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No.2401 プロレス・格闘技・武道 『猪木のためなら死ねる!2』 藤原喜明・前田日明・鈴木みのる著(宝島社)
2025.06.10
『猪木のためなら死ねる!2』藤原喜明・前田日明・鈴木みのる著(宝島社)を読みました。「『闘魂イズム』受け継ぎし者への鎮魂歌」というサブタイトルがついています。メイン著者の藤原喜明は1949年、岩手県生まれ。72年に新日本プロレスに入門。新人時代からカール・ゴッチに師事し、のちに“関節技の鬼”と呼ばれる。84年に“テロリスト”としてブレイク。同年7月に第一次UWFに移籍し、スーパー・タイガー(佐山聡)や前田日明らとUWFスタイルのプロレスをつくり上げる。その後、新生UWFを経て、91年に藤原組を設立。藤原組解散後はフリーランスとして新日本を中心に多団体に参戦。2007年に胃がんの手術をするも無事生還し、今も現役レスラーとして活躍中。
本書の帯
カバー表紙には、闘魂タオルを首に巻いたアントニオ猪木とともにリングに立つ藤原喜明の写真が使われています。帯には「藤原組長『独占告白』第2弾!」「俺は猪木さんから褒められるためにずっと生きてきた」「胸熱エピソード満載!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「佐山聡、ドン荒川、小林邦昭、長州力、坂口征二、グラン浜田、星野勘太郎、栗栖正伸、キラー・カーン、木村健吾、カール・ゴッチ、山本小鉄……猪木に溺れた男たちの痛快&感涙エピソード!」と書かれています。また、カバー前そでには、「猪木さんに出会えて俺は幸せだった! 藤原喜明」とあります。
アマゾンの内容紹介には、「猪木が最も信頼した弟子・藤原喜明が語る“昭和新日本”の不適切&胸熱エピソードの数々。酒、オンナ、喧嘩、理不尽、ガチンコ、そしてアントニオ猪木。人生に必要なことはすべて猪木から学んだ――。そう言える男たちは魅力的すぎる!」として、「昨年1月に発売され大反響を読んだ藤原喜明による独白本の第2弾。今回は、藤原の脳裏に焼き付いて離れない、猪木の愛弟子たち、愛すべき仲間とのエピソードを語り尽くした。小林邦明、山本小鉄、ドン荒川、佐山聡、長州力、坂口征二……猪木に“溺れた”レスラーたちが繰り広げた不適切にもほどがあるエピソードの数々。猪木が死んで2年半。ついに明かされる、ラスト4行の衝撃――。前田日明、鈴木みのる、天龍源一郎との特別対談も収録」と書かれています。
本書は、ブログ『猪木のためなら死ねる!』で紹介した藤原喜明・佐山聡・前田日明の共著の続編です。宝島社のプロレス本は名著揃いですが、前作も本作も大変興味深く読むことができました。特に、猪木の全盛期に付け人をしていた藤原の証言は貴重ですね。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
第1章 がんになってわかった
猪木と仲間たちの“ありがたさ”
第2章 ドン荒川、豊登、山本小鉄……
“不適切すぎた”昭和新日本の怪物たち
“闘魂の遺伝子”対談1
苦しくも楽しかった昭和新日本の“闘い”と
“下ネタ”の日々!
