No.2320 歴史・文明・文化 『ナチスの北欧幻想』 デスピナ・ストラティガコス著、川岸史訳(草思社)

2024.04.29

ゴールデンウィークですが、超円安で日本人は海外旅行しにくくなりましたね。わたしが今、海外で行ってみたい国はノルウェーです。今回ご紹介する『ナチスの北欧幻想』デスピナ・ストラティガコス著、川岸史訳(草思社)という本を読んだ影響です。本書には、「知られざるもう一つの第三帝国都市」というサブタイトルがついています。著者は、ニューヨーク州立大学バッファロー校建築設計学部教授。主な著書に『ヒトラーの家』(作品社)など。

本書の帯

本書の帯には「いま明らかになるヒトラーが構想したユートピア都市の全貌。」と大書され、「ナチスの人種ヒエラルキーの頂点に置かれたノルウェーでは、他の領国とは全く異なる扱いであったにとどまらず、建築・都市における類のない特異な計画が存在していた。はじめて明かされる、政治・権力と建築計画の驚愕の関係」と書かれています。カバー前そでには、「スーパーハイウェイ、レーベンスボルン、兵士の家、ニュー・トロンハイム……北欧を第三帝国とするべく計画された建造物たちは、何を目指して設計されていたのか」と書かれています。

本書の帯の裏

アマゾンの内容紹介には、「ヒトラーは、北欧のフィヨルドに何を幻視していたのか。今明かされる、『もう一つの第三帝国都市』の衝撃」として、「ナチスにとって、ノルウェー人はそのナチス的世界観の人種ヒエラルキーの頂点にある存在であった。そのため、ナチスはノルウェーをほかの占領地とは異なる扱いにしたにとどまらず、その地をもう一つの第三帝国の重要都市に改造するという、異様な建築・都市計画の構想を持っていた。一方的にナチス様式を押し付けるのではなく、自発的に第三帝国の様式に染まるように仕向けるなど、ほかの占領国と全く異なる態度によって生み出された建築、都市インフラは、どのようなものであったのか。また、ヒトラーをはじめ、シュペーア、ヒムラー、ゲッペルスといった要人たちは、計画に対してどのような思惑を抱いていたのか。そのナチスの様々な計画に対して、現地ノルウェーの人々、なかでも建築家はどのような態度だったのか。そして、その計画が現在に残したものとは、何か。ノルウェーのアーカイブを利用して、スーパーハイウェイ、兵士の家、レーベンスボルン、ニュー・トロンハイムといった計画を詳細に読み解き、ヒトラーの構想した「もう一つの第三帝国」の全貌を明らかにする」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の通りです。
「謝辞」
はじめに「フィヨルドを訪れたヒトラー」
1 北欧を美化する過程
ナチス占領下のノルウェーに関するドイツの報道記録
2 新秩序のノルウェー
スーパーハイウェイ(高速道路)から
スーパーベビー(優等人種の子供たち)
までのインフラ構築
3 ドイツ人気質の島々
占領下のノルウェーにおける兵士の家
4 ノルウェーの町のナチ化
戦時下の都市生活と環境の形成
5 フィヨルドに築くゲルマン都市
ヒトラーのニュー・トロンハイム計画
結び「風景に残るかすかな痕跡」
「図版クレジット」
「参考文献」
「原注」「索引」

「謝辞」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「本書を記すこととなったきっかけは、何年も前、ベルリンのドイツ連邦公文書館での偶然の出会いに遡る。別のテーマについて調べている時、占領下のノルウェーに都市を建設するというヒトラーの秘密計画に関するファイルを見つけたのだ。私はこの北欧の国でのナチス建設計画について何も知らなかったし、歴史書の中にもそれについて教えてくれるものはほとんどなかった。最初の発見から本書の原稿が完成するまでの長い間、私は多くの同僚や友人と共にアーカイブの謎を解き明かすことになった」

