No.2374 プロレス・格闘技・武道 『プロレス発掘秘史』 瑞佐富郎著(宝島社)

2024.12.18

『プロレス発掘秘史』瑞佐富郎著(宝島社)を読みました。「アリは猪木戦の直前にプロレスラーと戦っていた!」というサブタイトルがついています。著者は、著者は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。1993年に行われたフジテレビ「カルトQ・プロレス大会」での優勝を契機に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行しています。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)、一条真也の読書館『平成プロレス30の事件簿』、『プロレス鎮魂曲』、『さよなら、プロレス』、『コメントで見る! プロレスベストバウト』、『アントニオ猪木』、『永遠の闘魂』、『プロレスラー夜明け前』で紹介した本などがあります。また、一条真也の読書館『証言UWF完全崩壊の真実』、 『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』、『証言「プロレス」死の真相』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。本書の帯には、「“何が”彼らをリングに押し上げたのか。名レスラーが生まれる瞬間の“真実”を描く」と書かれています。

本書の帯

本書のカバー表紙には、試合前の計量時に向かい合うモハメド・アリとアントニオ猪木の写真が使われ、帯には「リンカーンは元プロレスラー!」「天龍が鶴田の入場曲『J』でリングイン!」「マサ斎藤ファンの皇族がいた!」「長州が遭遇した本物のテロ事件」「カレリンの初リングは新日本ほか」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、「鶴田が藤波に最後に送ったFAX、髙田延彦の助っ人に現れた小橋建太、喧嘩でドロップキックを使ったレスラーetc.かつてフジテレビ『カルトQ プロレス大会』で同番組史上最多の5万人以上の参加者のなかから勝ち抜いて優勝し、『デイリー新潮』のプロレス・コラムでも知られる著者が、数々の取材と調査をもとに極上のプロレス秘話を大量発掘」「リングを超えたプロレスの魅力がこの1冊に総結集!」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」
第1章 新日本プロレスと猪木
第2章 全日本プロレスと馬場
第3章 UWFと格闘技
第4章 プロレスあれこれ秘話

「まえがき」で、著者は以下のように述べています。
「プロレスにおいて、後からわかることは、あまりにも多い。『あれは、そういうことだったのか』と。本書は、数々の証言や埋もれた事実をもとに、そんな秘史を掘り起こした一冊である。われわれが住む日本の歴史においても、例えば、関ヶ原の戦いの西軍総大将が石田三成でなく、毛利輝元であることが後に発覚したり、大化の改新が起こった年が、645年から、646年に文字通り改新されたりと、日々、アップトゥデートを繰り返している。プロレスについても同じこと。本書に掲載した、現代から明らかになった過去の真実の数々が、プロレスのあり余る魅力を新たに据え直すよすがとなれば幸いだ」

第1章「新日本プロレスと猪木」の「長州のサソリ固めからの逃げ方が偶然一緒だった猪木と三沢」では、アントニオ猪木と三沢光晴には、長州力のサソリ固めからの逃げ方が一緒という思いもよらぬ共通点があったことが指摘されます。著者は、「逃げ方はシンプルで、サソリ固めをかけられた状態から自分の上体をでんぐり返しのように、クルリとくぐらせること。そうすると、かけられる前の体勢に戻るわけだ。並外れた柔軟性も猪木と三沢は同じだったということになる。とはいえ、猪木はじりじりと回ってサソリ固めを戻して逃れ(1984年8月2日)、三沢は2代目タイガーマスク時代、一瞬にしてクルリと回って逃げていた(1986年3月13日)。実は三沢にこの逃げ方を教えたのは馬場だった。馬場の大きな体と長い足でサソリ固めからの逃げ方を試行していた三沢だけに、より早く回転ができたのかもしれない」と述べています。

「プロレス好きの皇族が心配した巌流島決闘直後のマサ斎藤の体調」では、秋篠宮親王が大のプロレスファンであることが紹介されます。著者が漏れ聞いたところによれば、初代タイガーマスクの好敵手である技巧派のスティーブ・ライトを応援していたようで、なんとも渋いですね。イギリスに留学中には現地のプロレス会場にも足を運ばれたようです。新日本プロレスの元リングアナである田中ケロによれば、選手が秋篠宮さまと同じ新幹線になったことがあるそうで、マサ斎藤の前で立ち止まり、「マサ斎藤さんでいらっしゃいますね。いつも観させていただいています。これからも頑張ってください」と挨拶されたといいます。著者は、「スティーブ・ライトにマサ斎藤と、古豪の実力派を好む傾向があったのかもしれない」と推測しています。

第3章「UWFと格闘技」の「『マイク・タイソン戦』に最も近づいた日本人プロレスラーは藤田和之」では、さまざまな格闘者からオファーがあったボクシング界のレジェンドであるマイク・タイソンとの対戦に最も近づいていたのがアントニオ猪木の秘蔵っ子、藤田和之であったことが紹介されます。早くから藤田は「俺にとって(タイソンは)ロマンそのもの。あれだけの選手、戦いたい理由なんて言う必要もないでしょう?」とタイソン戦を熱望していたそうです。2004年5月、藤田はK-1が主催する総合格闘技大会「ROMANEX」でボブ・サップに圧勝。この大会直前には「K-1のリングを選んだのも、タイソンとのネットワークがあるから」と発言しました。翌2005年、タイソンvs藤田の実現のために水面下で「ワールドスペクタクル」(仮称)という格闘技イベントがあったことが紹介されます。そのスポンサーは、当時ライブドアの社長として“時の人”になっていた堀江貴文氏でした。ところが翌2006年1月、堀江氏は証券取引法違反で逮捕され、「ワールドスペクタクル」も、タイソンvs藤田も、すべて藻屑と消えたのでした。

「モハメド・アリは猪木戦の直前にプロレスラーと“1日2試合”戦った」では、アリは猪木と戦った1976年6月26日に先立ち、同年6月10日、AWA(当時のプロレスのメジャー団体の1つ)のリングでプロレスの試合を行ったことが紹介されます。しかも3分3Rの試合を2試合行うというダブル・ヘッダーでした。1試合目のケニー・ジェイ戦は、アリが右フックで2R、KO勝ち。次の試合のバディ・ウルフ戦では、シュミット流バックブリーカーを2発食らうシーンもありましたが、カウント2でキックアウトし、3Rを戦い抜きました。結果はアリの判定勝ち。2試合とも余興の域を出ませんでしたが、レスラー側のセコンドはディック・ザ・ブルーザー、アリ側のセコンドは猪木戦にも同行したフレッド・ブラッシーで、レフェリーは“AWAの帝王”バーン・ガ二アという豪華さでした。

アリはプロレスラーとの試合をエキシビションとして考えていました。猪木戦も同じように考えており、猪木戦に来日する直前、アリは「ぼくが戦いたいのはエキシビション・ファイトだ、(猪木を)全力で殴るつもりはない」と語っています。著者は、「実際、来日してからもありに真剣勝負をやるつもりはなく、新日本プロレスが用意した通訳のケン田島に『(エキシビションの)リハーサルはいつやるんだ?』と聞いている。しかしケン田島は『そんなものはないよ』と返答。これに衝撃を受けたアリは、ここからがんじがらめのルールで試合を縛っていくことになる。募る不安のなか、公開スパーリング(6月20日)で猪木の延髄斬りを見たアリは、『猪木はああいう蹴りを使うのか?』と小声で関係者に聞いたという。アリが感じた、AWAのリングで戦った2人のプロレスラーと猪木との、あまりのオーラと状況の落差が、絶対的な猪木不利のルールにいつながったことは否めなかった」と述べています。

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