No.2454 プロレス・格闘技・武道 『Gスピリッツ選集2 初代タイガーマスク篇』 Gスピリッツ編(辰巳出版)

2026.03.17

昨年、わたしは前田日明氏と対談しましたが、今年は佐山聡氏と対談する予定です。楽しみです!
佐山氏は、初代タイガーマスクとして知られるプロレス・格闘技界のレジェンドですね。『Gスピリッツ選集 第二巻 初代タイガーマスク篇』Gスピリッツ編(辰巳出版)を読みました。一条真也の読書館『Gスピリッツ選集 第一巻 昭和・新日本篇』で紹介した本の続編です。

本書の帯

カバー表紙には全盛期の初代タイガーマスクのリング上でコールを受けた写真が使われ、帯には「佐山聡氏推薦!」と大書され、「『タイガーマスクとは何なのか・ ストロングスタイルとは何なのか?』私が語って来た言葉から感じ取っていただきたい」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には「プロレス専門誌『Gスピリッツ』(タツミムック)に掲載された初代タイガーマスク(佐山聡)のインタビューを再編集して一挙収録」「故・新間寿氏、山崎一夫との対談も加えたアンソロジーシリーズ第2弾!」と書かれ、本書のコンテンツが紹介されています。

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに――“黄金の虎”と“過激な仕掛人”」
「初代タイガーマスク年表」
“ヤングライオン”佐山サトルの足跡
回想―アントニオ猪木vsモハメド・アリ
師カール・ゴッチから告げられた言葉
対談=新間寿×初代タイガーマスク
追憶―金曜夜8時の猛虎伝説
“爆弾小僧”ダイナマイト・キッドを語る
“暗黒の虎”ブラック・タイガーを語る
MSGを揺らした2度のWWF遠征
「タイガーマスク」の過去・現在・未来
対談=初代タイガーマスク×山崎一夫
「プロレス」と「UWF」と「格闘技」
激白―ザ・タイガー&スーパー・タイガー
講説―「催眠セラピー」と「武士道」
対談=新間寿×初代タイガーマスク
あの日、あの時・・・“燃える闘魂”と過ごした日々
戦評―“昭和の巌流島”力道山vs木村政彦
「Gスピリッツ初出一覧」

「はじめに――“黄金の虎”と“過激な仕掛人”」の冒頭を、著者は「本書はタツミムック『Gスピリッツ』(小社刊)に掲載された初代タイガーマスク(佐山聡)のインタビューや対談を再編集し、時系列に沿ってまとめたアンソロジーになる。製作中の2025年4月21日、“過激な仕掛け人”の異名で知られる新日本プロレスの元専務取締役営業本部長・新間寿氏が逝去された。享年90。同月30日に新間氏の実家である新宿・感通寺で営まれた告別式では、参列者を代表して藤波辰爾と佐山が弔辞を述べた」と書きだしています。

本編に出てくる話は新日本プロレスの若手時代から旧UWFとシューティング(修斗)、後年のリアルジャパンプロレス(ストロングスタイルプロレスの前身)、掣圏真陰流、須麻比まで多岐にわたります。しかし、その中心となるのは、やはり日本全国のお茶の間を熱狂させた「金曜夜8時のタイガーマスク」であるとして、本書には「2年4カ月と短い期間ではあったが、あの夢のような時代を体験させてくれた佐山聡、そして“仕掛け人”として作り上げた新間寿氏に本書を捧げたい――」と書かれています。

「“ヤングライオン”佐山サトルの足跡」では、初代タイガーマスクというプロレスラーが大成功した理由について、佐山聡は「新日本プロレスが異種格闘技戦を始めて格闘技志向を強めていた時代であったこと、藤原敏男やベニー・ユキーデといったキックボクシングや全米プロ空手の大スターがいた時代であったこと、その激動の時代に僕が新日本へ入門してデビューしていたことが奇跡に近い幸運だったと思うんです。これがもし早すぎても遅すぎても時代がズレていたら、やはりタイガーマスクという猪木イズムの結晶は生まれなかった。それは間違いないでしょうね」と語っています。