藤原喜明×前田日明
第3章 坂口征二、キラー・カーン、長州力……
根底で認め合っていた昭和新日本の同志たち
“闘魂の遺伝子”対談2
猪木とゴッチの教えをともに学んだ
“プロレス界の親父”への感謝
藤原喜明×鈴木みのる
特別収録対談
新日本と全日本の看板を背負った
“昭和レスラー”の意地とプライド
藤原喜明×天龍源一郎
第4章 10年間の“鞄持ち”で熟知した
猪木の優しさと命がけの闘いへの姿勢
終章 「猪木のためなら死ねる!」
本当にそう思わせてくれる人だった
第1章「がんになってわかった猪木と仲間たちの“ありがたさ”」では、藤原喜明が2007年に胃がんを患ったことが明かされます。58歳のときでした。そのとき、アントニオ猪木がすごく心配して、連絡をくれたそうです。藤原は、「猪木さんはお兄さんを胃がんで亡くしているから、心配してくれたんだろうな。IGFの会見後、俺が胃がんだったことが新聞に載って、それを見た前田(日明)から『大丈夫ですか?』って電話があったんだよ。『藤原さん、死んじゃ嫌ですよ。悲しいですよ』とメソメソしながら言うから、『馬鹿ヤロー、まだ生きてるよ!』って(笑)」と述べています。
藤原は、「前田はいろんなもんを送ってくれるんだよ。俺は胃がんをやってから8年間タバコをやめてたのに、『いいパイプタバコが手に入りましたよ』ってごっそりくれたりな。『馬鹿ヤロー、俺はタバコをやめてたんだよ』と言ったら、『肺に入れないから大丈夫ですよ』って言うんで、そっからパイプだけは吸うようになってね。ゴッチさんもパイプは吸ってたからな。それで前田は俺の事務所に来るたびにパイプ煙草を持ってきてくれるようになったんだけど、その代わり俺がつくった焼き物を持って帰るんだよ。あいつは焼き物にも詳しいからさ」と述べます。
また、藤原は「あとは佐山聡も電話をくれたな。佐山は『僕、がんが治るいい水を知ってますよ』と、段ボールで送ってくれたよ。事務所に置いてちょこちょこ飲んでいたけれど、飲んだ感じはただの水としか言いようがないし、それが効いたのかどうかもわからない(笑)。佐山も前田も猪木さんと似たところがあるんだよな。信じ込みやすいというか、騙されやすいというか。でも、そうやって俺の体を心配して電話をくれたり、何かを送ってくれたりするんだからありがたいよ。大病をしたときこそ、誰が本当の友達なのかわかるのかもしれないな」と述べるのでした。いい話ですね。
第2章「ドン荒川、豊登、山本小鉄……“不適切すぎた”昭和新日本の怪物たち」の「山本小鉄から学んだ『理不尽な根性論』と『女の口説き方』」では、山本小鉄の非科学的な根性論の指導法は今なら間違いなく問題になっているし、下手したら逮捕されていてもおかしくないとした上で、藤原は「小鉄さんは昔から道場で竹刀を持っていたんだけど、あれは手で殴ると手が痛いから竹刀を使っていたわけだからな。ただ、あの常軌を逸した厳しい練習がプロレスラーという怪物を生み出していたことも確かなんだ」と述べています。
スクワットでも腕立てでも、「もう限界だ……」と思ったところで小鉄から竹刀でバチーンと引っ叩かれたそうです。そうすると「小鉄の野郎~! そうはいくかい!」っていう怒りがパワーになって、あと10回とか15回できたといいます。だから、ああいうことも多少は必要なのかもしれないとして、藤原は「自分の限界を超えるためにはね。俺だって『強くなって、いつか小鉄を殺してやる!』みたいな思いで必死に練習をしたし、どうしても怒りが収まらないときは、台所の包丁を持ち出して寮の裏の白樺の木を斬りつけてな。やりすぎて白樺の木が枯れちゃったけど(笑)」と語るのでした。
山本小鉄が若手レスラーに食べさせる食事の量も尋常ではなく、入門したばかりの前田日明などは腹一杯食べさせられてさらに「あとドンブリ3杯食え!」などと言われていたそうです。藤原は、「今考えると昔のプロレスラーが怪物だったのは、そういうことにも耐えられるような体を持った人しか生き残れなかったんだよ。運動能力や根性があるだけじゃなく、メチャクチャメシが食えたり、メチャクチャ酒が飲めたり、生まれつき内臓もとんでもなく強い人じゃないとプロレスラーにはなれなかった」と述べます。
そうやって振り落とされていたから、藤原が入ったあとは3年以上誰も残らなくて、ようやく残ったのが佐山聡だったそうです。1年で100人くらい入門してきたのに、デカくて才能がありそうだなと思った者もみんな辞めていったといいます。藤原は、「あの道場では、まず精神がズタズタにやられるだろ。次に体もズタズタにやられるだろ。それでも生き残れたのは生命力としか言いようがない。そこでコーチをやっていた小鉄さんは、今ならパワハラだなんだで間違いなく訴えられてるだろうけど、プロレス団体にはああいう憎まれ役が必要だったのかもしれないな」と述べるのでした。凄まじい話ですね!
