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No.2455 プロレス・格闘技・武道 『虎ハンターの美学』 小林邦昭・鈴木健.txt/著(玄光社)
2026.03.25
今度、佐山聡氏と対談します!
『虎ハンターの美学』小林邦昭・鈴木健.txt/著(玄光社)を読みました。小林邦昭は1956年生まれのプロレスラーで、初代タイガーマスク(佐山聡)のライバルとしてブレイク。「虎ハンター」と呼ばれました。二代目タイガーマスク(三沢光晴)とも激闘を展開し、獣神サンダー・ライガー(山田恵一)のデビュー戦の相手も務めています。2024年9月9日没。鈴木健.txtは1966年、福島県会津若松市生まれ、葛飾区西亀有出身。1988年より21年間「週刊プロレス」の編集記者から編集次長、2001年より週刊プロレスモバイル編集長を務め、2009年よりフリーとなりプロレス、音楽、演劇等の表現ジャンルについて執筆。
本書の帯
本書のカバー表紙には、初代タイガーマスクの仮面を鬼の形相で引きちぎっている小林邦昭の写真が使われ、帯には「タイガーマスク✕小林邦昭 最後のライバル対談を収録!」と書かれ、「本当のストロングスタイルをやったのは小林さんだけです 初代タイガーマスク 佐山サトル」のコメントと共に初代タイガーマスクの顔写真が掲載されています。帯の裏には、「虎ハンターとして生き抜いた小林邦昭のレスラー人生」として、本書の目次が紹介されています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
写真で振り返る虎ハンター小林邦昭ヒストリー
巻頭対談~小林邦昭×初代タイガーマスク 佐山サトル
第1章 虎ハンター紀元前 生い立ち~新日本若手時代
第2章 メキシコ遠征で残した実績
第3章 タイガーマスクのライバルとして
第4章 ジャパンプロレス設立から全日本参戦
第5章 誠心会館との抗争から平成維震軍へ
第6章 佐山との再会 そしてダンディズムに殉じた引退
第7章 猪木のパネルを外した真相と思い
特別手記 齋藤彰俊
「あなたとの出逢いは、自分の人生にとって『宝』でした。」
「あとがきにかえて」
小林邦昭は1972年に新日本プロレスへ入門。1973年に栗栖正伸戦でプロデビュー。メキシコ武者修行を経て、1982年10月に赤いパンタロンコスチュームで凱旋帰国をはたして以降、当時絶大な人気を博していた初代タイガーマスクとのライバル抗争がスタート。試合ごとにタイガーのマスクを剥ぐ無法殺法で“虎ハンター”として、大きな注目を浴びました。1984年9月には、“維新軍団”長州力、マサ斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口らと新日本プロレスを離脱して、ジャパンプロレス所属となり、全日本プロレスへ参戦。2代目タイガーマスクともライバル抗争を繰り広げました。1986年11月23日にヒロ斎藤を破って、第2代世界ジュニアヘビー級王者となります。1987年4月には、新日本プロレスにカムバック。8月20日両国国技館では、王座決定トーナメント決勝で髙田伸彦(現・延彦)を下し、第4代IWGPジュニアヘビー級王者となりました。2000年4月21日後楽園ホールで行われた獣神サンダー・ライガー戦で引退。引退後は、新日本プロレス道場の管理人として知られ、後進の育成にあたっていました。
