No.2329 宗教・精神世界 『私だけの仏教』 玄侑宗久著(講談社α新書)

2024.05.26

『私だけの仏教』玄侑宗久著(講談社α新書)を再読しました。「あなただけの仏教入門」というサブタイトルがついています。何度か読み返した本ですが、講談社+α新書版は2003年に刊行、その後、2014年にPHP文庫化されています。著者は1956年(昭和31年)、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな職業を経験した後、京都の天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。

神道&仏教&儒教を学ぶ最高のテキスト

ブログ「混ざり合った日本の私」に書いたように、日本人の「こころ」は神道・儒教・仏教の三本柱によって支えられているというのがわたしの考えです。そして三宗教には、それぞれに最高の入門書があります。神道は、『神道とは何か』鎌田東二著(PHP新書)、儒教は、『儒教とは何か』加地伸行著(中公新書)、そして仏教の最高の入門書が本書『私だけの仏教』であります。

本書の帯

本書の帯には著者の顔写真とともに、「ベストセラー!!」「『ヴァイキング』式の仏教入門でわかりにくい仏教がわかる!!」と書かれています。また、帯の裏には「昔から日本人はヴァイキング形式で独自の文化を作ってきた。クリスマスや初詣やお盆の併存はその典型だろう。仏教各宗派の和合の状況も然り、である。ヴァイキングに並ぶ豊富な食料から自分の口や体に合ったものを選んでいただくこと。それがこの本の最終的な目標であることを、まず初めにお断りしておきたい。そうした食事形式に『ヴァイキング』と上手に命名したように、皆さんもお好きな名前をつけて『〇〇仏教』などと呼んでも面白いかもしれない」と書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の通りです。
第一章 「仏教」とは?
1 はじめの弁解
――ヴァイキングで作る「私だけの仏教」
2 一冊で仏教が分かる本は
  ありませんか?
――正解なき「八百万」的日本仏教
3 あくまでも実践するための仏教
4 釈尊のこと
5 仏教の発生とその基本
6 さまざまな教科書的区分
――惑わされてはいけない
南伝と北伝
小乗と大乗
顕教と密教
自力と他力
7 他の宗教との分けがたき混淆
――儒教・道教・神道の影
8 「通仏教」という考え方
9 対機説法と観音様の思想
第二章 ヴァイキングの実際
1 空腹の自覚――「苦」と「信」
2 席の確保
――家の宗教との「含みながら超える」関係
3 ナイフ・フォークの用意
――「戒」という自己規制の意味
4 箸で食べる人
――六波羅密という菩薩行
布施
持戒
忍辱
精進
禅定
智慧
5 コースの選択
インド風
中国風
日本風
●天台宗
●真言宗
●浄土宗
●浄土真宗
●時宗
●臨済宗・曹洞宗
●日蓮宗(法華宗
6 「方便(ウパーヤ)」という自覚
第三章 食事の際の心得
1 一所懸命の危うさ
2 食べる姿勢としての「四無量心」
3 まずは自分が食べること
――「利他」という大嬢仏教の呪縛
4 会場に溶け込む私
――あらためて慈悲、そして脱力のこと
5 フルーツ
無常
縁起
無我
中道
6 食後のコーヒー
――唯識とヨーガ
第四章 食後に思うこと
1 求められる仏教的パラダイム
2 読経の功徳、
  そして色と空の相補性
3 不可能な理想の必要性
――戒律と四弘誓願のこと
「あとがき」
「日本の仏教(十三宗)」
「仏教の変遷図」

第一章「『仏教』とは?」の1「はじめの弁解」では、昔から日本人はヴァイキング形式で独自の文化を作ってきたことが指摘されます。クリスマスや初詣やお盆の併存はその典型であり、仏教各宗派の和合の状況も然りだとして、著者は「ヴァイキングに並ぶ豊富な食料から自分の口や体に合ったものを選んでいただくこと。それがこの本の最終的な目標であることを、まず初めにお断りしておきたい。そうした食事形式に『ヴァイキング』と上手に命名したように、皆さんもお好きな名前をつけて『〇〇仏教』などと呼んでも面白いかもしれない」と述べています。

仏教は勉強しにくいと言われます。なぜか。1つには経典が多すぎることであるとして、著者は「それはもう浜の真砂ほども、と言っては失礼になるが、とにかく何か仕事をしながら読もうなんて芸当のできる数ではない。僧侶などという雑用の多い仕事をしていたら尚更である。一説に5048巻ともいうが、これも分類のしようでさまざまな数になる。インドから伝来したお経の多さに驚いた中国人ではあるが、その注釈書を書いてさらにそれを複雑多岐にしてしまう。また「偽経」と呼ばれる中国産や日本産のお経も加わる。だからそのすべてに精通することを諦め、焦点を絞っていこうという態度から宗派の別が生まれる。基本的にはそう考えて差し支えない」と述べます。

平安時代の総合大学であった比叡山では、法然(1133~1212年)や親鸞(1173~1262年)や日蓮(1222~82年)や栄西(1141~1215年)や道元(1200~53年)が学びました。彼らは学んだ上で焦点をしぼっていきました。そうしてできたのが浄土宗、浄土真宗、日蓮宗(法華宗)、臨済宗、曹洞宗ですが、困ったことにその中に正統の仏教というのが存在するわけではありません。著者は、「いずれも独特の切り口で仏教の一部を強調しながら、ある種の奇形として発展し、結果的には現在まで『八百万』状態で共存してきたのである」と述べます。

初期のキリスト教の場合、そうした各派はグノーシス派として括られ、真ん中の空洞部分からカトリックが成立しました。そしてそれが正統としてローマ帝国から認知されたため、各派は異端ということになりました。その後も権力は正統と異端を峻別し、ブラッディー・メアリーと呼ばれたメアリー1世(1516~58年)やジェームズ1世(1566~1625年)などは100万人を超える異端信仰の人々を抹殺してきました。そうした血塗られた歴史によって、キリスト教は正統を守ってきたのです。