対談=新間寿×初代タイガーマスク「追憶―金曜夜8時の猛虎伝説」では、インタビュアー清水勉氏の「佐山さんはイギリスから戻る時に、どんな形で凱旋しようと自分の姿を思い描いていたんですか?」という質問に対して、タイガーは「僕はプロレスラーとして帰るつもりはなかったですよ。帰る時は新日本の総合格闘技部門の選手としてです。猪木さんとそういう約束をしていたから、それをずっと信じていましたね」と答えます。新間寿は「猪木さんが異種格闘技戦でチャック・ウェップナーとやった時のオープンフィンガーグローブは佐山が作らせたんだよな」と言えば、タイガーは「はい。その頃、猪木さんの家でベニー・ユキーデのプロ空手やマーシャルアーツのルールブックを見せられたりして、『お前は投げもグラウンドも有りの総合格闘技の選手になれ』と言われていましたから。マーク・コステロとキックボクシングルールの試合をやったのも、そのための前哨戦だと思って受けたんです。猪木さんは、格闘技に対して情熱がある人でしたよ」と語るのでした。

「『タイガーマスク』の過去・現在・未来」では、1994年3月、佐山が前年の3代目タイガーマスク(金本浩二)誕生で関係が復活した新日本プロレスへの出場を表明したことが紹介されます。同年5月1日、福岡ドームで「初代タイガーマスク」として獣神サンダー・ライガーとエキシビションマッチを行って現役復帰し、1995年12月30日の大阪城ホール『突然卍固めINOKI FESTIVAL』における小林邦昭戦で本格的な再デビューを果たしました。1996年に入ると新日本プロレス以外の団体にも積極的に参戦し、「タイガーキング」、「ザ・マスク・オブ・タイガー」への改名を経て、2005年には自らが主宰する新団体リアルジャパンプロレスを設立しました。

初代タイガーマスクのライバルの1人に“虎ハンター”こと小林邦明がいました。インタビュアーが「対戦相手が小林さんになると、タイガーマスクの打撃の鋭さが増していた印象があります」と発言すると、佐山は「キックに感情が出ている。そこが一番大切なんですね。それを出せる相手が僕にとって小林さんで。もちろん、仲は悪くないんですよ。長州さんにとっては、それが藤波さんだったんでしょうね。リング上で、“この野郎!”という部分を出せるという意味では」と語っています。

また、「リング上のタイガーマスクは少年ファンのヒーロー的な部分はもちろんあるんですが、怖い面もありましたからね」というインタビュアーの言葉に対しては、佐山は「それが猪木さんのDNAであり、力道山先生のDNAでもあるんですよね。猪木さんは“ポップコーンを食べる手が止まる試合をするのか、それともポップコーンを食べながら観られる試合をするのか”と。“ああ、これから空中戦が始まるな”と思われたら、ダメなんですよ。その瞬間、手が止まるだけで」と語ります。

1982年、ジュニア2冠王に輝き、ダイナマイト・キッド、ブラック・タイガーに続いて小林邦昭という日本人ライバルも得たタイガーマスクは1年間を通した充実のファイトを評価され、同年度の東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞で最優秀選手賞を獲得しました(技能賞も同時受賞)。1974年に同賞が制定されて以降、ジャイアント馬場、アントニオ猪木以外の選手がMVPに選出されたのはこれが初めてで、現在までジュニアヘビー級の受賞者はこの年のタイガーマスクだけです。

対談=初代タイガーマスク×山崎一夫「『プロレス』と『UWF』と『格闘技』」では、山崎一夫が「僕が新日本の控室に出入りしていてわかったことのひとつは、佐山さんと他の選手では猪木さんに接する態度が全然違うんですよ。あの猪木さんも佐山さんだけには心を許すような感じで、まるで親子のような特別な関係をずっと見ていたんです。だから、そういった総合格闘技の話をしていて、そこから結果として、そういう関係になったということが今日初めてわかりましたよ」と語っています。佐山は猪木と気が合ったそうですが、山崎は「猪木さんはオーラが凄くある人ですけど、佐山さんだけはそのオーラの中にスッと入って行くんですよ。あれは他の選手はできないですね。猪木さんも佐山さんに対して、他の人たちと違う接し方をしますし」と語るのでした。

「激白―ザ・タイガー&スーパー・タイガー」では、インタビュアーの小佐野景浩氏の「もし佐山さんが残って旧UWFがあのまま存続していたら、理想通りに格闘技に移行していましたか?」という質問に対して、佐山は「していたでしょうね、間違いなく。修斗とUWFが一緒になるという形になっていったでしょう。時間の経過と共にUWFのプロレスラーたちは引退していき、その間に育ててきた修斗の選手たちが取って代わっていくイメージです。修斗とUWFが融合する。名前はどっちにせよ、気付いたら、そのリングからプロレスの試合が消えているという。格闘技に関しては、みなさんが思う以上に固く考えている自分がいるんですよ。当時、僕が言っているんですけど、“天覧試合をやりたい”と。それは決して右翼的な発想ではなく、それぐらい固いものをやりたいと言っているわけです。相撲にも天覧試合がありますよね。格闘技はそういうものであるという考えが僕の中にありました。それは今も続いていますね」と語っています。興味深い内容ですね。

