No.2343 宗教・精神世界 | 歴史・文明・文化 『仏教の大東亜戦争』 鵜飼秀徳著(文春新書)

2024.08.14

『仏教の大東亜戦争』鵜飼秀徳著(文春新書)を読みました。著者は、僧侶、仏教ジャーナリスト。1974年、京都・嵯峨の正覚寺に生まれました。成城大学文芸学部卒業後、新聞記者・雑誌記者を経て独立。2021年に正覚寺住職に就任。主に「宗教と社会」をテーマに執筆、取材を続けています。著書にブログ『寺院消滅』、ブログ『無葬社会』、ブログ『「霊魂」を探して』、ブログ『仏教抹殺』で紹介した本などがあります。現在、大正大学招聘教授、東京農業大学、佛教大学非常勤講師を務めています。

本書の帯

本書の帯には、顔面を残し、軍用資材として回収された「上野大仏」の写真が使われ、「なぜ仏教は国民を“殺生”に駆り立てたか」「最大のタブー『戦争協力』の実態」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、「『私は調べるほどに、目を背けたくなるような事実の数々を目の当たりにした。』国家へのすり寄り、戦意発揚、軍用資材の提供……なぜ仏教界は暴走を止められなかったのか?」「●大仏や梵鐘を兵器に」「●国策に乗じて植民地で布教」「●軍用機、軍艦まで献納」「●東本願寺の門に『挺身殉国』の大看板」「●銃を取った僧侶たち」と書かれています。

カバー前そでには、「住職の祖父が自分の寺に掲げていた『開戦詔書』。それが仏教と戦争の関わりを問い直す旅の始まりだった。宗門トップが戦争を煽る発言を繰り返し、植民地では次々と寺院が建立された。戦争を体験した僧侶から貴重な証言を聞き取り、今に残る『戦争の傷跡』を全国の寺院で取材。仏教界最大のタブーに挑む!」と書かれています。

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「殺生を禁じるのが、本来の教えであるはずの仏教。それが国と一体となって戦争を推進した時代があった。多くの寺院、文化財を破壊した廃仏毀釈を追った『仏教消滅』の著者が、昭和の戦争に至る、日本仏教界最大のタブーに挑む。従軍僧の派遣、戦争を正当化する『戦時教学』『一殺多生』の提唱のみならず、梵鐘や仏像などを軍事物資の製造のために供出したり、宗派を挙げて軍用機を献納、軍艦製造に多額の寄付を行うなどの闇の部分に迫るべく、各地の寺院に残る戦争の痕跡を粘り強く訪ね、資料を丹念に掘り起こした、類のない歴史ドキュメント」

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
廃仏毀釈からのサバイバル
ーー明治維新

国家にすり寄った仏教界
島地黙雷と大教院)

進撃する仏教ーー日清・日露戦争
日清戦争と大陸布教
日露戦争―仏教の帝国主義化
植民地支配と仏教

大東亜戦争と皇道仏教
戦争に熱狂する仏教界
戦闘機の献納競争
軍人たちの仏教信仰
寺院の残る戦争の記憶
アメとムチの仏教統制

仏像も鐘も武器と化した
金属供出と空襲
反戦の僧侶
農地改革と寺の“敗戦”
僧侶たちの戦争体験

「結びにかえて」
「参考資料」

「廃仏毀釈からのサバイバル――明治維新」の「国家にすり寄った仏教界」の「門主の遺言に『皇国の忠良たれ』」では、著者は「この世は迷い、煩悩に満ちている。なので真理のあり方は、状況や時勢によって変わりうる。しかしながら、仏教思想そのものは、現実社会という基盤があってこそ成り立つもの。だから、世俗的な真理は、それはそれで深く探究しなければならない。有難いことに、この世には絶対的な存在、天皇がいる。その天皇を敬い、従うことで我々は現世で救われる――このような解釈だ。端的にいえば、我々はこの世では天皇に、あの世では仏に帰依せよということになる。本来、浄土教の教えの中には、俗蹄の主体である「天皇による救済」が入る余地はない。この世で念仏を称えれば、等しく往生できるというのが浄土教の根幹だからだ」と述べています。