はじめに「フィヨルドを訪れたヒトラー」の「ナチスにおけるノルウェーの重要性」では、のちにウィンストン・チャーチルが書いているように、ヒトラーは海軍戦略において、ノルウェーこそ「この戦争の命運を握る地」だと信じ、執着していたことが指摘されます。イギリス軍の度重なる奇襲攻撃により、連合国軍がノルウェーに侵攻する危険性を確信したヒトラーは、ノルウェーを難攻不落の北方要塞とするために、ノルウェーへの兵力と資源の追加、海岸線の要塞化を命じました。著者は、「南東部のオスロフィヨルドから最北部のソビエト連邦との国境まで、数千キロメートルに及ぶ海岸線に防衛施設が建設された。これらの防衛施設の建設と維持には、膨大な人必要とされた。あるドイツ国防軍特派員が、1941年1月、伐採されたばかりのモミの木の樹脂の香りが『オスロからキルケネスまで、ノルウェー全土に』満ちていたと書いている。ノルウェーの森林は、何十万ものドイツ兵が使う兵舎を建てるために伐採されていたのだ。しかし、ヒトラーがノルウェーで見たものは、要塞の域をはるかに超えるものだった。占領下で行われた膨大な建築計画の中には、戦時中の緊急の必要性に迫られたもの以外も含まれていた。実際、その多くは、ナチスがヨーロッパの頂点に君臨すると思われる戦後を見据えたものであった」と述べています。

著者によれば、ナチスと彼らが作り上げた景観に対して、わたしたちは偏見を持っているといいます。その影響から自由になることは難しいといいます。第三帝国の建築物は、その威風堂々とした佇まいで人々を卑小に見せて服従させようとしていたとして、著者は「アルベルト・シュペーアによるゲルマニア(帝国の首都としてふさわしくあるよう再設計されたベルリン)の壮大な計画や、総統官邸、ニュルンベルク党大会会場などのドイツに残る建築物を見れば、それがよくわかる。東欧では、ヒトラーがスラブ系やユダヤ系の民族・文化は人種的に劣っていると信じていたため、それらの破壊は正当化されていた。大ゲルマン帝国にふさわしい新たな風景を作るために、それまであったものを一掃すること、『人間以下の存在』が『超人』に取って代わられ、『穢れ』の物理的な痕跡はすべて消し去られるか、新秩序の暗い余白に押し込められることが推奨されていたのだ。このような歴史ゆえ、ナチスの建築物が周囲の環境と調和し、共存することなど期待できない」と述べています。

1「北欧を美化する過程 ナチス占領下のノルウェーに関するドイツの報道記録」の「北方人種を頂点とするヒエラルキー」では、人種というものが、ドイツ占領軍が想像する新しい時代を規定し、ノルウェーに駐留するドイツ国防軍兵士の「仕事」とシュトラウビングに住む人々の「仕事」とを結びつけたことを指摘。優れたゲルマン民族の支配のもとに全ヨーロッパを統合する大ゲルマン帝国というヒトラーの構想は、北欧の血の力に対する神秘的な信仰に基づいていたとして、著者は「ヒトラーが『わが闘争』で主張したように、北欧の血は劣等人種との生殖によって「毒される」可能性がある。こうした血の混入こそ古代の偉大な文明、とくにギリシャやローマの衰退の原因であり、偉大な文明は金髪碧眼のアーリア人たる北方人種に端を発するとヒトラーは考えたのである。より良い遺伝子を持つ者と交配すれば血を強化できる上、ノルウェー人ほど純度の高い北方人種の血を持つ国民はないというのがナチス・ドイツの優生学者の主張だった。北方の血を守りたいというナチスの願いは、一方では大量虐殺を、他方では出生増進の措置を正当化するものであった」と述べます。

