなければならないわけである。吊り橋の場合と地震の場合とはもちろん話がちがう。吊り橋は大勢でのっからなければ落ちないであろうし、また断えず補強工事を怠らなければ安全であろうが、地震のほうは人間の注意不注意には無関係に、起こるものなら起こるであろう」と述べています。
たとえば、ある工学者がある構造物を設計したのがその設計に若干の欠陥があってそれが倒潰し、そのために大勢死傷したとします。そうした場合に、その設計者が引責辞職してしまうかないし切腹して死んでしまえば、それで責めを塞いだというのはどうも嘘ではないかと思われるとして、著者は「その設計の詳細をいちばんよく知っているはずの設計者自身が主任になって倒潰の原因と経過とを徹底的に調べ上げて、そうしてその失敗を踏み台にして徹底的に安全なものを造り上げるのが、むしろほんとうに責めを負うゆえんではないかという気がするのである。ツェッペリン飛行船などでも、最初から何度となく苦い失敗を重ねたにかかわらず、当の責任者のツェッペリン伯はけっして切腹もしなければ隠居もしなかった。そのおかげでとうとういわゆるツェッペリンが物になったのである。もしも彼が仮に我が日本政府の官吏であったと仮定したら、はたしてどうであったかを考えてみることを、賢明なる本誌読者の銷閑パズルの題材としてここに提出したいと思う次第である」と述べます。
著者は、「早い話がむやみに人殺しをすれば後には自分も大概は間違いなく処刑されるということはずいぶん昔からよく誰にも知られているにかかわらず、何時になっても、自分では死にたくない人で人殺しをするものの種が尽きない。若い時分に大酒をのんで無茶な不養生をすれば頭やからだを痛めて年取ってから難儀することは明白でも、そうして自分に蒔いた種の収穫時に後悔しない人は稀である」と前置きして、大津浪が来ると一気に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になると指摘します。
何時来るかも分からない津浪の心配よりも明日の米櫃の心配のほうがより現実的であるからだろうと推測して、著者は「生きているうちに一度でも金を儲けて三日でも栄華の夢を見さえすれば津浪に攫われても遺憾はないという、そういう人生観を抱いた人たちがそういう市街を造って集落するのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬ六かしい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたり外らしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりもいっそう難儀なことであるかもしれないのである」と述べます。
古い中国の言葉に「艱難汝を玉にす」というものがありますが、これは進化論以前のものだといいます。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いですし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終熄して死滅しますが、汽車にでも乗せて少し揺さぶると復活するそうです。このように、虐待は繁昌のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、颱風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれないとして、著者は「植物や動物はたいてい人間よりも年長者で人間時代以前からの教育を忠実に守っているからかえって災難を予想してこれに備える事を心得ているか少なくもみずから求めて災難を招くような事はしないようであるが、人間は先祖のアダムが智慧の樹の実を食ったお蔭で数万年来受けて来た教育を馬鹿にすることを覚えたために新しいいくぶんの災難をたくさん背負い込み、目下その新しい災難から初歩の教育を受け始めたような形である。これからの修行が何十世紀かかるかこれは誰にも見当がつかない」と述べます。
著者いわく、災難にかけては誠に万里同風です。浜の真砂が磨滅して泥になり、野の雑草の種族が絶えるまでは、災難の種も尽きないというのが自然界人間界の事実であるらしいとして、著者は「雑草といえば、野山に自生する草で何かの薬にならぬものは稀である。いつか朝日グラフに色々な草の写真とその草の薬効とが連載されているのを見て実に不思議な気がした。大概の草は何かの薬であり、薬でない草を捜すほうが骨が折れそうに見えるのである。しかしよく考えてみるとこれは何も神様が人間の役に立つためにこんな色々の薬草をこしらえてくれたのではなくて、これらの天然の植物にはぐくまれ、ちょうどそういうものの成分になっているアルカロイドなどが薬になるようなふうに適応して来た動物からだんだんに進化して来たのが人間だと思えば大した不思議ではなくなるわけである。同じようなわけで、大概の災難でも何かの薬にならないというのは稀なのかもしれないが、ただ、薬も分量を誤れば毒になるように、災難も度が過ぎると個人を殺し国を亡ぼすことがあるかもしれないから、あまり無制限に災難歓迎を標榜するのも考えのである」と述べます。