「色丹島が増上寺の寺領に」では、北海道開拓というアイヌへの植民地化政策は、その後の仏教界の大陸進出の布石になっていったことが紹介されます。植民地に寺や神社を構えれば、国際的に「実効支配の証」になるからです。実際、北方領土には立派なロシア正教の教会が建っていますが、著者は「これはロシア島民のコミュニティの柱になっていると同時に、ロシアの実効支配が及んでいる場所として、国際的に既成事実化する目的があるのだ」と説明します。「島地黙雷と大教院」では、明治初期の日本国家と真宗教団との関係性を語るうえで欠かせない人物として、明治の宗教政策に多大なる影響を与えた浄土真宗の僧侶、島地黙露が取り上げられます。黙雷は国家神道への切り替わりと、キリスト教進出の間で仏教の生き残りを模索した人物として知られます。黙雷は同郷の木戸孝允ら岩倉使節団の外遊に少し遅れて参加。これを機に政府・仏教界(真宗教団)は一気に接近することになり、近代日本における国家と宗教の関係性が構築されていくのでした。

「岩倉使節団と合流」では、黙雷が1872年3月13日、フランス・マルセイユに到着したことが紹介されます。英国で岩倉使節団と合流すると、翌1873(明治6)年2月から、黙雷は岩倉使節団のメンバーで一等書記官だった福地源一郎と旅を続けました。黙雷と福地はスイス、イタリア、ギリシアからトルコへと向かいます。そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地エルサレムを訪れます。さらにアフリカ大陸に渡ってエジプトに入ると、ピラミッドも見学し、次にインドへと向かいました。インドではサルナート(鹿野苑)など釈迦の聖地を巡り、黙雷が帰国したのは出立から1年5カ月後の、1873年7月15日のことでした。著者は、「黙雷の視察の成果は多岐にわたる。旅を通じて新政府要人らとのパイプはより強固なものになり、帰国後の宗教政策に真宗がイニシアチブをとっていくことにつながった。何より、現地視察によって、キリスト教と社会との関わりを学べたのは最大の成果といえた」と述べます。

「キリスト教への対抗」では、黙雷がロンドンやパリなどで木戸孝允と30回ほど面会し、「宗教の力が文明をつくるのであれば、日本は信教の自由へ道を開くべきではないか」「欧化政策は進めたい。しかし、キリスト教が支配する国になってしまわないだろうか」「信教の自由が認められた場合、国家神道の位置づけはどうなる?」といった様々な議論を交わしていることが紹介されます。それまで日本の宗教は、「神道」「仏道(教)」「儒教」が混じり合っていましたが、著者は「そのなかで唯一仏教だけは、キリスト教に対抗しうる『宗教』といえた。教団組織を編成し、教義、儀式、僧侶養成が体系的に構築されていたからだ」と述べています。

黙雷は洋行中、キリスト教に対抗しうる「宗教」は仏教をおいて他にないとの思いをより一層、強くしたといいます。なかでも真宗は阿弥陀仏による「絶対他力」を唱え、むしろ一神教であるキリスト教とは宗教構造的には近い存在といえなくもありません。著者は、「キリスト教が欧米諸国に文明をもたらし、強くしていったのと同様、日本の文明開化を牽引するのは真宗教団であることを、欧州の宗教の現場を数多く視察した黙は確信したのである。国家の国民にたいする神道の強制――三条教則を批判した黙雷は、帰国後は神仏合同の国民教化施設、大教院の分離に注力することになる」と述べます。

「大教院と仏教界の巻き返し」では、1873(明治6)年、尊王愛国の精神を国民に教化させるための宗教施設「大教院」が、芝の増上寺に設置されたことが紹介されます。大教院は、欧州視察から戻ってきた黙雷らによって否定されますが、明治期における仏教教団の再構築の礎となりました。信教の自由が認められ、キリスト教の布教が始まると、仏教側の巻き返しが始まります。当時の民部省は、華族・士族・卒族・祠官・僧侶・平民を「臣民」と定義、ひとくくりに戸籍に掲載しました。同時に、「職業の自由」が認められるようになりました。つまり、僧侶は特権的な身分ではなく、誰もが選択しうる「職業」になったということを意味していると指摘し、著者は「重要な点は、制度という世俗の中に僧侶が組み込まれたことである」と述べるのでした。

