No.2350 芸術・芸能・映画 『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』 伊藤彰彦著(講談社+α新書)

2024.08.31

『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』伊藤彰彦著(講談社+α新書)を紹介いたします。著者は、一条真也の読書館『最後の角川春樹』で紹介した本を書いた気鋭の映画史家です。1960年愛知県生まれ。『映画の奈落――北陸代理戦争事件』『無冠の男――松方弘樹伝』などの著作で、映画人たちの修羅と栄光を描いて、ノンフィクションの新しい領域を切り開きました。

本書の帯

本書の帯には、「草刈正雄の焦燥、松田優作の覚醒、吉川晃司の躍動、高倉健の挑戦、内田裕也の不穏、伊丹十三の緻密、森田芳光の革新……映画が激しくきらめいていた最後の時代の主役たちの裏側とは?」と書かれ、その背景には『復活の日』『ヨコハマBJブルース』『ダブルベッド』『お葬式』『家族ゲーム』『コミック雑誌なんかいらない!』『桃尻娘シリーズ』『ダブルベッド』といった80年代の話題の映画のタイトルが並んでいます。

本書の帯の裏

帯の裏には、「狂乱と退廃、新進気鋭の才気があふれ出した、大スターたちの転機となった80年代の話題作を一手に手掛けた名プロデューサーがいた」「コンプライアンス無視」「エロと軽薄の渦」「『80年代』は映画もヤバかった!」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 八〇年代日本映画たちを生み出した土壌
第一章 『復活の日』――
角川「国際超大作」のラインプロデュ―サー
第二章 『桃尻娘』シリーズ――
ロマン・ポルノのアイドルに
第三章 『ヨコハマBJブルース』――
松田優作の「素」の世界観
第四章 『ダブルベッド』――
大物歌手と女優が続々と脱ぐ「エロス大作」
第五章 『遠雷』『家族ゲーム』『お葬式』――
新世代の表現者たち
第六章 『ユー★ガッタ★チャンス』――
吉川晃司、大森一樹との併走
第七章 『コミック雑誌なんかいらない!』――
再現不可能・世相を撃つ衝撃作
第八章 『海へ See You』――
バブルに呑まれた高倉健の黒歴史
第九章 『1999年の夏休み』『天と地と』――
ニッチな佳作と「製作委員会方式」の時代へ
終章 現代社会が失った
冒険主義、能天気さ、多様性、一途さについて

「謝辞」

序章「八〇年代日本映画たちを生み出した土壌」の「混沌と多様性の暴発」では、世界映画における80年代は、ハリウッド映画が全世界を席捲した10年だったことが紹介されます。『E.T.』(82年 スティーブン・スピルバーグ監督)、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(83年 ジョージ・ルーカス監督)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年 ロバート・ゼメキス監督)などのハリウッドの大ヒット作が世界中の興行成績の上位を独占し、アメリカ以外の国の映画を衰退させていきました。

日本においても、71年に日本映画の観客数がハリウッド映画を中心とする外国映画を下回り、以降70年代、90年代、2000年代は日本映画の配給収入が外国映画を下回りました。しかし、この80年代の10年間のみ、日本映画が外国映画をふたたび押し返し、配給収入で外国映画を超えたのです。著者は、「角川映画、フジテレビ映画、伊丹十三作品とともにインディペンデント映画が観客を日本映画のほうに振り向かせたからだ。80年代日本映画にはそれだけの熱量があったのだ」と述べています。

90年代以降、プロデューサーたちは「製作委員会方式」というかたちで多くのスポンサーを集め、リスク分散を図りました。前売り券販売であらかじめ製作資金を担保し、そのぶん映画の企画が公約数的になっていき、破天荒な監督が規格外の映画を撮れなくなる。そして、実写映画に代わりアニメーション映画が興行成績の上位を占め、複数のスクリーンをもつシネマコンプレックスとBS、CS、ネット配信の出現により、大手映画会社が幹事を務める10億円規模の大作と低予算のインディペンデント映画に二分化されました。

80年代日本映画を代表する角川映画(『復活の日』)、アイドル映画(『ユー★ガッタ★チャンス』『CHECKERS in TANTANたぬき』)、内田裕也と滝田洋二郎のインディペンデント映画(『コミック雑誌なんかいらない!』)、森田芳光監督作品(『家族ゲーム』『ときめきに死す』)、伊丹映画(『お葬式』)、ロマン・ポルノ(『ダブルベッド』)、少女が主役となる群像劇(『1999年の夏休み』)など、百花繚乱の企画たちを一手に引き受け製作したのが、日活出身のプロデューサー岡田裕でした。著者は、「岡田こそ、『なぜ80年代日本映画が観客を熱狂させたか』を知る最後の証言者といえる」と述べます。

