No.2476 宗教・精神世界 『精神科医の悪魔祓い』 リチャード・ギャラガー著、松田和也訳(国書刊行会)

2026.07.06

コロナ禍のあいだに書き溜めていた書評ブログを蔵出しすることにしました。今回は、『精神科医の悪魔祓い』リチャード・ギャラガー著、松田和也訳(国書刊行会)を紹介します。「デーモンと闘いつづけた医学者の手記」というサブタイトルがついています。著者は、アメリカの精神科医。プリンストン大学卒業。ニューヨーク医科大学臨床精神科教授、コロンビア大学精神分析研究所教授会員、国際祓魔師協会会員。1990年代から「悪魔憑き」「憑依」の症例にたびたび遭遇。医師・医学者としてその診断・治療に携わり、またこの問題に取り組むカトリック司祭、ラビなどの宗教的聖職者や祓魔師(エクソシスト)の相談役を務めています。「憑依」の診断・研究に関する精神医学分野におけるエキスパートにして第一人者です。本書はそんな特異な経歴と実績をもつ精神科医がこれまでの「症例」について詳細にレポートし、かつ深い分析を加えたもので、原著の刊行は2020年。関係者のあいだで待望されていた1冊です。

本書の帯

本書の帯には、「奴らは、いる――。『悪魔憑依』に挑む異色のアメリカ人医師が、25年に及ぶ体験を赤裸々に綴った衝撃のドキュメント」と書かれています。帯の裏には、「憑依に陥ると体重100キロの男性を軽々と投げ飛ばす小柄な女性、悪魔祓いを受けると30分間も空中浮揚をした人物、トランス状態になると全く知らないはずの複数の異国語をわめいて暴れ回る女性、消息を絶った筋金入りの悪魔崇拝者・・・・・・。数々の驚愕すべき症例をもとに、常識と科学を超越した『悪霊』『悪魔』の実在を、精神医学者がついに明証した!」と書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下の通りです。
イントロダクション
第1部 懐疑者から観察者へ
第1章 最初の旅 興味を抱いた学生
第2章 司祭来る 外的苛虐の観察
第3章 ジュリア、サタンの女王 その憑依と、驚くべき能力
第2部 研究者にして診断医
第4章 霊による障害 憑依のスペクトラム診断
第5章 苛虐の種類の診断
第6章 心の問題 虚偽の事例およびその他の医学的課題
第7章 キャサリン――母親、主婦、被憑依者 彼女が受けた一連の祓魔式と、儀礼の実際
第8章 真剣な研究者
第9章 悪霊信仰の歴史、超常現象および侵襲という観念の出現
第10章 アリス 悪魔祓いの成功事例と、原因と解決に関する追記
第3部 相談役にして研究者
   ――医師による擁護と警告
第11章 バーバラと見当違いの悪魔への恐怖
第12章 最後の論争 悪魔祓いの濫用、および批判者、研究者、メディアに対する、憑依およびいわゆる超常現象の科学的情勢に関する最後の覚え書き
エピローグ これらの現象の背後にある真実 何故悪魔は攻撃するのか
「謝辞」「原注」
「翻訳者あとがき」

「イントロダクション」には、本書が過去25年にわたって著者が直接遭遇した、悪魔による憑依を初めとするさまざまな攻撃の明々白々な事例を語っていることが述べられ、「私は元来、自ら志願してこれらの症例に取り組んだわけではない。単に、精神科医としての私の見解を求める宗教指導者からの問い合わせに答えたまでであった。そして私が本書の執筆に対する躊躇を克服したのは、私が救援した悩める男女からの許可を得た後のことにすぎない」と書かれています。

また、異なる主題には異なる種類の証拠が必要であるとして、著者は「憑依という現象では、人はしばしば録画や録音を要求する。だが録画は個人のプライバシーの侵害であるし、悪霊がこちらの都合に合わせてカメラの前をうろうろしてくれるという誤った前提に基づいている。何千年にも亘って闇に潜み、人を誑かしてきた彼らが、何故いきなり素人撮影者の言うことを聞いてくれるだろうか? 本物の録音テープも数多く存在しているが、それですら筋金入りの懐疑派を説得するには至っていない。そしてまたしても、このような要求は悪霊に従順な振る舞いを期待するという点で無邪気過ぎると言わざるを得ない」と述べています。