「ノルウェーにおけるナチスの芸術政策」では、ヒトラーにとって、人種を衰退に導く最たるものは芸術であったことが指摘されます。したがって、ノルウェーに駐留したドイツ人特派員は、この占領が必要なものであり、恩恵をもたらすものだと知らしめるために、ノルウェーの美術館や書店、劇場、コンサートホールに細心の注意を払ったといいます。彼らの報道は、1930年代にナチス・ドイツで進められた退廃芸術に関する議論を繰り返す一方で、ノルウェー人の感性に配慮しながら慎重に行われました。ナチスはノルウェー人を敵に回さぬようにしながら改革しようとしていたからです。1937年にミュンヘンで開催された悪名高い「退廃芸術展」に出品され、ドイツの公立美術館のコレクションから外されたノルウェー人画家エドヴァルド・ムンクは、ドイツ占領下のノルウェーの新聞では北欧の偉大な画家として賞賛されました。

2「新秩序のノルウェー スーパーハイウェイ(高速道路)からスーパーベビー(優等人種の子供たち)までのインフラ構築」の「観光への期待」では、旅行代理店や記者たちはドイツ人にノルウェー旅行をアピールし続けたことが指摘されます。ベルリンの大通り、ウンター・デン・リンデンに事務所を置いていたノルウェー旅行代理店ベルリン市民が大ゲルマン帝国北部へ旅行したくなるようなパンフレットを配っていました。ノルウェーにいたドイツ兵や戦場記者たちは旅行者になりきってドイツの新聞や雑誌に旅行記を書き、素朴な街並みや荒々しくもロマンチックな風景が広がるこの国の様子を綴りました。ノルウェーに関する公開講座は人気を博し、パンテンブルク自身もノルウェーでの冒険について、旅の様子を鮮やかに再現したカラースライドを使って熱心に聴衆に語ったのです。

歴史家たちは、ナチス・ドイツにおいてこの種の仮想消費が果たした重要な役割を強調しています。この仮想消費によって人々は「すぐそこにある」理想郷で、自分に約束された製品や体験を、空想の中でだけでも消費することができたのだというのです。著者は、「ヒトラーがアウトバーン、つまり高速道路の建設と国民のための車であるフォルクスワーゲンの製造を宣言すると、1920年代にはすでに現れていた大衆自動車と観光の夢がさらに膨らみ、すべてのドイツ人、労働者さえもが余暇を楽しみながら自国を巡れるようになったのである。プロパガンダはこのような願望を、個人の喜びを超えた、人種的な幸福を包含するものだと表現した。自動車と高速道路によって結びつけられた人々はより親密になり、民族共同体をより強固にした。だが何十万ものドイツ人が新車購入のために預金口座を開設したものの、第三帝国時代に車を手に入れることはできなかった」と述べます。

「世界を結節道する道」では、ノルウェーのアウトバーンには、ノルウェー人を丸め込む以上の意味がありました。著者は、「我々は自動車中心の大ゲルマン帝国――つまり熱心な自動車愛好家であったヒトラーが自動車の中から体験できると思い描いていた帝国――という文脈の中で、アウトバーンがどのように機能していたかを考えなければならない」と訴えます。1940年9月のドイツの新聞記事では、ヨーロッパで建設中の新しい交通インフラについて、高速道路のネットワークが縦横無尽に広がることが予測されていました。その後の数年間、ナチスの中・東欧再定住のための基本計画である「東部総合計画」は、アウトバーンを植民地化とアジアの草原の「ヨーロッパ化」の中心に据えていました。この計画では、ポーランドとソビエト連邦西部の併合地域で、大量殺戮と民族浄化によってスラブ人とバルト人を一掃し、数百万人のドイツ人を移住させることが期待されていたのです。