災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備の出来ているような種類の人間だけが災難を生き残り、そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば智慧の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まって行く一方であろうとして、著者は「こういう意味で災難は優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない。そうだとすると逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均して鈍いほうに移って行く勘定である。それで、人間の頭脳の最高水準を次第に引き下げて、賢い人間やえらい人間をなくしてしまって、四海兄弟みんな凡庸な人間ばかりになったというユートピアを夢みる人たちには徹底的な災難防止が何よりの急務であろう。ただそれに対して一つの心配することは、最高水準を下げると同時に最低水準も下がるというのは自然の変異の方則であるから、このユートピアンの努力の結果はつまり人間を次第に類人猿の方向に導くということになるかもしれないということである」と述べるのでした。
昭和10年10月に『東洋思潮』で発表された「日本人の自然観」の「日本の自然」では、日本の気候には大陸的な要素と海洋的な要素が複雑に交錯しており、また時間的にも、週期的季節的循環のほかに不規則で急激活発な交代が見られる。すなわち「天気」が多様でありその変化が頻繁であるとして、著者は「雨のふり方だけでも実に色々様々の降り方があって、それを区別する名称がそれに応じて分化している点でも日本はおそらく世界中随一ではないかと思う。試みに『春雨』『五月雨」『しぐれ』の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困難を経験するであろうと思われる。『花曇り』『霞』『稲妻』などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの『ウェッターロイヒテン』は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれはけっして稲田の闇を走らない。あらゆる付帯的気象条件がちがいしたがって人間の感受性に対するその作用は全然別物ではないかと思われるのである』と述べています。
日本における地質地形は複雑です。その素因をなした過去の地質時代における地殻の活動は、現代においてもそのかすかな余響を伝えています。すなわち地震ならびに火山の現象です。著者は、「わずかに地震計に感じるくらいの地震ならば日本のどこかに1つ2つ起こらない日は稀であり、顕著あるいはやや顕著と称する地震の1つ2つ起こらない月はない。破壊的で潰家を生じ死傷者を出すようなのでも3、4年も待てばきっと帝国領土のどこかに突発すものと思って間違いはない。この現象は我が邦建国以来おそらく現代とほぼ同様な頻度をもって繰り返されて来たものであろう。日本書紀第十六巻に記録された、太子が鮪という男に与えた歌にも『ない』が現われており、またその二十九巻には天武天皇の御代における土佐国大地震とそれに伴う土地陥没の記録がある」と述べます。
また、著者は「動かぬものの譬えに引かれる吾々の足下の大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう」と述べます。ここのように恐ろしい地殻活動の現象は過去において日本の複雑な景観の美を造り上げる原動力となった大規模の地変のかすかな余韻であることを考えると、わたしたちは現在の大地の折々の動揺を特別な眼で見直すことも出来はしないかと思われます。同じことは火山の爆発についても言えるでしょう。そうして火山の存在が国民の精神生活に及ぼした影響も単に威圧的のものばかりではありません。著者は、「このように吾らの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもって吾々を保育する『母なる土地』であると同時に、またしばしば刑罰の鞭を揮って吾々のとかく遊惰に流れやすい心を引き緊める『厳父』としての役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合宜しきを得た国柄にのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるであろう」
植物界は動物界を支配します。不毛の地に最初の草の種が芽を出すと、それが昆虫を呼び、昆虫が鳥を呼び、その鳥の糞粒が新しい植物の種子を輸入する、そこに色々の獣類が移住を始めて次第に1つの「社会」が現出します。日本における植物界の多様性はまたその包蔵する動物界の豊富の可能性を指示するかと思われるとして、著者は「試に反対の極端の例を挙げてみると、あの厖大な南極大陸の上に棲む『陸棲動物』の中で最大なるものは何か、という人困らせの疑問に対する正しい解答は『それは羽のない一種の蚊である』と云うのである。こんな国土もあることを考えると、吾々はいるが馬も牛もおり、しかも虎や獅子のいない日本に生まれたことの幸福を充分に自覚してもいいのである」と述べます。
人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促しました。なぜ、東洋の文化国日本にどうしてそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかったかという問題はなかなか複雑な問題ですが、その差別の原因をなす多様な因子の中の少なくも1つとしては日本の自然の特異性が関与しているのではないかと想像されます。すなわち日本では、まず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が充たされやすいために住民は安んじてその懐に抱かれることができるということ。一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身に沁みて、その禁制に背き逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の十分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来たということ。著者は、「この民族的な智恵もたしかに一種のワイスハイトであり学問である。しかし、分析的な科学とは類型を異にした学問である」と述べるのでした。