「肉食、妻帯の自由で骨抜きに」では、1872(明治5)年4月、「僧侶の肉食妻帯蓄髪の自由」が布告されました。翌年には尼僧にたいしても、同様の布告がされています。同時に、常時、法衣の着用の義務が撤廃され、平服の使用が認められました。さらに、僧侶が市中に出向いて喜捨をすすめる托鉢が禁止になりました。長年の仏教慣習の改善としては、ほかに女人禁制が解かれた(太政官布告『神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス』)のが同年でした。著者は、「これまで山岳密教系の寺社では、女人禁制が敷かれていることが多かった。この女人参拝の解禁の意図は、欧米諸国の『女性蔑視』との非難を回避する目的や、修行の妨げになる女性を山に入れることで仏教の世俗化を世間に見せつけることにあった」と述べています。

さらに同年6月には僧侶の“専売特許”であった葬儀の執行が、神職にも認められました。神葬祭は土葬が原則です。翌1873(明治6)年7月には仏教的な葬送である火葬が禁止になり、全面的に土葬(神葬祭)に切り替わりました。その結果、東京では墓地不足が生じました。それで、青山霊園や雑司ヶ谷霊園、谷中霊園などの巨大な都立霊園ができたのです。こうした仏教にたいする様々な束縛からの解放を喜ぶ僧侶は少なくありませんでした。政治介入による仏教界の俗化によって相対的に神道のポジションは上がり、仏教の神秘性は著しく低下しました。著者は、「この時、明治政府は『神道非宗教』化に舵を切っていた。つまり、現人神天皇を頂点とする国家神道と、仏教やキリスト教、教派神道系の新宗教の間に明確に線を引いたのである。この神道非宗教論によって、神道による祭政一致とは整合性が保たれた。一方で、神職が宗教行為である神葬祭にかかわることへの矛盾が生じた。そのため、1882(明治15)年には神職は葬儀に関与しないことになった」と述べます。

「寺社ネットワークを利用した明治政府」では、一連の仏教への俗化政策とともに、政府はこれまで続いてきた仏教の民衆教化の伝統やネットワークを利用しようとしたことを指摘し、著者は「たとえば僧侶は神職よりも説法に長け、葬送儀礼を通じて民衆とは密接な関係だった。新しい日本国家の精神を説くには、地域の寺院や僧侶の協力が不可欠だった。そこで、政府は既存の寺院や神社を使って「教院」と呼ばれる、民衆教化の施設を設置する。教院には三つの種類があった。地域の寺社に小教院を、各府県単位に中教院を、そして東京の増上寺に中央機関である大教院を置いた。大教院では神職とともに仏教者も混じって尊王愛国教育にかかわり、教導職の育成や試験、教学研究、神道儀式、説教などがカリキュラム化された」と述べます。

「内村鑑三不敬事件の衝撃」では、教育勅語に関連した思想弾圧事件が取り上げられます。1891年(明治24年)1月9日,第一高等中学校で教育勅語奉読式が挙行された際,講師の内村がキリスト者の信念に従い,天皇の親署のある教育勅語に対する奉拝を拒んだため,内村を弁護した教員1人とともに不敬として職を追われました。この事件以後,天皇主義者によるキリスト教排撃の世論が高まり,井上哲次郎らによって「教育ト宗教ノ衝突」論争が引き起こされたのでした。

著者は、「内村鑑三不敬事件は結果的に、わが国におけるキリスト教が国家主義的性格を帯びるきっかけにもなった。その後、キリスト教もまた仏教と同じように国体に積極的に与し、戦争に協力していく。不敬事件にたいし、『それみたことか』ほくそ笑んだのが仏教界であった。そして、キリスト教排斥運動が沸き上がる。キリスト教の国家主義化は、仏教の国家観にも刺激と焦りを与え、より積極的に『国家への忠誠』を誓うことになる。仏教とキリスト教は、相対関係のなかで共に、国家への忠誠を深めていったのである」と述べるのでした。