「総合格闘技を創り上げた佐山さんが、その総合格闘技に興味を失った理由は何でしょう?」という質問に対しては、佐山は「アメリカの総合格闘技で刺青を入れ始めたり、“俺は強いぜ”とスター気取りになる選手が出てきたり、いわゆる興行の姿になってしまった。僕が思い描いていた姿ではないですよね。それだったら、ジャンケンでも同じじゃないかと。ジャンケンポンで勝って、“勝ったぜ! 俺は世界一だ!”と言っているのと一緒なんです。格闘技は神聖なものでなくてはいけないし、『恭儉己レヲ持シ』(教育勅語=人に対しては恭しく、自分自身は慎み深く振る舞うことの意)という言葉がありますけど、やっぱり礼儀正しいものではないと作る意味がないですよね。何でもいいから、格闘技の試合をすればいいということではないんですよ。ちゃんとしたものを作りたい。そう考えている自分がいるということですね」と語っています。佐山いわく、プロレスは別で、「プロレスは裏切らない」と言っています。

講説「『催眠セラピー』と『武士道』」では、「UFCのオクタゴンとは意味が違うわけですよね」という質問に対して、佐山は「ええ、オクタゴンは僕の真似をしてやってくれているのかどうか知らないけど、あれは天皇陛下の玉座の意味ですから。まだルールも細かい部分が決まっていないんですけど、これは場外に出されたら負けです。あとは何秒間か抑え込まれたら負け。ということは、それによって何が起こるかというと選手の足腰が作られるわけです。簡単に倒されたらいけない、簡単に押されてはいけないということで足腰が作られていき、足腰が作られながら今度は相撲の突っ張りがパンチになるわけですよ。そして、今度はパンチが作られていき、パンチやキックといった打撃とバランスが養われるための格闘技になっていくわけです」と答えています。「それは観客に見せないでやるということなんですか?」という質問には、「いや、見せますよ。神事である相撲が人に見せるように。そして、相撲がプロであるように。それに修斗を作る前から、僕は相撲のようなものを作りたいとみんなに言っていましたし」と語ります。

佐山には、前に映画出演のオファーが来たことがありました。一条真也の映画館「ラスト サムライ」で紹介したトム・クルーズ主演のアメリカのアクション時代劇に出演するはずでした。佐山は、「「僕の思想の先生に言われて行って、オーディションに合格したんですよ。“官軍の将校の役をやってくれ”と言われたんだけど、僕は“武士道は死んでないよ”と思ったの。あれは明治で侍が終わったみたいになっているけど、侍が死んだのは戦後だから。それで映画に出なかったの。本当の侍は戦前の人々。“俺たちはアジアを守るんだ”と言っていた人たちです。それが本当の侍の姿だから。だから、そこまで侍は死んでいない。そして、いまだに死んでいないというところを見せなきゃいけないよね」と語っています。このエピソードは、わたしも初めて知りました。

佐山いわく、西洋の騎士道というのはキリスト教に全部飲まれてしまいます。でも、武士道は仏教にも飲まれませんでしたし、神道にも飲まれませんでした。むしろ、それを利用して、ちゃんとした精神基底を作っていったというのが武士道の姿だといいます。そして、死を懸けた規範というのがありました。それを明治で固めていったにもかかわらず、昭和になってアメリカによって全部それを元に戻してしまったというのです。プリンシプルというのは「義」であると訴える佐山は、「義というのは正義でもないし、義理でもないですし。義というのは原理原則、生きていく上での主義のことです。神みたいなものですよ。キリストみたいなものです。そうした原理原則、主義を持ちなさいということですよ。それを僕は格闘技を通して作っていくわけです。戦前の日本は天皇制だったから、それが天皇陛下だったのかもしれないですけど、今、僕はそれが武士道だと思っていますけどね」と語るのでした。

対談=新間寿×初代タイガーマスク「あの日、あの時・・・“燃える闘魂”と過ごした日々」では、以下の会話が展開されています。
新間 私は猪木さんとの付き合いは長いからねえ。思い出があり過ぎるくらいあるよ。最初に猪木さんに会ったのは、ポンジー化粧品の北九州出張所を自分で開設した時でね。日本プロレスが偶然、小倉の三萩野体育館に来たから豊登さんに会いに行ったんだよ。そこで猪木さんを紹介されてね。
タイガー それって、いつですか?
新間 昭和35年(1960年)の春だよ。確か天皇誕生日(4月29日)だったかな。
――猪木さんが力道山に連れられてブラジルから帰国したのが4月10日で、その19日後ということは日プロの練習生になりたての頃です。デビュー戦は同年9月30日なので、新間さんは猪木さんと会った最も古い関係者ということになりますね。