3「あくまでも実践するための仏教」では、「仏教」という言葉は明治時代に使われ始めたもので、それ以前は「仏道」とか「仏法」と呼ばれたことが紹介されます。著者は「行」を伴った「仏道」としてここでは考えたいとして、「『南無阿弥陀仏』でも『南無妙法蓮華経』でもどちらでもいいよ、と言ってくれる本はないだろうが、ときには坐禅もし、浄土宗の『観想』(仏や浄土の様相を想起すること)もしながら、落ち込んだときには『南無妙法蓮華経』を唱えるなんてのも、私はあっていいと思うのである」と述べるのでした。

5「仏教の発生とその基本」では、釈迦が35歳で「お悟り」を開き、ベナレスの郊外であるサールナートで最初の説法をしたことが紹介されます。これを「初転法輪」といいますが、そのときの説法の内容が問題であるといいます。なぜなら、それによって初めて「仏教」という教団あるいは宗教が成立するからです。しかしその内容についても、じつは伝える経典によってバラツキがあると指摘します。

著者は、「大まかに言えば、南伝仏教では『四諦』と『無我』がその内容であるとし、北伝仏教でそのほかに『中道』や『十二因縁』さらには『五蘊』に関することや諸法の不生不滅なることまで説いたとされるのだが、後世になるほど釈尊への敬意やそれゆえの整合性などが重視されてくるため、付加されたものが多いと考えられる」と述べ、さらには「私の独断だが、仏教を学びたい、あるいは仏道を行じたいという人間にとって、どうしても欠かすことのできない認識として、無常、無我(あるいは非我)、中道、そして縁起を数えたい」と述べるのでした。

6「さまざまな教科書的区分――惑わされてはいけない」の「小乗と大乗」では、大乗という言葉が最初に使われたのは『般若経』であることが紹介されます。訳語では「摩訶衍」が一般的です。そして小乗という蔑称はそれよりも遅れて使い始められ、特に『法華経』で多用されます。経と律の整備に続き、仏教徒たちはそれぞれの自説を主張するため経の注釈書すなわち「論」を書き始めました。「経・律・論」という「三蔵」が整うのもこの時代です。

そうした僧侶たちの、いわば専門化の動きに対し、やがて富裕な在家(出家してない人々のなかに、仏舎利塔やストゥーパ(卒塔婆)を守るだけでは飽き足りない人々が出てきました。当初から在家者は出家集団を経済的に支える存在だったわけだが、もっと深く仏教に関わりたいと思ったのだろうとして、著者は「一方では経典を学びながら、彼らはもっと自由な発想で釈尊を想い、その徳を讃えるために『ジャータカ』と呼ばれる釈尊の前世物語、あるいは『チャリヤーピタカ』と呼ばれる仏伝文学を作り上げていく。それぞれの部派が自己正当化にやっきになるなかで、彼らはもっと自由に、もっと幅広く釈尊を捉えようと努力したのです。これが大乗仏教運動と呼ばれる動きではなかっただろうか」と述べます。

在家信者も含んだ大乗仏教運動のなかで、当初は部派のなかでも上座部の一派である「説一切有部」のみが「小乗」と呼ばれました。しかし中国ではそれが部派すべてに拡大され、場合によっては初期仏教全体までが小乗と呼ばれるようになりました。また、仏教には如何なる局面においても創造神は存在せず、当初も人間としての釈尊と多くのデーヴァが存在しただけだとして、著者は「デーヴァは中国で『天』と訳され、それは初めから多数だった。初めから存在した『八百万』的な考え方が、大乗仏教において開花したと考えてはどうだろうか」と述べるのでした。

「顕教と密教」では、「密教」の「密」には「参加した人のみがその功徳を受け、一般に公開されないという意味合いもある」と説明されます。4、5世紀ころからそうした流れは始まり、やがて7世紀半ばに『大日経』が成立すると「純密」と呼ばれ、それ以前の密教的な傾向を「雑密」と呼んで区別するようになります。その後も『金剛頂経』『理趣経』などの経典が成立し、密教はその独自性を強めていくのです。

著者は、「何より密教において祀られるのが釈迦如来ではなく、大日如来だというのは他の仏教と大きく違うことだろう」と述べています。日本において最初に宗派意識、つまり「うちは余所とは違う」という意識をもったのは空海(774〜835年)だと云われますが、そうした面も密教そのものが内蔵しているのかもしれません。呉音で読まれるお経の多くを、真言宗では漢音で読む、というのもそういうことなのでしょう。

釈尊は「禅定」から生まれる「智慧」を重視し、それに至るには「瞑想」をしなくてはいけないと、口を酸っぱくして説いていることが紹介されます。たしかに釈尊には当時珍しいほどの合理性・科学性とでも云える側面はありましたが、それは決して言葉ですべてが表現できるということではなかったとして、著者は「禅も『不立文字』と云い、『実相無相』と云う。無相(姿のない)の実相に密教はマンダラという姿を与え、さらには声の響きや文字にも宇宙が響いていると考えるが、それは『ナムアミダブツ』と唱えることそのもので『アミターバ(無量の光明)』と一体化することを願う浄土教にも通底する考え方ではないだろうか」と述べます。

「自力と他力」では、通常は浄土教系統が他力宗と呼ばれ、対して主に禅宗が自力宗と呼ばれることが紹介されます。もともとナーガールジュナ(龍樹。150~250年ごろ)が『十住毘婆沙論』に「難行」と「易行」の区別を書き、浄土教の曇鸞(476~542年)が『往生論註』で「易行」を勧めようとして目的地までの舟の道行きに喩えました。歩いてゆくより、舟に乗っていったほうが簡単だろうというわけです。「他力」とは、浄土系ではむろん阿弥陀如来そのものを指します。しかしあらゆる行は、まず自力から入ってやがて「他力」を感じてこそ意義があるとして、著者は「『他力』はだから、一遍上人(1239~89年)の云う『阿弥陀仏の御命』とは限らず、道元禅師の云う『仏の御命』も同じ力のことなのである」と述べています。

道元禅師は『正法眼蔵』の「現成公案」で、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり」と述べています。自己を運ぶ、という意識こそ「自力」や「努力」という意識でしょう。そう思っているうちは迷いであり、悟れば、万法つまりあらゆる物事が向こうから自然になされているように思えるというのです。著者は、「これこそ『他力』という認識ではないだろうか?」と述べ、同じ『正法眼蔵』の「生死の巻」の「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」という言葉を紹介します。ここで云われる「仏の家」こそ「仏の御命」であり「他力」そのものではないかといいます。