「進撃する仏教――日清・日露戦争」の「日露戦争――仏教の帝国主義化」の「鈴木大拙、井上円了の正戦論」では、内村鑑三不敬事件以後、「国家と仏教の関係」を説く学者が、続々登場し始めたことが指摘されます。当時、鈴木大拙など国内では複数の著名な仏教学者らが活動していました。彼らは、もれなく戦争を正当化する論陣を張りました。大拙は、著書『新宗教諭』で「宗教は国家を体として存すべく国家は宗教を精神として発達すべしとせば此問題を解釈するは容易の事也」(国家を体として存在するのが宗教であり、国家は宗教を精神として発達していく。こう考えれば簡単なことだ)と述べています。明治の仏教界に大きな影響を与えた井上円了も、その一人でした。円了は越後の真宗大谷派の慈光寺に生まれ、哲学館(現・東洋大学)を創設した学僧です。キリスト教を批判し、哲学者の立場から仏教の復権を目指しました。円了は世界各地を旅した人物としても知られ、旅先の大連で客死しました。

井上円了は、「仏教は慈悲の教えであるが、今を生きる人間のための教えでもある。よって、人のために戦うのは、本来の仏教の教えにかなうものといえる。もし日露間で戦いが起きることがあれば、仏教者が進んでロシアと戦うのは当然のことだ。仏の恩に報いるためには、このほかに選択肢はない」と論じました。さらに、「この戦いは国家と国民の生活を守ることはもちろん、中国・朝鮮などの戦地に展開する兵士らを救出する仏修行ととらえたい。キリスト教を国教とするロシアは日本の敵であるだけではなく、仏教の敵でもある。仏教が日本に根付いているのは、聖徳太子以来歴代天皇が仏教に帰依して庇護したからにほかならないのであり、仏教者は仏と天皇の恩に報いるため、死を覚悟して戦うことは当然のことだ」として、キリスト教対仏教の対立としても、対露戦争を肯定したのです。

「真言宗、日蓮宗が戦勝を願う祈祷」では、1904(明治37)年2月10日、日本とロシアはともに宣戦布告したことが紹介されます。すると、翌11日には真言宗が各本山の長谷寺、智積院、高野山金剛峯寺、東寺で不動明王を前に、護摩(不動明王などに対し、供物を火中に投じて捧げる儀式)を実施して戦勝を祈願しました。日蓮宗でも深川の浄心寺、池上本門寺、中山法華経寺、身延山久遠寺、堀之内妙法寺などで戦勝祈願の祈禱が行われました。著者は、「このように各地の各宗派末寺の多くで、戦意高揚のための仏事が実施されたと考えられる。戦争開始直後、満を持して組織的行動を起こしたのは浄土真宗本願寺派であった。宣戦布告のその当日、全10条からなる『従軍布教師条例』を発布した」と説明しています。

「植民地支配と仏教」の「朝鮮総督府の宗教統制」では、1910年の「日韓併合」によって、朝鮮総督は「日本仏教界が本格的に朝鮮開教すれば、たちまち朝鮮寺院を取り込んでしまうだろう。それよりも早く、総督府主導で朝鮮寺院を自らの管理下におこう」と考えたことが紹介されます。朝鮮半島の皇国化の集大成といえる施設が「朝鮮神社(後に神宮)」でした。朝鮮総督府が1925(大正14)年、京城に建設しました。朝鮮神社建設のきっかけは1919(大正8)年に起きた「三・一運動」です。三・一運動は、大韓帝国初代皇帝李太王の葬儀に合わせ、朝鮮の仏教、キリスト教、天道教の宗教者らが独立宣言を発表したものでした。独立運動は、朝鮮半島全域に広がりました。運動は総督府によって武力鎮圧され、1万人以上の逮捕者を出しました。著者は、「この三・一運動は、日本側に都合のよい口実を与えた。結果的に、朝鮮人にたいする日本の皇民化政策が加速する。1919年7月、総督府は朝鮮神社を創設し、天照大神と明治天皇を祭神として祀り、社格を官幣大社とした」と述べるのでした。