共著者である鈴木健.txt氏は、本書が世に出た経緯について、「本書『虎ハンターの美学』は、追悼本ではありません。当初は、小林邦昭さんの証言のみでその足跡を検証し、一冊にする企画でした。しかし取材を終えて2ヵ月も経たぬ2024年9月9日、小林さんは旅立たれました。本書をご本人にお届けすることなく、我々は突然の別れを迎えたのです。その無念さは、言葉で連ねられるようなものではありません。それでも小林さんが遺した功績の数々、そしてその生き方を文献にし、後世まで伝える意義を思うと、最後に語った“肉声”をお蔵入りとするわけにはいかなかったのです。小林さんが亡くなられた時、メディアを通じて本当に多くのゆかりある選手、関係者からその人柄をしのばせる秘話や思い出、そして飾らぬ気持ちが伝えられました。追悼本として出すのであれば、そうした声を集めるべきですが、それでは生前、ご本人が望んだ形とは違うものとなってしまう気がしました。小林さんに読んでもらうことはかなわずとも、昭和の時代を熱狂させたタイガーマスクとの闘いや平成維震軍としての活躍、さらには引退後のエピソードにいたるまでをご本人の言葉をもとに綴ろう。そう決めました。過去に初代タイガーマスクこと佐山聡さんに関する書は何冊も出されましたが、そのライバル・小林邦昭個人で一つの書となるのはこれが初めて。バイプレイヤーとしてのプロレスラー人生を歩み続けながら、主役に劣らぬ存在感をまとい、多くのファンの追憶の中で今なお息づく男の一生を、改めて心に刻んでいただきたく思います」と述べています。
小林邦昭といえば大食い伝説で有名ですが、「巻頭対談~小林邦昭×初代タイガーマスク 佐山サトル」で、対談の進行役であった鈴木氏が「食べ物に関する話だと、小林さんが新幹線メニューを全部食べた話が有名です」と言うと、以下の対話が展開されています。
小林 あの時は最初、カレーとラーメンを食べていたんです。小鉄さんが「好きなものを食え」と言うんで「じゃあ、カレーとラーメン、ごっつぁんです」と言ったら「バカ野郎、このメニュー、全部食うんだよ!」って。
佐山 ステーキ屋でも記録作ったよね。
小林 うん、16枚半食った。
佐山 それまでは相撲取りの7枚が最高だった。
佐山がタイガーマスクになったとき、小林邦昭はメキシコにいました。彼は「タイガーマスクブームになったという話を聞いて、考えました。これはもう、ターゲットにするしかないと」と述べます。「帰国する前から小林さんの中ではタイガーマスクと闘うと決まっていたんですね」という鈴木氏の質問に対しては、「ターゲットにするには、タイガーマスク自身が大ブレイクしていないと自分も上がらないじゃないですか。だから僕が日本に帰ったのは、今思うと本当にいいタイミングであり、いい時代だったんですよね」と答えます。鈴木氏は「佐山さんとしては、ダイナマイト・キッド、ブラック・タイガーというライバルにもう1人加わるということは嬉しいものだったんでしょうか」と佐山にも質問し、佐山は「ライバルが1人増えるというとらえ方じゃなく、小林さんが帰ってくると聞いて絶対に上げてやると思いました。だから気合が入りました。若手の時と同じような試合をしようって」と答えています。
「丈夫な素材のマスクをよく破けたなと自分でも信じられない」では、鈴木氏の「マスクを剝がされる方としてはどんな気持ちだったんでしょう」という質問に対して、以下の対話が展開されます。
佐山 マスクに手をかけられながら「これ、全部剥がしたら小林さん、クビになるだろうな」って思っていました。
――素顔を明かしたらそうなるかもしれません。
佐山 「それでも、こう来るのか」って。
小林 あれは、中途半端な力じゃ破れないですよ。今日も佐山選手、マスク持ってきているけど、今の僕が引っ張ったところでびくともしない。それぐらい丈夫な素材を、よくあんなビリビリに破くことができたなって自分でも信じられない。相当、引っ張る瞬間に気合を入れて思いっきりやったんだと思いますよ。
佐山 やられる方も、気合入っているなあって思っていました。
「同じシリーズの開幕戦で藤波さんと長州力さんのライバル闘争がスタートしていましたが、それを意識したところはありましたか」との質問に対しては、佐山は「そんな余裕はないですよ」と即答。小林は、「メキシコで一緒だった長州が後楽園で藤波さんと絡んだのを見た時に、僕は焦りました。あの日は開幕戦ということで、試合前にサインボールを投げるっていうのがあったんです。そこでは僕、タイガーマスクの隣で投げていたんですけど、ボールを投げながら『なんで俺は日本に帰ってきたのにこんなことをやっているんだ? もっとチャレンジする気持ちを表に出さないとダメだろう』っていう思いが頭の中で回っていたんです。本当だったら、あそこで行動を起こすべきなのに動かなかった。その直後に長州が動いたんです。うわー、やられた!と思いましたね。それで次の次のテレビマッチが広島だったかな、そこでやってやろうと思って」と語っています。
