No.2458 プロレス・格闘技・武道 『蝶野正洋 プロレス名勝負とあの事件の裏の裏』 蝶野正洋著(ワニブックス)

2026.04.07

『蝶野正洋 プロレス名勝負とあの事件の裏の裏』蝶野正洋著(ワニブックス)を読みました。著者は1984年、新日本プロレス入門。同年10月5日、越谷市民体育館における武藤敬司戦でデビュー。87年3月に海外遠征に出発。89年10月に帰国後、90年4月にIWGPタッグ王座を獲得し、91年8月には第1回G1クライマックスに優勝し大躍進。G1は前人未到のV5を達成し、92年8月には第75代NWAヘビー級王座を奪取。96年にはnWoジャパンを設立して一大ムーブメントを起こし、98年8月にIWGPヘビー級王者となりました。その後、TEAM2000を結成。2010年2月に新日本プロレスを離れてフリーに。現在はリング以外の活動も多く、TV、イベント、講演に出演するなど、多方面で活躍。その他、1999年12月に夫人と二人三脚のARISTRISTを設立。近年は「AED救急救命」「地域防災」の啓発活動に力を入れており、2014年7月には(一社)ニューワールドアワーズスポーツ救命協会を設立。公益財団法人日本消防協会「消防応援団」、公益財団法人日本AED財団「AED大使」として行政・自治体をはじめとする消防広報の支援活動を行っています。

本書の帯

本書のカバー表紙には、トレードマークのサングラスをかけた黒づくめの著者の写真が使われています。帯には「VS武藤敬司」「VS橋本真也」「VSルー・テーズ」「VSアントニオ猪木&坂口征二」「VSリック・ルード」「VS本隊」「VS世間」「VS藤波辰爾」「VS渕正信」「VSアントニオ猪木」「VS三沢光晴」「VS小橋建太」「VS藤田和之」「現役当時は気づけなかった――いま明かす、真実と暗闇」と書かれています。帯の裏には、「今になって、ああそうだったのかと気づくこと、合点のいくこと、納得することがありすぎる」と書かれています。

本書の帯の裏

出版社からのメッセージは以下の通りです。
「黒のカリスマと呼ばれプロレス界を盛り上げ、60歳を超えた今も圧倒的な人気を誇るプロレスラーの蝶野正洋。現在は災害時の自助意識について、また救命救急の普及活動に力を入れ全国で講演を行うなど新たな活動もされていますが、2023年2月に行われた同期の武藤敬司さんの引退試合で、急遽最後の対戦相手を務めたことも記憶に新しく、プロレス界を第一線で引っ張る存在です。蝶野正洋といえば数々の名勝負。たくさんの伝説を作ってきました。その忘れることのできない名勝負を改めて振り返りながら、試合直後ではなく、時間が経った今だからこそ気づいた様々なあんなこと、こんなこと・・・・・・。舞台裏をとことん語り、62歳の誕生日にあたる9月17日(水)に発売します」

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 プロレス入門前
 第1章 デビュー戦 VS武藤敬司
 第2章 ヤングライオン杯決勝 VS橋本真也
 第3章 鉄人との出会い VSルー・テーズ
 第4章 「出る前に負けること考える馬鹿いるかよ!」
     「時は来た!」VSアントニオ猪木&坂口征二
 第5章 伝説のG1クライマックス制覇、夏男を襲名
     VS武藤敬司
 第6章 第2回G1クライマックス連覇
     VSリック・ルード
 第7章 ヒールターン!「nWo」を結成
     VS本隊 VS世間
 第8章 念願のIWGPヘビー級王座を戴冠!
     VS藤波辰爾
 第9章 全日本プロレスとの開戦! VS渕正信
第10章 神様への宣戦布告 VSアントニオ猪木
第11章 闘魂三銃士×四天王、禁断の扉が開かれる1
     VS三沢光晴
第12章 闘魂三銃士×四天王、禁断の扉が開かれる2
     VS小橋建太
第13章 橋本真也に届け!
5回目のG1クライマックス制覇
     VS藤田和之
第14章 闘魂三銃士の引退 VS武藤敬司
「あとがき」

