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No.2400 プロレス・格闘技・武道 『兄 私だけが知るアントニオ猪木』 猪木啓介著(講談社)
2025.06.05
『兄 私だけが知るアントニオ猪木』猪木啓介著(講談社)を読みました。2022年10月、79歳で死去したプロレスラーのアントニオ猪木。闘病生活を支え、その最期を看取ったのが実弟の猪木啓介氏(77)でした。本書は、これまで沈黙を貫いてきた啓介がいま、「人間・猪木寛至」のすべてを明かした一冊で、貴重な証言がたくさん紹介されています。
本書の帯
本の帯には「実弟が明かす『人間・猪木寛至』の記録」「倍賞美津子『私のもとに帰ってきたのね、アントン』」と書かれ、帯の裏には以下の内容紹介があります。
◎空白のブラジル時代
◎力道山との出会い
◎倍賞美津子との結婚
◎新日本プロレス旗揚げ
◎新宿伊勢丹襲撃事件
◎「舌出し失神事件」の夜
◎地獄のアントン・ハイセル
◎「後妻」と一家断絶の修羅
本書の帯の裏
カバー前そでには、「『いままで、ありがとうな……』ほとんど聞こえない声ではあったが、確かにそう言ったように感じられた。私は何も言わず、兄貴の手を握った。言葉はいらない。いままでもそうだったじゃないか。俺と兄貴は兄弟なのだから」とあります。
アマゾンより
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「プロローグ」
「猪木家 家系図」
1章 横浜
2章 ブラジル
3章 新日本プロレス
4章 金曜8時
5章 アントン・ハイセル
6章 政界
7章 修羅
8章 大団円
「エピローグ」
「アントニオ猪木 年譜」
「プロローグ」では、著者が「最晩年の兄貴は、老いる肉体を隠すこともなく、カメラの前に病身を晒してメッセージを発信し続けた。ファンの方々は、その姿をおおむね好意的に受け止めてくれた」と書いています。わたしを含めた多くのファンは、「さすがアントニオ猪木だ。弱い自分、衰えた自分をありのままに見せることができる。本当に強い人間にしかできないふるまいだ」と見ていました。著者は、「大変ありがたい評価であり、それもまた真実とは思ったが、正直に言えば私はそれらの声とは少々異なる思いを抱いていた」と書きます。
続けて、著者は「兄貴は無類の寂しがり屋だった。リングの上で雄叫びを上げ、ライバルを打ち負かし続けた『燃える闘魂』のイメージとは裏腹に、孤独にはからきし弱く、女性を口説くなどもってのほか。周囲からの注目と称賛を糧にして生きているような演劇型人間だった。体の自由が利かなくなっても最後までメディアの取材を受け続け、連日のように病床から親しい関係者に電話をかけ続けた姿に、私はトリックスターであり続けた兄貴の強さと弱さを同時に感じ取っていた」と述べるのでした。これは長年の猪木ファンであるわたしも虚を突かれた思いでした。ここには、アントニオ猪木の“終活の真実”が語られています。
1章「横浜」の「『必然』だった力道山との出会い」では、猪木寛至がプロレスラーになったのは力道山との「偶然の出会い」がきっかけとされていることについて、著者は「もし、その出会いがなかったら『アントニオ猪木』はこの世に誕生していなかったのだろうか。私は断言する。答えは『ノー』だ。兄貴は、猪木家がブラジルに移民する前から『プロレスラーになる』という目標を定めていた。陸上競技に励んだのも、その先に五輪があり、世界の舞台で有名になってプロレス界に入るという遠回りのビジョンがあったからだ。別の言い方をすれば、力道山との出会いは『偶然』ではなく『必然』であり、仮にその出会いがなかったとしても、兄貴はいずれリングに立つという少年時代の夢を実現させていただろう」と述べています。これには、わたしも驚きました。