歴史を通じて悪魔の悪行や非道に関する報告には誇張されたものもまた多いです。周期的に集団ヒステリー現象が生ずるのも事実であるとして、著者は「例えば16世紀および17世紀の魔女狩りがそれである。セイラムの事例のように、しばしばその標的となった者は憑依を受けていると称された。精神科医である私は、より最近、すなわち1980年代と1990年代の『抑圧記憶』や『悪魔崇拝に関する恐慌』などの失態も目の当たりにしてきた。当時、さまざまな人格障害の患者のための精神病棟の担当医であった私は、毎日のようにこのような戯言と格闘しなければならなかったのである。このような恥ずべきエピソードを繰り返してはならない。だがもしも、深く考えもせずに全ての歴史的証拠を黙殺したり、あるいはこれらの話をどれ1つとして信じることなく、霊的存在を実験の対象にできると決め付けるなら、その対象を把握することはないだろう」と述べています。

西洋の多くの世俗主義者たちにとっては、悪魔の実在など想像もつきません。しかし、霊の世界(そして悪の霊的存在による攻撃)を信ずる者は、一般に考えられている以上に主流派なのであるとして、著者は「世界中の大部分の者が霊の世界や悪魔の憑依を信じている。第3千年紀初頭の調査によれば、わが国の市民の70%が悪霊の存在を信じ、そして50%を僅かに越えるアメリカ人が、悪魔が人間を攻撃する可能性までをも信じているのだ。ならば、主流派でないのは果たしてどちらであろうか?」と述べます。悪魔の攻撃という伝統的な観点以外に、特に現代の世界においては、憑依はしばしばさまざまな病態に帰せられます。憑依の異常な特徴の少なくとも一部を説明するために人間の潜在的な「サイキック」能力を提唱する者もいますがそれらの説は、信頼しうる科学的根拠によって証明されたものではありません。「超常的」現象に関する似非科学的観念はますます世に広まっており、宗教の専門家の中にすら「超心理学的」学説を信奉する者もいるのです。

これまでも懐疑に凝り固まった者以外は霊による攻撃が明らかに実在することを認識してきましたが、多くの場合、憑依を初めとするこの種の攻撃は悪魔ではなく霊に帰せられていました。文化伝統によっては、悪しき死霊や祖霊、騒霊、祟り神、妖精、悪鬼などに帰せられることもあります。著者は、「このように霊に関する説は多種多様であるが、にもかかわらず歴史上の幅広く種々雑多な文化において報告されるさまざまな憑依の類型には顕著な共通点がある。どのように説明されるにせよ、何らかの霊的な攻撃が生じているという共通の要素は依然として残されているのだ。もしもこのような攻撃を邪悪な霊に帰すことができないのなら、言葉はその意味を失う」と述べます。

同時にまた、酷い誇張や迷信、よくある誤解などを過度に軽信してはなりません。この分野には売らんかな主義や誇張、人間の愚かさが蔓延っているのです。搾取されやすい者は、専門家の目から見れば明らかに精神病やその他の病気と判断される場合でも、悪魔の攻撃を受けているという誤った理解に基づいて行動するかもしれません。さらに問題なのは、その患者を「解放」するためと称して無分別に身体的虐待を加えたりすることです。著者は、「このような虐待は今に始まったものではない。過激もしくは危険な手段、例えば殴打や拷問によって悪魔を祓おうとする過去および現代の試みは、効果がないばかりか無知であり、嗜虐的ですらある。霊的存在によって惹き起こされた問題に必要なものは霊的な援助であり、いかなるものであれ暴力は忌避せねばならな」と述べています。