第1章「虎ハンター紀元前」の「『新幹線全メニュー完食伝説』の真相は『着くまで食べ続けろ』だった」では、以下のように書かれています。
「『新幹線全メニュー完食伝説』も小鉄に命じられてやったと、佐山サトルとの対談で明かしている。より詳細を聞くと『若いのにカッコつけて食堂車にいったのが運の尽きでした』と、苦笑。『ビュッフェに座る小鉄さんが目に入った瞬間、これは食わされるなと思ったんですけど、メニュー全部だと言われた時は本当なのか?と思いました。ただ、あれは正確に言うと全部食べて解放されたのではなく「着くまで食べ続けろ」だったんです。浜松あたりで食べ始めて、小倉に着くまでずっと食べていた。全部で30品ぐらい頼んだと思いますよ』食堂車のメニューはそこまで品目が多くない。つまり、いくつかお代わりしたのもあったのだろう。金額にすると『2万5000円か3万円ぐらいだったと思うけど・・・小鉄さんが全額払ってくれました』とのこと。けっして大食漢ではなかった小林だが、このエピソードによって『プロレスラーらしい大食いの人』のイメージが定着。もっとも、たくさん食べたから急激に体重が増えたわけではなく2、3日満腹状態が続き、その間は何も食べられなかっただけに終わった」
第4章『ジャパンプロレス設立から全日本参戦』の「キッドに勝ち国内初タイトルを奪取」「虎ハンターのチャンピオンベルト論」では、小林邦昭が2代目タイガーと初めてタッグで対戦したとき、「体は重いが、レスリング自体が地味。技と技のつなぎ目がいまひとつ。キックは怖くないが、タイガー・スープレックスと回転トぺ(ウルトラ・タイガードロップ)は要注意。闘志はマスク越しに感じる。だが、メキシコのレスリングだけでは俺に勝てない。実力? 新日本のコブラと五分五分」とコメントしています。虎ハンターの2代目タイガー評ですが、本書には「初代とともに、ザ・コブラを比較対象としたのは当然でもあるが、まさかその二人が1990年2月9日に東京ドームで天龍、長州それぞれのパートナーとして対戦するとは(しかも当初は小林が長州さんと組んで出場予定)想像もできなかった」とあります。
小林と同じく、タイガーマスクというライバルが目の前から消えるや、闘いの場を全日本に移した男がいました。ダイナマイト・キッドです。ジャパン勢とは別ルートでしたがデイビーボーイ・スミスとともに1984年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」へ電撃参戦。ジュニアでありながら、ヘビー級とも渡り合えるパワーにより磨きをかけていました。5月16日、ジャパンの自主シリーズ「ビッグラリアットフェスティバル」最終戦の札幌中島体育センターで、両者はWWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦公式戦以来1年4ヵ月ぶりに一騎打ちで激突。鉄柱に打ちつけられた小林が顔面を真っ赤にするほどの大流血に見舞われ、トぺ・スイシーダをかわされると場外バックドロップを食らい置き去りに。初代タイガーとの3戦目同様、リングアウト負けを喫しました。本書には、「小林にとって全日本参戦以来初黒星だったが、逆にこれで火がついたようにここから快進撃が始まる」と書かれています。