「海外セールスの失敗」では、1980年に公開された角川映画のSF超大作『復活の日』)は日本国内で目標を下回る24億円の配給収入しか挙げられず、海外への販売にも失敗したことが紹介されます。角川春樹はその理由として、「物語が日本人の視点で描かれ、日本的な情緒やウエットなキャラクターが海外では通用しなかったこと」「草刈正雄の英語の問題」「ハリウッドのユダヤ資本が日本人のハリウッドへの進出を歓迎しなかったこと」を挙げたといいます。ている。著者は、「『復活の日』以降、角川映画は大作の一本立てから、収益が上がるプログラムピクチャーの二本立て興行へと舵を切る。そこから、薬師丸ひろ子、原田知世などによる『角川アイドル映画』が始まる」と述べています。

2024年の社会通念からすれば、人権を抑圧する政権に利益供与したとも見なされる『復活の日』は「フェアトレード(途上国の経済的・社会的に弱い立場にある人々を支援する貿易)」の理念に反するといいます。この映画が「産む性」としての女性を強調して描いている点はフェミニズムの観点から指弾されるでしょう。また、この映画の日本的なセンチメンタリズムは現在ではいささか古めかしいとしながらも、著者は「壮大なスケールで世界の破滅と再生という深遠なテーマを描いた『復活の日』は、現在こそ、その先見性を評価すべき映画だ。2020年4月、緊急事態宣言下の新宿ピカデリーでこの映画のリバイバル上映を観たとき、私は時代が『復活の日』に追いつき、この映画がパンデミックを招き寄せたかのように思え、震撼した」と述べるのでした。

第五章「『遠雷』『家族ゲーム』『お葬式』――新世代の表現者たち」の「『お葬式』(84年)が社会現象になる」では、『家族ゲーム』(1983年)を観た伊丹十三は、「映画はああいうことでいいんだ。テーマを掲げなくてもいいんだ」と言って『お葬式』に取りかかったそうです。伊丹十三は映画監督、伊丹万作の長男として生まれ、13歳で父と死別したあと、商業デザイナー、俳優、エッセイスト(『ヨーロッパ退屈日記』65年、『女たちよ!』68年)、TVディレクター(テレビマンユニオン『遠くへ行きたい』シリーズ)として名を馳せ、それらの活動の集大成として51歳で商業映画の監督に挑みました。

岡田裕は、「『お葬式』の根幹にかかわる人が、湯河原町の葬儀屋の茂登山さんでした」と言います。著者が「映画では江戸家猫八が演ずる葬儀屋『海老原』のモデルですね」と言えば、岡田は「ええ。彼だけで一本の映画、一編の小説が成り立つほどユニークな市井の人物でし た。茂登山さんは湯河原町でたった一軒の葬儀屋で、町民だけではなく、この町に住んでいた谷崎潤一郎など多数の著名人の葬儀も出してきた。町の人が亡くなると、茂登山さんはその家に行き、仏の死に顔を見、その家の格を考えて大体どれくらいの葬儀を出すかを長年の勘で判断し、遺族に提案するんです。儀式の流れも彼の演出によってなされていくんですが、決して自分は出しゃばらず、謙虚で、気配りが細やかで温かみがある。お葬式が温かいというのは妙な言い方ですが、それは茂登山さんの死者に対する畏敬に根差しているんです。儀式では、お棺に釘を打つタイミング、その声のかけ方、12時出棺といったら12時ぴったりに合わせる進行、焼き場での昼食とその献立など、茂登山さんの葬礼の流れるような進行は、粋とすら思えました」と語っています。

映画『お葬式』は、製作費1億円に対して、配給収入が12億円の記録的大ヒット。84年度「キネマ旬報」ベスト・テン第1位、日本アカデミー賞、報知映画賞などで作品賞を受賞しました。『お葬式』が公開された1984年は、レンタルビデオ店が急増し、公開される映画よりもビデオの作品数が上回った年でした。ビデオ店の軒数は90年末にピークを迎えます。1月21日付「読売新聞」に映画評論家の畑中佳樹が「映画は今や、映画街に次から次へと供給される新鮮な娯楽ではなく、ビデオ等によって収集・整理・研究されるべき過去の遺産になろうとしている」と書きました。『お葬式』はまさに、伊丹が好きな映画のシーンをサンプリング・リミックスした、この時代ならではの映画だったのです。

