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2025.05.24
122冊目の一条本となる『宗教の言い分』(弘文堂)の見本が届きました。東京大学名誉教授で宗教学者の島薗進先生との対談本で、「現代日本人の死生観を語る」というサブタイトルがついています。
『宗教の言い分』(弘文堂)
島薗先生は、日本を代表する宗教学者であり、死生観研究およびグリーフケア研究における第一人者です。わたしは、ブログ「島薗進先生と対談しました」で紹介したように、2023年11月29日、東京は神田駿河台にある弘文堂本社で島薗先生と対談させていただきました。また、ブログ「島薗先生と二度目の対談」で紹介したように、同年12月16日、金沢紫雲閣でも対談。本書には、その2回の対談内容がすべて収録されています。
本書の帯
本書の帯には、わたしたち2人の写真とともに、「人を救う?」「それが宗教ですか。」と書かれています。また、島薗先生を「宗教を学問として研究してきた第一人者」、わたしを「宗教を儀式として提供してきた第一人者」として、「本質を問う!」という吹き出しがついています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「神道・儒教・仏教・ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教・天理教・大本・生長の家・世界救世教・GLA・創価学会・阿含宗・オウム真理教・幸福の科学・世界平和統一家庭連合(旧統一教会)……など」「宗教の『なぜ?』と『どうして?』に答える一冊!」と書かれています。
宗教対談三部作と本書
4月4日、わたしは、芥川賞作家で臨済宗福聚寺住職の玄侑宗久先生との対談本『仏と冠婚葬祭』(現代書林)を上梓しました。同書は、大阪大学名誉教授で中国哲学者の加地伸行先生との対談本である『論語と冠婚葬祭』(ともに現代書林)、京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生との対談本である『古事記と冠婚葬祭』に続く、宗教対談三部作の完結編です。わたしは、島薗先生、鎌田先生、加地先生、玄侑先生を四大師匠と思っていますので、本書『宗教の言い分』をもって「宗教」についての対談は一区切りとなりました。心から尊敬する4人の先生方から学びを得ることができて、感無量であります!
「中外日報」より
アマゾンの内容紹介には、「多死社会における宗教の意味を問う!」として、以下のように書かれています。
「宗教学の重鎮・島薗進と、儀礼の重要性を世に問い続ける作家・一条真也が、宗教の過去と現在、そして未来の可能性について熱く語る。宗教が戦争の引き金になり、解決策すら見えない世界情勢の中、「宗教とは人類にとって何か」という疑問を抱く人も多い。では、もしこの世に宗教がなかったら、人間はどう生きるのだろうか。日本人の心性と思想史をひもときつつ、宗教についての根本的な問いに立ち戻ることで、宗教の意味と担うべき役割が見えてくる。宗教の本質をめぐるさまざまな問いからコンパッションと利他、グリーフケア、ウェルビーイングといった今日的なテーマまで、二人の泰斗が深く広く語る中から、宗教のあるべき姿が立ち現れる」
宗教学の重鎮・島薗進先生と
本書の「目次」は、以下の通りです。
まえがき(島薗進)
第1章 宗教の本質を語る
■もし宗教がなかったら
■言葉が宗教を生んだ?
■生まれ変わり
■出版と宗教
■全能感と「うき世」
■アニミズムとアニメーション
■龍信仰をめぐって
■陰陽と産霊
第2章 宗教の役割
■コンパッションについて
■宗教者の役割
■古事記・論語・般若心経
■人類は戦争を必要としているのか?
