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No.2385 プロレス・格闘技・武道 『侍レスラーの反骨のプロレス熱闘記』 越中詩郎著(青春新書)
2025.03.26
『侍レスラーの反骨のプロレス熱闘記』越中詩郎著(青春新書)を読みました。東京スポーツ新聞社の東京スポーツ紙および東スポwebに連載された「GET BACK~反骨のサムライ血風録~♯1~30」をベースに、新たに追加した項目を加えて編集し、書籍化した本です。著者は、1958年東京都出身。高校卒業後に就職するも、プロレスラーになる夢をあきらめきれず、78年7月に全日本プロレス入団。79年3月5日に園田一治戦でデビュー。83年4月、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝。翌年、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍。85年より新日本プロレスに戦いの場を移し、高田伸彦(現・延彦)との名勝負や、平成維震軍を結成してリーダーとして奮闘するなど、数々の熱い戦いでファンを魅了。2003年に新日本プロレス退団後は、WJプロレスを経てフリーランスに。24年にデビュー45周年を迎え、いまなお現役レスラーとしてその勇姿をファンに披露しています。185センチ、105キロ。
アマゾンより
本書のカバー表紙には、リング上で両手を上げる著者の写真が使われ、「ライバル・三沢光晴が見せた男気」「全日本と新日本の決定的な違い」「アントニオ猪木の底知れぬスケール……」「まだまだやってやるって!」「レスラー生活45年 プロレスが一番熱かった時の話をしよう」と書かれています。
アマゾンより
カバー前そでには「プロレスラー生活45年を超えてまだまだ現役で戦い続ける侍戦士&ド演歌ファイター・越中詩郎 昭和・平成・令和のリングを駆け抜けてきたレスラーが振り返る熱き男たちとの熱き戦いの日々」とあります。
アマゾンより
アマゾンの内容紹介には、「2024年にデビュー45周年を迎えるも、まだまだ現役レスラーとして熱い戦いを続けている侍レスラー・越中詩郎。2大メジャーである新日本プロレスと全日本プロレスの両方のリングで戦ったことのある貴重なレスラーとして、45年のプロレス人生を振り返りつつ、ジャイアント馬場やジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、アントニオ猪木、坂口征二、長州力、藤波辰爾、闘魂三銃士、平成維震軍・・・の戦いの秘話や知られざるエピソードを明らかにする、プロレスファン垂涎の一冊」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
Ⅰ 挑戦 1958~
ジャイアント馬場が会ってくれることに
ーー運命の扉が開く
ジャンボ鶴田らに徹底的に鍛えられた入門時代
とにかくモテた鶴田の意外な一面
【場外乱闘1】
ジャンボ鶴田のすごすぎる超人伝説
昭和のレスラーたち、リング外での規格外の強さ
トップレスラーだったブッチャーとシークの場外バトル
【場外乱闘2】
俺が戦った最強の外国人レスラー
Ⅱ 飛躍 1979~
デビューを果たすも…先輩たちから受けた洗礼の数々
ジャイアント馬場の付け人なんかするもんじゃない!?
東洋の巨人、マックにはまってさあ大変
“鶴田以来の逸材”と鳴り物入りで入団してきた三沢光晴
三沢とともにメキシコ遠征へ。
命の危険にさらされたことも
三沢だけに帰国指令。ひとりメキシコで闘う日々
【場外乱闘3】
レスラー人生での「最高の料理」
Ⅲ 熱闘 1985~
全日本プロレスとの別れと天龍源一郎の男気
「アジアプロレス」所属で新日本に電撃参戦
【場外乱闘4】
新日本プロレスと全日本プロレスの決定的違い
UWFとの戦い。
“人間サンドバック”と言われても充実の日々
【場外乱闘5】
越中詩郎の代名詞・ヒップアタック誕生秘話
伝説の「熊本旅館破壊事件」。
酔えなかったからこそわかる真相
【場外乱闘6】
“天才”武藤敬司の天才たるゆえん
ヘビー級への転向。そして藤波辰爾のユニットへ
Ⅳ 抗争 1991~
誠心会館との抗争勃発の真相
選手会長を解任され、「反選手会同盟」を結成
【場外乱闘7】
蝶野正洋がいたから平成維震軍も輝けた
天龍源一郎とのシングルマッチ!