「はじめに」では、この本は著者にとってのケジメの1つだと告白しています。著者がレスラーとして、新弟子、若手、中堅、エース、メーンイベンター、タイトルホルダーと、およそすべてのポジションを経験してきましたが、それぞれの時代の真っ只中にいながら現役当時は気づかなかったことがあまりにも数多くあるとして、「今になって、ああそうだったのかと気づくこと、合点のいくこと、納得することがありすぎる。1つ1つの試合に込められていた先人・先輩たちの思いや、1つ1つの出来事の背景にあった時代の大きな流れを今になって知り、今になって勉強させられ、それらが今の俺の行動や活動の糧になっている」と述べています。

著者は、2021年12月に脊柱管狭窄症の手術をしました。手術をして半年ほどが経った頃、プロレスリング・ノアから武藤敬司の引退試合対戦相手の相談を受けました。著者は、「無理を承知で言っている、ということは俺にもわかった。一時は俺がまったく動けない状態にあったことも彼はちゃんと知っている。俺と同期の武藤さんもまた、怪我と闘い、手術を受け、崩壊寸前の身体で60歳までレスラー生活を貫いてきていた。話題づくりとして蝶野を引っ張り出そうという、プロレスラーとしての思惑ももちろんある。しかしそれ以上に、俺にエールを送ってくれている、と思った。手術は終えたものの何も考えられなくなっていた俺は、その時、光を見せてもらった気がした。気持ちに一吹き、風が通った」と述べます。

著者は、60歳の還暦は、高齢への歓迎式だといいます。成人の「期待と不安」が「不安と期待」へと変わり、健康というハードルが加わりますが、門出である事に変わりない様に感じ始めたそうです。著者は、「特に60代はシニアという新しい時代の始まりのような気がする。俺が今感じている不安は、おそらく20代の時に感じていた不安と変わらないのではないかと思っている。折返し点からの新たなスタートに俺は備えたい。レスラーとしての現役時代、俺は、続けることができて20年間だと考えていた。だから、20歳でスタートし、30歳が折り返し地点だと思っていた。それが、今の俺は、60歳が折り返し地点なのではないか、と考え始めている。体調は明らかに変わる。けれども、折り返し地点の60歳からは、この先ならではの楽しみ方があるに違いない」と述べるのでした。

第3章「鉄人との出会い VSルー・テーズ」の「これぐらいしかできねぇな、と思った技」では、1988年にアメリカをサーキットしていたとき、「鉄人」と呼ばれた伝説のプロレスラーであるルー・テーズの指導を受けたエピソードが語られます。スパーリングの相手をしてくれたルー・テーズが、著者に固め技をキメてきました。それが、後にSTF(Stepover Toehold With Facelock、ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック)と呼ばれるようになる技でした。著者は、「何回かその技をかけられるうちに、俺にできるのはこれくらいしかねぇな、と思った。バックドロップにはジャンボ鶴田さんという大先輩がいて、スープレックスには前田さんという先例があり、2人とも柔らかい身体能力を使って見事に使いこなす中、俺が今からやっても、反りが甘い、格好悪い、などと文句を付けられるのがオチだろう」と述べています。

「実は巨体の選手にかけづらいSTF」では、STFは著者が元祖のように言われることもあるようですが、それは違うといいます。ルー・テーズは力道山と10試合以上戦っていますが、力道山相手にもこの技を使っているのです。道場でも頻繁に繰り出される技ですが、相手をコントロールするために一度固めてやり、「お前にはこれ以上は無理だよ」とメッセージするための技でもあるといいます。また、STFを使い始めた頃は、とにかく足を固めなければ始まらないという意識が強く、入りすぎてキメすぎてしまうということがよくあったそうです。特に、橋本真也やベイダーのような脚の太い選手には入り切れませんでした。一方、身体の柔らかい選手に対してはキメづらくて、脚の方をちょっと緩めて調整したりしました。身体の小さい選手には逃げられがちで、決まり切らない。著者は「STFは、けっこう難しい技なのだ」と言うのでした。

「カルガリーで会っていた橋本選手」では、若手時代の橋本の蹴りが本当に嫌だったことを告白。著者は、「だいたい、当時、キックを使う選手は、UWF陣に見られる通り、脚にレガースを着けるのが常識だったし、それが格好よくもあった。彼らのキックは痛みよりも衝撃を旨とするものだった。橋本選手は昔ながらのリングシューズで思い切り蹴ってきた。厳密に言えばルール違反だ。蹴られた胸には、リングシューズの紐の痕がビッチリと付いた。他の選手が嫌がっているのをむしろ気に入っているようなところが橋本選手にはあった。基本的に、念のために繰り返すが、あくまでも基本的に、みんな橋本選手が嫌いだった」と述べるのでした。