■月面聖塔への想い
■すべては一九九一年に変わった
■グリーフケアのゆくえ
■普遍思想をめざして
■エッセンシャルワークとブルシット・ジョブ
■創価学会と幸福の科学
■儒教ほど宗教らしい宗教はない
■神道と儒教と仏教
■グリーフの発生装置としての戦争
■民族宗教と世界宗教
■聖典・葬儀・宗教
■寺院とセレモニーホール
■グリーフケアの時代に
■宗教は無力か
■儀礼と儀式について
あとがき(一条真也)
第1回目の対談が行われた弘文堂の前で
「まえがき」を、島薗先生は「宗教についての暗いニュースは多い。世界各地でテロリズムや地域紛争や戦争のニュースが絶えないが、そこに宗教がからんでいることが多い。日本の場合は「カルト」が話題になるが、宗教がそのような方向に歪んでしまっていることが憂えられている。他方、宗教は大切なものだという観念も根強い。日本の世論調査などで、『宗教は大切なものだと思うか』と尋ねると、他の多くの国よりは低いものの、かなりの割合の人が『そうだ』と答える。本来のキリスト教や仏教に対する敬意は広範囲の人々に共有さえれている」と書きだします。
弘文堂会議室にて
続けて、島薗先生は「とはいえ、自分が何を拠り所にして生きているのかを問われると、やはり宗教が念頭に浮かんでくる。死をどう受け止めるのか、死を前にしてどう生きていくのか、こうした問いはやはり宗教に答えを求める必要があるだろう。よい生き方とは何か。自分の利益につながらなくても人のためになることをしなくてはならないのか。それはなぜか。なぜ、人を殺し、人を傷つけてはいけないのか。そもそも人は何のために生きているのか。良い生き方とはどういう生き方なのか。自分のなかにその答えになるものはあるのか」と書かれています。
大いに語り合いました
世界の人口のかなりの割合の人は、キリスト教、イスラーム、仏教などの宗教を信仰しています。また、その宗教によって以上のような問いへの答えの土台となるものが与えられていると考えています。自分ではよくわからなくても、近くに特定宗教による答えを述べることができる人がいると感じている人も多いです。しかし、島薗先生は「日本人の多くはそうではない。『無宗教』だと考えている人が多い。だが、一条さんと私は日本人は宗教に深く親しんできたし、今もそれほど宗教から遠ざかっているわけではないと考えている。本書はその考え方が基盤になっている」と述べられています。
宗教学の権威である島薗進先生
どうしてそう考えるのか。1つには儒教を宗教であるか、宗教と同等のものと考えていることです。儒教の影響を考えなくては、日本人の宗教性についての理解は浅いものにとどまるでしょう。島薗先生は、「宗教論の書物として儒教や孔子への言及がここまで多いものは珍しいかもしれない。だが、実は儒教を適切に理解することは日本の宗教理解にとって不可欠のことなのだ。たとえば、死生観だ。儒教は東アジアの人々の死生観に深い影響を与えて来た。中国や韓国もそうだが、日本もそうである。先祖を尊ぶのはその1つの表れだ」と述べておられます。
わたしも語りました
日本の仏壇のは位牌がありますが、それは仏教のものではなく儒教の要素が日本では仏教に入り込んだものというべきです。お墓参りに年に何度も行く人が多いのは日本の特徴です。死者との交わりが重視されていますが、これはアニミズム的な要素もありますが、儒教がそれを強めた面があります。島薗先生は、「そもそも仏壇が死者との交流の場となっているのは仏教というよりは儒教の影響と言えるだろう」と述べられています。もう1つは儀礼・儀式です。儒教は「礼」を重んじます。「礼」にこそ尊いものが宿るという強い信念がそこにあります。
『儀式論』(弘文堂)
「礼」というと礼儀やエチケットのような側面もありますが、儀礼を尊ぶことにも儒教の影響を見る必要があるのです。複雑多岐にわたる儀礼が尊ばれて来たことは、少なくとも近代以前の東アジアの特徴です。「神」とは何かがわかりにくい人も、「死」や「礼」については多くを実践しており、深い思いをかけています。死者に礼を尽くすという点で、東アジアは際立っており、仏教が優位に見える日本でもそうなのです。島薗先生は、「一条さんは、「死」と「礼」について博学で、独自の論を展開して来られ、『唯葬論』(2015年)、『儀式論』(2016年)などのがっちりとした書物も著して来られた方である。儒教を宗教として捉える有力なご著書がある加地信行先生との対談、『論語と冠婚葬祭』(2022年)も刊行されている」と述べられています。
笑顔の絶えない対談でした
そして島薗先生は、「この一条さんと、儒教と『死』と『礼』だけではなく、アニミズムについて、救済宗教について、また、『ケア』と『悲嘆』、そして『グリーフケア』について、さらに『利他』や『コンパッション』について論じている。上智大学グリーフケア研究所で講義をしていただいたときから、これらの話題について論じ合うことが二人の間で課題になっていた。『救済』という観点を重視するのは島薗の宗教論の特徴である。また、その観点と関わって新宗教にしばしばふれるのも島薗らしいところだ。天理教や金光教や創価学会に度々話が及ぶのもその表れだが、ブラバツキーやGLAの創設者、高橋信次への言及が多いのも、本書ならではの特徴だろう。日本の現実に即し、広く宗教について考えていくという点で、独自性の高い宗教座談であると自負している」と述べるのでした。