「大東亜戦争と皇道仏教」の「戦争に熱狂する仏教界」の「天皇は阿弥陀仏である」では、昭和初期、仏教の天皇にたいする忠孝思想が確固たるものとして体系化されたことが紹介されます。それは「皇道仏教」という、戦時下における新しい仏教のあり方でした。つまり、絶対的な存在、天皇を支えるための仏教、という意味です。「日本仏教は天皇あってこそである」「天皇は阿弥陀仏である」などと仏教教義の曲解がなされたことを指摘し、著者は「日中戦争から終戦までの間に、仏教界は仏教そのものの教えとは大きく乖離し、変質した。それは、もはや『慈悲』や『寛容』を説く本来の仏教ではなかった」と述べています。

仏教教団の横断的組織「仏教連合会」は、盧溝橋事件の直後、陸軍省を訪れて従軍僧の派遣を通達ました。仏教連合会は、各宗派を加盟組織に持ちます。1944(昭和19)年には、文部省の指導によって解散となり、教派神道やキリスト教などと合同の宗教的銃後組織「大日本戦時宗教報国会」に再編されています。戦後は、世界平和に寄与することを目的とする公益財団法人全日本仏教会として再スタートを切った団体です。「従軍僧も戦闘に参加」では、日中戦争時に日本仏教界はついに一線を越えたことが指摘されます。「戦闘への参加」の明文化に踏み切ったのです。著者は、「日中戦争以前は宗門から派遣される形での従軍僧が弔いや布教をメインに活動していたが、日中戦争が始まると一般人と同じく徴兵された僧侶が現地で交戦した。仏教者にとって、『不殺生(生き物を殺してはならない)』は最重要の戒である。しかし、その大切な戒めをも仏教界はねじ曲げ、都合のよい解釈をしていく。それは、聖戦のためであれば敵を殺すことを容認するというものであった」と述べます。

「『一殺多生』と日蓮主義」では、「敵はもはや人間ではない、人間でなければ、殺しても不殺生戒を破ったことにはならない」といった極論が次から次へと生まれていったことが紹介されます。「一殺多生」(多くの民=国家国民が生き残るためには、国体を妨げる一人を殺すこともやむなし)を平然と唱えた僧侶や教団もありました。その思想的背景として「日蓮主義」があったのです。日蓮主義とは、日蓮による法華経の教えを天皇国家の中でとらえ直し、日本人の思想や生活意識に変革をもたらし、政治や経済、文化に至るまで広く影響を及ぼそうとする宗教運動のことです。その運動を先導したのが国柱会を創設した田中智学でした。国柱会は日蓮宗系新宗教として、現存しています。

智学は「八紘一宇(世界をひとつの家のように統一する)」の標語を使い始めました。八紘一宇とは、『日本書紀』で神武天皇が大和橿原に都を定めた時の詔勅、「兼六合以開都掩八紘而為宇」からの造語です。八紘一宇は、アジア諸国への侵略(大東亜共栄圏建設)を正当化するスローガンとして使われ始めました。国柱会は軍人や文化人が入会し、その思想に大きな影響を与えました。関東軍参謀として満州事変を指揮した石原莞爾、童話作家の宮沢賢治らです。石原は智学の講演会に参加したことをきっかけに智学に傾倒。授与された本尊を持って任地に赴いたといいます。

「仏教界トップも前線で鼓舞」では、そもそも一殺多生は、日清・日露戦争時に真宗教団の中で使われ出し、次第に皇道仏教の中で肯定的に捉えられていったと考えられていることが紹介されます。浄土真宗本願寺派は1940(昭和15)年には、「聖域中の聖域」に手をつけてしまいます。宗祖親鸞が著した『教行信証』や、伝記『御伝鈔』などの一部に、天皇にたいして不敬な文言があるとして、削除訂正したのです。これを「聖典削除」といいます。日蓮宗でも宗祖日蓮の聖典の一部に不敬にあたる箇所があるとして、内務省から削除命令が出ています。「日蓮遺文削除」です。戦時下の言論統制は、仏教の聖典にまで及んだのです。