マサ斎藤が激怒した理由
「平成維震軍」と改名。
とことんこだわった戦いのスタイル
長州力との乱闘に救われた平成維震軍の自主興行
天山広吉拉致事件と天龍源一郎メンバー入りの裏事情
高田延彦からIWGPベルトを奪いにUインターへ
【場外乱闘8】
アントニオ猪木、底知れぬスケールの大きさ
Ⅴ 不屈 1999~
平成維震軍の解散、本隊に復帰、
そして新日本プロレス退団へ
レスラー人生で一番ギャラをもらった三沢との試合
【場外乱闘9】
僕だけが知る永遠のライバル・三沢光晴
自分のプロレス観を変えてくれた恩人・藤波辰爾
【場外乱闘10】
プロレスで食えなかったときにした仕事
ケンコバ効果で再ブレーク。
IWGP戦で号泣入場したワケ
レスラー40周年興行――“平成”維震軍の最後の試合
【場外乱闘11】
ビートルズとプロレス
65歳を超えても現役。まだまだ「やってやるって!」
「はじめに」で、著者は「この45年で幸いにもジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんをはじめ、ジャンボ鶴田さん、藤波辰爾さん、長州力さん、天龍源一郎さんという大スターと同じ時代を過ごし、接することができた。当時では珍しかった全日本プロレス、新日本プロレスというメジャー2団体で選手生活を送ることができた俺だけの特権だと思っている」と述べています。
2024年8月24日には全日本の厚意で、後楽園ホールで著者の「デビュー45周年記念大会」が開催されました。デビューした古巣について、著者は「7年くらいで出ていってしまっていろいろな道をたどってきたけど、またこういう機会に声をかけてもらって、感謝しかない。馬場さんの付け人を2年くらいやっているから、やっぱり思い入れのある団体だし、プロレスラー人生の原点だから」と述べています。
全日本入門からジャンボ鶴田との出会い、ジャイアント馬場の付け人、三沢光晴とのメキシコ遠征、新日本移籍、高田伸彦(現延彦)との戦い、平成維震軍、本当にいろいろなことがありましたが、著者は「あっという間だったな」というのが率直な感想だそうです。ただし、45周年は著者にとって終わりではないとして、「まだまだ通過点だから。これからも『やってやるって』という反骨精神を持ってリングに立ちたい」と述べるのでした。
Ⅰ「挑戦 1958~」の「【場外乱闘】ジャンボ鶴田のすごすぎる超人伝説」では、鶴田が病に冒されて亡くなる少し前に病院にお見舞いに行ったエピソードが語られます。著者は鶴田の病気が重いことを知らず、病院に飛んで行ったそうです。そうしたら行ってビックリ。当然、個室だと思っていたら4人部屋でした。著者は「全日本はふざけてんな。ジャンボさんが4人部屋はないだろ」と思いながら本人と対面しました。全日本を離れ、新日本に行った身である著者は、「いろいろ思ってることもあるかなと思ったけど、いつものジャンボさんで迎えてくれた。『越中くん、壁が迫ってくるんだよ。だから個室はダメなんだ』と言っていた」と述べています。
Ⅱ「飛躍 1979~」の「東洋の巨人、マックにはまってさあ大変」では、恩師であるジャイアント馬場のエピソードが紹介されます。馬場が食事をしてホテルのラウンジにいたら、あいさつに来た人がいたそうです。サザンオールスターズの桑田佳祐でした。著者は、「馬場さんも立って『どうも』ってやればいいのに、座って葉巻をくわえたまま。しかも帰った後『誰だっけ?』ってね」と述べます。著者が「有名なミュージシャンですよ」と言うと、馬場は「ゴダイゴか?」と言いました。著者が「サザンの桑田佳祐さんです」と教えたら「ほお、そうか」と言ったとか。著者は、「馬場さんが愛用した東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)では高倉健さんがあいさつに来たことがあった。健さんに対しても、馬場さんは立ち上がらなかったからね」と述べます。
Ⅲ「熱闘 1985~」の「【場外乱闘4】新日本プロレスと全日本プロレスの決定的違い」では、新日本でいうとアントニオ猪木、全日本でいうとジャンアント馬場の色や香りが出て、それが選手に伝わるとして、著者は「例えば試合会場で猪木さんが入ってきたらみんな『気をつけ!』になっちゃう。全面的に厳しさをボーンと前に出す感じかな。一方、馬場さんが入ってきたらフレンドリーだけど、言葉に出さないどっしり感みたいなのがある。たまにポツンと厳しいことも言うね」と述べています。
新日本プロレスと全日本プロレスの両団体について、著者がまず感じたのはその違いでした。でも著者が思うにどっちがどうではなくて、その2人とかかわれたこと自体が財産だといいます。著者は、「その猪木さんと馬場さんの弟子の人たちもすごい人たちばかりで、その下でやれたのも貴重な経験だと思う。猪木さんだと長州力さん、藤波辰爾さん。馬場さんだとジャンボ鶴田さんとか天龍源一郎さんだね」と述べています。