他力を感じるのは、あくまでも「行」を通して、ということになります。自分の肉体を使うことによって生ずるある種の恍惚感に、他力の秘密はあるような気がするとして、著者は「学業優秀だった人々が大勢あのオウム真理教に入信していったのも、私にはこの『行』による恍惚感のせいであったように思えてならない。彼らは五体投地とか水中クンバカなどの厳しい『行』を通し、これまで感じたことのない恍惚感を感じたのではなかっただろうか? それそのものは決して悪いことでもないし、むしろ宗教的体験と云っていいものだろう。ただ問題は、その際に感じた世界を、遥かなる他力と思わず、直接の指導者の功徳に帰してしまうことだ。仏道においても、師匠との出逢いは何よりも大きな要因になる。しかしだからこそ親鸞聖人は、我が身を謙譲できる限り謙譲し、大いなる他力と仰ったのではないだろうか」と述べるのでした。

7「ほかの宗教との分けがたき混淆――儒教・道教・神道の影」では、たまたま明治の初め、Religionという言葉が入ってきて「宗教」という言葉が訳語に使われたことが紹介されます。しかしもともとReligionという言葉はキリスト教、もう少し広げれば「一神教」を意味するため、日本的宗教を表現するには初めから不適当だったのです。ところが「宗教」という言葉で括られる場合はどうしても仏教も入ります。それはつまり、「Religion=宗教」の基準で仏教が測られることを意味しますから、いきおい遅れた宗教という見方にならざるを得ないわけです。

西欧ではアニミズム(精霊崇拝)的多神教は宗教の原始型で、進歩して一神教になると考えますから、日本の宗教状況は遅れていると見てしまうのです。日本人の大部分は、そうした西欧仕込みの見方で自分の国の宗教状況を見ているのではないかとして、著者は「考えてみれば、これは桜や梅や桃が『バラ科』に属してしまった事情と同じである。たまたま植物の分類学がイギリスで発達したためにそういう分類にされてしまったけれど、もし日本で分類学が発達したとすればバラこそ『サクラ科』になっただろう。別にそれがエライというわけではないけれど、どうしても基準にされたもので見方が決定してしまう部分があるのだと思う」と述べます。

単に仏教と云ってしまうことが難しいほど、日本の仏教は儒教や道教や神道が陰に陽に入り混じっています。著者はまず、儒教を例にあげて、「皆さんの家の仏壇に置いてある『位牌』、これはもともと儒教の道具で『神主』と謂う。またお寺で行なわれる年忌法要の呼び名なども、多くは儒教が考えだしたものだ」と説明。続いて道教を例にあげて、「これについては故福永光司博士の詳しい研究があるが、基本的に日本という国家が作られる際に、さまざまなステムが道教から持ち込まれた。『天皇』という呼称も初期道教の最高神『天皇大帝』に由来すると云われる。また聖徳太子(574~622年)が施行した冠位十二階にそれぞれ対応する十二色が決められたわけだが、筆頭に紫色をもってきたのは道教の影響である。儒教では紫は卑しい色とされ、むしろ朱色が高貴とされる。僧侶の衣の色でも紫が最高位にされることが多く、これは明らかに道教」と説明します。

臨済宗や曹洞宗では紫の上に緋色が、曹洞宗ではさらにその上に黄色が使用されますが、それはおそらくその後の儒教の影響と推測し、著者は「儒教も道教も、中国で仏教が摂取される時点ですでに混淆している。さっきのReligionではないが、多くの仏教語が翻訳される際、使用されたのは主に『老子』『荘子』『易経』『中庸』『淮南子』などの言葉だった」と述べます。また、神道の場合は日本に入ってきてからの混淆ということになりますが、「神道」という言葉そのものは、福永博士によれば『易経』からの借用だそうです。「神宮」や「神器」、また「神社」も、本来は道教の言葉でした。

8「『通仏教』という考え方」では、人類学者の中沢新一氏が「仏教の戒律は狩猟民のルールに似ている」と発言していることが紹介されます。つまり根源的な善悪の問題ではなくて、要は獲物を捕まえるための現実的マニュアルなのであり、仏教の場合その獲物とは「解脱」とか「悟り」と云われます。つまりその目的に到達するためという基準での善悪なので、一般論ではないということになります。あらゆる宗教にはそれを信じている「和合衆」がいるわけですが、やはり基本的にはすべての「法」は人間関係において発現してくるということではないかと推測し、著者は「しかも和合する人々においてそれは初めて完全な姿を見せる。聖徳太子は『十七条憲法』の冒頭に『和を以て貴しと為し』と謳った。また祭で叫ばれる『ワッショイ』というのも『和』を『背負う』という意味である」と述べています。

9「対機説法と観音様の思想」では、「我慢」は仏教では「七慢」の1つに数えられ、慢心の1つだということが紹介されます。日本語で云われる「我慢」にもじつはこの意味合いが紛れ込んでいるとして、著者は「例えば床を拭くようにと誰かに命じられた場合、命じた人がどんな人かに関係なく、なぜ今そうしたほうがいいのかを充分に納得して動きだせば我慢などする必要はない。納得して心をやる気にシフトしようとしないのは怠慢であり、慢心だろう。だから我慢してすることになるのである」と述べます。

第二章「ヴァイキングの実際」の2「席の確保――家の宗教との『含みながら超える』関係」では、著者が托鉢先や法事などでお呼ばれすることが多いと明かします。その際にはむろんさまざまな味ものを頂くわけですが、そういう有無を言わせぬ接待の場合、マズイと思ったら余計マズくなるだけでなんのメリツトもないことに気づいたといいます。著者は、「どうせ食べなければいけないなら、せめてマズイとは思わないで食べ終えたい。それは切実な智慧だったのだと思う。いつしか私は大抵何を食べてもマズイとは思わなくなっていた。あるのは、じつに夥しい種類の美味しさだけなのである」と述べています。