「軍人たちの仏教信仰」の「参禅する軍人たち」では、そもそも禅は、足利将軍家が京都と鎌倉に禅寺「五山十刹」を整備したように、武士(軍人)とは相性が良かったことが指摘されます。たとえば、禅の教え「無我の境地(我にとらわれることなく、無心になること)」がある。これを拡大解釈すれば、「自己の命に執着することから離れ、国のために命を捧げよ」ということになります。また、禁欲的な禅の生活と武士道とは、相通ずるものとして共鳴しました。著者は、「規律正しく、質素に目の前のことだけに集中する日々を送るのが、禅の世界である。そうした禅の精神性に惹かれ、各地の禅寺には戦時中、多くの軍幹部が参禅した」と述べています。

「寺院に残る戦争の記憶」では、戦時中は多くの寺が「皇道仏教」実践のための機能になり、銃後運動を熱心に推進したことが指摘されます。そのため戦争の痕跡は地域の末寺にも残されています。それが「天牌」「戦時戒名」「顕彰碑」「奥津城」などです。戦利品の砲弾を祀ったり、大規模防空壕が残る寺もあります。「戦死者に与えられた特別な戒名」では、各宗門は、檀家の中で戦死者が出た場合の慰霊について、末寺に指示したことが紹介されます。戦死者の戒名には、「義」「烈」「勇」「忠」「國」「誠」などの国粋主連想するような文言が選ばれました。軍人戦死者の葬儀や埋葬も特別扱いでした。たとえば曹洞宗の場合、末寺は本山に報告。大本山貫主からは代理が送られ、弔辞が読まれました。また将校(少尉)以上の軍人には、戒名に必ず「居士」を付けるよう命じています。しかし、大東亜戦争が始まればその制限もなくなり、徴兵されたすべての兵隊に「居士」が付けられたそうです。

英霊の墓も特別なものでした。一般的な墓石は四角柱ですが、軍人には「奥津城」と呼ばれる神道式の墓を建てるよう、末寺に指示がなされました。英霊は先祖代々の墓には入らず、ひとりで奥津城に祀られているのが特徴です。外見は古代エジプトの石柱オベリスクのような、上部が尖った四角柱です。奥津城は日当りのよい、墓地の中でも一等地に建っていることが多いです。戦死者は遺骨が戻ってこないことが多く、奥津城に納めるのは出征前に家族に預けた遺髪や遺品、戦地の石などでした。また、奥津城同様、戦地における勇士らを讃えた「顕彰碑」が、今なお残っている寺もあります。顕彰碑は特に日露戦争時に多くつくられました。大東亜戦争が始まり戦局が悪化すると、顕彰碑をつくるための人材も余裕もなくなり、あまり顕彰碑はつくられていません。

「仏像も鐘も武器と化した」の「金属提出と空襲」では、1941(昭和16)年12月8日、真珠湾攻撃を皮切りに、対米戦争が勃発しますが、その4日後の12月12日、閣議決定がなされ、支那事変(日中戦争)も含め、連合国との戦争を「大東亜戦争」と呼称することが発表されたことが紹介されます。当時の仏教界はこれまで以上に、本格的な総力戦である「大東亜戦争」に加担していきました。対米開戦の前年となる1940年(昭和15年)はいわゆる「皇紀2600年」でしたが、日本政府は国威発揚の好機ととらえました。その目玉は同年に予定されていた第12回夏季オリンピック東京大会と、第5回冬季オリンピック札幌大会、そして日本万国博覧会のトリプル開催でした。しかし、日中戦争が長期化し、物資が不足。国家総動員体制を国民に強いるなかで、両オリンピックと万博を開くことは現実的ではなくなり、開催権を返上していました。著者は、「こうした戦時統制下、祝賀行事の規模は縮小されたが、一方で政府は宗教を利用した国威発揚を重要視した。その中心にあったのが神道である。皇紀2600年を契機にして、神祇院を設置し、神道による国民教化の本部とした」と説明しています。