金沢で語り合う
「あとがき」の冒頭を、わたしはこう書きだしています。
「わたしは冠婚葬祭互助会を経営している。織田信長の『天下布武』にあやかって、『天下布礼』を掲げている。『礼』とは『人間尊重』のことであり、冠婚葬祭を通じて人間尊重の思想を世の中に広めたいと考えている。これまで、さまざまな言葉や考えに出合い、また自分自身も『ハートフル』のような言葉や考えを発信してきた。その中で出合ったのが『コンパッション』という言葉だった。教えていただいたのは、公私にわたってご指導をいただいている東京大学名誉教授の島薗進先生である」
語る一条
現在わたしが理事長を務める一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団は、上智大学・國學院大學・大正大学の三大学で公開講座を開いているのだが、その中の大正大の第1回公開講座(2022年9月24日)に島薗先生が登壇、「新たなケアの文化と地域社会―精神文化の役割の変容について講義をされた。講義は、「遠ざかる死と死生の文化」「グリーフケアと弔いの儀礼文化」「日本の死生学受容とグリーフケア」「ケアと利他のスピリチュアリティ」といった大きなテーマで進んだ。しかし、この日一番大きなインパクトを受けたのは、「悲しみをともにする共同体」としての慈悲共同体の考え方であった。
「コンパッション」について語る島薗先生
慈悲共同体モデルでは、死にゆく人と非公式の介護者が社会的ネットワークの中心に置かれています。このネットワークには、家族だけでなく、友人、隣人、同僚、雇用主、学校、信仰共同体なども含まれるといいます。都市としての慈悲共同体は「コンパッション都市」と呼ばれるそうですが、これには非常に衝撃を受け、かつ感動しました。これこそ、互助会が創造すべきコミュニティのモデルではないか。わたしは「コンパッション」という言葉を知ったとき、「これだ!」と思わず叫んでしまうほどの衝撃を受けました。直訳すれば「思いやり」ということになるでしょうが、「コンパッション」という言葉が内包している大きさは「思いやり」を超えるものでした。キリスト教の「隣人愛」、儒教の「仁」、仏教の「慈悲」など、人類がこれまで心の支えにしてきた思想にも通じます。
『コンパッション!』(オリーブの木)
それまでにも、宗教学者である島薗先生から、わたしは多くを学んできました。ご著書もほとんど拝読しています。最初にお会いしたのは法蔵館が発行する「仏教」という雑誌のパーティーで、宗教哲学者の鎌田東二先生から紹介していただきました。たしか1990年代の初頭だったと記憶しています。その後、島薗先生とは30年以上お付き合いさせていただいており、何度かシンポジウムのパネルディスカッションでも共演する機会を得ました。先生が上智大学グリーフケア研究所の所長だったとき、わたしが客員教授を務めさせていただいた御縁もあります。
『グリーフケアの時代』(弘文堂)
また、同研究所の教授だった鎌田先生を含めて、3人で『グリーフケアの時代』という共著も出しており、その版元がまさに弘文堂でした。さらに、2023年12月1日から公開されたドキュメンタリー映画「グリーフケアの時代に」でも島薗先生と共演。同作は初回上映に秋篠宮皇嗣妃殿下の臨席を賜ったほか、24年5月14日からは衆議院第一議員会館でも上映され、岸田文雄総理大臣をはじめとした多くの国会議員も鑑賞されたといいます。旧統一教会などのカルト宗教の蔓延を防ぐためにも、グリーフケアの普及が必須と考えたのではないでしょうか。
本書の対談は、2023年11月29日に東京は駿河台の弘文堂会議室において、また同12月16日に金沢は広岡の金沢紫雲閣において、合計2回にわたって行われました。対談の趣旨は、現代、さらに日本というくくりの中で、宗教の存在意義とその可能性を探るというもの。時代に合わせて宗教も変化すべきか。日本という国における宗教の存在理由、死生観は変わってきているのか・変わるべきなのか――コロナ感染を経験した今、戦争という最悪な形で、表出してきた宗教の今について語り合いました。
金沢でのトークショーのようす
わが国を代表する宗教学者であり、グリーフケア研究の第一人者であり、コンパッションの紹介者である島薗先生との対談は、大いなる学びとなりました。ある意味で昔から親しみのある師匠がお相手なので、楽しい時間を過ごさせていただきました。島薗先生には、心より感謝を申し上げたいです。日本における宗教の未来は「グリーフケア」や「コンパッション」が重要なキーワードになっていくことは確実であると思われます。ぜひ、そのあたりを本書の読者に読み取っていただければ幸いです。なお、『宗教の言い分』は6月3日に発売。布教したい人にも、逆に布教されたくない人にも非常に役立つ一冊だと自負しています。ぜひ、お買い求めの上、ご一読下さい!