基本的に、私は日本仏教が蓄えてきたさまざまな技術や仏像文化などは、日本共通の財産だと指摘し、「宇宙というものを意識するには何より真言密教のマンダラが有効だろうし、智慧の文殊菩薩や行動力の普賢菩薩だって誰が祀ったってかまわないだろうと思う。ただ現代に生きる我々だから、その際には「おすがり」するために祀るのではなく、あくまでもそうした仏像に象徴される技術や力・特性を習得するために祀ってほしいと思う。すがる相手ではなく、それらは辿り着くべき目標なのである」と述べます。

3「ナイフ・フォークの用意――『戒』という自己規制の意味」では、最も大切と考えられた戒である「不邪淫戒」が取り上げられます。これは単に浮気や異常な行為を禁じているのではなく、出家者にとっては事実上は「不淫戒」つまり全く完全に性行為そのものを禁じています。だから釈尊のサンガをめぐっては、ヒンドゥー教社会から「家系を断絶させる」という批判が湧き起こったくらいです。著者は、「この戒も、現代日本では話しようがないものだろう。日本の僧侶は、世界で唯一結婚する仏教僧侶だからである」と述べています。

もっとも南伝仏教などでは一生のうち何年かの限られた期間だけ僧院で過ごすわけで、僧院を出れば結婚できます。というより、タイなどでは僧院の経験がないと一人前とみなされずに結婚しにくいらいだといいます。著者は、「日本の職業的僧侶をそれと一律に考えるわけにはいかないが、それにしても日本の僧侶が本来の意味での『不邪淫戒』を説けないのは確かだろう。まして在家(出家してない人々)なら尚更である。結婚して子孫を作るのは今や生物学的のみならず社会的常識であり、それに完璧に逆らっては仏教だって存続し得ない。何より釈尊自身の結婚経験が、その点に関しては弱みになっていると云えるだろう」と述べるのでした。

4「箸で食べる人――六波羅蜜という菩薩行」では、「彼岸」という言葉が取り上げられます。「彼岸」という言葉はむろん中国発ですが、それは揚子江のような大河があって初めて可能になる比喩だといいます。つまりそんな大河の彼岸には行ったこともない、というのが普通だった状況で、行ったことのない世界が理想化されるわけです。著者は、「考えてみればこれも普通のことだ。本来的な意味からすれば煩悩で波立った水面とその波が及ばない水中にでも喩えたほうが分かりやすかった気がする。しかしおそらく中国人にとっての水中は、日本の澄んだ水中と違って恐ろしいイメージさえあったのではないだろうか? 3月と9月のいわゆる『お彼岸』には、春分や秋分の陰陽相半ばする日に『日想観』と呼ばれる瞑想が中国で行なわれていた。この両日は太陽が真東から昇って真西に沈むため、真西にあるとされた浄土を夕日の光の彼方にイメージするのである。しかしこの春分・秋分を挟んだ時期を『お彼岸』と呼んだのは、どうも日本が最初のようだ」と述べます。

「持戒」では、「不害の説法」と呼ばれるものが取り上げられています。『論語』にも「己の欲せざることを人に施すことなかれ」と、似たような言葉があります。しかし『論語』でも『聖書』でも「己の欲するところは人に施せ」と、迷わずに言ってしまうのです。「己の欲すること」に関しては仏教はもっと用心深い。それは他人もそう欲するかどうか判らないからであり、何より想像が間違っていた場合にその人の気持ちを害することを恐れるからです。仏教思想の根底には、極めて個人主義的な人間認識があると云えるでしょう。

「精進」では、大乗仏教では「菩薩」という存在を重視するが、菩薩とはおそらく行き着きようもない彼方に目標を設定しつつ、現実には目の前の救済に心を尽くす人格であると指摘されます。それはまさに「精進」という生き方であり、場合によっては目標が設定され、それに向かって精進する覚悟ができさえすればすでに目標達成に等しい、という見方まであります。『華厳経』にある「初発心の時、便ち正覚を成ず」(初めて悟りを求める心を起こしたとき、たちまち正しい悟りを成就する)とはそういうことだといいます。

「禅定」では、ある意味で「禅定」とは言葉を超えた世界への突入かもしれないとして、仏教では「唯識」の考え方がどの宗派にも浸透しており、わたしたちの意識の底に「マナ識(末那識)」と呼ばれる無意識の自己執着、さらにその底には「アーラヤ識」と呼ばれる深層意識を想定していることが紹介されます。「無始以来」というのですから生まれるまえどころか人間になる以前からとも考えられますが、「アーラヤ識」にはそれ以来のあらゆる習慣的行為や体験や思考が薫習されて(染みついて)いるとされます。ちなみにマナ識はフロイトが扱った「無意識」に近く、アーラヤ識はユングの云う「集合的無意識」に近いのですが、著者によれば、アーラヤ識を「遺伝子」と考えることも可能だといいます。

禅では「乾坤只一人」と云います。例えば、新聞紙上に登場するすべての人々、何かで表彰されている人も、殺人や窃盗や放火で捕まっている人も、すべて状況次第では自分がなっていた可能性のある姿と捉えるのです。天地の間には、その意味ではあらゆる可能性を孕んだ存在としての「一人」しかいないというのです。この考え方は、まさに瞑想によってあらゆる人格を体験できる、という自信に裏打ちされているのです。チベット密教などでは「地獄」も「餓鬼」も「畜生」も、みなアーラヤ識に潜む自己の姿として体験するための瞑想を重視します。自分のなかに潜むあらゆる可能性を意識化する作業が「瞑想」であり、そうして次々に意識化され、大人しくなった自己の奥底に、霧がはれて水面が見えてくるように現れるのが、「清浄心」になりおおせたアーラヤ識というわけです。そして冥想の果てに訪れるそのような状況こそ「禅定」と呼ばれます。ヨーガ派では「禅定」と「三味」を区別し、禅定の最高段階を三昧(サマディ)といいますが、仏教では特に区別しないことが多いです。

