No.2453 プロレス・格闘技・武道 『アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』 佐山聡+藤原喜明+木村健吾+藤波辰爾+栗栖正伸ほか著(宝島社)

2026.03.16

アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』佐山聡+藤原喜明+木村健吾+藤波辰爾+栗栖正伸ほか著(宝島社)を読みました。宝島社の新日本プロレス本は全部読んできましたが、今回は「道場」がテーマということでした。

本書の帯

カバー表紙には、1976年6月22日、4日後に控えたモハメド・アリ戦に向けて新日本道場で特訓する猪木の写真が使われています。竹刀に4オンスのボクシンググローブをつけ、パンチをかわすトレーニングの写真です。帯には「“猪木イズム”継承者たちの証言」「『理不尽』を知らない男に伝説はつくれない」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には「裏の世界を支配する者が表の世界も支配する――体で学ぶ。頭で理解する。肌で感じる。これらも重要なことだが、それを超えた、その先にある“何か”に気づいてほしい。『そのために道場がある』というのが、猪木の言わんとするところでもある――ターザン山本」とあります。

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「猪木は自分の自宅を改装して道場にした人である。初めに道場ありき、とわかっていた。その新日本道場からは、怒涛のごとく人材が輩出した。レスラーには道場が最大、最高、最強の本籍。新日本道場はプロレス界の貴重な歴史的遺産。後世のためにも永久保存すべき。私はそう思っている。――ターザン山本」

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」ターザン山本
第一章「プロレスは闘いである」猪木イズムの求道者たち
藤原喜明
道場で生き残るために
「アイツは危ないヤツだ」と思わせていた
佐山聡
新日本道場は、
プロレス少年だった私を決して裏切らなかった
特別インタビュー 藤波辰爾
新日本プロレス道場「創成期」秘話
第2章 昭和・新日本「猪木の兵隊」を自負した男たち
木村健悟
「師匠と思うな。倒しに来い!」
と猪木さんはいつも言っていた
栗栖正伸
「道場破り」でも「強盗」でも、
返り討ちにする自信があった
第3章 昭和・新日本「黄金時代」青春の道場
新倉史祐
新日本道場で青春を過ごしたことが、
人生の礎、土台になってる
第4章 昭和末期・新日本道場の「変節」
鈴木みのる
昭和末期の道場は、
新日本が腐りかけていたダメな時期だった
特別インタビュー 鈴木みのる
ジョージ高野「宇宙人」伝説
特別コラム ターザン山本
「道場論」の生みの親が語る さらば昭和、さらば道場
新日本プロレス「道場」年表 1972‐2025

「はじめに」で、ターザン山本氏は「新日本プロレスの野毛の道場は、レスラーにとって絶対的基地。基地だから武器があり戦闘員がいる。そこで鍛錬し、仮想敵に備えなければならない。猪木は『いつ、なんどきでも、誰の挑戦でも受ける』と豪語、公言していたので、昭和の時代には道場破りがよく現れた。そこでレスラーが負けてしまうと、道場の存在理由がなくなる。道場破りは徹底的に叩きのめし、撃破するしかない。この考え方は、新日本のライバル団体、全日本プロレスのジャイアント馬場にはない。そのことで猪木は馬場との差別化を図った」と述べています。

猪木は師の力道山道場ですべてを経験したといいます。観客の前で披露するのが表の世界なら、道場は裏の世界だという山本氏は、「裏の世界を支配する者が表の世界を支配するという非情な論理。裏の顔があって初めてエンターテイナーとしても成功するのだ」と述べます。レスラーは強くなければならないとよく言われます。その裏の顔を持っているかどうかで決まります。その象徴が20世紀の鉄人、ルー・テーズです。テーズの試合は、道場でのやり合いを彷彿とさせるものがありました。圧力をかける。容赦しない。その部分では、猪木はゴッチ派ではなくテーズ派だとして、山本氏は「試合のなかで道場的なものをちらつかせるのだ。そこに猪木プロレスの真の花、華がある」と述べるのでした。

第1章「『プロレスは闘いである』猪木イズムの求道者たち」の藤原喜明「道場で生き残るために『アイツは危ないヤツだ』と思わせていた」の「道場はそれぞれの“個性”を磨く場所」では、“セメント”の技術というのは、いざという時に必要になるもので、通常の試合で頻繁に使うものではないことが指摘されます。プロレスは、グラップリングの強さを競う“競技”ではないので、寝技で一番になる必要は必ずしもありません。有事の際に自分の身を守れる技術さえあればいいということになります。本書には、「つまり昭和の新日本では『懐にナイフ(セメントの技術)を携えておかなければならない』という考えを多くのレスラーが持っていたが、ナイフは一本あれば十分。何十、何百種類もナイフを所有し、その使い道を研究し続けたのは藤原ぐらいだったのだろう」と書かれています。