「新型フィッシャーマンズ・スープレックスを封印した理由」では、小林の「全日本に上がり始めた時点で、自分たちがやってきたプロレスと違うというのは気づいていました。それは、ジャイアント馬場さんの言葉がきっかけだったんです。馬場さんに対しては、言うなれば取引先の親分のような感覚だったんですけど、対抗戦の中でもニュートラルな立場になってジャパン勢にもアドバイスをしてくれたんです。そのさいに『小林、動くのはいいんだけどおまえのは“軍鶏の喧嘩”だな』って言われて。全日本のスタイルに照らし合わせると、そう映るんだなと。でも、じゃあ馬場さんの試合を見て学ぼうと思ったところで大きさも違うわけだから、同じようにやれるわけがない。猪木さんとは闘えましたけど、馬場さんと直接肌を合わせる機会もなかったですしね。全日本のスタイルを学べということは、最終的にはジャパンを合併させるつもりだったんじゃないですかね。長州が新日本に戻ろうとしたのは必然だったんです」との言葉が紹介されています。
第5章「誠心会館との抗争。そして平成維震軍へ」の「新日本Uターン後、IWGPジュニア王者に」「馳のデビュー戦で1つの時代が終わったと痛感」では、ジャパンプロレス勢の全日本から新日本へのUターンにより、1987年は両団体の歴史が劇的に動く1年となったことが指摘されます。これほど特筆すべきトピックが続いたのは長い歴史の中でも稀有と言っていいとして、本書には「新日本では3月26日に大阪城ホール、12月27日に両国国技館と2度の“暴動騒ぎ”があり、6月には長州の呼びかけで世代闘争がスタートしたもののとん挫。一方では猪木がマサ斎藤との巌流島決戦をおこない、11月には前田の長州顔面蹴撃事件が発生。これが翌年の新生UWF旗揚げへとつながっていく。いずれも長州が新日本に戻ったことから派生したもので、その影響力は絶大なるものがあった。去られた側の全日本も、ジャパン勢との闘いを失った危機感によって天龍が阿修羅・原と走り出し、鶴田のライバルとして対角線上へ立つようになる」と書かれています。
「中堅どころに甘んじた長いトンネル」「幻に終わった東京ドームでの全日本との対抗戦」では、平成の新元号を迎えた1989年は、真の意味でジュニア新時代到来を印象づけた年となったことが指摘されます。前年の時点で髙田と山崎は新生UWFに移籍し、越中も馳へIWGPジュニアヘビー級のベルトを明け渡したのを機にヘビー級転向。そうした中、生まれたニューマスクマンが獣神サンダー・ライガーでした。プロレス初進出となる新日本4・24東京ドーム大会で「獣神ライガー」としてデビュー。その相手を務めたのも小林です。鈴木氏は、「タイガーマスクと同様、覆面ヒーローに据えられたライガーが相手とあれば、小林的には“お手のもの”だ。敵役となれども、けっして引き立て役にはならぬ存在感と歴史に裏づけされた説得力。ほかの人間がやみくもにマスクへ手をかけても、だだっ広いドームはどよめかない。虎ハンターがやるからこそ、まだ色づけされていなかったライガーに観客が感情移入できる」と述べています。
鈴木氏はまた、「ライガー自身もマスクを被っての初の実戦であり、かつ目と鼻が覆われた呼吸のしづらいデザインだったためスタミナを消耗し苦戦を強いられたが、それでも新たなるヒーローへの期待が膨らむ印象を残せたのは、その素性を知り評価する小林に引っ張られた部分もあった」と述べています。最後はライガー・スープレックス・ホールド(左脚を抱え、右腕をクラッチして投げるバックドロップ・ホールド)で初陣を飾りました。この試合が、小林にとってジュニア戦士として最後の務めとなりました。わずか1年5ヵ月前にIWGPジュニアヘビー級王座奪取し、華々しく国内デビューを果たした馳も5月25日の大阪城でライガーに同ベルトを奪われ、ヘビー級へ転身したのです。
「虎ハンター以降、ようやく訪れたブレイク」「想定外の熱量となった齋藤彰俊との喧嘩」では、1991年12月8日に起こった新たな火種が発生したことが紹介されます。このとき、愛知県の空手道場である誠心会館館長の青柳政司が新日本プロレスに参戦していました。彼は1989年に大仁田厚と異種格闘技戦を闘ったのを機に、旗揚げしたFMWへ参戦。その後、剛竜馬率いるパイオニア戦志を経て新日本でライガーと対戦、空手衣スタイルで暴れていました。その青柳政司の弟子である松井啓悟の非礼な態度に怒った小林が、控室で松井の顔を張り飛ばしたのです。松井はもんどり打って倒れ、そこに小林は蹴りもブチ込みました。あまりの怒りで周りは見えていませんでしたが、小原和由と田中秀和リングアナウンサーが止めていたようです。