また、新日本と全日本の違いの一番は坂口征二がいるか、いないかだと指摘しています。著者は、「新日本は猪木さんの下に坂口さんがいた。馬場さんの下には坂口さんになる人がいなかったのがね…。猪木さんは『坂口に任せる』と細かいところを任せていた。坂口さんがしっかりしていたから、周りの部分を全部やっていた。一方の馬場さんは誰かに任せることをしなかった。やっぱりその違いが大きいよ」と述べるのでした。
「UWFとの戦い。“人間サンドバック”と言われても充実の日々」では、新日本プロレスに出戻りした前田日明や高田伸彦(延彦)らUWF勢との戦いのエピソードが語られます。著者が保持していたIWGPジュニアベビーのベルトをかけて高田と戦ったのは、86年5月19日の後楽園大会でした。著者は、「KO同然で負けたけど、お客さんから拍手をもらったんだ。そのとき、俺も初めて新日本の一員になったのかなって思ったね」「前田・高田組、高田・山崎組、高田・木戸・藤原組…彼らを相手するのは、全部俺だよ。毎日のように当ててくれたのは(当時副社長の)坂口征二さんだろうし『お前がやってくれれば大丈夫』という会社の信用もあったと思う」と述べます。
「【場外乱闘6】“天才”武藤敬司の天才たるゆえん」では、「武藤とはタイプは違うんだけど、三沢光晴に似たようなところがあった。三沢もそうなんだけど、例えばタッグを組むじゃん。言うのは要点だけ、1個か2個だよ。あとは『リングで臨機応変にやろう』って感じだった。まあ、武藤も三沢も天才だよね。俺が思っている以上のことをやってくれるパートナーだった。例えば高田延彦らが対戦相手で、俺と武藤で挑むときも、武藤がちゃんとやってくれるから心配しないんだよ。しかもフタを開けたらすごかったから。87年3月20日の後楽園大会では俺と武藤が組んで、高田と前田日明のUWFコンビとIWGPタッグ王座決定戦で対戦したことがあった。あれも武藤の力があって、ベルトを取れた試合だったしね」と述べます。
Ⅳ「抗争 1991~」の「【アントニオ猪木、底知れぬスケールの大きさ】」では、猪木から部屋に呼ばれて「世界一の金持ちになりたかったら、俺の話を」と言われたエピソードが披露されます。著者は、「なんか説明してくれるんだけど、さっぱりわからない。牛のフンがどうとか、永久電池がどうとか(笑い)。あと、平成維震軍をやっていたとき、新日本の事務所で小林(邦昭)さんと『住宅ローンが大変だ』なんて話をしていたことがあった。そうしたら猪木さんがたまたま入ってきて『お前ら夢がない。俺は2~3年したら世界一の金持ちになってやる』って…。想像もつかないことを自信満々で言っていたよね」と述べています。いい話ですね。
Ⅴ「不屈 1999~」の「自分のプロレス観を変えてくれた恩人・藤波辰爾」の冒頭を、著者は「プロレス観が変わったのは、藤波辰爾さんの存在だね。ちょっと時代が戻るけど、俺が全日本プロレスにいたときだから1979年かな。藤波さんがニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで試合をやっているのを見た。しかも(WWWFジュニアヘビー級)チャンピオンとして防衛戦をやっているんだからね。技を繰り出すスピード、つなぐスピード、体のキレ、全てにショックを受けた。『えっ? レスラーじゃねえ…』みたいな。すごい人だなと。レスラーとして、ああいうショックの受け方は初めてだった。だって、普通あんなフルネルソンして投げないし、飛んでいけないって」と述べています。
また、著者は藤波について「当時の藤波さんは90キロあるかないか。『ここに近づかないと俺は食っていけないな』って思ったね。あそこで藤波さんの試合を見てなかったら、今の俺はいないよ」と告白し、さらに「新日本とUWFの選手で旅館をぶっ壊しちゃって、誰かが後片付けしないといけないって雰囲気的に思うじゃん。それをやったのが藤波さん。朝の4時ごろにほうきを持って、各部屋をまわって掃除をしていたんだよ」と述べています。熊本旅館破壊事件はもちろん知っていましたが、最後に藤波が掃除をしたというのは初めて知りました。その人間性に限りない敬意を表します。
「ケンコバ効果で再ブレーク。IWGP戦で号泣入場したワケ」では、2008年からはハッスルに出たことが紹介されます。ただイメージが特殊だったので芝居がかったことをやらされるかと思い(山口日昇)社長に恵比寿のホテルで会うまではオファーを受けないほうに傾いていたそうです。そうしたら「何かをやってくれとは言わないので、今まで通りの越中さんを出してくれればそれでいいです」と言ってくれたとか。著者は、「それでOK出したんだけど、まあいろいろやらされたよね…。あれは何だったんだと(笑い)」と述べます。
ハッスルについて、さらに著者は「これもあまり言いたくないけど、ギャラが振り込まれたのは1回目だけだった。大変なときに声をかけてくれたんだなというのがわかったよ。ハッスルでは高田延彦(高田総統?)とも再会したし、川田利明や安生洋二もいたね。天龍源一郎さんとは、この後もかかわることになるんだけど…」と述べるのでした。本書は、昭和プロレスの生き証人というべき著者が体験したさまざまなエピソードがライトな語り口で綴られており、全部で190ページですが、1時間ちょっとで読み終えました。藤波選手と同じく、越中選手にも1日でも長く現役を続けていただきたいと思います。