「北極圏鉄道構想」では、ヒトラーがノルウェーに求めたもう1つの大規模なインフラ整備事業である北極圏鉄道が取り上げられます。これも新しい政治的な地勢を形成したいという願望ゆえに生まれたのかもしれないとして、著者は「総統は、モーイラーナからキルケネスまでフィヨルドや山、ツンドラを通る1200キロメートルの鉄道建設に執着し、顧問をいら立たせ、のちに歴史家たちを当惑させた」と述べます。なぜヒトラーは執拗に北極圏鉄道を建設しようとしたのか。歴史家たちは、ヒトラーが成したノルウェー防衛に関する主張だけでなく、ヒトラーの大きな政治的ビジョンの中での鉄道の象徴的な意味に着目しています。経済学者アラン・ミルワードが1970年代に執筆した著書では、鉄道はヒトラーが構想した新しいヨーロッパの象徴であり、それゆえ彼は、戦略的にも経済的にも非現実的であるにもかかわらず、鉄道計画を進めようと断固として闘い続けたと指摘。ミルワードは「鉄道は新しいヨーロッパの動脈であり、ヒトラーはそれを放棄できなかったのだ」と書きました。歴史家のケティル・ヨルメ・アンデルセンは、北極圏鉄道は「第三帝国の空間政治」を表しているとし、近年この見解を強調しています。

4「ノルウェーの町のナチ化 戦時下の都市生活と環境の形成」の「都市計画による民族共同体の実現」では、ヒトラーは1925年に出版した『わが闘争』で、建築を用いて民族共同体を表現することの重要性を説いたことが紹介されます。さらに、そのような建築は公営であるべきで、民営のものより優先されるべきだと主張しました。ヒトラーは古代ローマを振り返り、商業施設や住宅などの私的空間は目立たない場所に置かれ、代わりに神殿や公衆浴場、バシリカ[集会に用いられた建築]、競技場など、国家や国民のためのモニュメントが帝都の中心にそびえ立っていたことを称えました。民族共同体の「ランドマーク」は、時の流れにも長く耐えられるよう設計されていたのです。

ヒトラーは、「古代の遺跡や瓦礫の中で今もなおそびえ立つ巨像は、民営の豪華な建築ではなく、神殿や国家の建造物、つまりすべての人々の所有物なのだ」と語りました。こうした公共のモニュメントを求める感情は中世の都市でも支持された、大聖堂がその一例だとヒトラーは続けました。しかし、近代になると工業都市は何よりも利益を追求するようになり、人民を代表する建築には投資しなくなった(ヒトラーは国会議事堂のような近代的な公共建築に感銘を受けなかった)というのです。代わりに民間の建築に不釣り合いなほど多くの金額が費やされるようになったと彼は非難しました。例えば「ユダヤ人の」デパートは、ローマ神殿や中世の大聖堂に匹敵する規模の近代建築ではないかと。このような状況を打破するため、ヒトラーは「ドイツ人は今後、かつてのローマ人がしたように建築すべきだ」と考えたのです。

こうした信念はナチス・ドイツの都市計画の原理に反映され、ドイツ国外における大ゲルマン帝国をいかに構築するかという思想にも影響を与えました。シュテファンはシュペーアに提出した報告書の中で、建築環境はノルウェーの新しい集団意識の形成に不可欠な役割を果たし、この国の「個人主義に走りすぎる傾向」を大ゲルマン帝国の掲げる民族共同体に導くだろうと書きました。占領軍はこの来るべき「ユートピア」再建案を直接、とくに都市のレイアウトと建物の種類に組み込もうとしました。イデオロギー的な意図をもって形作られた物理的環境は、ノルウェーの人々を人種的な同志である民族同胞に変える変革のツールとして機能するだろうと考えたのです。

