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No.2457 プロレス・格闘技・武道 『証言 橋本真也』 小川直也、佐山聡、蝶野正洋ほか著(宝島社)
2026.04.06
『証言 橋本真也』小川直也、佐山聡、蝶野正洋ほか著(宝島社)を読みました。「小川直也、佐山聡、蝶野正洋らが語る破壊王と『1・4事変』の真相」というサブタイトルがついています。橋本真也没後20年。70年間に及ぶ日本プロレス史で「事変」と称されるのは1999年1月4日、東京ドーム大会の橋本真也vs小川直也戦のみ。26年間の沈黙を破って小川が橋本とのプロデビュー戦を皮切りに、「1・4事変」、「負けたら即引退! スペシャル」、引退、復帰、新日本プロレス解雇、ZERO-ONE旗揚げ、「OH砲」結成、ハッスル参戦、衝撃的な死に至るまで「破壊王への限りない愛」を語りつくした一冊です。
本書の帯
カバー表紙には橋本真也と小川直也が握手をする写真が使われ、帯には柔道着姿の小川直也の写真ととともに「橋本真也没後20年」「暴走王が初めて明かす『破壊王愛』」と書かれています。カバー裏表紙には現在の佐山聡の写真が使われ、帯裏には「振り返る愛憎!」「享年40・橋本真也の激動人生」と書かれています。さらにカバー前そでには、「恩人であり、楽しくて、面白くて、兄貴みたいな存在だった橋本さん」という小川直也の言葉が紹介されています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」ターザン山本
第1章 盟友・小川直也が語る破壊王の「愛すべき素顔」と「魅力」
小川直也
恩人であり、楽しくて、面白くて、兄貴みたいな存在だった橋本さん
第2章 蝶野正洋が語る「闘魂三銃士」橋本真也の真実
蝶野正洋
「闘魂三銃士」を引っ張っていたのは、間違いなく橋本選手だった
第3章 佐山聡が語る橋本vs小川「1・4事変」の真相
佐山 聡
1・4の試合は、猪木さんの“想像を超える”爆発をしたということ
【特別コラム】橋本vs小川「1・4事変」はなぜ起こったのか?
「橋本真也vs小川直也」全5戦
新日本プロレス開催大会・完全データ
【特別コラム】“破壊王”橋本真也の「新日本道場」ガキ大将伝説
第4章 破壊王「ZERO-ONE時代」の葛藤と孤独
オッキー沖田
(元ZERO-ONEリングアナウンサー)
大谷晋二郎さんは、橋本さんとまたわかり合える日が来ると信じていた
小紫嘉之
(元・有限会社ゼロワン専務取締役)
橋本さんだから許せちゃう、優しい一面もあるジャイアンみたいな人
葛西 純
「橋本真也」は、ウルトラマンとかゴジラとか、そういう存在に近い人
「はじめに」の冒頭を、 ターザン山本氏は「橋本真也はビジュアル、体形などで決して恵まれていたとはいえない。それは闘魂三銃士の武藤敬司、蝶野正洋とくらべたら一目瞭然だ。しかし、そうした通常の数値化された価値観で橋本を語ることは無意味だ。本人がいちばんそれをわかっていて、『俺はムチャをやらかす人間になるしかない!』と、破廉恥、暴走、型破りに徹し切った。馬鹿をあえて演じる。格好悪いことが格好いいんだという橋本の美意識だ。アントニオ猪木が『馬鹿になれ!』と言ったことを最も体現した男。この自分を曝け出す感覚は、武藤、蝶野にはないし、馬鹿になれない。等身大の橋本真也は、“ザ・プロレスラー”に変身し、『爆勝宣言』のテーマに乗って鮮やかに生き急いでいったのだ」と書きだしています。
1990年代の初め、トニー・ホームとの最初の2試合で、橋本はズタズタにやられました。3回目でやっと勝てたのです。90年代後半から始まった、小川直也との因縁の対決でもボロボロにされました。普通に考えたら鬱かノイローゼになってもおかしくないとして、山本氏は「面白いことに、橋本になら、どんなにひどい仕打ちをしても許されるという判断があった。トニー・ホーム戦、小川直也戦の橋本は完全な生贄である。ある意味、さらしもの。それが逆に橋本の物語、神話になっていった。また橋本のZERO-ONE旗揚げは、周囲の状況に振り回された結果だった。そのことで新日本プロレスには戻れなくなる。橋本は、人々の思惑によって運命を狂わされた」と述べています。