第4章「『出る前に負けることを考える馬鹿がいるかよ!』『時は来た!』 VSアントニオ猪木&坂口征二」の「アントニオ猪木の一言」では、著者が猪木の付き人をしていた頃の思い出が語られます。著者は、「付き人をしていてわかったのは、ブロディだろうが誰だろうが、みんな猪木さんに対して明らかに恐怖心を持っているということだ。猪木さんは、真剣に潰しにかかるシューターとしての仕掛けも天下一品だった。恐怖心のあるところに、さらに眼光で殺しにかかる。だから、俺は普段、猪木さんを正面から見たことはない。かわして、見ないようにしていた」と述べます。藤波、長州、前田などの著者の先輩は、猪木にとって危険な後輩でした。自分を追い抜く可能性を秘めているレスラーたちだからです。その分、彼らに対する威圧感はものすごく、厳しかったそうです。一方、年齢にすれば20歳も違う三銃士の世代に対して、猪木はそういう見方はしていなかったそうです。

「坂口征二は恐竜」では、著者は「坂口さんは恐竜だ。後ろから見ると、太い足が恐竜の尻尾のように見える。長州さんも言っていたが、とにかく坂口さんの足は重い。例えば片エビや逆エビにもっていくことができたとしても、攻めているはずの、足をホールドしているこちらの方がまず疲れてしまうのだ。アキレス腱など、まったく決まらない。坂口さんの筋肉はたぶん、人と違っていた。ちょっとトレーニングしただけですぐにゴリゴリに筋肉がつく、という感じだった」と述べます。坂口は、例えば1965年の世界柔道選手権大会で日本代表を務めた、世界的な柔道家でした。試合では橋本真也との柔道技の掛け合いもありましたが、高校時代に夢中になっていた程度の柔道などは格下中の格下です。著者は、「格闘技の代表は柔道だという風潮が日本にはある。長州さん、マサさんのアマレス経歴にはたいへんなものがあったが、坂口さんにとってみれば、これも格下だった。坂口さんのプライドには普通ではないものがあった」と述べるのでした。

「トンパチ、橋本真也」では、長州力率いる維新軍団が新日本プロレスにUターンしてきたとき、新日本の若手だった橋本真也がヒロ斎藤に容赦ない攻撃を仕掛け、手を骨折させたことがありました。試合後、橋本は長州とマサ斎藤に呼び出されリンチに遭います。このとき、橋本は会場の外にいましたが、半泣きだったそうです。著者が「大丈夫かよ?」と声をかけると、「ぶっ殺す」という答えが返ってきました。「あいつら絶対に刺してやる」とまで言ったといいます。著者は、「殺すとか刺すとか、人にそういうことを漏らすやつは絶対に実行しないということを俺は知っていたから、それほど心配はしていなかった。『刺すって、お前、どうすんだよ?』と聞くと、橋本選手は、『今夜、出刃包丁を買ってきて刺す』と極端なことを具体的に言った。会場の外であっても人目はあるし、俺の姿も目にして、なおさら気が張ったせいもあると思う。俺は、『ブッチャー、何かあったら俺も協力するから。力になるから』と言った。その時に初めて、橋本選手と通い合うものができたのだった」と述べています。

第6章「第2回G1クライマックス連覇 VSリック・ルード」では、当時、アメリカのプロレス団体は、各州ごとのボクシング連盟とレスリング連盟との共同連盟だったことが紹介されます。各州、プロレスの試合をやるためにはレスラーが州発行のライセンスを取得する必要がありました。健康診断などを受け、出場レスラー1人ひとりがライセンスを取得するのです。著者は、「プロレスの興行とエンターテインメントは州の役所の管轄が違っていた。スポーツとショーを明確に分けていた。プロレスの興行はスポーツのジャンルに入っていたから、開催の申請が非常に面倒で煩雑だった。各選手がライセンスを取得した上で、規約に従って選手管理までしなければならなかった。チケット販売のルールなど興行の規制も厳しかった。そこで、WWFは、『我々はスポーツではない。エンターテインメントである』という宣言をすることになる。WWFはボクシング連盟とレスリング連盟との共同連盟から外れることになっていく」と説明しています。

