No.2478 ホラー・ファンタジー | 読書論・読書術 『ある映画の異変について目撃情報を募ります』 海藤文字著(スターツ出版)

2026.07.09

『ある映画の異変について目撃情報を募ります』海藤文字著(スターツ出版)を読みました。映画を題材としたホラー小説ということで、これはもう読むしかありません! 前半は実際のブログを読んでいるようでしたが、不穏な空気に満ちており、ページを繰る手が止まりませんでした。しかし、後半はリアリティがなくなってしまって残念でした。もう少し丁寧に描いてほしかったですね。

本書の帯

本書の帯には、「梨氏解説のノベマ! 小説コンテスト大賞受賞作」「発売即重版」「映画レビューから連鎖する恐怖体験」と書かれています。

本書の帯の裏

また、帯の裏には「映画監督の大森昇です。一応、監督としてクレジットされておりますが、本作に関しては私はほとんど関わっておりません。一部で本作をご覧になったお客様から異常現象が起こると報告されております。再上映の際にどんな現象が起こるかは私たちにも想像がつきません。皆様にはどうぞ自己責任にてご覧いただきますよう、お願いいたします。 映画監督 大森昇」と書かれています。

アマゾンより

ノベマ!の「あらすじ」は、以下の通りです。
「山奥の廃村を舞台にした低予算ホラー映画『ファウンド・フッテージ』を観た映画ブロガーのMOJIは、画面の隅に説明のつかない“何か”を見つける。やがて“それ”は他の映画にも現れ、関係者が次々と不可解な死を遂げていく。『観たら死ぬ』という噂に怯えた仲間を追って、MOJIは映画のロケ地となった“消えた村”へ向かう。誰もいないはずの村で、待っていたものとは――。 皆様、どうか本作は自己責任にてお読みいただきますようお願いいたします」

アマゾンより

ノベマ!の「著者コメント」には、「海藤文字です。本作は『モキュメンタリーホラー小説コンテスト』で大賞に選んで頂いた作品です。なので、徹底してリアリティにこだわりました。全体をブログやメールやSNSなどの文章で構成し、主人公は自分自身。私が実際に書いているブログ『MOJIの映画レビュー』が舞台になっています。虚構と現実が入り混じる不思議な感覚を感じていただければと思います。映画ファンの方にも、楽しんでいただける仕掛けがいっぱいです!」とあります。

本書には「ファウンド・フッテージ」というモキュメンタリーホラー映画が登場します。もともと「ファウンド・フッテージ(Found Footage)」とは、行方不明者や事件の被害者が残した未編集の撮影記録(フッテージ)という設定の映像作品です。偶然発見された生々しい記録を装うことで、モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)として究極のリアリティと恐怖を演出します。代表的作品には、このジャンルを世界的に大ヒットさせた「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999年)があり、本書に登場する「ファウンド・フッテージ」というタイトルの映画も「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のストーリーや演出に酷似しており、パクリと言えそうです。ファウンド・フッテージ映画=モキュメンタリー映画としては、他にも「ジャージー・デビル・プロジェクト」(1998年)、「パラノーマル・アクティビティ」(2007年)、「グレイブ・エンカウンターズ」(2012年)、「クリープ」(2014年)などが有名です。

「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」にしろ、「パラノーマル・アクティビティ」にしろ、本当に怖いホラー映画でしたが、なにか幽霊やモンスターが姿を現すという類の怖さではありませんでした。本書に収録されている「ファウンド・フッテージ」のレビューの中に「巧みな『分からない怖さ』」というタイトルで「観ていてあらためて思ったのだけど、『怖い』って何か見た目の怖いモノが実際に出現するから怖い訳じゃなくて。実際に出てきてしまったら、どう対処するかという現実的な思考に切り替わる訳なので。本当に怖いのは、何と出会うことになるのかまだ分からないあいだだけ。怖いというのは、分からないこと。だから、暗闇が怖い。曲がり角が怖い。閉じたドアが怖い。幽霊が怖いにも、正体が分からないからこそであって。分からない怖さの究極が、『死』ということになるでしょうか。死んだらどうなるか、誰にも絶対に分からないですからね」と書かれています。これは秀逸なホラー論であると思いました。