時間を置いて男が誠心会館門下生であることを知りましたが、そういう日に限って試合は館長とのチーム(ライガーも入れたトリオ)でした。青柳によると、小林はいつもと違って愛想がなく、手を叩くようにタッチされたといいます。そして控室に戻ると、松井との件を切り出され「館長の弟子は礼儀がなっていない」と言われた。これには青柳は謝罪しましたが、血気盛んな若い衆の方が黙っていませんでした。3日後の名古屋レインボーホール大会試合前に、松井を含む門下生15名が来場。控室前の通路まで押し寄せた一群は、「小林さんを出してください。あれじゃリンチじゃないですか!」と抗議。この騒ぎに若手だけでなくブラック・キャット、長州まで出てきて事情を聞きますが「星野(勘太郎)さんも殴った」「いや、殴っていない」の押し問答となり、新日本側が押し返す形で収拾させたのでした。
「反選手会同盟始動時に発覚した大腸癌『平成維震軍によって僕は救われたんです』」では、1992年に新日本と誠心会館との抗争が終結した頃、小林邦昭、木村健吾、越中詩郎、齋藤彰俊の4人のユニットが「反選手会同盟」と呼ばれるようになったことが紹介されます。おりしも秋からはSWS(スーパー・ワールド・スポーツ)解散後、天龍源一郎によって設立されたWAR(レッスル・アンド・ロマンス)と新日本の対抗戦がスタートし、反選手会同盟は本隊に先駆けて敵地へ乗り込み暴れ回りました。もはや越中も木村も、青柳も彰俊も脇役や中堅ではなかったのです。11月17日にはWARのザ・グレート・カブキが反選手会同盟に加入し、人員拡大。一方で大腸癌の治療にあたっていた小林は復帰を目指し、ひたすらトレーニングを重ねました。
復帰以後の小林は、タイトルマッチや大場所における注目度の高いカードこそ組まれずとも、反選手会同盟としての日々が楽しかったと振り返ります。それは小原、後藤とメンバーが増え、1993年11月13日~16日の千葉・養老渓谷合宿を機にユニット名を「平成維震軍」に変えた以後も続きました。維新軍の時は飲めなかったので別行動が多かったのに対し、青柳が同じく下戸だったため二人でよく食事に行ったそうです。2つの“イシングン”を経験したのは小林のみであるとして、鈴木氏は「タイガーマスクを追い続け、ある日失い、そこから100%のエクスタシーを味わえぬ時間が長く続き、揚げ句は病魔に襲われながらも離れなかったプロレス。そんな小林にとって、平成維震軍はようやく得られることができた“在るべき居場所”だった」と述べるのでした。
第6章「佐山との再会。ダンディズムに殉じた引退」では、1995年9月26日に駒沢オリンピック公園体育館で開催される日本プロ・シューティング主催「バーリ・トゥード・パーセプション」で、佐山サトルとのエキシビションマッチに出場したことが紹介されます。あくまでもエキシビションであり、主催者及び佐山としては伝説の初代タイガーマスクVS小林邦昭戦のブランド力に頼るところもあっただろうとしながらも、鈴木氏は「巻頭の対談でも触れているが、当時の長州政権下において格闘技の大会へ出場するのは高いハードルがあった。ましてや13日後の10月9日には東京ドームにおける新日本とUWFインターナショナルの全面対抗戦が控えており、プロレスラーが格闘技のリングへ上がるリスクを考えれば避けるのが常識的な判断だ。しかし、それらすべてを抜きにして小林は佐山と再会したかった」と述べます。