インタビュアーである清水勉氏は「佐山さんがファン時代に観たアントニオ猪木のベストバウトは何ですか?」という質問をするのですが、それに対してタイガーは「ストロング小林さんとの最初の試合ですかね(74年3月19日=蔵前国技館)。猪木さんの頭が先にマットに着いて、小林さんの後頭部が打ち付けられた瞬間に猪木さんの爪先が浮き上がったジャーマン・スープレックス・・・あれは凄かったですね」と答えます。すると、新間寿も「うん、凄かった。私も小林さんとの最初の試合がベストバウトかな。東京プロレスのジョニー・バレンタイン戦も凄かったけどね。あの当時、ああいう激しい殴り合いをするような試合はなかったから。でも、小林戦はバレンタイン戦を超えたと思うな」と言うのでした。

「戦評―“昭和の巌流島”力道山vs木村政彦」では、2012年の春、初代タイガーマスクに力道山vs木村政彦戦の映像を見てもらい、試合の感想を聞くというインタビューが行われました。映像を見終わった佐山は、「これは猪木プロレスの原点ですね。こういうのを知っているから、猪木さんはああなったんだね! ストロングスタイルの原点ですよ。これは本当に素晴らしい! まず観客が試合に引き込まれるように見入っちゃっているんですよね、この2人の勝負に。これがプロレスなんですよ。技術も素晴らしいです。というのは、そこでロープに飛ばして、何か技をコンビネーションで出したりしたら台無しですよ。あの試合はお終いです。それがなかったから良かった。力道山先生の試合は、猪木さんと一緒。共通するものを感じますよ」と語っています。

出会い頭に木村政彦の足が出て、それが急所付近に来たから、カッとなって力道山がやっちゃったというのが今までこの試合に関する一般的な解釈でした。佐山は、「僕もずっとそうだと思っていました。でも、初めて長い映像を見て、明らかにイライラが蓄積したものだと確信しましたね。お互いが次第にカタくなって、力道山先生の方が『こいつ、合わないな』というのが積もり積もって熱くなって、最後は爆発しちゃったと。『合わない』というのは、木村先生も感じていたと思いますよ。最初はレスリングと見せかけて、一方的にガチンコを仕掛けること。これはプロレスで絶対にやっちゃいけないことですよ。プロレスだからルールがあるわけで、それは反則行為。でも、この試合は違った。力道山先生が意識的に仕掛けてやろうとしていたんじゃないということですね」と語ります。

また、力道山が木村政彦の頸動脈に不意打ちの空手チョップを叩き込んだことについて、佐山は「あれは本来やっちゃいけないこと。この場合、しょうがないとも言えない。ここまでの過程で、カタくなったのは両方とも悪いと思いますよ。カタくなっちゃったら、プロレスという芸術ではなくなるから。プロとしてやっちゃいけないんだけど、未熟な者同士では許される部分はあるし、その範囲で最高の試合をやったんだと思いますよ。あれで力道山先生が的を外して仕留められずに、もし木村先生も反撃したら、互いに30秒もせずにゼイゼイ言い出して最低の試合になったでしょうね。それは熟してない者同士だからですよ。あそこで木村先生がダウンしてくれたから、最高の試合になったんですよ」と語っています。さすがに説得力がありますね!

佐山いわく、「プロレスラーはナメられてはいけない」。力道山はそういうプロレスの支柱を時間をかけて作ってきたはずだといいます。それを猪木が引き継ぎました。ただ、この木村政彦戦の時代はそういう支柱もまだ出来上がっていなかったと指摘し、佐山は「そのマイナスな部分から土台を築いて、柱を立てたわけですよ。力道山先生は、よくアントニオ猪木を世に出したと思いますよ。この試合がなかったら、出てこなかったですね。そこからタイガーマスクも出てきたというわけですよ。そう思うと、これは日本プロレス天地創造の神々の試合だったかもしれない。そこに勝ち負けなんて関係ないですよ。2人とも後のプロレスを構築するための神だったんですよ。よくこんな試合を創造しましたよね」と語るのでした。この壮大な歴史観のある佐山聡のコメントに、わたしはしみじみと感動したのでした。