「闘魂イズム」コラム②「藤原が始めた『カール・ゴッチ教』と晩年のゴッチが愛用したマグカップ」には、「船木誠勝、鈴木みのるらの大量離脱があって以降、藤原組は団体経営に苦心したが、道場の維持費も悩みの種のひとつだった。広さがある分、家賃が72万円もかかっていたのだ。そこで藤原は、道場の有効活用に乗り出す。どんなテレビ番組でもロケ地として受け入れ、またファン参加の『関節技セミナー』を随時開催した(参加費は7000円。弁当付き)。さらに一般マスコミにも報じられる企画となったのが「道場婚」。道場とリング上を舞台にした。結婚式と披露宴であった(弟子の石川雄規もここで披露宴をしている)。そして、結婚式の宗派は、『カール・ゴッチ教』!『寝技に強くなる』のが売りの宗教で、牧師役は自前の衣装で藤原が務めた。本当にゴッチを“神様”にしたのだ」と書かれています。これは、初めて知りました。
“闘魂の遺伝子”対談1「苦しくも楽しかった昭和新日本の“闘い”と“下ネタ”の日々!」の「日本のプロレスは武藤の発言で死にましたよ」では、 藤原喜明と前田日明の間で以下の対話が展開されています。
前田 日本のプロレスは武藤(敬司)の発言で死にましたよ。
藤原 何か言ったの?
前田 「強さなんか求めてもしょうがないじゃないか。俺らはアマチュアの時に散々やってて知ってるから。プロレスと強さってなんの関係があるんだよ」みたいなことを言ってるんですよ。
藤原 なにぃ。そんなこと言ってんのか。
前田 だから武藤は俺と対談するときは、いつも気をつかうんですよ。もうアイツがしょうもないことを言ったら、臨戦態勢でしばいてやろうと思ってるからさ(笑)。
リングスができて前田が1991年に初めてロシアに行った時、共産党が運営しているスポーツマンホテルというメダリスト級の選手しか泊まれないようなところに泊めてもらったそうです。すると、フロントのロビーに「ハリウッド女優か!?」みたいなキレイな女の人がたくさんいたそうです。前田が自分の部屋に入ったら、コンコンってノックされて「ドウデスカ? ワタシ、トモダチニナリタイ」ってカタコトの日本語で話してきたとか。ロビーにいた美女はそういう女性だったわけですが、前田は「俺はずっと断ってたんだけど、一人すごくキレイなんだけど押しが強い女の人がいてさ。『私、日本の友だちがたくさんいます』って名刺を出してきたんだよ。その名刺を見たら、極真空手のお偉いさん、少林寺拳法のお偉いさん、全日本柔道連盟のお偉いさん、あと有名なオリンピック選手とか持ってるんだよ。『なんだコイツら、みんな兄弟じゃねえか!』って(笑)」と語っています。これは爆笑ですね!
「前田がつくった『総合格闘技』という造語」では、以下の対話が展開されています。前田 そもそも「総合格闘技」っていう造語は俺が言い出したんだよ。新生UWFの頃、「UWFってなんですか?」って聞かれたから、「ガス燈時代の様な技術を競うレスリングです」と言ったら、「それはプロのアマチュアレスリングですか?」と聞かれて、「今は関節技だけではなくて、パンチ、キックもあるので、たとえるなら『総合格闘技』という言葉ですね」と説明したんだよ。
―― UWFがやっていたことって、前田さんがデビュー前に猪木さんに言われたという、「他の格闘技の連中が観ても納得するようなプロレスにしていく」ということですよね?