本書に登場する映画「ファウンド・フッテージ」を観た著者は、白い男の姿を目にします。しかし、同作を観た人々の中には「白い男など登場しなかった」と言う者もいました。どうやら、白い男が見えた人間と見えなかった人間がいるようなのですが、著者はこれが『日本霊異記』に登場する「「白痩神(はくそうしん)」であることに気づきます。「白痩神」の主な特徴は以下の通りです:外見: 死体のような真っ白な体を持ち、骨と皮のように痩せこけている。性質: 「見られたら死ぬ」という恐ろしい特性を持つ、死や老化・疫病の化身とされる神。現生と黄泉の国の境界を侵した者をどこまでも追いかけ、連れ戻す。物語の核: 呪われた映像(映画)の中に封印されており、その存在(映像)に触れたり関わってしまった人々に災いをもたらす都市伝説的な存在です。実際は『日本霊異記』に白痩神などといった存在は登場せず、著者の完全な創作なのですが・・・・・・。

儀式論』(弘文堂)

本書の中には、西京大学民俗学部講師の三枝崇顕という人物による「各地の白瘦神信仰と、契約更改としての祭礼」という論文が掲載されています。もちろん実在しませんが、なかなか興味深い内容です。以下のように書かれています。
「多くの祭礼の目的としては先祖供養や五穀豊穣があげられるが、古来より日本の神社が担ってきた重要な役割として、常世との契約がある。つまり、我々人間の生活の場としての現世、その対極である死者の国である常世/黄泉との接点にあって、互いに無用な干渉を避け、衝突を回避するための約束の確認である。神社で行われる季節ごとの祭礼は、いわば黄泉の国との儀式とも言える」と書かれています。非常に興味深い記述ですが、拙著『儀式論』(弘文堂)の内容にも深く通じています。

「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)

また三枝崇顕は、「常世から現世に越境する穢れたものの象徴が、白痩神という神である。この神は死者であり、望まぬ死によって現世を追放された恨みを抱えている。従って、その性格は邪悪であり、生者への嫉みと怨念を基本的性質として持っている。白痩神は隙あらば境界を超えて現世に侵入し、罪のない生者を常世に連れ去ろうとする。それを前もって防ぐため、常世とのあいだに結ぶ古来よりの契約が、祭礼なのである。今厳正、各地の多くの伝統的祭礼が継ぎ手の不足により、存続を危ぶまれる状況になっている。これはもっぱら文化的・学術的な方面から危惧されているのだが、呪術的側面からも大きな問題である」と述べています。これは、拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林) および『「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)で指摘した祭礼の本質と同じ主張と言えます。考えてみれば、白痩神という存在は神というより鬼に近いですね。

唯葬論』(サンガ文庫)

さらに三枝崇顕は、「何百年もの時を超えて持続されてきた祭礼が途絶えるというのは、ただ単に文化的損失というだけの問題ではない。毎年の祭礼によって守られてきた現世と常世の契約が、一方的に履行されなくなるという事態なのである。それまで長きにわたって抑えられていた白痩神の越境が、抑えきれないという事態が起こってくるだろう」と述べるのでした。常世については、拙著『唯葬論』(三五館・サンガ文庫)所収の「他界論」で詳しく論じましたが、日本神話や神道において、永遠に変わらない神の領域や死後の世界、海の彼方にあるとされる理想郷を指す言葉です。対義語として、わたしたちが生きる移ろいやすい現実世界である現世(うつしよ)があります。永遠の時間が流れる神々の領域であり、黄泉の国のような死後の世界もこれに含まれるとされます。常世と現世の境が曖昧になると、現世は混乱します。