橋本は対戦相手のレスラーを尊敬していたといいます。だから「互いの限界を超えた試合をやろうぜ」というメッセージになります。山本氏は、ここが橋本真也というレスラーの最大のポイントであり、キーワードだといいます。「尊敬なくして破壊なし」を証明したのが、94年2月17日、両国国技館。“ミスター・プロレス”天龍源一郎との試合でした。山本氏は、「新日本とWARの団体対抗戦。その頂上対決。勝利者インタビューの橋本を見てほしい。天龍への気遣い、尊敬は、感動的ですらあった」と述べるのでした。
第1章「盟友・小川直也が語る破壊王の『愛すべき素顔』と『魅力』」では、小川直也が証言します。“暴走柔道王”小川直也とは、一連の橋本戦によって形成された小川のプロレス界でのキャラクターであり、00年代、小川が新たなプロレス人気復興のために心血注いだ「ハッスル」も橋本との盟友関係があってこそ生まれたものでした。小川のレスラー人生は破壊王とともにあったのです。一方、それは橋本にとっても同じことがいえます。「1・4事変によって橋本のレスラー人生は暗転した」といわれることもありますが、同時にそれは新日本という枠にとらわれない、プロレス界での可能性を広げる結果にもなりました。
本書には、「小川戦がなければ、橋本が新日本を退団し、自分で団体を立ち上げ、念願だった一国一城の主になることはなかったのではないか。もしくは、なっていたとしても数年遅れていたことだろう。そしてZERO-ONEというなんのバックも持たない後発の独立団体が、老舗の新日本や全日本プロレス、日本テレビのバックアップを受けたプロレスリング・ノアなどの向こうを張って、00年代前半のプロレス界の台風の目になれたのは、“盟友”小川直也という切り札的な存在がいたからでもある」と書かれています。
小川は87年に西ドイツ(当時)で行われた世界柔道選手権大会の無差別級で優勝し、史上最年少19歳7カ月で世界チャンピオンになりました。これを皮切りに、世界選手権では合計4度優勝。柔道全日本選手権では5連覇を含む7度優勝。さらに92年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得。97年2月にJRA(日本中央競馬会)を退職すると、その輝かしい実績を引っ提げ、同年3月7日にプロ転向(プロレス参戦)を宣言しました。そして、プロ転向宣言からわずか1カ月後の4月12日、東京ドームで行われた新日本の「‘97 BATTLE FORMATION」に参戦。橋本とプロレスvs柔道の「異種格闘技戦」として対戦し、STO(スペース・トルネード・オガワ=変形大外刈り)からの裸絞めで勝利したのでした。
「リングで見せた“人の心を動かす生き様”」では、2021年8月23日に放送されたカンテレの深夜番組「こやぶるSPORTS超」で、ついに小川直也が1・4事変の真相について語ったことが紹介されます。そこで、小川は「これはまだみんなに話したことはないんですけど、猪木さんに『ちょっと来い』って言われて。『これはもう世紀を懸けた一戦にするから、ちょっとお前、やって来い。一方的に蹴りまくって、最後は蹴ってリングから出すまでやれ』って言われたんですよ」と語りました。これが「猪木黒幕説」を小川自ら証言した初めてのものとなったのです。
「消えた『小川vs三沢戦』の可能性」では、新日本解雇から約4カ月後の01年3月2日、橋本の新団体ZERO-ONEは両国国技館で旗揚げしたことが紹介されます。メインイベントは橋本が新日本の永田裕志とタッグを組み、ノアの三沢&秋山準と対戦する夢の越境対決。試合後には小川がリングに上がり三沢を挑発。そこから乱闘に発展し、三沢が小川にエルボーを叩き込む仰天シーンも見られました。さらにPRIDEで名を上げた藤田和之もリングに上がり、リングサイドの放送席には武藤敬司の姿までありました。館内は1万1000人(主催者発表)超満員札止めの大観衆。