「プロレス誌『ファイト』を愛読」では、猪木寛至がいつ、プロレスラーという職業を意識するようになったのかについて、著者は「それは一家でブラジルに渡る前だったことは間違いない」と述べます。また、「私や兄貴たちは、時間になると菓子折りを持って隣のお宅にお邪魔し、正座しながら力道山のプロレスを観戦した。覚えているのは、外国人選手には負けが多かったイメージのある遠藤幸吉が、なるべく出てこないように願っていたこと。またハーディ・クルスカンプという弱めの外国人選手が出てくると、日本人選手の勝利確率が高まるので嬉しかったことである。言うまでもないことだが、私も兄貴もエース力道山の応援団である」と述べるのでした。
当時、猪木家には何度か大相撲の親方がスカウトに訪れていましたが、寛至少年は「相撲はちょっとなあ」と乗り気ではない様子だったそうです。角界では千代の山や栃錦といった横綱が活躍していましたが、猪木家には相撲に興味を持つ者がなぜか少なく、スポーツと言えば空手、陸上、そしてプロレスが「3本柱」となっていたとか。著者は、「兄貴はプロレス中継を観戦するだけでは飽き足らず、後に全日本プロレスの解説者をつとめることになる田鶴浜弘さん(プロレス評論家)が編集していた『月刊ファイト』というプロレス・ボディビル誌を母に頼んで購入してもらい、それを毎月楽しみにしていた。私が見たところ、兄貴は力道山への憧れもあったが、その力道山にも勝っていた『鉄人』ルー・テーズにより大きな幻想を抱いていたような気がする」と述べています。確かに、アントニオ猪木にはルー・テーズのイメージが重なりますね。体格や筋肉の付き方もよく似ていますし。
1957年(昭和32年)2月下旬、猪木一家は横浜港から移民船「さんとす丸」でブラジルに渡ります。途中、停泊した港で寛至が買った安いバナナを食べた祖父が亡くなります。寛至は大きなショックを受けました。「祖父・寿郎の急死」で、著者は「体の大きかった兄貴が、あそこまで泣き崩れた姿を私は見たことがなかった」と書いています。祖父の葬儀は船上で行われました。「さんとす丸」に乗る日本人がみな正装で甲板に集合し、祖父の冥福を祈りました。遺体がおさめられた棺に海底に沈めるための錘が入り、猪木家の人々は最後のお別れをしました。その棺は日の丸の旗で巻かれ、クレーンにて水葬されたのです。葬儀を取り仕切った船長は、「偶然にも、ここは赤道直下にあたる。赤道を通る世界の船はみな、汽笛を鳴らすことになっている。このいつまでも賑やかな海で、おじいさんが寂しい思いをすることは決してないでしょう」と家族に語りかけたそうです。
5章「アントン・ハイセル」の「アントン・トレーディング」では、ブラジルとの貿易業を始めたアントニオ猪木が何でも日本に持ってきたことが紹介されます。ブラジルの珍しい動物が人気で、「コアチ」というハナグマの一種や日本の土佐犬に似たブラジル犬「フィラ・ブラジレイロ」。そのほかにもモルフォ蝶、魚の化石、猛獣のはく製・・・・・・陶陶酒本舗という薬用酒の会社に頼まれて、研究に使う毒蛇を持ってきたこともあるそうです。著者は、「いまでは持ち込みも許されていないはずだが、当時は日本の税関の前で毒蛇の入ったカゴを置くと、顔をしかめた係員に『頼むから早く行って!』と追い払われるのがオチだった。兄貴自身も珍しい野生動物が好きだった。まだ新日本プロレスを旗揚げしたばかりの時代、小さなライオンを自宅で飼っていたことがある。これは私ではなく知人がアフリカから仕入れてきたものだが、私はそのお世話係を押し付けられた」と書いています。
6章「政界」の「『アントニオ猪木』に関する最大の誤解」では、著者は「なぜ兄貴の周囲にいる人間は離反するのか。選手しかり、フロントしかり、あるいはビジネス上のパートナーしかり、アントニオ猪木を取り巻く人間は必ずと言っていいほど離合集散を繰り返す。どうしてそれが起きるのかといえば、兄貴の持って生まれた性格を周囲が誤解しているからである」と述べます。アントニオ猪木はスター選手ですが、いわゆる「親分」ではないといいます。リングの上では相手の持ち味を引き出し、最高に輝かせることを得意としましたが、団体の経営者として部下の能力を引き出したり、人材を育成しマネジメントする力はまったくゼロで、著者は「あくまで自分は神輿の上に乗っているだけで、自分のために尽くしてくれる籠をかつぐ人、ワラジを作る人の心の内側には、なかなか思いが至らない人間だった」と述べています。