「日本人の日常生活」では、「さかな」の「な」は菜でもあり魚でもあることが指摘されます。100年前の日本人の副食物は主として魚貝と野菜でした。これはこの2つのものの種類と数量の豊富なことから来る自然の結果であろうとして、著者は「またそれらのものの比較的新鮮なものが手に入りやすいこと、あるいは手に入りやすいようなところに主要な人口が分布されたこと、その事実の結果が食物の調理法に特殊な影響を及ぼしているかと思われる。よけいな調味で本来の味を掩蔽するような無用の手数をかけないで、その新鮮な材料本来の美味を、それに含まれた貴重なビタミンとともに、損なわれない自然のままで摂取するほうがいちばん快適有効であることを知っているのである」と述べています。
もう1つ日本人の常食に現われた特性と思われるのは、食物の季節性という点に関してでしょう。俳諧歳時記を繰ってみてもわかるように季節に応ずる食用の野菜魚貝の年週期的循がそれだけでも日本人の日常生活を多彩にしているとして、著者は「年中同じように貯蔵した馬鈴薯や玉葱をかじり、干物塩物や、季節にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人や支那人、あるいはほとんど年中同じような果実を食っている熱帯の住民と、『はしり』を喜び『しゅん』を貴ぶ日本人とはこうした点でもかなりちがった日常生活の内容をもっている。このちがいはけっしてそれだけでは済まない種類のちがいである」と述べます。
また、日本人の自然観といえば、庭園を忘れることができません。住居に附属した庭園がまた日本に特有なものであって日本人の自然観の特徴を説明するに恰好な事例としてしばしば引き合いに出るものであるとして、著者は「西洋人は自然を勝手に手製の鋳型にはめて幾何学的な庭を造って喜んでいるのが多いのに、日本人はなるべく山水の自然を害うことなしに住居の傍に誘致し自分はその自然の中に抱かれ、その自然と同化した気持ちになることを楽しみとするのである。支那の庭園も本来は自然に象ったものではあろうが、むやみに奇岩怪石を積み並べた貝細工の化け物のような支那ふうの庭は、多くの純日本人の眼には自然に対する変態心理者の暴行としか見えないであろう」と述べます。
盆栽活け花のごときもまた、日本人にとっては庭園の延長であり、またある意味で圧縮でもあります。箱庭は言葉どおりに庭園のミニアチュアです。床の間に山水花鳥の掛け物をかけるのもまたそのバリエーションと考えられなくもありません。日本人の遊楽の中でもいわゆる花見遊山はある意味では庭園の拡張であると指摘し、著者は「自然を庭に取り入れる彼らはまた庭を山野に取り広げるのである。月見をする。星祭りをする。これも、少し無理な云い方をすれば庭園の自然を宇宙空際にまで拡張せんとするのであると云われないこともないであろう。日本人口の最大多数の生産的職業がまた植物の栽培に関しているという点で庭園的な要素をもっている。普通な農作のほかに製茶製糸養蚕のごときも、鉱業や近代的製造工業のごときものに比較すればやはり庭園的である。風に戦ぐ稲田、露に浴した芋畑を自然観賞の対象物の中に数えるのが日本人なのである」と述べています。
「日本人の精神生活」では、短歌と俳句が取り上げられます。この2つの短詩形の中に盛られたものは、多くの場合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全機的有機体日本がもっとも雄弁にそれ自身を物語る声のレコードとして見ることの出来るものであるといいます。著者は、「これらの詩の中に現われた自然は科学者の取り扱うような、人間から切り離した自然とはまったく趣を異にしたものである。また単に、普通にいわゆる背景として他所から借りて来て添加したものでもない。人は自然に同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として活き動くときに自ら発する楽音のようなものであると云っても甚だしい誇張ではあるまいと思われるのである。西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理窟が生まれたり教訓が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然との渾然として融合したものを見出すことは私にははなはだ困難なように思われるのである」と述べます。
「結語」では、著者は「日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を十分に享楽することを学んで来た、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした、というのである。この影響は長所をもつと同時にその短所をももっている。それは自然科学の発達に不利であった。また芸術の使命の幅員を制限したという咎めを受けなければならないかもしれない。しかし、それは止むを得ないことであった。ちょうど日本の風土と生物界とが吾々の力で自由にならないと同様にどうにもならない自然の現象であったのである」と述べています。