佐山聡「新日本道場は、プロレス少年だった私を決して裏切らなかった」の冒頭は、「総合格闘技の起源をどこに求めるか。世界各国に様々な説が存在するが、佐山聡が1986年にシューティング(現・修斗)を創設し、日本におけるプロスポーツ競技としての近代総合格闘技(MMA=Mixed Martial Arts)をつくったことは間違いない。佐山が新日本プロレスの若手時代、合宿所の部屋の壁には『真の格闘技は、打撃に始まり、組み合い、投げ、関節技で終わる』と書いた色紙が貼られていたことは有名だ。『打・投・極』を合わせた斬新な“新格闘技”シューティングとは、佐山による一種の発明であり、その試行錯誤の先に現在のMMAがある」と書きだしています。

「『寝技のスパーリング』は若手全員の必修」では、佐山によって新日本プロレス道場の思い出が語られます。若手選手は全員が必修のような感じでやっていましたが、メインイベンタークラスになると自分のペースで練習するので、やらなくなっていったような印象があったと回想しつつ、佐山は「でも猪木さんはやってました。あと北沢(幹之)さん、木戸(修)さん、柴田(勝久)さんなんかもスパーリングをやってましたね。藤波(辰爾)さん、グラン浜田さんはすでに海外遠征に行っていていませんでしたが、小沢さん、栗栖(正伸)さんといった先輩たちも必修ですからやっていました。栗栖さんは強かったですよ」と語っています。

また、佐山は「変な話、私はデビューの直前まで、プロレスは今の総合格闘技と同じようなものだと思っていました。それぐらい強くなるための厳しい練習をしていましたし、セコンドとしていちばん近くで先輩の試合を観ていても格闘技との違いがわからなかったんです。まだ10代だった私の目がそこまで肥えてなかったのもあるとは思いますが、当時の新日本、とくに前座試合はそれぐらいガチガチの厳しい試合をやっていました」とも語っています。

佐山の総合格闘技的思考を深めるきっかけとなったのが、新日本に留学生として来日していたブラジルのイワン・ゴメスでした。「同じレベルだったバーリ・トゥードのトップと新日本の選手」では、イワン・ゴメスが1939年生まれのブラジルの格闘家であることが紹介されます。1970年代当時、日本ではゴメスのことを「バルツーズ(バーリ・トゥード)の王者」との肩書で紹介されましたが、実際はレスリングに関節技と絞め技を加えた格闘技「ルタ・リーブリ」の選手でした。

バーリ・トゥードは異なる流派、異なる格闘技同士で闘い決着をつける“なんでもあり”の試合形式を指すものでした。そのため「バーリ・トゥードの王者」というのは正確ではありませんが、ゴメスがバーリ・トゥードで無類の強さを誇ったのは事実です。63年、ゴメスが23歳の時、グレイシー柔術創始者カーロス・グレイシーの長男、カーウソン・グレイシーとバーリ・トゥードで対戦。結果こそ引き分けでしたが、内容では圧倒し、一躍、ブラジル格闘技界でその名を轟かせています。

1993年にUFCが始まって以降、プロレスラーは次々とバーリ・トゥードで柔術家やブラジルの格闘家に敗れていきました。しかし佐山は、当時の新日本の選手たちは、道場でのスパーリングでも決してゴメスに劣っていなかったとして、「ゴメスはブラジルから来たよそ者みたいな感じだったんで、セメントではみんな意地でも負けなかったんでしょう。私はまだ新弟子だったのでゴメスとセメントをした記憶はないのですが、他の選手たちは、1人だけゴメスに首を取られてタップした以外は、取られた人はいなかったと聞きました。それで『ブラジルのトップの格闘家と新日本のレスラーは、同じくらいのレベルなんだな』と思いましたね」と語っています。

「『格闘技の選手』になるためのプロレス」では、佐山の現在の思いが語られています。自分が若手だった当時の新日本のような試合ができる選手を育ててみたいとして、佐山は「関節技やレスリングができて、動けて、ナチュラルなプロレスができる。しかも、それがお客さんの期待に応えられるようなスピード、タイミング、センスを持ち合わせた、そんな動きができる選手を育ててみたいです。当時の新日本には、そんな実力に裏づけられたレスラーたちがいたんです。それはやはり、猪木さんがいて、道場に山本小鉄さんがいて、藤原さんのような強い先輩もいて、時にはカール・ゴッチさんもいて、イワン・ゴメスまでいたわけですから。今、自分の若手時代を振り返ると、強くなるために恵まれた環境にいたんだなってあらためて思います。あの当時、新日本道場は、プロレス少年だった私を決して裏切らなかったんです」と語るのでした。