第七章「『コミック雑誌なんかいらない!』――再現不可能・世相を撃つ衝撃作」では、岡田裕の冒険主義が『コミック雑誌なんかいらない!』に結実したことが紹介されます。そして、滝田洋二郎もまた、この作品の成功をきっかけに、『木村家の人びと』)(88年)、『僕らはみんな生きている』)(93年)といった社会派コメディを脚本家一色伸幸とのコンビでヒットさせ、2008年の『おくりびと』)ではアカデミー賞外国語映画賞に輝きました。『お葬式』からじつに24年後に、日本映画界は『おくりびと』を生んだのです。アメリカの新聞は滝田を『ピンクをゴールド(アカデミー賞の楯の色)に変えた男』と評したのでした。

第九章「『1999年の夏休み』『天と地と』――ニッチな佳作と「製作委員会方式」の時代へ」の「広がる映画事業の裾野」では、岡田は「武蔵野興業が新宿に新しいビルを作り、そこに『新宿武蔵野館』が3館できるという耳寄りな情報が入ったんです。さっそく武蔵野興業に、武蔵野館の1つをアルゴの旗艦館にできないかと交渉しました」と述懐しています。著者は、「同じころ、『シネスイッチ銀座』がフジテレビの映画の専門館になっていましたね。シネスイッチ銀座は87年にオープン。興行会社の籏興行、配給会社のヘラルド・エース、テレビ局のフジテレビが一体となって配給・興行に携わる新しい運営形態のミニシアターでした。『南極物語』や『子猫物語』といった大作と並行して作られたフジテレビの低予算(8千万円前後)の映画、『木村家の人びと』、『ジュリエット・ゲーム』(89年 鴻上尚史監督)、『誘惑者』(89年 長崎俊一監督)といった作品を年に2、3本公開していました」と語ります。

また、80年代後半は、89年のソニーによるコロンビア映画の買収や、90年の松下電器の MCA(ユニバーサル映画)の買収など、大手企業が21世紀の映像ソフト確保を視野に 入れた買収が相次ぎました。セゾングループも『火まつり』(85年 柳町光男監督)、『人間の約束』(86年)、『嵐が丘』(88年 ともに吉田喜重監督)、『千利休 本覺坊遺文』(89年 熊井啓監督)などの映画を製作。「シネ・ヴィヴァン・六本木」「シネセゾン渋谷」や「銀座テアトル西友」などの映画館をオープンし、興行事業に乗り出しました。

終章「現代社会が失った冒険主義、能天気さ、多様性、一途さについて」では、『野獣死すべし』『いつかギラギラする日』などの脚本家の丸山昇一が「80年代は、監督と脚本家とプロデューサーが旅館に入ったり、長時間会議したりして、お互い顔を突き合わせ、体温を受け入れたり、拒否したりしながら、徹底的に意見を戦わせた。監督と脚本家とプロデューサーがやり合いながら、『映画、好き?』『お客さんを沸かせたいよね。驚かせたいよな』『そのためにこの企画をどういうふうにしよう』と、たった1人の考えじゃなくて、3人が別の角度からその作品の核を、進展を検討していった。それが80年代の脚本の作り方でした」と述べています。

続けて、丸山は「そういう脚本作りは現在もまったくないわけじゃないけれど、現在はプロデューサーや監 督が1人で映画を作り、脚本家が何か言おうとしてもあんまり受け付けてもらえない気がする。80年代的な脚本作りは、時間も、少しお金もかかりますけど、けっして無駄なことではないと思います。熱い血を凝縮させ、映画を煮詰めていけば、かならず韓国映画の熱気に負けないものができるような気がするんですよね。付け加えるなら、現在は80年代とことなり、監督も俳優と直接向かい合わず、モニターを見ながら演出する。人間と人間の密な、煩雑な関係がなくなり、クールに淡々と映画が作られていく」とも述べています。

そして、21世紀に入ると、監督が脚本を書くケースがさらに増えた。その作り方には一長一短がある」と述べるのでした。わたしは、80年代の脚本の作り方の方が良い作品が生まれると確信します。現在は、経費の節減もあってか監督が脚本も書くケースが多いですが、たいていは一人よがりになっています。「なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか?」という問いの答えを「脚本をしっかり作っていたから」と答えるのは、あながち間違いではないように思います。

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