プロレス自体のスタイルとして、エンターテインメントと昔ながらのレスリングの2つの大きな流れがありました。アメリカで修行をした著者によれば、地方に行けば行くほど、エンターテインメントの方が受けたそうです。お客さんが盛り上がるのです。著者は、「ストロングスタイルは押されかかっていた。そこで、『ストロングスタイルはなくさない。立て直す』というテーマの下に実現したのが、新日本プロレスとWCWの提携だった。スポーツとエンターテインメントの関係ということで言えば、日本においても、かつては面倒くさい話があった。プロレスはテレビ放送の上ではスポーツ枠で、スポーツ枠は固定カメラのみ許される報道の扱いだった。今はもうなくなってきているが、つまり、バラエティのようにカメラワークで演出をかけてはいけないことになっていたのだ」と述べます。

「先生、山本小鉄」では、著者はリングサイドにアントニオ猪木か山本小鉄がいる時に緊張したと告白します。山本は新弟子時代のコーチでしたから、下手な試合をすると真っ先に、否応なく注意されました。手を上げられたことはなかったそうですが、厳しかったといいます。著者は、「山本さんの文句は的確なのだ。普段より力を入れて思いっ切り相手選手を蹴飛ばしたりしているのに気がついて、「どうして無闇に痛い目に遭わせるんだ、わかっているくせになんでこんな試合をやるんだ」とそれこそ痛いところをビシッと突かれる。山本さんがすごいのはまず、選手をどうまとめるかというところを常に考えていたところだ。選手は人それぞれ、年齢、キャリア、成長状態が違う。山本さんは、選手各人に対して、異なる接し方をしていた。そして、必ず、1人ひとりに声をかけていた。つまり、1人ひとりに目を利かせていた、ということだ。かといって厳しいばかりではない。レスラーは、飯を目いっぱい食い、酒を飲み、遊びもしなければダメだ、と言っていた」と述べます。

「格好いい先輩、長州力」では、当時、新日本プロレスのトップ選手だった著者の「髙田延彦と戦いたい」という一言で、マスコミの目が、新日本プロレスとUWFインターナショナルの交流戦という方向に向いたエピソードが語られます。それで、マサ斎藤やヒロ・マツダが2年間も苦労し、猪木が切望していたWCWとの提携をぶち壊しにしてしまいました。著者は、「俺としたところが、高田さんとやりたいなどとリップサービスしたものの、首の負傷で交流戦など、はなからできる自信はなかった。長州さんにしても、俺の一言でWCWとの提携のアピールが霧散してしまったことに対して、かなりの怒りがあったはずだと思う。それでも長州さんは、『俺を守ってやる』と言ってくれた。ふざけんなこの野郎、何のためにこの2年間やってきたと思っていやがる、と怒鳴りつけられ、殴られてもおかしくない状況だったはずだ。俺は長州さんを、格好いい先輩だな、と思った。長州さんがそういう人だとは知らずにいたのだ」と述べるのでした。

第7章「ヒールターン!『nWo』を結成 VS本隊 VS世間」の「エグい人ではなかったアントニオ猪木」では、かつて付き人を務めた猪木について語っています。著者は、「猪木さんは、ビジネス系の物事になると脇の甘い人だったと俺は思う。いろいろな人が大勢猪木さんに関わり、猪木さんが関係する組織に入ってきていた。猪木さんは、そうした人たちの利益も作ってやらなければならない、と必死だった。猪木さんは、世間で言われるほどエグい人ではない。猪木事務所(2005年設立)に入った10億円近くの版権料が猪木さんの手にはほとんど渡っていなかった、という話もある。その一方で、とある幹部は高級車を3台持っていた。親族関係が運営していたから、猪木さん自身、なかなか整理することができなかったようだ。最終的には、後に夫人となる田鶴子さんが大鉈を振るう役割を果たした」と述べています。

アントニオ猪木対モハメド・アリ(1942~2016年)戦(1976年6月26日、日本武道館、15ラウンド引分け)の時に20億円ほどの借金が残りましたが、東京ドーム大会を年に4回やり、借金は数年で返済。観客席は常に満杯なのに相変わらず経営は厳しい状態で、上層部はお金にこだわっていたとして、著者は「だから、三銃士時代、俺は契約の時に必ず、『まだ借金が残っているからもう少し頑張ろう』という合言葉の下にサインさせられていた。その合言葉が、突然言われなくなった。東京ドームの人気は相変わらずで、一気に借金を消すことができたらしかった。返したら返したで、当時は豊富にあった預託金の内部での分配が始まってしまった。三銃士がそれぞれに独立してシングルのポジションを獲得し始めたのは、そういう時期だった」と述べます。