当日、リングインした佐山は一度はマスクを脱いだものの、空気を読んだかゴングが鳴らされると再び被り、ハイキックや後ろ回し蹴りをしました。1分ほどで再び素顔になってからはグラウンドの攻防が続きます。5分過ぎには佐山がヒザ十字固めで一本獲りますが、10分間エキシビションマッチのため試合は続行。その直後に悪夢が待っていました。出合頭にキックを食らった小林は体を硬直させたまま昏倒。10分を待たずして、試合にはストップがかかりました。佐山は、「自分が距離を取ろうと思って出した(左)ミドルキックが、タックルに来る小林選手の顎に、まともにカウンターで入ってしまって・・・」と語っています。セコンドについていた維震軍の後藤と小原とともに、心配のあまり寄り添う佐山の顔は罪悪感を帯びたかのごとく青ざめていました。意識こそ取り戻した小林でしたが、舌を巻かぬよう口にハンドタオルを入れられた状態で担架へ乗せられ退場。バックステージに戻った佐山の落ち込みぶりはひどく「最悪ですね・・・事故ですよ」と言いながら、うなだれました。
第7章「猪木のパネルを外した真相と思い」の「道場における“小林革命”棚橋らがその恩恵を受ける」では、「昭和の時代のレスラーでありながら、小林は固定観念や古い習慣にとらわれなかった。真夏でもドアを閉め切り、地獄のような暑さの中で自分は練習したといってそれを踏襲させず、道場内に扇風機を設置させた」と書かれています。精神を鍛えるにはある程度の根性論は必要ですが、そこで率先して健康によくないことをするのは本末転倒。また古くなったダンベルを新しいものに変えてほしいという要望が選手から出されたら、会社とかけ合いました。小林が引退した前年に棚橋弘至、鈴木健三(現・KENSO)が、翌々年には矢野通、中邑真輔、田口隆祐、後藤洋央紀、山本尚史(現・ヨシタツ)らが入門しています。これらの世代が“小林革命”の恩恵を受けました。小林について、棚橋は「ものすごく気さくな先輩でしたね。体育会系の“た”の字もなかったです。もちろん先輩なのでこちらは敬語で喋るんですけど、新人に対しても一人の人間として向き合ってくれるんです。僕は小林さんにドロップキックを教えてもらったんですけど、一回やったらうまくできて『最高だよ!』って褒めてくださって。そういうところにも人柄が出ていたなと思います」と語っています。
「猪木の存在と後輩愛の狭間で・・・新日本再生の裏に小林の姿勢あり」では、2008年10月の時点で、棚橋は道場に掲げられた猪木パネルを自分が外したと公言していたことが紹介されます。一条真也の映画館「アントニオ猪木をさがして」で紹介した2023年10月公開の映画ではそれについて語った上で、16年ぶりに元の場所に戻すシーンがクライマックスとして描かれました。しかし、近年では実際に取り除いたのは小林だったと“真相”が明かされているとして、鈴木氏は「だからといって、棚橋が事実を捻じ曲げたという次元の話ではない。言わばこの伝説は、二人による“合作”と受け取るべきだろう。棚橋の意思がなければ、そもそも小林も動かなかったはずだ。選手たちに深い愛情のもと接する小林であれば、十分に考えられる。ただ、1つ引っかかるのはこれまで書き連ねてきたように、猪木に対しても絶対的な思い入れを持っており、それは生涯変わらない」と述べています。
その真相について鈴木氏が問うたとき、小林は「創始者というだけで(新日本が)何も言えないっていうのもどうかと思ったんですよね。あの頃はけっこうギクシャクして、猪木さんが新日本に対してちょっとカチンと来ることを言っていた。僕自身が、ムカついている部分もあったんです。猪木さんのことだから、あのまま進んだら『(新日本とIGFで)リングの上でやろうじゃねえか』と言い出しかねない。でも僕らのあとに入ってきた棚橋たち新しい世代は、とんでもないなと思いました。藤波さん、木戸さん、藤原、長州とか、僕らの世代にとって猪木さんは神のような存在であり、そのパネルを外すなんていう発想さえなかったわけですから」と語ったそうです。当時の小林について、鈴木氏は「管理人として、あの時代を知る人間として棚橋に提案された時『なんてことを言うんだ!』と、却下しようと思えばできたはず。それでも小林は『気がつくと、パネルはなくなっていた』という言い回しで黙認を匂わせたばかりか、実際は後輩へ責任を押しつけたくないとばかりに、自分が手をかけた」と述べます。わたしは創設者のパネルを外すという行為には大反対ですが、後輩を想う小林邦昭の優しさは理解できます。