木村健吾「昭和・新日本『猪木の兵隊』を自負した男たち」の「理に適った『スクワットから始める』練習」では、付き人をしていた坂口征二とともに日本プロレスから新日プロレスに合流した木村健吾が、「日プロでは最初から選手がバラバラに練習をして、最後に全員でスクワット100回をして終了でした。ですが、新日本ではいちばん厳しいスクワットを最初にやるんです。数ははっきり覚えてないですが、400~500回はやったと思います。もうそれだけで足腰はパンパン、グロッキー状態です。最初の頃は、それはもうキツかったです。ただ、新日本で練習と試合を重ねていくなかで、先にスクワットをやる意味がわかるようになるんです」と語っています。

なぜ、先にスクワットをやるべきなのか?
その答えを木村健吾は「練習で最初にいちばんキツい運動で体を痛めつけて、その状態からあとの練習メニューを消化できなければ、実際の試合でも動けなくなる。試合で相手に責められて守りに回った状態から、いざ反撃するぞという時、スクワットから始める練習に対応できていないと、体が動かずに反撃できないんです。そうなると、一方的にやられ放題になってしまう。だから、まずスクワットを最初にやる練習はとても理に適ってるんです」と語ります。これは非常に重要な証言だと思いました。

「猪木のスパーリングパートナーに指名」では、猪木vsアリ戦のエピソードとして、木村健吾は「アリとの格闘技世界一決定戦に向けた特訓で、私がアリに体格が似ているということでスパーリングパートナーを務めたんです。あのアリが帰国後に病院送りとなったアリキックは、私が練習で受けていました。猪木さんのローキックは、寝た状態からでもすごい威力だった。あくまで練習なので私は足にサポーターをつけていたんですが、その上からでも効いた。練習後、足に相当なダメージが残ったのを覚えています。それで、『この蹴りなら猪木さんはアリを倒せる』と、1人でニンマリしていましたね(笑)あと、特訓中は低い体制からのハイキックの練習もしていました。これはあとになってわかったんですが、このハイキックこそ、のちに猪木さんの代名詞であり必殺技になる延髄斬りのベースになった技だったんです」と語るのでした。

栗栖正伸「『道場破り』でも『強盗』でも、返り討ちにする自信があった」では、“イス大王”こと栗栖正伸が新日本黎明期に猪木が直に入門を許可し、付き人兼運転手として常に行動をともにしていたことが紹介されます。栗栖は、夫人の政代さんも旗揚げ当時から新日本に出入りし、高校時代から新日本大阪大会では毎回花束嬢を務めるなど、猪木らと顔見知りだったそうです。その関係は単なる付き人にとどまらず、猪木ファミリーとの家族ぐるみの付き合いでした。「猪木から夫婦で貰った『お小遣い』」では、政代夫人が「大阪の試合のあとは必ず電話をもらって、私もリーガロイヤル(ホテル)でご飯を一緒に食べてましたね」と言えば、栗栖は「いい思い出だよね。他の人はそんなことしてないでしょ」と語っています。

さらに政代夫人は、「猪木さんは大阪の時、リーガロイヤルが定宿だったんですよ。それで私たちが結婚式を挙げる時、結婚式の会場って半年先とかじゃないと取れなかったんですけど、猪木さんがリーガロイヤルを押さえてくれたんです。3月3日からシリーズが始まるのに『3月1日に結婚式をせえ』って感じで(笑)」と回想しています。インタビュアーは「猪木さんパワーで会場を押さえて、オフの間にやっちまえと(笑)。でも、付き人の結婚式場の手配までしてくれる社長って、なかなかいないですよね」と語っていますが、このエピソードにわたしは非常に感動しました。猪木のように、後輩や部下の結婚式場の手配までするリーダーはなかなかいません。猪木にとって、栗栖夫妻は家族のような存在だったのでしょう。

第3章「昭和・新日本『黄金時代』青春の道場」の「新倉史祐 新日本道場で青春を過ごしたことが、人生の礎、土台になってる」の「いちばんキツかった練習は“グリグリ”」では、新倉史祐が「柔軟とかの準備運動をやり終えると、ヒンズースクワットから練習が始まる。まずは1000回やって、続けてジャンピングスクワットを500回。それからウェイトなど一通りの基礎トレーニングを1時間から1時間半かけてやって、その時点で夏場なんかは汗で床に水溜りができてたね」と回想しています。道場にはクーラーが入っていませんでした。スイッチが入れられていないのではなく、エアコン自体が備えつけられていなかったのです。