タテ社会のプロレス団体には、猪木に憧れた若者が入団してきますし、社員も「アントニオ猪木のために働きたい」という気持ちが土台にあります。著者は、「トップの兄貴がもう少し全体に目配りして、たとえば頑張っている若手を抜擢したり、会社に貢献した社員を人事や報酬で報いたりすれば違ってくるのだろうが、『他人の面倒を見る』という親分肌の性格を持ち合わせていない兄貴はいつも『てめえは勝手に生きろ!』と薄情なことを言う。最初は『一生、猪木さんについていきます!』と心に誓っていた選手たちも、どこかで兄貴の非情な一面に触れ、気持ちが離れていってしまう。アントニオ猪木に幻想を抱き、親分肌の人間であると思い込んでいる人ほど、その傾向が強い」と述べます。
「プロレス版『イカロスの翼』」では、アントニオ猪木の名参謀であり、「過激な仕掛人」として知られた新間寿について言及しています。著者は、「新間さんについては、あまりにも自己評価が高すぎた。アリ戦の実現に新間さんが尽力したことは事実だが、お金を出したのは新間さんではないし、多くの人が黒子となって動き、彼ら全員の努力によって実現したものだ。それを何十年にわたり『私がやった』と自慢し続けるのは、もはや不遜というべきである。アントニオ猪木が『お前は、俺がいるからいい思いができるんだろう』と言うのは、良くないことだが間違ってはいない。だが新間さんが『私がいてこそのアントニオ猪木である』と自慢するのは、おそらく間違いだと私は思う」と述べています。これも意外で驚きましたが、確かにそうかもしれませんね。
「格闘技とプロレスの『交戦』」では、自身の引退後に新日本プロレスのレスラーたちを総合格闘技の舞台に出し続けたアントニオ猪木に対して、著者が「兄貴、プロレスラーが格闘技のルールで戦っても勝てないんじゃないか」と言ったことが明かされます。すると、猪木は「俺たちは、いつでも誰とでもやるんだと。そういう気持ちで新日本を立ち上げたんだ。啓介、お前も分かっているだろう」と答えたそうです。また、「いまの奴らは、プロレスと格闘技は別物だという。そうじゃねえんだよ。一緒なんだ。プロレスラーだから格闘技には勝てません、というのは言い訳だ。それを言ったらもうプロレスは終わりなんだ」とも言ったそうです。著者は、「プロレスに『強さ』は必要なのか。それに対する考え方はいろいろある。相手の技を受けて勝つプロレスラーと、受けずに勝つ格闘技選手では必要とされる技術が異なるから、『プロレスラーが格闘技のルールで戦っても勝てない』という主張は間違っていないように見える」と述べます。
ただ、アントニオ猪木は頑としてその理屈を認めなかったそうです。「真剣勝負の強さを求める意味が分からない」ということをプロレスファンが言うのはよくても、プロレスラーがその考えに甘んじるのは許されないというのがアントニオ猪木の哲学でした。普段は「鷹の爪」のように隠されていますが、いざとなれば発動される「本物の強さ」があってこそプロレス界の秩序が保たれるのであり、プロレスラーの価値も担保されるとして、著者は「事実として、兄貴はアリやペールワンを相手に、それを実践してきた。だが、いまの選手たちに新日本の『創業精神』が理解されていない。兄貴はそのことに大きな危機感を抱いていたと思う。新日本の選手たちを格闘技のリングに送り込んだのも、プロレス界が置かれている厳しい現実を突きつける、アントニオ猪木流のショック療法だったと私は思っている」と述べるのでした。
7章「修羅」では、アントニオ猪木が最晩年に伴侶として選んだ「ズッコ」こと橋本田鶴子さんのことが取り上げられています。著者をはじめとする猪木家と橋本さんの関係は最悪でした。「家族からの電話を『ブチ切り』」では、「アントニオ猪木を自分だけが独り占めしたいという独占欲もあっただろう。ただ、私は猪木家から兄貴を完全に孤立させようとする橋本さんの行動に恐ろしさを感じた。これはいわゆる『後妻業』ではないかと思ったのである」とまで書かれています。