第8章「念願のIWGPヘビー級王座を戴冠! VS藤波辰爾」の「藤波辰爾を超えることはできない」では、著者が新日本プロレスに入門した頃、藤波は30歳でバリバリに脂が乗りきっていたそうです。練習量も半端ではなく、その練習をこなす体力も半端ではありませんでした。著者は、「新弟子として見ていて、とてもではないが叶わない、と思った。ベンチプレスも200キロ程度を上げていた。藤波さんは、すべてがトップだった。瞬発力と反応の速さに加えて海外遠征による豊富な引き出しがある。スパーリングを見ていても、相手との差は歴然としていた。藤波さんを超えることはできない。俺はずっとそう思っていた。ところが、レスラーには年齢的な衰えというものがどうしてもある。三銃士がメーンイベントを張れるようになった1990年代初頭、つまり藤波さんが40歳を超えた時期、ふと、それを感じた」と述べています。

著者いわく、レスラーにはレスラーそれぞれにペースとリズムがあるといいます。長州は、ハイスパートと呼ばれる、止まらないリズムを自分のものにしました。他の選手とはまったく違うリズムです。長州は、それで相手のリズムを崩していきます。では、藤波はどうか。著者は、「正統的なレスリングという見方をすれば、藤波さんは間違いなく猪木さんより上だ。ただし、猪木さんのリズムは独特だ。簡単に言うと、藤波さんのテンポは、ギアを一段ずつ上げていく感じだ。長州さんは、出足からフルで加速するタイプである。ところが猪木さんのテンポは、オートマチックという感じだ。わけのわからないうちに猪木さんのペースに巻き込まれていく。結果的に俺は、猪木さんのスタイルを踏襲したということになると思う」と述べています。

「コブラツイストがきれいな技である理由」では、STFには唯一の欠点があるといいます。文字通り顔をロックするから、かけると対戦相手の顔がお客さんに見えなくなってしまうという点です。それを積極的に解消しようとしたわけではないそうですが、こういう手順でこうロックすれば固め技になる、対戦相手の顔も見える、という形で、著者が自分で考え出したのが羽根折固でしった。著者は、「アマレスのシゴキ技を参考にしたわけではない。ただし、羽根折固めは選手と向き合う体勢でかける技だから、相手の顔が見えている側からは俺の顔は見えない。痛しかゆしの技だ。そういう観点からすると、コブラツイストというのは秀逸な技だ。かけている自分の顔もかけられている相手の顔も同一アングルで完全に見える。きれいな技というのはコブラツイストのような技のことを言うのだろう」と述べます。納得ですね!

「プロレスラーによくある失敗」では、もっぱら試合が盛り上がった時にプロレスラーによくある失敗が起きると明かします。ここでドロップキックを放って、倒れたところを起こして投げ技をかけ、さらに一発、違う飛び技を決める、などといったパターンをそれぞれの選手が持っています。それを、同じことを2回繰り返してしまう、というのは明らかに失敗です。著者は、「せっかく客席が盛り上がっているのだから、スリーパーに行く前に一発ミサイルキックを決めておけよ、という話だ。控室ではみんなが、『バカじゃねえの』と言って笑い転げていると考えた方がいい。武藤さんは、決めまくる選手だった。見事に見せ技を入れ込んでくるよな、と感心するばかりだった。後輩では、天山選手が上手い。がむしゃらに行くというキャラクターが目立つレスラーだが、そのキャラを成立させているのが、すべての技を逃げずに受けるというスタイルだ」と述べるのでした。

第9章「全日本プロレスとの開戦! VS渕正信」の「新日本に吸収されるはずだった全日本」では、全日本プロレスから三沢光晴をはじめとした大量の選手が離脱して「ノア」が設立されたとき、新日本が全日本を吸収するという話があったことを明かします。著者は、「俺は内部事情を知らなかったが、日本テレビもまた全日本から離れて三沢さんたちをバックアップすることが当初から決まっていたらしい。新日本プロレスとしては、三沢さんたちの離脱で弱体化せざるをえない全日本プロレス、渕さん(渕正信、1954年~)、川田選手(川田利明、1963年~)、そして元子さんを救済しに行かなければならないという頭があった。救済班としてまず俺が乗り込み(2000年9月2日、日本武道館、対渕正信、勝者蝶野正洋、ケンカキックから体固め)、続いて武藤さんがマッチングされた」と述べています。