境を越えて常世から白痩神が現世に侵入してくるわけですが、本書では映画というメディアを依代としてその姿を現します。白痩神から見られた人間は死に至りますが、それを避ける方法が逆に白痩神を見ることでした。まさに攻撃は最大の防御ですが、わたしは一条真也の読書館『小説シライサン』で紹介した乙一の小説が原作のホラー映画「シライサン」を思い出しました。物語ですが、眼球が破裂した遺体が立て続けに発見されます。彼らの共通点は、死ぬ前に何かに取りつかれたような状態にあったことでしたが、死因は全て心臓麻痺でした。目の前で親友を失った大学生の瑞紀(飯豊まりえ)と、同様に弟を亡くした春男(稲葉友)は一緒に事件の真相を探る中で、詠子という人物にたどり着きます。結論から言うと、シライサンという魔物は見ることで攻撃を防ぐことができます。逆に言えば、目を逸らしたら死が待っています。この「シライサン」、「白瘦神」のアイデアにインスピレーションを与えたような気がするのですが。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

この白痩神ですが、岐阜県北東部の飛騨山脈の山間にある竹垣村にある洞窟から出現しました。それを知ったわたしは、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で訴えた「映画館とは人工洞窟である」という持論を思い浮かべました。映画館は暗闇と静寂に包まれた非日常の空間です。わたしは、その空間(洞窟)に身を委ねることを、人類の起源である洞窟壁画や埋葬の歴史になぞらえ、一種の臨死体験や魂の浄化(グリーフケア) に通じると提唱しています。古代のネアンデルタール人も洞窟で死者を埋葬し、ショーヴェ洞窟などの壁画を描きました。映画館の真っ暗な空間は、これらの原初の祈りやイマジネーションの場と深く繋がっていると考えられます。映画館の暗闇の中でスクリーンに映る光を見つめる行為は、現世から切り離された疑似的な死の世界を体験するようなものです。

映画のオープニングは「降神之儀」

映画のエンドロールは「昇神之儀」

映画は、いわゆる「総合芸術」と言われています。アカデミー賞の各賞の多さをみても
よくわかるように、監督、脚本、撮影、演出、衣装、音楽、そして演技といった、あらゆる芸術ジャンルの結晶だからです。『儀式論』では「芸術と儀式」という一章を設け、そこで映画と儀式の関係について言及しました。わたしは、オープニングに登場する映画会社のクレジットや最後のエンドロールがまさに映画が儀式であることを示している事だと気づきました。映画を観るとは非日常の時間に突入することですが、オープニングはその「開始」を、エンドロールはその「終了」を告げる儀式に相当します。神道の儀式でいえば、オープニングは「降神之儀」であり、エンドロールは「昇神之儀」というわけです。

ショーヴェ洞窟と宗教儀礼

ラスコー洞窟と宗教儀礼

古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニングという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。そして、映画館という洞窟の内部において、観客であるわたしたちは臨死体験をするよ
うに思います。なぜなら、わたしたちは映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかなりません。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっていたのでした。

人工洞窟としての映画館で臨死体験する

映画館は儀式が行われる人工洞窟であり、映画鑑賞は臨死体験であると述べましたが、本書はその理論を物語化したような作品でした。そして、本書では映画館で続々と死者が出る事態が描かれています。2024年3月9日に配信された「都市伝説? 映画館で亡くなる人が急増中?」というネットニュースには、「現在、全国各地の映画館で働くアルバイトスタッフのあいだで、ある噂が流れている。映画館の座席で、映画上映中に亡くなる人が増えているというのだ。通常、映画の上映が終わるとスタッフが入場し、掃除と忘れ物のチェックなどを行う。昔と違って現在の映画館は完全入れ替え制なので、残っているお客さんに退出を促すこともスタッフの仕事となる。居眠りをしたまま上映が終わり、スタッフに起こされるお客さんも多いそうだ。しかし昨今、スタッフが居眠りと思って声をかけてみると、死んでいた・・・・・・というケースが目立って増えているという」と書かれていることになっています。なんでも、病死の場合は個人情報でもあり、映画館としてもイメージが悪くなるので明るみにはしないそうです。