「智慧」では、「智慧」あるいは「般若」という概念は、大乗を初めて名乗った般若経典によって明確にされたと指摘します。サンスクリットの「プラジュニャー」ですが、パーリ語の「パンニャー」が音訳で「般若」となり、意訳されて「智慧」と謂われるのです。「空」とは、端的に言ってしまえば「実有」つまり固定的実体を否定する概念です。著者は、「仮に今、物理的側面と心理的側面の両方から説明を試みてみよう。目の前に存在する物体はどんなものでも永遠不滅ではない。いわば正のエントロピーの法則に従って必ず拡散していくから、その姿形も固定的な実体と捉えるべきではないというのだ」と述べています。

またその現象を見つめる心理的側面のほうから考えてみると「空」はさらにはっきりするとして、著者は「つまり同じ物体であっても人は同じようには認識しない。人による違いはもちろん大きい。同じ夕日を見ても泣く人とにっこり笑う人がいるが如くである。しかしそればかりではなく、同じものが、同じ人なのに、意識の変容によって姿を変えてしまうという事態があるのだ。人の意識は変容する」と述べます。それこそが「諸行無常」の最たるものですが、だから現在の認識に絶対的な自信をもつのは「空」に反する態度だと云えるでしょう。

5「コースの選択」の「インド風」では、古代インド人には物事を積み上げて歴史的に認識するというセンスはなかったと推測し、著者は「釈尊が生きた年代鑑定のための資料もインドには全くないし、また各種経典も、訳した中国での整理によってようや年代が推定しうる、という状況である。哲学で云われる『エポケー』に当たる『判断中止』という考え方が、釈尊以前のウパニシャッド哲学からある。そのことと『ゼロの発見』、あるいは『空の思想』も無関係ではないだろう。いずれも歴史認識とは対極の考え方だと思えるのである。彼らは宇宙(梵)と自分のなかの宇宙的真理(アートマン=我)が通底するためには、歴史認識など邪魔でしかないと、直観していたのではないだろか。瞑想でマナ識を超える際に、最も頑強な壁が歴史的な自己認識ではないかと思えるからである」と述べます。

「中国風」では、学究的・瞑想的なインド人と現実的・活動的な中国人と表現しています。その根底には、死後に対するヴィジョンの違いがあるような気がするといいます。つまり輪廻を信じるインド人の悠久の感覚と、死後を「鬼」と表現する中国人の違いです。「梵(ブラフマン)」という宇宙を想定したインド人と「天地」という眼に見える2つで世界を表現した中国人の違いも、同様に死後のヴィジョンと密接に関係しているように思えるとして、著者は「輪廻という考え方はもちろん仏教とともに中国にも伝わった。しかし同族の血縁やその命の流れを大事に考える中国人にとっては、死んだあとに動物に生まれ変わることは到底受け容れがたい思想だった。六朝時代などずいぶん議論されたようだが、結局中国では輪廻思想が一般化することはなかったと云えるだろう。日本にも、基本的には輪廻を外されたあとの仏教が主流として伝わるのである。死後は転生するのではなく、幽冥界という暗くて冷たい場所に『鬼』として存在すると考えるから、彼らにとって人生とはせいぜい楽しみを享受すべき時間である。また『供養』することで『氣』の繋がった先祖たちも喜んだり救われたりするから、お墓が大事にされ、追善供養という習慣もできる。これはインド風にはなかった習慣で、仏教が中国化した最たる部分だろう」と述べます。

まとめて言えば、労働の重視、貨幣や健康への親和性、さらには得意な歴史認識によるお墓の重視と追善供養の確立。これらが、中国風仏教の新しい風味と云えるといいます。また、中国で翻訳された経典は膨大であり、さらには中国で生まれたお経もあります。こうした仏典の整理研究の必要から、特定の経・律・論を選んでそれぞれに体系化していこうという動きが4世紀末ころから出てきました。これは「教相判釈」と呼ばれ、隋唐時代に殊に盛んになるのですが、これがやがて「宗派」と呼ばれるものを生んでいくのでした。著者は、「よく訊かれることに、どうして同じお釈迦様を祀りながらいろんな宗派があるのか、という質問がある」と述べます。

その質問の答えとしては、体系化しないと何がなんだか分からないほどに仏教の輪郭が広がってしまったからであり、体系化する努力そのものが宗派を生んでいったと云えます。著者は、「体系化といってもそれは恣意的な基準による分割・構成のようなものだし、それこそ中国人の得意な歴史認識のなせるワザと云えるだろう。基本的に宗派は、歴史認識の違いから生まれたのである。さらに中国では宋代になると、仏典のすべての写本を『大蔵経(一切経とも謂う)』として初めて版木に彫って紙に刷るという一大事業が行なわれた。初めて刊本が発行されたのである。このことの意義は計り知れないほどに大きい」と述べるのでした。

「日本風」では、和風の料理は何より素材の味や風味を大事にするのが特徴だと指摘します。日本風の仏教も、その意味では例外ではありません。つまりさまざまな仏教が統合されたり整理されたりせず、いわば「八百万」的に咲きにぎわっているのです。著者は、「なぜか日本仏教の在り方は、古代神道の『八百万』という基盤と聖徳太子の精神に深く規定されている気がして仕方がない。聖徳太子はまた『法華経』『維摩経』『勝鬘経』という三経に注釈書を書いているが、『法華経』を除く二経はいずれも在家仏教の方向性を示唆している。そのことも、その後の日本仏教の方向性になっているだろう。また『法華経』の影響力も日本では非常に大きい。これを読まないのは浄土系の宗派くらいではないだろうか」と述べています。

日本に入ってきた当初の仏教は、さまざまな文化を容れる器でもありました。漢字はもちろん、音楽や美術も伴ってきたと云えるでしょう。風呂と呼ばれるのは室町時代ですが、お湯で躰を浄める習慣も奈良のお寺で始まったと云われます。むろん医薬も重要な副産物でした。ほかにも絵画・彫刻・芸能・文学・建築などが長期にわたって将来されたり生みだされたり、それはすでに「日本文化」と分かちがたく融合していると云えるでしょう。