5「フィヨルドに築くゲルマン都市 ヒトラーのニュー・トロンハイム計画」の「『総統都市』としての計画」では、ヒトラーが新都市に建てようとしていた文化施設の詳細はあまりよくわかっていませんが、国家として何を求めていたかという意図は見て取れるといいます。1942年2月19日、ヒトラーは総統官邸で深夜に行った会談で、自らが絵を集める予定だった大画廊では「ドイツの巨匠たちだけ」を飾ると発言。芸術はその国家が文化的にも政治的にも偉大であることを示すだけでなく、文化的にも政治的にも偉大な国家に仕立て上げるために役立つとヒトラーは信じていたのです。政権獲得後、彼が最初に作らせた巨大な建造物がミュンヘンの「芸術の家」であったことも偶然ではない。この美術館ではドイツの現代芸術家の作品だけを展示し、第三帝国の新たな芸術における展望と基準を決めようとしていた。ヒトラーが帝国の北方都市にドイツ美術の画廊を開こうと提案したのは、国境を越えて生活するドイツ人の文化的アイデンティティと精神力を強化するための重要な行為であった。同時にこのような計画は、自分の最大の遺産となるだろうとも考えていた。トロンハイムの計画について、彼は「戦争は起こっては消える。残るのは人類の文化的な成果だけだ」と述べている。

トロンハイムムフィヨルドの新都市にヒトラーが建てようとした大画廊は、新都市に住むドイツ人のルーツを示す大きな文化事業である戦没者墓地と戦争記念施設に加わるはずでした。この構想は駐ノルウェー・陸軍最高司令部から生まれ、1941年初めにはノルウェーのベルゲン、ナルヴィク、オスロ、トロンハイムという4つの都市に戦没者墓地を建設することが決定。この4つの都市には、合計3100人分のドイツ兵の墓を作る予定だった。このうち3つの都市は、侵攻中に発生した戦闘や事故に関わっていました。オスロフィヨルドでは重巡洋艦ブリュッヒャーが沈没し、ベルゲンでは軽巡洋艦ケーニヒスベルクが沈みました。これらはドイツ国防軍に大きな損害を与えました。また、ナルヴィクではエデュアルト・ディートル率いる山岳師団が抵抗を続けて辛くも勝利したことにより、ドイツ人にとっては英雄的な戦いが行われた都市という認識になっていました。その3つとは対照的にトロンハイムは、将来は海軍基地として重要な場所になるということで選ばれたようです。

「重要視されたトロンハイム」では、芸術と死の崇拝は、ナチスの世界観と深く絡み合う不可欠な要素であったことが指摘されます。国歌や演劇、美術展、記念碑、儀式、行列の中で、倒れた同志はまとめて象徴として哀悼され、称えられました。ナチス・ドイツが帝国を拡大した時、彼らはその神話と儀式を新たな占領地に持ち込みました。しかし、彼らはその2つをどの土地でも同じレベルではっきり形にすることはなかったとして、著者は「フィヨルドに新たなゲルマン都市を作るという国威をかけた計画を見れば、当時はトロンハイムがナチスにとって特別な土地であり、ヒトラーに大ゲルマン帝国の北方における文化首都を建設するにふさわしい場所だと見なされていたことがよくわかる」と述べています。

トロンハイムの魅力は、ナチスのプロパガンダにおいて、オスロの欠点とよく比べられました。トロンハイムは戦う王たちの亡霊が住まう古式ゆかしい都市であるのに対し、オスロは近代的で魂のない都市だとされたのです。トロンハイムはドイツの影響を感じさせながらも、土地とそこに住む人々に根ざした最もノルウェー的な都市として称えられましたが、オスロは逆に「アメリカの影響を受けた、信用できない」都市とされたのです。著者は、「トロンハイムの建築美と開放的な都市空間は、オスロの機能主義的な建物や密集した労働者階級の居住地を圧倒しているとされた。地理的な条件ゆえに、近代になると政治的な面ではオスロがノルウェーの首都となったが、トロンハイムは古くから精神的にも文化的にもノルウェーの帝都の風格を保ちつづけたのだとナチス記者たちは主張した」と述べます。