「鐘の音が消えた」では、日米開戦が迫ると、圧倒的に不足する軍用資材を補う「金属回収」の主たるターゲットに各地の寺院が当てられたことが紹介されます。その最大の犠牲になったのは梵鐘でした。梵鐘の供出に際し、各寺院では「撞き納め式」が厳修されました。召集を受けた兵士と同じように、梵鐘には赤いタスキがかけられました。清酒や赤飯が梵鐘の前に供えられ、万歳三唱が行われたといいます。最後は住職によって撞き納められ、各地の梵鐘は“出征”していったのです。

提供されたのは梵鐘だけではありませんでした。「親鸞像まで献上された」では、日本最古の仏像、一光三尊阿弥陀如来像を祀り、「御開帳」で有名な信州善光寺(無宗派)には大きな親鸞聖人像がありますが、この銅像もお上に献上されたことが紹介されています。「仏像疎開」では、奈良や京都は国宝や重要文化財に指定された仏や伽藍の「疎開」が行われたことが紹介されます。それも終戦間際になってやむにやまれず実施されたのです。たとえば興福寺の阿修羅像や東大寺の金剛力士像、法隆寺五重塔などが疎開。その移動には受刑者らが動員されていました。だが、乱雑に運ばれたために破損する例もあったといいます。

「送り火の消えた夏」では、空襲を避ける目的で中止を余儀なくされた仏教行事として、京の夏の風物詩「五山送り火」が紹介されます。灯火管制の影響で、送り火ができなくなったのです。送り火とは8月16日夜、京都市内を取り囲む五つの山に、「大(大文字と左大文字の二つ)」「妙法」「船形」「鳥居形」の五つの文字を炎で浮かび上がらせるお盆の行事です。お盆に京都に戻ってきたご先祖さまの精霊を、天を焦がす炎とともにあの世に送り届ける、京都市民にとってのアイデンティティともいえる儀式です。著者は、「他府県の人は『大文字焼き』と呼ぶことがあるが、京都人は嫌がる。あくまでも聖なる宗教行為としての『送り火』にこだわるからである」と述べています。

「反戦の僧侶」の「反戦を貫いた植木等の父」では、戦中は治安維持法違反で繰り返し投獄され、権力と戦った、真宗大谷派を代表する反戦僧侶が常念寺(三重県伊勢市)の住職、植木徹誠が紹介されます。昭和のコメデ・アンで歌手の植木等の父親です。徹誠は1895年(明治28)年、三重県伊勢市の廻船業者の家に生まれました。徹誠の祖母は明治の真珠王、御木本幸吉の親戚筋にあたりました。徹誠は東京に出ると、御木本(現在のミキモト)の真珠工場で職人として働き出しますが、ある時聖書と出会ったことがきっかけでキリスト教の洗礼を受けます。そこで、キリスト教の平等主義を知るのです。御木本では労働争議に加わったことで、社会運動に目覚め、治安維持法反対デモなどに加わった。

徹誠は、25歳で三重の真宗大谷派の西光寺の娘と結婚し、故郷に戻ると部落解放運動を展開。しかし、特高警察に逮捕されました。出所後は得度を受け、真宗僧侶の僧籍を取得。貧しい山寺である常念寺の住職になりますが、そこで地元の被差別部落の入会権差別に立腹し、「朝熊闘争」を牽引して再び治安維持法違反で逮捕。激しい拷問を受け、4年間投獄されました。出所後も、差別や戦争を嫌い、徹底的に権力と向き合いました。しばしば、「戦争は集団殺人だ」「人に当たらないように鉄砲を撃て」などと出征兵士を諭していたため、出所してもすぐに特高警察に連行されるということを繰り返していたといいます。

小学生だった植木等の日課は、登校前に留置されている父に弁当を届けることでした。等は不在の父に代わって檀家回りをする日々でした。中学に入ると等は上京し、本郷の真浄寺に小僧として入山。戦後、東洋大学時代に新人歌手コンテストに合格し、バンドマンとして活動をはじめます。あの有名な「スーダラ節」を歌ったとき、それまで二枚目で通してきた等は嫌がりましたが、父の徹誠は、「『スーダラ節』の文句(分っちゃいるけどやめられねえ)は真理を突いているぞ。あの歌詞には、親鸞の教えに通じるものがある」と語ったといいます。