●「天台宗」では、平安時代に新風を吹き込んだのが天台宗・真言宗ですが、いわば日本の宗派のなかで最も総合的だったのが天台宗だろうとして、著者は「一生を求道に捧げた最澄だからこそ、天台だけでなく禅、密教、戒を総合的に学び、それが『法華経』の一乗思想によってまとめられるのである。天台法華宗とも呼ばれる所以である。考えようによっては、比叡山に開かれたこの日本天台宗があまりに総合的だったから、一般民衆にとっては巨大すぎ、それゆえに食べやすい大きさに切って誂え直したのが鎌倉新仏教と見ることもできるだろう」と述べています。

●「真言宗」では、空海はおそらく宗派という意識をもった日本で最初の人であると指摘します。著者は、「むろん中国で伝授されたものじたいが仏教としては奇形だったわけだが、それを盟友とていない日本で普及するのは並大抵の意志力ではないと思う。私は彼のなかに非常に強く、『私だけの仏教』という意識を感じるのである。なにしろ空海が奉ずる密教は、開祖さえ釈尊ではなく龍猛だし、祀るのも釈迦如来ではなく大日如来、さらには釈尊の悟り(一切智)を超えた悟り(一切智智)さえ標榜する。しかしここで大事なのは、こうした独自の解釈を通して、密教はむしろ釈尊の悟りそのものに迫ろうとした、という点だろう。宇宙をあらしめている大生命そのものとしての大日如来(大毘盧遮那仏)は、釈尊の悟りに対する新しい解釈なのである」と述べます。

●「浄土宗」では、密教から宇宙的智慧を学ぶとするなら、浄土教からは来世観を学ぶことができるといいます。著者は、「来世観などと言うと知的な人々は難色を示すかもしれないが、死後の世界はやはり謎なのであり、それ以上でも以下でもない。初期仏教でも『中陰』とか『中有』と呼ばれる死後の中間状態は認知されるが、インドやチベットの場合はその後『輪廻転生』となるからとりたてて来世観はいらなかった」と述べます。しかし中国でこの輪廻が否定されると、やはりその後の行方に関するヴィジョンがどうしても必要になったのです。基本的には曇鸞や善導(613~681年)などの臨死体験が基になって導かれたヴィジョンであるらしいとして、著者は「いわゆる西方の阿弥陀浄土は、インドの大乗仏教で『スカーヴァティー』と呼ばれた極楽浄土だが、それが中国と日本で特に重視されるのはやはり輪廻の否定と無関係ではないはずである」と述べます。

日本では平安中期以降、天災や争乱などの社会不安に末法思想が重なりました。これは中国でも云われ、年数については諸説ありますが、つまりは釈尊の死後、仏法はその教えがきちんと行なわれる「正法」から、行なわれないが言葉は残っている「像法」、さらに言葉も失われる「末法」に移行していくというのですが、日本での末法の始まりが1052年だとされ、そのいや増す不安のなかで阿弥陀信仰が流行するのです。念仏による浄土往生の勧めは、「市聖」と呼ばれる空也(903~972年)、あるいは『往生要集』を著した比叡山の恵心僧都源信(942~1017年)が先行しました。

また良忍(1073~1132年)は浄土往生と華厳思想を結びつけ、融通念仏宗の開祖になりますが、こうした動きによって阿弥陀信仰は燎原の火のように広がっていきました。そして法然(源空)が比叡山を降り、一向専修の念仏を決意して浄土宗を開くのでした。著者は、「真言密教も『私だけの仏教』という意識で布教されただろうと述べたが、内容は大陸伝来のものが多かった。しかしこの浄土宗こそ、『一向に専ら修する』という限定がつけられただけとはいえ、日本で初めて生まれた大いなる奇形、初めての日本仏教と云えるだろう」と述べています。

念仏し続けていれば「戒」の必要もなく「禅定」を実現できる。その意味でも、すぐれて日本的な仏教が誕生したのです。法然自身は持戒の人であり念仏専修の清らかな人生を全うしました。しかし彼には「念仏の助行」として多様なスタイルを認める考えがありました。妻帯も、遊行も、籠居も、如何なる行も、です。それゆえその門下からはさらなる奇形が生まれることになりました。ちなみにこの時代、僧侶は臨死の人に付き添って往生を見届けることを多くしたため、浄土往生のための『臨終行儀』も生まれました。また源信が結成した「二十五三昧会」は、今で云うターミナルケア(終末期医療)の先駆だといえます。著者は、「臨終の瞬間の人間の意識の在り方が死後の在り方を決定するという考えから、浄土宗の念仏も急速に波及していくのである」と説明しています。

●「浄土真宗」では、阿弥陀如来を表す原語は「アミターバ」あるいは「アミターユス」とされることが紹介されます。前者は「無量光如来」と訳され、後者は「無量寿如来」と訳されました。2つ併せれば「永遠で無量の光(命)」ですが、著者はキャラクター化された阿弥陀如来ではなく、その原点を見つめてみたくなって『アミターバ』という小説を書きました。著者は、「それはもしかすると物理学者のデヴィッド・ボームの言う『暗在系』の宇宙のことかもしれないと、今は思う。つまりそこではすべてが素粒子という形のないエネルギーとして存在しており、『明在系』と云われる眼に見える我々の宇宙と繋がっているというのだ」と述べるのでした。

●「臨済宗・曹洞宗」では、鎌倉建長寺の開山、蘭渓道隆(1213~78年)「済洞を論ずることなかれ」という言葉に従い、臨済宗と曹洞宗を一括した禅という方法論のことを述べています。禅ほど中国仏教色の濃いものも少ないのですが、禅はまた極めて日本的な茶道・華道・能などのベースになって日本文化の基底になっていきました。禅はすでに奈良時代から伝わってはいました。最澄も学んだものですが、禅宗の確立は栄西に始まります。栄西が2度入宋して臨済禅を修め、喫茶の習慣など禅の諸文化をもたらし、また『興禅護国論』を著すのでした。

栄西が臨済宗、道元が曹洞宗ということではあるが、この2人の関係はある意味で法然と親鸞に似ているとして、著者は「栄西は禅以外の方法論も認める。道元は栄西に師事し、その弟子明全とともに入宋するが、約4年の求法のあとに天童如浄を訪ねて心に叶うものを得る。そして持ち帰ったものは、妥協を排した純粋な禅、換言すれば行住坐臥のすべてを『只管打坐』(ひたすらに坐禅をすること)の心で修するという厳しい生活哲学だった。それはまるで、浄土宗門下から生まれた親鸞の絶対他力の徹底ぶりに似てはいないだろうか」と述べています。