著者は、「俺は当時、立場としては、西の横綱だった。つまり、メーンのトップではない、ということだ。メーンのトップは武藤さんと橋本選手で、やはりこの人物は慎重に動かす必要があった」とも述べます。武藤敬司は三冠ヘビー級のベルトを奪取し(2001年6月8日、日本武道館、武藤敬司対天龍源一郎、勝者・武藤敬司、ムーンサルトから体固め)、2001年から翌年にかけてメーンを張って防衛し続け、全日本の武道館をフルハウスにしました。そうした提携契約の中で、いずれ全日本プロレスは新日本プロレスに吸収されるという話になっていたと思うとしながらも、著者は「ただし、元子さんのプライドがあり、保留のままになっていた。こちらは救済のつもりでいたが、さすがに元子さんは手強い人だった」と述べます。

「渕正信はなぜマイクが上手いのか」では、新日本としては救済のつもりだった全日本との交流戦の前哨として、2000年8月11日、G1クライマックス開催中の新日本のリングに渕正信が登場したことが紹介されます。著者は、「俺も含めて、新日本の選手のマイクパフォーマンスは、はっきり言って何をしゃべっているのかさっぱりわからないのが常だ。長州さんのようにその場の勢いでババッと言い放ち、雰囲気というものに重点を置く。だから、渕さんが、ゆっくり、理路整然と、まるで選挙演説のようにマイクアピールしたことにまず驚いた。おまけに、しゃべりが上手い。よくよく考えてわかったことがある。全日本プロレスの選手はみなアメリカに遠征に行くが、全日本の選手たちが行くのはNWAのテリトリーであり、ド真ん中のアメリカだ。マイクアピールの基本を、するしないにかかわらず叩き込まれている」と述べています。なるほど!

第10章「神様への宣戦布告 VSアントニオ猪木」の「理解されなかったアントニオ猪木の危機感」では、猪木が抱いた「K-1」や「PRIDE」に対する危機感の背景には当時の経験があったことが指摘されます。「K-1」や「PRIDE」は明らかにライバル団体であるという見方を、著者たちの世代はできていなかったといいます。猪木が説明してくれても、理解できずにいたそうです。新日本のスタッフもわからないでいました。著者は、「猪木さんは逆に敵陣に乗り込んでいった。流れ込んでしまっているプロレスファン、猪木さんが育てた格闘技ファンを取り戻すつもりだったのだろう。アリ戦に代表される異種格闘技戦はもともと、格闘技ファンを引き付けていわゆるプロレスファン層を厚くする、数も増やす、ということを目的に猪木さんが編み出した企画だった。そうは言っても周りは、何のつもりで小遣い稼ぎに出かけているんだ、という目で猪木さんの動きを見ていた。猪木さんの、業界をひとつもふたつも上から見る感覚を共有することは難しかった」と述べています。

「神がいる、の本当の意味」では、武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンらが全日本プロレスに移籍した直後の2002年2月1日の新日本プロレス札幌大会で、リング上の著者がオーナーである猪木の口から「プロレス」というキーワードが出るのを待っていたエピソードが語られます。プロレスの魅力をおそらく世界で一番、最もよく知っているのは猪木であると考えた著者は、「ここに1人の神がいる、アントニオ猪木という神だ」と言って猪木をリングに呼び込みました。著者が言いたかったのは、「猪木さんは敵ではない。猪木さんはプロレスの中心だ。だからこっちにいてほしい」ということでした。プロレスファンを代表しようというイメージだったのです。しかし、そこはあくまで猪木は経営者でした。ガタガタになっている会社を見ている人間が今、誰もいない。レスラー、若い社員は途方に暮れている。そちらの問題が頭の中を駆け巡ったようでした。そこで猪木は、世に「猪木問答」として知られているパフォーマンスを繰り広げることになります。著者は、「俺は正直、若手を相手に何をやっているんだ?と思った」と述べるのでした。