ZERO-ONEの旗揚げ戦について、本書には「プロレスの新時代がここからスタートするという期待感に満ちあふれた、まさに史上最大の旗揚げ戦だった」と書かれています。小川は、「普通、新団体の旗揚げっていうのは、既存の団体にとっては商売敵が増えるわけだけど、ZERO-ONEに関しては、なぜかウェルカムな空気でスタートしたんだよ。メイン終了後、いろんなヤツがリングに集まってきて、その乱闘が橋本さんへのお祝いみたいなものだったね。俺だって猪木さんが『お前、行ってこいよ』って言ってくれたから行けたわけで、じゃないと俺も心置きなくあんなふうに、最後にだけ出て行って暴れたりはできないよ(笑)」と語っています。
「新日本でできなかったことを俺はやりたいんだ」では、旗揚げ戦こそ大きな話題を提供したものの、その後、ZERO-ONEは新日本やノアの協力を得られなくなったことが指摘されます。橋本は、選手発掘のために何度も渡米。アメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー)出身という触れ込みのトム・ハワードをはじめ、21世紀版のブルーザー・ブロディであるザ・プレデター、スティーブ・コリノ、ネイサン・ジョーンズ、サモア・ジョーなど、未知の外国人レスラーを次々と招聘。プレデターには、ロープを括りつけた巡業用のバスを引っ張らせるなど、グレート・アントニオばりのデモンストレーションを行わせ、古きよき昭和プロレス回帰路線を打ち出していきました。
2001年10月25日、日本武道館で行われた「真撃 第Ⅲ章」のメインイベント終了後、小川と橋本はバックステージで囲み取材を行い、「プロレス界を活性化する」と、タッグ結成を宣言しました。「OH砲」の誕生です。2人は合体技を披露することになりましたが、橋本は公開練習に乗り気でなかったにもかかわらず、いざ当日になるとコスチュームを着込んできてやる気満々だったそうです。小川は、「技自体だけじゃなくて『名前も俺が考えてきたから』とか言ってさ。だから『刈龍怒』とか『俺ごと刈れ』とか合体技は全部、破壊王が考えたやつだよ。技の名前をちゃんと筆で書いてきて記者に見せてさ。俺のSTOと破壊王の水面蹴りを合体させた『刈龍怒』なんて、『あずさ2号』を歌ってた歌手の狩人をもじっただけだからね。2人組だからってことで(笑)」と回想しています。
「猪木の姿を追い求めていた橋本」では、新日本からの独立後、橋本がリング内外でスーパースターを演じていたことが紹介されます。ZERO-ONE自体も小川とのOH砲や外国人路線の効果で軌道に乗りました。闘魂三銃士の盟友である武藤敬司が全日本の社長となり、蝶野正洋が新日本の現場監督となったことで、両団体との交流も積極的に進めて、話題を提供していくなど、2000年代前半の橋本とZERO-ONEは、常にマット界の台風の目であり続けました。しかし好事魔多し、団体が最も勢いづいている時に橋本は落とし穴にはまってしまいます。2003年7月6日、小川とのOH砲で全日本のビッグマッチ、両国国技館大会に出場し、武藤&川田利明と対戦。川田のジャンピングハイキックを袈裟斬りチョップで叩き落とした際、右肩関節脱臼及び腱板断裂の大ケガを負い、そのケガは最後まで尾を引くこととなるのでした。
「ZERO-ONEを畳んでハッスルだけで・・・・・・」では、2003年7月の川田戦で橋本が肩をケガした約半年後、2004年1月4日にさいたまスーパーアリーナで「ハッスル1」が開催されたことが紹介されます。PRIDEを主催するドリーム・ステージ・エンターテインメント(DSE)が、小川&橋本のOH砲と合体することで生まれたエンターテインメントプロレスイベント「ハッスル」は、橋本のケガの治り切らないなかでのスタートでした。そのため、本来はOH砲が主役となり、元WWEスーパースターなどの大物外国人レスラーを迎え撃つはずだったハッスルですが、当初の予定とは違った展開を見せていくのでした。
ハッスルについて、小川は「あの頃、総合格闘技の人気がどんどん上がっているなか、新日本は中途半端に格闘技と関わって迷走していた。だからハッスルは、格闘技と完全に切り離した方向で、しっかりとしたエンターテインメントとしてのプロレスをつくり上げようと。今、アメリカでは1つの会社の中にUFCとWWEがあって、それぞれが格闘技とプロレスの最高峰として盛り上がってるじゃない。DSEもそれをやろうとしていて、格闘技のほうはPRIDEが軌道に乗ったから、次はOH砲でプロレスの主たるものをつくっていこうという話だったんだけど、橋本さんがケガをして出られない間に、俺が1人になっちゃった感じなんだよね」と語っています。