死後については釈尊と同じく「無記」というのが基本的態度である、と著者は述べます。もとより仏教は葬儀のための思想ではなく、釈尊の時代の僧侶たちは葬儀の段取りも行なわなかったからそれでなんの問題もないとして、著者は、「精神の自由のためには浄土さえも心中の消息と解釈するのが禅であろう。しかし鎌倉・室町と次第に僧侶が葬儀をすることが一般化してくると『無記』では済まなくなり、実際禅宗も恥ずかしげにではあるが西方浄土を肯定して採り入れているのである」と述べるのでした。

6「『方便(ウパーヤ)』という自覚」では、著者は「面白いことに、日本の仏教各宗派はどれも『禅定』という一点に絞り込んで優れた方法論を生んできた。その方法の違いと『仏』の解釈の違いが、各宗派の基本的な違いだと云えるだろう。大日如来や阿弥陀如来、あるいは応身の釈尊、久遠の本仏の釈尊など、祀るものはいろいろだが、それらはいずれも智慧と慈悲を具えた理想の人格である」「人はさまざまである。だからこそかくも無数の仏教が生まれた。『法華経』ではないが、それは人間という無数の個性のすべてをすくい取るための方便かもしれない。だから私は、どんな切り口から入ってもいいと思っている。そのときのその人の思いに適う切り口からしか入れないのだから。それを認める思想こそ『観音様』の変化身ではないか」と述べています。

スリランカという海外に初めて仏教を伝え、大いに仏教普及に寄与したアショーカ王(紀元前260年ごろ即位)は、自らは仏教を熱烈に信奉しつつも、バラモン教、アージーヴィカ教、ジャイナ教などをも平等に保護したとされますが、わたしたちもそうした宗教的寛容を保ちつつ自らの仏教を考えていきたいものです。その理由として、著者は「教義に対する考え方の違いで部派が分かれることは仏教にもあったが、それによって内部に起こった戦争は皆無なのだから」と述べるのでした。

第三章「食事の際の心得」の1「一所懸命の危うさ」では、釈尊はちゃんと「禅定」における心の方向性を示していることが指摘されます。「四無量心」と呼ばれる「慈・悲・喜・捨」の四つのベクトルがそれです。著者は、「一心不乱に、一所懸命に食べるのもいいが、それではあまりに独善というものだろう。日本ではさほど語られない気がするのだが、大乗仏教の『利他』の精神は、すでに瞑想の方向性のうちに含まれているのである」と述べています。

2「食べる姿勢としての『四無量心』」では、儒教が器を持ち上げることを不遜と考えるのとは逆に、仏教では食事中であっても禅定を大切に考え、いわば禅定を守った姿勢を崩さないために器は「頂く」ことになることが紹介されます。ではその禅定の四つの方向性である「四無量心」を見てみると、「慈悲」という熟語は大乗仏教運動のなかでクローズアップされてきた言葉であり、初期経典では「慈(マイトリー)」と「悲(カルナー)」という別々な表現のほうが多いと指摘します。「慈悲」の場合は他者への働きかけ、という側面が強いけれど、ここでは自己の心の在り方と受け取っていただくべきだといいます。「慈」は他者への無差別的ないつくしみ、「悲」は他人の悲しみに自己をチューニングする同化力です。また「喜(ムディター)」は妬忌することなく他人の喜びを同慶と感じ、ともに喜ぶ心ばえであり、「拾(ウペークシャー)」は、感情の突出した部分を捨てることと考えればいいでしょう。つまりは「平静」のことです。

3「まずは自分が食べることーー『利他』という大乗仏教の呪縛」では、「愛」という言葉を、仏教では欲望や執着と同じような意味合いで使うため、どうしても必要だと思いがちな「愛」の代わりに「慈悲」が多用されると説明します。考えてみれば仏教は、発生当時は自己の苦悩からの解脱こそ最大のテーマであったものが、やがて他者への救済へと重点をシフトしてきます。その動きのなかで慈悲が注目され、そしてその体現者としての観世音菩薩が遍く普及するのです。「利他」という言葉で、最初に他者への配慮が強調されたのは『般若経』です。般若の智慧を体現した大乗の菩薩は当然他者への配慮もゆきとどいているというのでしょう。四智のなかでも「平等性智」や「成所作智」にはたしかに他者との交渉における智慧という意味合いが感じられます。また自分の積んだ善因が生む善果も、当初は「自業自得」でよかったのですが、やがてその善果(功徳)を他者へ振り向けようという「廻向」の思想も『般若経』から出てきます。

5「フルーツ」の「縁起」では、現代風に考えれば、「無明」は遺伝子であり、「行」はその個人においてどの遺伝子が目覚めるかに関わる力と考えることもできると述べます。永遠に途絶えない因果の流れを業(カルマ)といいますが、あるいはそれが遺伝子なのかもしれません。著者は、「ともかく釈尊は、宇宙の起源と終末については答えなかったが、他のあらゆる現象は『縁起』によって解釈したのである。『縁起』する『無常』なるものにそのものじたいの本質(実有)など認めらようはずもない。『空』は出るべくして現れた思想なのである。『諸法無我』は『諸行無常』『涅槃寂静』と並べて初期と並べて初期仏教の三大思想、すなわち三法印と呼ばれる。すべてのものは因縁によって生じたもので固有の実体がないという意味だろう。因縁を積極的に捉えるからこそ『諸法無我』という認識も生まれたわけだ」と述べています。

6「食後のコーヒー――唯識とヨーガ」では、唯識は、ニヒルとも云えそうな認識をもちながらも、ヨーガを実践し、禅定に精励することで、汚れきった知が全く別な状態に転化すること(唯識では転依という)を信じているとして、著者は「これは無明が明に翻ることだと云ってもいい。もとより仏教は、ニヒリズムとは無縁なのである。だから、どうか唯識を本格的に学ぶというなら、必ずヨーガ、とは言わないまでも、必ずなんらかの方法で禅定を体験していただきたいのである。それ抜きの唯識は、ちょっと危ないと申し上げておこう。誤解を恐れずに言えば、自殺した二人の偉大な文学者、三島由紀夫(1925~70年)と川端康成(1899~1972年)は、いずれもその晩年、唯識説に嵌っていたのである」と述べます。