「不安を見せたアントニオ猪木」では、2011年3月11日に東日本大震災が発生したとき、新日本プロレスは興行を自粛したことが紹介されます。とにかく正確な情報が入ってこない中、4月に入ってすぐ、著者は猪木から電話をもらいました。「被災地に行くぞ」ということでした。最初の避難所に入ったのは朝の10時頃でした。猪木を先頭に、避難所になっている体育館のドアを開け、一礼をして入りました。さすがに、「元気ですか!」と言っているわけにはいきませんでした。著者は、「はじめのうちは被災者の方々と深々と挨拶を交わしながら、猪木さんは進んでいった。そのうち、若い人が猪木と蝶野が来ていることを聞きつけ、集まってきた」と述べます。そして、「猪木さん、ビンタしてください!」が始まりました。猪木は、最初のうち、「今日はそういうつもりで来ているわけではないから」と言って断っていたそうです。

しかし、猪木が断っても食い下がる者が出てきました。「あれから3週間経っているのに、僕たちは何もできずにいるんです。気合が欲しい」と言うのです。仕方なく猪木が闘魂ビンタを始めると、あっという間に200人ほどの行列ができました。著者は、ビンタが終わった若者のシャツの背中にサインをする役目に回ったそうです。その後、5か所の避難所を回りましたが、行くところ行くところ、同じ現象が続きました。皆、何もできずにいることをもどかしく思っていたのです。猪木はその日だけで1000人以上の人たちにビンタを見舞ったといいます。著者は、「猪木さんが来た、猪木さんにビンタをもらった、ということで、被災者の人たちのもやもやした胸のうちに一陣の風をプレゼントすることができた。それだけは確かだ、と俺は思った」と述べます。やはり、アントニオ猪木は稀代のスーパースターですね!

第11章「闘魂三銃士×四天王、禁断の扉が開かれる1 VS三沢光晴」の「三沢光晴社長の英断」では、ノアの三沢光晴と著者の初対戦について語られます。著者は試合前に、ノアの三沢社長に電話をかけました。東京ドームの対戦の相談をしたかったのですが、つながりませんでした。その30分後、試合が終わってリングから戻ると、三沢社長からの着信履歴が残っていました。著者はすぐに折り返して、「一騎打ちでやってくれませんか」と頼んだといいます。速攻で、「いいよ。やろう」という答えが返ってきました。つまり、三沢社長はノア社内の確認など取ることなく、俺の電話にその場で「やろう」と言ってくれたのです。著者は、「東京ドーム大会がポシャればなおのこと、新日本プロレスが潰れるのは明らかだった。もちろん、三沢社長はそれを知っていた。同時に、新日本が消滅することはプロレス業界の大打撃となるだろうということも頭の中に入っていたのだろうと思う。三沢社長の英断がなければ、今、おそらく新日本プロレスは存在していない」と述べています。こうして2002年5月2日の東京ドームは、蝶野VS三沢蝶野戦で締めることができました。結果は、30分フルタイムドローでした。

第12章「闘魂三銃士×四天王、禁断の扉が開かれる2 VS小橋建太」の「格闘技とプロレスの2枚看板勝負」では、2002年の夏に膝の負傷で欠場続きだった小橋建太が完全復帰しますが、停滞感があったことが指摘されます。著者は、4か月ほど様子を見た後で、2003年5月2日の新日本の東京ドーム大会での小橋戦をノアに提案しました。著者自身のコンディションもどうなるかわからない中での提案でしたが、ノアは「やりましょう」と言ってくれました。そして、2003年5月2日の東京ドームで、蝶野VS小橋戦が実現します。GHC世界ヘビー級のタイトルがかかった試合でしたが、著者は「おそらく小橋選手には勝てないだろうことは俺が一番よく知っていた。問題は、東京ドームに集まってくれる5万5000人のお客さんに納得して帰ってもらえる試合ができるかどうかだった」と述べています。