ハッスルはスタート当初こそ、プロレスファンにも格闘技ファンにも受け入れられず苦戦しましたが、04年4月から小川が「ハッスル普及のために」と、エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ミルコ・クロコップら超強豪がひしめく「PRIDEヘビー級GP2004」に出場して大ブレイク。小川が試合後に行う「ハッスルポーズ」は、芸能人なども次々と真似をし、一種の社会現象にもなった。2005年の春から橋本は再び表舞台にも姿を見せるようになり、復帰に向けて動き出したことを宣言。小川や蝶野からエールが送られ、いよいよ復活間近かと思われました。
しかし、同年7月11日、橋本真也は脳幹出血で急死してしまいます。40歳という若さで、あまりにも突然ファンの前から永遠に姿を消してしまい、マット界は深い悲しみに包まれました。「プロレス界にとってなくてはならない人」では、小川が「もちろん遺体に対面した時には涙が出ましたけど、死因の脳幹出血というのは、トイレで踏ん張ってたらプツンといったみたいなんだよ。それで同じ部屋にいた女性に橋本さんは『救急車!』って叫んで、そのままパタンと一瞬で亡くなったって聞いた。そういう意味では、亡くなった実感というのはあまり感じられなかったんだよ。ケガで欠場してたから、しばらく会ってなかったこともあって、まだどっかで生きてるような気もしてさ」と語っています。
本書でのインタビューの後、橋本との一番の思い出について聞いたところ、小川からは「デビュー戦や1・4ドーム、『負けたら即引退』など、橋本さんとは何度も闘ったし、OH砲として地方を一緒に回ったり、ハッスルを立ち上げたりとリングの思い出はたくさんある。だけど、そういうものを超えて、俺は夜の会での橋本さんが印象に残ってる。どんな地方に行っても、どんな激しい試合であっても、大会が終わると飲みに行って、ニコニコしながらカラオケを歌ったりしてるんだよ。そっちのほうが橋本真也らしいなって(笑)。もちろんプロレスラーとしても素晴らしいんだけど、結局は素の橋本真也がいちばん面白かったなって、近くにいると感じたから」との答えが返ってきました。
小川によれば、橋本と一緒に食事をした時は、2人で猪木の悪口を言って笑ったりもしていたそうです。小川は、「悪口といっても嫌ってるわけじゃなくて、猪木さんが詐欺みたいな話で騙されたこととかを笑い話にして、『そうそう!』『猪木さんも好きだよな~』って言い合ったりしてね。どうやったって猪木さんにプロレスでは太刀打ちできないっていうのは、2人ともよくわかってたからさ。猪木さんの愛すべき弱点を指摘し合って、『ここだけは俺たちが勝ってるよな』っていうことを探すっていうね(笑)。そういう意味では、猪木さんは俺たちのプロレス界の親父だし、俺と橋本さんは悪ガキ兄弟だったのかもしれないな」と回想しています。
第2章「蝶野正洋が語る『闘魂三銃士』橋本真也の真実」では、蝶野正洋が証言します。「死の1カ月前に橋本が蝶野に送った復帰プラン」では、蝶野が橋本の訃報に衝撃を受けたことが明かされます。蝶野は、「この時点で橋本選手が亡くなったということは公表されてないんだけど、どこかで噂を聞きつけたマスコミがすでに病院に集まってきていた。それで病院の人に聞いたら、橋本選手の遺体は検死のために警察に向かった、と。それで俺も警察に行ったんだけど、着いたら駐車場にでっかいセンチュリーが停まっててね。そこから人相が悪い人が降りてきたから、借金の取り立て屋がもう来てるのかと思ったら、その人は橋本選手を晩年まで世話をしてくれていた社長さんだったんだよ。その社長さんが、橋本選手の遺体は検死が終わって安置所に行ってますと教えてくれて、そこでようやく手を合わせることができた」と語っています。