プレハブ造りの道場内の室温は40℃はあったとか。だからほとんどの選手はパンツ一丁姿で練習をしていたそうですが、猪木だけは長袖シャツと長ズボンを練習の最後まで着たままで、「この道場でトレーニングをしたら、それだけでいいスタミナ養成になるぞ」とよく言てっいたそうです。新倉は、「猪木さんはスターであり、社長なんだけど、練習に対する姿勢も別格でしたよ」と語ります。また、「練習はどれもキツかったけど、スパーリング中にこっちがバテてると顔をグチャグチャにされるのがいちばん嫌だったね。フェイスロックの時に手の甲の出っ張ったところで頬をグリグリってやられるから顔はいつもズタズタ。それでみんな前歯が折れちゃうんです。俺なんかも6本差し歯ですし、みんな自前の歯なんかほとんどないですよ。谷津さんとかオリンピックから来てる強い人は、そういうことはやられないから歯が残ってるでしょうけど」とも語っています。

そのため、スパーリングが終わるといつも藤原に「うがいしてこい!」と言われて、新倉は外でうがいをしながら血反吐をバーッと吐いていました。しかし、それをやられて歯が折れたり、鼻血が出たり、口の中を切ったりしてるうちに、だんだんと顔面が強くなってきて、打たれ強くなっていったといいます。新倉は、「荒川さんと藤原さんにはよくやられたし、前田(日明)さんなんかも自分もやられてきたから俺ら後輩にやりましたよね。木戸さんはそんなしつこくはやらなかったけど、いろんな先輩がグリグリやってきましたよ。今は亡き剛竜馬さんとかね。国際(プロレス)から来たのに他の先輩と同じようにグリグリしてくるから、その時は『この野郎、いつか・・・・・・』って思ってたんだけどね(笑)」と語っています。

「全員がやっていたセメントの練習」では、新倉は「逃げてやめていく人間は、社会生活や集団生活に慣れていなかったんじゃないですかね。だって、生き残った俺たちは、みんな楽しくわいわいやってましたから」「俺らの時代はイジメみたいな陰湿なことはなかったですよ。猪木さんも坂口さんもそういうのが大嫌いでしたから。前田さんにかぎらず、先輩たちから理不尽なことをされたりとかはいっさいなかったですね。わざわざ名前を書いて冷蔵庫に入れてあった飲み物を、勝手に栗栖(正伸)さんに飲まれるくらいで。しょっちゅうやられるから、前田さんは頭にきてションベンを入れてたらしいですけど(笑)」「あの頃の合宿所で、人間関係がつらかったとか、苦しんだことはまったくないです。とにかくつらいのは練習だけ」と語るのでした。

第4章「昭和末期・新日本道場の『変節』」の鈴木みのる「 昭和末期の道場は、新日本が腐りかけていたダメな時期だった・・・・・・」では、鈴木みのるが証言します。鈴木は数カ月間、猪木の付き人を務めたことがあります。それは自身のプロレスラー像を形成するうえで、きわめて重要な時間だったとして、「昭和最後の新日本で、短い期間ながらも猪木さんの付き人をやらせてもらえたのは、俺にとって本当に財産。猪木さんからは、いろんなエキスを勝手に吸い取らせてもらったよ。(中略)セコンドとして試合中の猪木さんの表情から細かい動きまで観察する。タッグマッチでも試合自体なんか観ちゃいない。ずっと猪木さんだけを観ているから。あとは入場、退場する時の猪木さんの姿とか、あとは夜中に道場に来た時のトレーニングや、ちょっとした会話だったりとか、そういった猪木さんが自然に発する“ヒント”をできるだけ見逃さないようにした」と語ります。当時、20歳だった鈴木みのるは、その日から使える猪木式の観客の目線の集め方、盛り上げ方を教わった気がしたといいます。

「憧れていた新日本の実態に幻滅」では、鈴木みのるは89年3月に新日本を辞めてUWFに行きました。さらに藤原喜明について行って藤原組になって、今度はそこでカール・ゴッチと出会いました。その後は同じ道をたどっていた船木誠勝と一緒にパンクラスをつくって10年間在籍しました。鈴木は、「キャリアの前半15年は、自分の思い描いていたプロレスの道を行っていたとは思うよね。その後、20数年前にプロレスの世界にまた戻ってきたんだけど、それはやっぱり若手の頃の新日本道場を経験した原体験があったから。そういう意味では、あの時代の新日本道場での日々があったからこそ、その後の俺があるのは間違いないと思う。いい経験も悪い経験も含めて、すべて必要なことだったのかもしれないな」と語るのでした。本書は昭和の新日本プロレス道場の空気が伝わってくるような緊張感とワクワク感に溢れた一冊でした。昭和は遠くになりにけり・・・・・・ですね。