前田 そう。猪木さんに言われたことを実際にやっただけだよ。
藤原 俺だってそうだよ。「プロレスは闘いである」というもともとの考えは猪木さんだもんな。でも、お客さんを入れないことには商売として成り立たないから、月に1試合じゃみんなの給料を払えないから、猪木さんはUWFみたいなことができなかったんだろう。
「闘魂イズム」コラム③「ゴッチ道場で武者修行中の藤原に日本から前田が送った‟レア“雑誌」の「前田の「脳の病気」を見抜いた藤原」では、前田が藤原に命を助けられたことがあるというエピソードが紹介されます。伝説のドン・中矢・ニールセン戦(86年10月9日、両国国技館)の試合後、藤原は周囲に「今晩、アキラに酒を飲ますな。飲ませたら逝っちまうからよ」と厳命したそうです。その日、酒を飲むことはなかった前田ですが、3日後、バーで水割りを口にします。すると前田は、一瞬にして激しい嘔吐を繰り返し、病院へ運ばれました。診断名は脳が腫れるクモ膜のう胞でした。ニールセン戦での打撃の食らいぶりから、脳が腫れていると見た藤原の眼力でした。
第3章「坂口征二、キラー・カーン、長州力……根底で認め合っていた昭和新日本の同志たち」の「チャンスを掴んだ長州は天才、チャンスを与えた猪木も天才」では、長州が、藤波への“噛ませ犬発言”から一躍メインイベンターになったことについて、藤原は「彼がようやく何かを摑んだんだろう。『これだ!』みたいなものをね。誰しも人生を左右するようなチャンスというものが1回か2回はあるもんなんだよ。それを一発で摑めるかどうかは、普段から努力したり考えたりして準備ができているかどうかにもかかってくる。だけど才能がないヤツはチャンスが来たことさえ気づかないわけだ。だから誰より大きなチャンスをつかんだ長州は天才なんだよ。もし、あのタイミングで長州にチャンスを与えたのが猪木さんだとしたら、やっぱり猪木さんも天才なんだよ。長州の鬱屈した思いが膨らんで膨らんで最大限に膨らんだところで、爆発させるきっかけを与えたっていうことだからな」と語っています。
「闘魂イズム」コラム⑤「藤原が『全財産をやる』と喜んだ髙田のU移籍と残念な現在の関係」のでは、新日本プロレスの若手レスラーたちから恐れられていた藤原の特に厳しい叱責の標的になったのが髙田延彦だったことが明かされます。入門2年目の81年7月16日、北海道北見市での試合後、猪木、坂口征二らと酒席を囲んだ髙田は藤原に対して、「藤原さ~ん、飲んでないじゃないですか~?」と、不用意な発言を放ちました。瞬間、藤原の顔色が変わって、「お前、いい根性してるな」と言い放ちます。翌日の稚内市体育館大会の試合前、藤原にスパーリングの相手に指名された髙田は、半殺しにされたそうです。また、夜遊びをして帰って来た髙田を、兄貴分で寮長の前田日明が発見すると、翌日、髙田に藤原とのスパーが用意されていました。髙田を寝技で組み伏せた藤原は、「お前に遊びは10年早い」とドスの利いた声で脅し、スパーで半殺しにしたといいます。前田の告げ口でした。
“闘魂の遺伝子”対談2「 猪木とゴッチの教えをともに学んだ“プロレス界の親父”への感謝」の「藤原組の頃、俺は試合よりも練習のほうが緊張していた」では、藤原喜明と鈴木みのるに以下の対話が展開されています。
藤原 要するに、レフェリーから「はい、あなたの勝ち!」って言われるだけじゃ、ゴッチさんは納得しないんだよ。相手に「まいった!」と言わせて、二度と歯向かってこないくらいに屈服させて初めて「勝った!」っていうのがゴッチさんの考えだったから。
鈴木 俺が新日本の若手時代、スパーリングで相手の腕を極めてギブアップしたんですぐに手を離した時、猪木さんに「お前、そこですぐに離しちゃったら、そのあと目をえぐられるぞ」って言われたんですよ。