「死に方をお客さんに見せる」では、蝶野VS小橋戦の終盤、小橋選手は投げ技(ハーフネルソンスープレックス)を連発してきたことが紹介されます。著者は、「ヤバい、と俺は思っていた。しかし、お客さんに見せるべきは死に向かって踏ん張るだけ踏ん張っている姿だ。そのためには、受けるだけ受け続けるしかない。俺は合計6発のハーフネルソンスープレックスを浴びたらしい」と述べます。3発ほど決めた後、小橋は、「大丈夫ですか?」と著者に聞いたそうです。著者が立ち上がってくるからです。タオルを持ってエプロンに上がる天山が見えたので、著者は「大丈夫だ」と天山を制しました。著者は、「今思えば、小橋選手も面白いレスラーだ。『大丈夫ですか?』と聞いてくるくらいなら、なぜその場で固めてカウントを奪って終わりにしてくれないのか、という話だ」と述べています。たしかに、そうですね。小橋の人の良さがよくわかるエピソードです。

第13章「橋本真也に届け! 5回目のG1クライマックス制覇 VS藤田和之」の「初めて会った時からのトラブルメーカー」では、橋本真也の思い出が語られます。著者は、「橋本選手は決していい状況で最期を迎えたとは言えなかった。至るところに喧嘩を売ったまま亡くなった、という感じで、周囲の受け止め方もそうだった。俺が初めて会った時から橋本選手はトラブルメーカーだった。かばったりなどしたら面倒くさいことになるタイプの典型だった。最後まで迷惑をかけ続けた。橋本選手らしいと言えば、これ以上に橋本選手らしいことはないだろう」と述べます。また、「アントニオ猪木の本物の後継」では、橋本選手がZERO-ONEで展開していた興行がどんなものだったかを考えると見えてくるとして、著者は「橋本選手ほど猪木さんが求めていた方向性を理解していた人間はいなかったのではないかと思う。仕掛けられたことではあったけれども、引退に追い込まれた小川選手戦についても、橋本選手はその意味を大局的にわかっていた」と述べています。

第14章「闘魂三銃士の引退 VS武藤敬司」の「立て始めた引退セレモニー企画」では、2024年2月21日の東京ドームで武藤敬司が内藤哲也選手を相手に引退試合をした後、解説席にいた著者が突然指名されて、最後に両雄が戦ったことが紹介されます。結果は、1分37秒、STFで著者の勝利でした。著者は、「なんで俺にフッたんだよ、とつくづく思うが、武藤さんは内藤選手と試合をやりながら、お客さんたちの反応を見ていた。そして、実はあらかじめ、俺をリングに上げる準備をスタッフにさせていたらしい」と述べます。著者は真剣に、「やめてくれよな、絶対にそんなことはないようにしてくれよな」と言っていました。何かあれば本当に身体が動かなくなる危険性があったからです。著者は、「なんのことはない、30分戦って余力が残っていた武藤さんの、もう一押しのネタとして俺は使われたのだった」と述べています。

著者はまた、「端から見ている分には面白い。お客さんたちも喜んでくれた。リングサイドには長州さんと藤波さんがいて、2人とも、『やったな武藤、仕掛けたな』とでも言いたい感じで大喜びしていたらしい」とも述べます。突然の指名にリングに上がった著者は、なんとかSTFをかけました。すると、武藤はあっさりギブアップしたのです。著者は、「なるほど、こういう締め方かよ、と俺は思った。だったら、最初からそこのところを出演料に乗せておいてくれよ、という話なのだ。解説者としての出演料しかもらっていない。やったもん勝ちのプロレスの世界の代表みたいな例だ。さすが武藤さん、ということだ。俺も少しずつ体調が戻り、今、引退セレモニーについて企画を立てているところだ。やはり武藤さんには来てもらおう。ケジメのパフォーマンスをきっちり仕掛ける必要があるからだ」と述べるのでした。

「あとがき」の冒頭を、著者は「レスラーは常に、死に至る可能性のある危険と隣り合わせにいる。俺は現役時代、2度、引退を考えた。橋本選手が亡くなった2005年、そして、三沢さんが亡くなった翌年の2010年だ。三沢さんの死はショックだった。レスラーでいることが恐ろしくなった。橋本選手も三沢さんも、死因のそもそもは過労だと俺は思う」と書きだしています。引退については、いろいろな選択があると思っているそうです。新日本プロレスとの付き合いもありますし、テレビ局との付き合いもあります。興行というものは、各方面の協力があって成り立つとして、著者は「言い方を変えれば、非常に面倒くさい。葬式で言えば家族葬で静かに終わらせたいという思いが俺にはある。自分が思っている形でしっくりくるように終わらせたい、というのが本音だ」と述べるのでした。著者はわたしと同い年ですが、家族葬のような引退セレモニーを楽しみにしています!