第四章「食後に思うこと」の1「求められる仏教的パラダイム」では、物と心、つまりは世界の成り立ちに関するパラダイム(規範)の最古のものは、おそらくアリストテレス(紀元前384~前322年)の科学的アニミズム(精霊崇拝)と呼ばれる考え方であると指摘されます。万物には「魂」があり、それぞれの可能性や欲望を果たすために目的論的に行動すると考えられたのですが、これがおよそ2000年にわたって西洋を支配したパラダイムです。しかし17世紀にデカルト(1596~1650年)が出ると、物は感覚によって捉えられるとおりではないことが精密に証言され、物じたいには能動的に動く要素は全くないとされました。いわば物に宿る「魂」が否定され、物は外からの力と接触によって運動するだけだと考えられたのです。

わたしたちの日常感覚はどうしてもデカルト的パラダイムを離れられないでいますが、先端物理学は素粒子のあまりに自由な動きを知ってしまったため、とっくの昔に主客あるいは物心の峻別を諦めているとして、著者は「最近ではあれほどロゴスが重視された西欧でカオス(渾沌)が唱えられ、心理学も物理学も東洋化の傾向が見られる。タオイズム(道教)の流行ももう最近とは云えないくらいだ。そうして激変したパラダイムのなかでも、仏教の説く『無常』も『縁起』も全く古びない。最新のプロセス指向心理学は『無我』に進んでいる気がするし、アメリカとイスラム圏の対立が激しい今だからこそ『中道』が大事だとも云えるだろう」と述べます。

2「読経の功徳、そして色と空の相補性」では、方法論を絶対視しないことが肝要であるとして、著者は「山に登る道はおそらく無数にあるのであり、1つの道が特定の「色」だとすればそれを絶対視しないことも『色即是空』である。しかしそうは言っても現実にはどうしてもどれか道を選ばなければ一歩も前に進むことはできない。『空即是色』と意識を反転させ、決めた道を一心に歩いてみることである。『空』を仰ぎつつ『色』に徹することが仏道の本質だろう。ご承知のようにこれはいずれも『般若心経』の一節である。浄土真宗と日蓮宗以外では大抵読まれる。おそらく一般の日本人に最も読まれているお経だろう」と述べています。『般若心経』に限らず、お経は本来思想を提出した論文であったり詩であったり物語であったり、いずれにしてもその意味こそ重要なものでした。しかしお経というものが編纂された当初から、人々はそれを声に出して唱えることの効用を意識してきたのです。そのためのリフレインなども初期経典から多数あります。

釈尊は禅定にとって最も重要なのは呼吸の制御だと言っているが、なるべく長く均等に息を吐いて大きな声を出し続け、速やかに吸うという読経の呼吸法は、自らを無意識のうちに禅定へと運ぶ乗り物なのである。むろんその考え方の延長に「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という称名や唱題も生まれた。たしかに聞いている人とすれば飽きもするだろうし眠くもなるだろう。しかし本来、お経に聞いているだけの人は想定されていない。葬儀や法要がお寺で執行され、そこにお経の意味を全く知らないが大勢いるという状況は、後代に発生した予想外の出来事なのである。一度聞いただけで内容が分かり、しかも誰の葬儀にも使える言葉など、どんな文学者でも創作できないに違いない。たとえ書き下しにしてある程度意味が分かるものが喜ばれるにしても、それはある程度だからなのだ。

著者は、「どんなお経でもいいけれど、読経というこの一見理知的でなさそうな、意味を離れた世界に踏み込んでみることが、まずは仏道の始まりかもしれない。普段理性的にロジカルに生きている人には尚更、読経を始めるには度胸が要るのではないだろうか。『意味』というのも考えてみればロジックという形ある『色』である。思い切って無意味の海、いや『空』に泳ぎだすことをお勧めする次第である」と述べます。最近の物理学ではクォーク(物質を構成する基本的な粒子)に対する反クォーク、電子に対する反電子、あるいは物質に対する反物質というものまで措定され、それらは密接不可分に絡み合ったり離れたりすると考えられているわけですが、この相反するものどうしの邂逅と離反によって世界を感じとる仕方は、じつは『大乗起信論』以降、少なくとも6世紀以後の仏教思想においては常識化していたものなのであるといいます。

「色」と「空」も言ってみれば1つの現象に対する相補的な見方ですが、それだけでなく『大乗起信論』では、アーラヤ識(阿頼耶識)にも「妄」と「真」の双面を見ようとし、また衆生心にも煩悩だらけの心とそれが昇華された「自性清浄心」の双方を認めるのです。その上で、アーラヤ識を「真」と「妄」とが最終的に「和合」すべき「和合識」と呼びます。悟りの境地に現れる「真如」も、じつは「妄想」があればこそ実現したと見るとして、著者は「これは世の中に対する一元的な見方を否定し、むしろ矛盾をきたす両面性があるからこそダイナミックであり、エネルギーも生まれるという考え方だろう。仏教の力強い明るさが、ここでは躍如としている」と述べています。

3「不可能な理想の必要性――戒律と四弘誓願のこと」では、戒律について述べています。要するに戒律というのは坂道を上るための杖、あるいは暗夜を進むための明かりのようなものであり、そこを行き過ぎればいつまでも抱えている必要はないといいます。著者は、「どの戒律も、おそらくは『拠り所とすべき自己』ができるまで、期間限定で必要な方便なのではないだろうか」と述べます。遥かな、夢のような戒律は誓願と呼ばれます。決して踏み越えることはできませんが、誓願した以上は絶対叶わないとは云えないとして、著者は「願わないことは叶わないが、願ったことはたとえ万に一つではあっても叶う可能性があるのである。そこに最終的な『信』が置かれる。その『信』こそが、人を美しく荘厳するのだと思う」と述べるのでした。この最後の一文に、わたしは深い感銘を受けました。

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