藤原 ガツッと極めて相手が「まいった」したら、少し手を緩めるけど押さえつけたまんまにして反撃させないようにするっていうのは、“実戦”では大事なことなんだよ。歯向かってくるヤツ、仕掛けてくるヤツ、自分を“殺し”にくるヤツに対しては、ちょっと後遺症が残るぐらいに痛めつけないと、またやってくるからな。
現在の格闘技のスパーリングは、ギブアップを取ったら立ち上がって、「はい、ここからもう一度!」というのが当たり前になっていますが、昔の道場でのスパーリングはそういうことはありませんでした。腕を極められてギブアップしたら、その手を離すだけで上から押さえ込んだまま、違う形でまた取られました。それを踏まえて、藤原が「俺らがやってることはスポーツじゃないからね」と言えば、鈴木は「その『スポーツじゃない』っていうのを自分がホントに理解できてきたのは、ここ最近かもしれないですね。藤原組時代、藤原さんや他の選手たちとスパーリングを毎日やって自分が強くなっていってる実感があった頃、「これはナイフみたいなもんで懐にしまっておくものだ。振り回すもんじゃない」って、藤原さんによく言われたんですよ。でも、当時の俺にはその意味がわからなかった。だから試合でも練習でもそのナイフを振り回して、それこそ藤原さんにも刃を向けるようになって、最終的には斬り合いをするような場を自分たちでつくっちゃった。それがパンクラスだったんで」と語るのでした。
特別収録対談「 新日本と全日本の看板を背負った“昭和レスラー”の意地とプライド」の「馬場さんの悪口を言えるのは俺しかいない」では、藤原喜明と天龍源一郎の以下の対談が展開されています。
天龍 馬場さんってね、後年よくネタにされてたけど、「あれだけ足腰が強い日本人、他にいるか?」って、あの(ブルーザー・)ブロディがよく言ってたからね。
藤原 だから俺も初めて当たった時、「なんだ話が違うじゃねえか!」って思って(笑)。「ジャイアント馬場はダメだ」って聞いてたのに、すげえよこの人ってね。
―― 馬場さんも藤原さんのことを認めてたんですよね。
藤原 自分のことを買ってくれたんですよ。これは言っていいのかわからないけど、渕さんがられたらしいですよ。「馬鹿野郎。お前より藤原のほうがよっぽどうまいぞ」って(笑)。
天龍 馬場さんは「すべてを飲み込んで、魅せるのがプロ」っていう考えがあったから、スパーリングの強さをあえてひけらかさない藤原さんに対して、プロを感じたというか。すごく好感を持ったんじゃないかな。俺はそう勝手に思ってるよ。
藤原は新日本時代に「アントニオ猪木あってのこの会社」と思っていましたが、天龍も「ジャイアント馬場の顔に泥を塗ってはいけない」という気持ちでリングに上がっていたそうです。以下の対話が展開されます。
天龍 俺だって酒を飲んだら馬場さんの悪口を言うかもしれないし、藤原さんだって飲んだらいろんなことが出てくる。でも、それは気心が知れているからであって、馬場さんの悪口を言えるのは俺しかいないと思ってるし、そこは容赦してほしいと思ってますよね。他のヤツが言ったら、「お前に何がわかるんだよ!」って、ことさらに思う俺たちだから。
藤原 プロレスラー流の愛だよね。だから前田日明も、アントニオ猪木のことをあれだけボロクソに言いながら、よそのヤツが猪木さんのことをなんか言うと、「お前に何がわかるんや!」って怒るんですよ(笑)。
天龍 ああ、そう! あの前田日明が(笑)。
藤原 あいつ、そうなんですよ。ボロクソ言っても憎くて言ってるわけじゃなくて、心の底で信頼関係や、愛みたいなものがあるんです。
天龍 前田選手が「お前にアントニオ猪木の何がわかる!」って言うのは、最高にいい一言だね。俺も全日本うんぬん、馬場さんうんぬんを言われると、「何言ってるんだ!」って思うもん。