余談ではあるとして、著者は、皮膚の色だけで人種を区別するのはずいぶん無意味に近い分類であると述べます。人と自然とを合して1つの有機体とする見方からすれば支那人と日本人とはけっしてあまり近い人種ではないような気もするとして、著者は「また東洋人とひと口に云ってしまうのもずいぶん空虚な言葉である。東洋と称する広い地域の中で日本の風土とその国民とはやはり周囲とまったくかけ離れた『島』を作っているのである。私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを活かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけ淋しくなるのである」と述べるのでした。この言葉に、わたしは静かな感動をおぼえました。
「解説」で、山折哲雄氏は本書に書かれた寺田寅彦の思想について、「第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈の度を増す。平常から科学的な対策を講じておかなければならないゆえんである。第二、日本は西欧の文明諸国とくらべて特殊な環境による支配をうけており、その最大のものが地震、津波、台風による脅威である。そのため数千年来の災禍の経験は、日本人に環境の複雑な変化に対応する防災上のすぐれた知恵を養成することに役立ってきた。そして第三に、その知恵の一つとして自然の驚異の奥行きと神秘の深さにたいする鋭い感覚が磨きあげられた。自然に逆らうかわりに自然にたいして従順になり、自然を師として学ぶ態度が生まれ、その結果、日本における科学の独自の発達がうながされた。西欧の科学は自然を人間の力で克服しようとする努力のなかで発展したが、日本の科学は自然にたいする反逆を断念し、自然に順応するための経験的な知識を蓄積解することで形成された。そこに日本人の『民族的な知恵』が凝結しているのであり、日本人の学問の独自性があるのである……」と述べています。
山折氏いわく、寺田寅彦は日本人の自然観を論じつつ、ほとんど日本人の宗教観の根底を見通しています。なぜなら地震や風水の災禍をひんぱんにひきおこす「山」や「川」についてふれ、その「山」や「川」が同時に「神」でもあり、「人」でもあったといっているからだ。地形や風土の特性を観察しつつ、そこに無常観の日本的類型を見出そうとしているからです。このような風土と日本人ということですぐにも思い出されるのが、いうまでもなく和辻哲郎です。なぜならかれは、寺田寅彦が「日本人の自然観」を書くのに先立ってよく知られている『風土―人間学的考察』を書いているからです。これは昭和3年(1928)から4年にかけておこなわれた大学の講義にもとづいて書かれていますが、それが寅彦の「日本人の自然観」と同じ年の昭和10年にまとめられています。
寺田寅彦も、「日本人の自然観」の末尾に〈追記〉して触れ、「自分の考えはこの和辻哲郎の所論に影響された点がすくなくない」と断っています。角川書店の創業者である角川源義は、「和辻博士の『風土』の一部が発表されたころ、寺田寅彦はあれは自分が書くべきものだったが、先きにしてやられたねとある会合で笑って語ったといふ。決して嫉みではない、例の俳諧風な表現の仕方で和辻博士の業績の立派さを認めてゐたのである」と、『風土と文学』寺田寅彦著(角川書店)の「解説」に書いています。この証言からも、寺田寅彦がその最晩年に「日本人の自然観」を執筆する背景に、和辻哲郎の仕事が大きな影を投げかけていたことが推察されます。
和辻は風土論を発展させて、日本の家族について論を進めました。すなわち男女、夫婦、親子の関係のなかには大なり小なり利己心と犠牲という相反する価値観が見出されるが、この矛盾の関係を解決する規範として日本人のあいだに「慈悲の道徳」が形成されることになったというのです。仏教で説かれる「慈悲」という宗教観念が日本の社会では道徳感情として新たな展開をとげたというわけです。山折氏は、「私は、日本人における道徳と宗教の関係を考えるとき、和辻の『慈悲の道徳』と寺田の『天然の無常』という考え方がたいへん参考になると思っている。この近代日本を代表する二人の知識人の思想のなかに、道徳と宗教にたいする日本人の根本的態度を探るカギがかくされているのではないだろうか。日本の風土を考察するとき、和辻哲郎がその台風的契機を重視して『慈悲の道徳』に着目したのにたいし、寺田寅彦がそこから地震的契機をとりだして『天然の無常』という認識に到達していたことの対説照性に、私は無類の知的好奇心を覚えるのである」と述べるのでした。わたしも山折氏と同じです。
本書で、寺田寅彦は、科学の知識を文学の手法で山水美の日本陸土の減災への努力を啓蒙しました。昭和9年3月函館大火災、7月北陸手取川氾濫、9月室戸台風などを取り上げ、自然への無防備無自覚さが災禍を招いたと訴えます。大正12年の関東大震災の流言飛語の伝播を、爆発という瞬間に伝播する燃焼は適切な条件下でしか成立しないと戒めます。編者の山折哲雄は阪神淡路大震災、東日本大震災を経て寺田寅彦の啓蒙思想を問い返します。13回目の「3・11」を前にして本書を再読し、わたしは恐ろしい気分になりました。というのも、「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」と喝破し、約90年前にさまざまな示唆を投げかけているにもかかわらず、現代においてもそれらがほぼ対応されていないという事実に愕然とするばかりです。そして、今また、日本人は能登半島地震を経験しました。「人は学ばない生き物」と諦めるのではなく、本書に書かれている寺田寅彦の救国の叫びにすべての日本人は耳を傾けなければなりません。