「『プロ後妻』疑惑」では、初老の男が、妻以外の献身的な年下女性に出会ったとき、すべてを捨ててその女性に走ってしまうということは決して珍しくないとして、著者は「上原謙や高倉健のような俳優にもそんな状況があったと記憶しているし、やしきたかじんの場合は遺産をめぐるトラブルにも発展した。なぜ、そのようなことが起こるのか。最大の原因はカネだ。橋本さんには『他者を徹底排除する』という悪癖があった。なぜ、そういうことをするのか。私はそこに大きな『見返り』があったから、兄貴に近づいたとしか思えないのだ。要するに、橋本さんにとってアントニオ猪木との関係はビジネスだったということだ」と述べています。
8章「大団円」の「タワーマンションへ最後の引っ越し」では、橋本さんが亡くなった後、麻布にある古いマンションの4畳半の一室で暮らしていましたが、それを見かねた著者らが連れ出して、白金台のタワーマンションに引っ越したことが紹介されます。YouTubeの動画などは、この新しいタワーマンションから配信されたようです。また、ブログ「燃える闘魂 ラストスタンド」で紹介した2021年11月27日にNHK・BSプレミアムで放送(その後、NHK総合でも放送)された番組「燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ」の取材・収録もここで行われました。著者は、「兄貴は、自分を古くから知る友人たちによく電話をかけていた。旗揚げメンバーの藤波さんや、猪木プロレスの理解者だった作家の村松友視さん、アメリカにいる寛子さん……いまさら特段の用事もないが、人生の終焉が近づいていることを、兄貴なりに感じていたのだろう。ときには電話をしている間にそのまま意識が薄れ、寝てしまうこともあった。最後まで、寂しがり屋な兄貴だった」と述べます。
「私のもとに帰ってきたのね、アントン……」では、アントニオ猪木が亡くなったときの様子が書かれています。ドクターが死去を宣告してからわずか1時間もしないうちに、アントニオ猪木の訃報は全国を駆け巡りました。葬儀で喪主をつとめることになった著者は、IGFとの打ち合わせ、親類への連絡、弔問客や報道関係者への対応に追われ、兄貴の死を静かに悼む時間はなかなか訪れませんでした。葬儀には故人の愛娘である寛子さんも参列。葬儀が終わった後、アメリカに戻る前の寛子さんが立ち寄った場所がありました。実の母である倍賞美津子さんの自宅です。著者は、「美津子さんは、兄貴が亡くなったあとに白金台のマンションを弔問し、兄貴のなきがらの前で手を合わせてくれた。寛子さんは、火葬されお骨になった兄貴を美津子さんに見せた。すると、美津子さんはこう語りかけたという。『やっぱり私のもとに帰ってきたのね、アントン……』」と書いています。
「エピローグ」では、著者は「プロレスという仕事を通じても学んだことがある。それは『抜かずの宝刀』を備えることの意味だ。プロレスの試合において、選手は鞘から刀を抜く必要はない。しかし、その使われない刀を常に研ぎ澄ましておかなければ、プロレスはたちまち衰退する。現役時代の兄貴はその理念を実践し、結果としてプロレスというジャンルを思想の領域にまで高めた。猪木プロレスが時代のなかで圧倒的な支持を集めることができたのは、成立するはずがないと思われた『実力主義のプロレス』を提唱し、それにこだわり続けたからだと思っている」と述べています。
プロレスとは時代を映す鏡であるという著者は、「アントニオ猪木というプロレスラーの評価が、歴史のなかに定着するのはもう少し先の話になるのだろう。あのモハメド・アリ戦が20年、30年後に再評価されたように、猪木プロレスの意味を検証する作業はまだ終わっていない。私は、人々のなかにあるアントニオ猪木の記憶がこの世からすべて消え去ったとき、初めて兄貴は歴史上の人物になるのだと思っている。その意味で言えば、アントニオ猪木はまだ生きている。兄貴の生きがいは、ひとりでも多くの人間を、リングの上の自分に振り向かせることだった。願わくば、ファンの方々には猪木を語り、猪木を思い、猪木を考え続けていただきたいと思う」と述べるのでした。本書は、実弟の発言だけあって、これまで知らなかったアントニオ猪木の真実を多く知ることができました。膨大な猪木本の中でも、本書の資料的価値は大きいと思います。わたしが「アントニオ猪木の後継者」と確信している前田日明氏と対談する前に本書を読むことができて良かったです。