第4章「10年間の“鞄持ち”で熟知した猪木の優しさと命がけの闘いへの姿勢」の「ルスカとの友情」では、猪木は一連の異種格闘技戦などで、どんな未知の格闘家が相手でもちゃんと試合を成立させてきたとして、藤原は「知らない相手、ましてや何をしてくるかわからない相手とやるというのは怖いもんだよ。その究極がパキスタンでのアクラム・ペールワン戦(1976年12月12日、カラチ・ナショナルスタジアム)なんかだけどな。俺は猪木さんのそういう闘い、プロとしての姿勢を長年間近で見てきたから、自分も相手がゴメスであろうが誰であろうが、しっかりとした試合を見せることを心がけてきた。だからウィレム・ルスカが新日本に参戦してきた時、いちばん多く対戦したのは俺じゃねえかな? ルスカが猪木さんとやる前に、新日本側からスパーリングの相手をしたのも俺だったしね」と語っています。
終章「『猪木のためなら死ねる!』本当にそう思わせてくれる人だった」の「アリ戦後、猪木さんは控室で泣いた」では、昔、猪木が写真週刊誌に撮られたときのエピソードが披露されます。藤原は、「相当頭にきたんだろうな。バキュームカーを手配して出版社に横づけしてクソをぶっかけようとしたことがあったんだよ。すげえことを考えるよな」と語ります。その時、藤原は「私が行きましょうか? 懲役が半年くらいだったら行ってきますよ。半年以上はちょっと嫌ですけど」と言ったところ、猪木は「ありがとう。でも行かなくていいぞ」と答えたそうです。藤原は、「まあ、鞄持ちをやっていた頃、猪木さんの盾になろうと思っていたのは本気だったよ。猪木さん自身が命懸けでプロレスの地位を向上させるために闘っていたからね。だから俺が観てきた猪木さんの最高の試合はアリ戦だよ。プロレス史上、あとにも先にもあれ以上の緊張感がある試合はないだろう。あんな最高の試合を一度観たら、もう他の試合は観られなくなるよ」と語っています。
「『心臓が止まるまで』が俺の現役」では、藤原は「俺は今75歳で、キャリアは52年になった。自分のベストバウトなんて聞かれても一つを挙げることはできない。プロレスラーにとって試合に出るのは毎日の仕事。『今日はいい仕事をしたなー』なんて思える日はたまにしかないし、しょっちゅうそう思っているヤツにはろくなのがいない。本当に満足のいく仕事なんて、一生のうち一つか二つだよ。そのうちの一つをあえて挙げるとすれば、第一次UWFでやった佐山(スーパー・タイガー)との試合かもしれない。あの試合は、猪木さんの『プロレスは闘いである』という考えを、俺と佐山が形にした作品だったんじゃないかな」と述べています。
また、藤原は「プロレスって人生そのものなんだよね。若くてハチャメチャな時も面白いし、円熟期も面白い。年を取って力が落ちてきても一生懸命やってる姿が誰かの励みになったり、死んでから伝説になる人もいる。生き様を見せていけば、その年代その年代で何か観客の心に訴えるものが見せられるんだ。ゴッチさんが『誰でも歳は取る。だが、必ずしも年寄りになる必要はない』って言っていたけど、いい言葉だよな。俺もその言葉を胸に日々を生きているよ」と述べます。
そして、最後に藤原は「猪木さんが亡くなる前、闘病中でもずっとユーチューブ配信をしていたのもプロレスラーの生き様を見せてくれていたんだと思うよ。猪木さんに付いていた人に話を聞くと、配信が始まるまではぐったりしていても、カメラを向けられた瞬間シャキッとして、『元気ですか――ッ!』と精一杯の声で叫んでいたらしい。プロレスラーってそういうものなんだよ。リングに上がったり、お客さんの目があると、スーパーマンになれるんだ」と述べるのでした。本書は、猪木の魂を受け継ぐ藤原喜明の心中が余すところなく語られており、非常に興味深い内容でした。藤原選手の健康をお祈りいたします。