「農地改革と寺の“敗戦”」の「GHQの課企画が直撃」では、GHQによる戦後日本の間接統治策において、最重要政策のひとつに挙げられたのが宗教政策であったことが指摘されます。日本は国家神道のもと、とりわけ仏教教団は本来の教義をねじ曲げ、皇道仏教として戦争に積極加担しました。GHQは「日本人の精神性の根本を見るには、神道や仏教を知ることが大事だ」と考えました。GHQにおける対日宗教政策の責任者は総司令部民間情報教育局宗教課長ウィリアム・バンスでした。バンスは日本宗教連盟主催の各宗派の責任者との会合で「司令部は仏教、神道、儒教が日本文化の上に立った大きな力であることはよく分かっている。自然に対する愛情、その他さまざまな重要な文化の要素が宗教にその淵源をもっていることも、我々はよく知っている」といった趣旨の発言をしています。

その上で、バンスは3つの対日宗教政策を明確にしました。三大原則は、(1)政教分離、(2)軍国主義と超国家主義的イデオロギーの排除、(3)信教の自由でした。この中で、バンスが最重要視したのが(3)信教の自由でした。著者は、「人々の思想や行動をつかさどる精神が依って立つのが宗教であり、信教の自由が保証されて初めて、真の民主国家になれると考えたからだ。信教の自由を実現するための手段が政教分離であり、そうでなければ軍国主義は排除できない」と述べます。「コメ半俵分で四分の三の土地を失う」では、昔ながらの寺檀関係、地縁、地域慣習などが、農地改革をきっかけに大きく崩壊したことが指摘されます。地域や檀家からの支えを失った寺が打ち出した策は、「檀家を増やすこと」でした。

「結びにかえて」では、太平洋戦争は仏教に大きな代償を払わせたと指摘します。都市部の寺院は空襲で破壊されました。奈良や京都の古刹では伽藍疎開、仏像疎開が実施されましたが、4600ヵ寺以上、およそ6%に相当する寺院が焼失しました。先人から受け継いだ貴重な文化財が灰燼に帰してしまったとして、著者は「終戦後、残った地方寺院にも悲劇が訪れた。国家神道の解体と日本の宗教政策の再構築を目指していたGHQは、日本のムラ社会と家制度の解体を目指して農地改革を牽引した。これによって、多くの農地や山林を保有し、小作人から年貢を徴収していた寺院の経済基盤は断たれてしまった。明治の廃仏毀釈は不可抗力の要素も大きかった。だが、戦争加担の代償という『第二の廃仏毀釈』は、自らの手による自滅であった。それは皮肉でもなんでもない、仏教の要諦『因果応報』そのものだったといえる」と述べています。

「戦争に加担したのは神道・仏教を筆頭とする宗教界だけではない」と著者は訴えます。産業界はもちろんメディアや、ほぼ全ての国民が戦時体制にたいして、無批判に熱狂しました。長年、新聞・雑誌記者をしていた著者は、朝日新聞社は軍用機献納を国民に向けて呼びかけ、その数はおよそ300機に及び、結果として多くの若者が命を落とした事実もあらためて指摘します。また、本書の発行元の文藝春秋も1機、軍用機「文藝春秋社号」を送り出していることを明かします。最後に、著者は「私が仏教界最大のタブーに挑戦したのは、今の寺院や僧侶が『いかにあるべきか』を学んで実践し、社会平和のために寄与していかねばならないと考えたからである。宗教の役割とはつまるところ、『恒久平和の実現』なのだから」と述べるのでした。本書の内容は知らなかったことも多く、非常に勉強になりました。そして、本書は、日本仏教というよりも宗教そのものの限界を問うた書であると思いました。「宗教の役割とはつまるところ、『恒久平和の実現』なのだから」という著者の言葉には深く共感しました。

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