結び「風景に残るかすかな痕跡」の「ナチスの幻想は本当に消え去ったか」では、ノルウェー中に埋められた戦争捕虜の死体の管理方法を巡って生まれた戦後の重要な対立の局面について言及されています。終戦時、8万4000人のソ連人捕虜と強制労働者がノルウェーに残っており、その多くが治療を必要としていました。その内の約1万4000人がノルウェーの地で死亡し、その場で埋められたり、人気のない森林や沼地に埋められたりすることが多々ありました。著者は、「このような扱いは、彼らの地位の低さを物語っているかのようだった。何しろドイツ兵の遺体は整然とした墓地に葬られ、英雄にふさわしい戦争記念碑まで与えられたのだから」と述べています。

ドイツ降伏の翌年の夏、ノルウェーとソ連の人々は協力して遺体を捜し、現地の墓地に埋葬し直しました。死者を捜して丁重に埋葬する作業は、ナチスがただの安価な労働力として不当に物扱いした人々を再び人間に戻す作業でもあったとして、著者は「1945年7月、ハーシュタ市のトロンデネス半島で1800体の遺体を収めた集団墓地が発見された。その内の600人以上が銃殺され、それ以外の多くは餓死していた。ソ連への送還を待つ元抑留者たちは、命を落とした友人や同志のために記念碑を作る作業に加わった。墓には捕虜たちをファシズムに抵抗したソ連の英雄と称え、彼らの苦難と回復を伝える物語がノルウェー語とロシア語で刻まれていた。この再び埋葬する作業が、加害者を罰する手段になった例もある」と述べます。

アスファルト作戦(遺体袋として使われたアスファルトの紙袋にちなんで命名)では、捕虜の遺体を誰でも行ける場所から、ノルウェーのヘルゲランド海岸にある離島チョッタ島の中央墓地に移しまし。ほとんどの遺体は、墓石もない共同墓地に埋葬されました。この作戦の代償は費用面だけでなく、心理的な面でも大きかったとして、著者は「何しろノルウェー人が8000体の腐敗した死体を掘り返して運ぶという身の毛もよだつような作業を行ったからだ。記憶の面でも代償を払うことになった。墓を移す過程で、死者のために新たに建てられた記念碑の多くが、意図的に壊されたり爆破されたりしたからだ。その理由は遺体を運び出す際に邪魔になる、農民の農作業を妨げる、幹線道路を使って旅する観光客のための景観を損なうなどさまざまだったが、歴史学者たちはそれらが本当の理由ではないと主張している。また、死者を悼む言葉にも冷ややかさが混じるようになった」と述べます。

アスファルト作戦は、ソ連政府から「ソ連兵の追悼に対する侮辱」とされ、外交上の深刻な軋轢を生みましだ。また、元の墓地の近くに住んでいたノルウェー人からも激しい抗議の声が上がりました。ロシア兵が苦しめられている様子を目の当たりにし、彼らの悲しみを理解して悼んでいたからだ。国民に意見を聞くことも、事前に知らせることもなく墓と記念碑をすみやかに移したことは、冒瀆に等しいと考える人々もいました。ヒトラーの北極圏鉄道の起点となったモーイラーナの町では、約800人がソ連兵の遺体を運ばせまいと、墓地で抗議を行いました。著者は、「冷戦時代に行われた、墓を移し記念碑の碑文を消すことで歴史の物語を書き換えようという動きは、近年では大学組織や各機関、地元住民によるさまざまな取り組み(かつてノルウェー北部のあちこちに存在していたソ連兵捕虜の痕跡を復元し、可視化しようとする作業)によって元に戻されようとしている」と述べます。歴史家のスタイナー・オースは、「アスファルト作戦の記憶は、ソ連兵捕虜の遺体の記憶と同様、いつまでも覚えていようとする人々と早く忘れようとする人々という二つの極端な集団の間で、ヘーゲル弁証法的な争いとなってきた」と書いています。

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