第3章「佐山聡が語る橋本vs小川『1・4事変』の真相」では、佐山聡が証言します。「楽しくてしょうがなかったUFO時代」では、1996年9月、佐山は自らが立ち上げ、10年以上の長きにわたり心血を注いできた修斗(シューティング)を離れたことが紹介されます。本書には、「まだ総合格闘技という概念すら、ぼんやりとしか存在していなかった時代にシューティングを立ち上げ、ルールの整備から競技の確立、選手の育成、そしてプロ化など、開拓者のごとく格闘技の原野を切り開いてきた。しかし、運営面ではなかなか軌道に乗せることができなかった。そのため負債が重なり、運営体制が変わるタイミングで佐山は自ら身を引いたのだ。そして1人になった佐山に声をかけたのが猪木だった」と書かれています。
「猪木の想像を超える爆発」では、1・4の橋本vs小川戦の直後の大乱闘について言及されます。本来ならば、両陣営が小競り合いになるなかで猪木が登場し、強権発動で再戦を指示。もしくは、さらなるUFOと新日本の対抗戦を狙っていたのかもしれません。しかし、それをやるにはあまりにもリング上が殺気立ち、混乱しすぎていました。佐山は、「試合後の乱闘は本当に殺気立っていました。とくにUFOのセコンド陣はアマチュアの格闘家が多かったので、みんな本気で熱くなってケンカをしたんですよ。それが余計に迫力や熱、そして生々しさを生んだのだと思います」と語っています。
佐山はまた、「これはある人が言っていたのですが、『闘いはプロの試合よりも素人のケンカを見たほうが興奮することもある』と。それと同じじゃないかと思います」とも語っています。インタビュアーが「やはり大事なのはリアリティなのですね」と言うと、佐山はすかさず「そうです。ストロングスタイルにおいてリアリティは必要不可欠です。その大事なことをあらためて思い出させてくれた。1・4ドームの試合は、それほど価値のある闘いだったんです」と語るのでした。確かに、あの大乱闘には過剰なほどのリアリティがありました。70年におよび日本のプロレスの歴史で唯一「事変」と呼ばれるのも理解できます。
第4章「破壊王『ZERO-ONE時代』の葛藤と孤独」では、元ZERO-ONEリングアナウンサーのオッキー沖田氏が証言しています。「旧ZERO-ONE勢が受けた葬儀での仕打ち」では、沖田氏は「葬儀を取り仕切ってくれた方は、できるだけのことをやってくださった。それはわかっています。あんなわがままな人の面倒を最期までよく面倒を見てくださった。ただ、僕個人として、葬儀の様子には、『橋本さんはこれじゃダメな人なんです』という思いが湧いてきてしまった。赤い花で埋め尽くされた祭壇はきれいだったし、上のほうに橋本さんの写真が飾られていましたが、橋本さんの遺影を置くなら『橋本だー!』みたいな巨大な写真をダーンと置かなきゃダメなんです。棺もすごく小さかったけれど、狭いところが本当に嫌な人だったんです。『あの人のこと、わかってない』。当時は、そんな思いでいっぱいでした」と語っています。
また、沖田氏は「僕たちは棺を担がせてもらえませんでしたし、最初はお焼香もファンの人たちと一緒にしていました。お焼香のあとは外に出されて橋本さんには会えなかった。そうしたら、かずみさん(橋本の前妻)と高塚先生が駆けつけてくれて、『この子たちは会わなきゃダメなんです!』『俺がいいと言っているんだから!』と、お二人が強く言ってくれた。それで、僕たちは橋本さんの棺があるフロアへ行くことができました。行ってみると、新日本をはじめ、僕たち以外のプロレス関係者がみんなそこにいたんです。今は普通に話せますが、当時はショックでした」とも語ります。
そして、沖田氏は「やっと橋本さんに会えたと思ったら、顔色がどす黒いを通り越して、緑色になっていました。それも悲しかった。それで火葬になったら、逆にプロレス関係者は僕らしかいなくなった。もちろん、かずみさん、大地(橋本の長男)とか家族、高塚先生はいましたよ。でも、プロレス関係で残っていたのは僕らとドン荒川さんだけでした。火葬の時、それまで『父は・・・・・・』と言いながら頑張っていた大地が突然泣き崩れたんです。僕らもみんな泣いていました」と語るのでした。あまりにも悲しい現実に言葉がありませんが、これは橋本真也という稀代のプロレスラーの葬儀の様子を知るための貴重な資料となります。最後に、“破壊王”橋本真也氏の御冥福をお祈りいたします。合掌。