もう1つのしばしば無視される注意点は、憑依の稀少性です。ほとんどの医師は生涯そのような症例に出くわすことはないといいます。聖職者ですら、圧倒的多数の者は本物の憑依に遭遇することはないとして、著者は「肯定派の多くは驚くであろうが、私が専門家としての通常業務において長年の間に徹底的に診察した25000例ほどの正式な患者の中に、憑依の事例は皆無であった。私が憑依であると結論づけた患者は、常に聖職者によって私の許に送られてきた者か、私の専門を聞きつけて自力で私の所へやって来た者である。単にふらりと私の診療所にやって来た普通の患者の中に、『憑依』などという奇想天外な診断を受けて驚いたという者は只の1人もいないのだ!」と述べます。

本書『精神科医の悪魔祓い』は大衆文化(超常現象や超自然を煽情的に取り上げる)と、健全な霊的判断および真面目な精神医学的・科学的研究が出逢う場所に立ち入ろうとする試みであるとして、著者は「それは必然的に学際的なアプローチとなる。これを説明する最善の方法は、私見では、当初の懐疑派から肯定派に、そして遂には専門家に至った私自身の個人的な変容の旅を語ることだと思う。議論の基盤を現実に置くために自らが実見した複雑かつ説得力のある症例を選抜し、私自身の研究手法を概略すると共に、各症例がどのように現代文化、歴史、宗教、精神医学理論と関係し特徴付けているかを解説した」と述べます。

カトリック教会が説いているように(他の宗派や多くの宗教にも同様の信仰があるが)大祓魔式は患者自身の努力無しに自動的に悪魔を祓って完全に解放する魔法の術式ではありません。祓魔師は魔法使いではないのであり、患者をその苦悩から解放するためにはしばしば長く苛酷で恐るべき苦闘が続きます。それは典型的な重度精神病を持つ通常の精神病患者と同様です。著者は、「祓魔式は魔法の弾丸ではない。結局のところ、だからこそ私は自分の専門家としての資格を賭けて本書を執筆しているのである。これらの稀少な現象の重要性と真実性について、そして苦しむ者が助けに受けるために為すべきことについて、世に知らしめたいと熱望しているのだ。苦しむ人々が、その人生を圧迫し破壊する全てのものから解放されるのを見届けたいと切望しているのだ」と述べています。

著者は、精神病の惨禍と闘うために命を懸けてきました。同時にまた、悪魔の憑依やその他の攻撃に苦しむ人々の治療に関しても同様の情熱を注ぎ込んできました。一部の同僚の目にはどれほど物議を醸すものに見えようとも、です。そして、著者は「私は本書においてこれらの被害者の苦悩に意味を与える根源的な霊的現実性を立証する。悪魔祓いは健全な宗教儀礼の最も重要な側面ではない。健全な霊的伝統とは、他の人間に対する愛と奉仕、共感を――そして神の愛を強調するものだ。『神は我らの愛を必要としない』と近年、とある優秀な思想家は指摘した。『だが、われらが互いに愛し合うことを望むように、それを望んでいる』」と述べるのでした。

第1部「懐疑者から観察者へ」の第1章「最初の旅 興味を抱いた学生」では、著者がイェール大学精神医学プログラムの研修員および博士研究員を卒業する頃、現代における憑依に関する、どこか理解しがたい文学がメインストリームに登場したことが紹介されます。ピーター・ブラッティの1971年の小説『エクソシスト』、およびその後の映画に影響を受けたさまざまな研究者が、その小説の元ネタとなった出来事に関する知られざる事実を掘り返し始めたのです。著者は、「私はあのセンセーショナルな物語のモデルとなった実話の詳細に魅了された。ブラッティはそれこそルーダンの件を含むさまざまな歴史上の悪魔祓いの話の特徴を借用しているに違いないと私は確信していたが、あの映画が基本的に現代の実話に基づいているという事実にとりわけ衝撃を受けた」と述べています。

ブラッティの小説のモデルとなったのは1949年にメリーランド州で始まった幼い少年の実際の憑依事例であると言われています。2017年に死去する前にブラッティは、自分の小説のほとんどはマンハイム憑依事件に基づいているものの、さまざまな要素が混合されていると認めました。例えば、小説と映画に登場する司祭兼精神科医は部分的にスュラン神父をモデルとしています。かの神父もまた被憑依者を救うために自らの身を身代わりとして悪魔に捧げたのでした。

同時にまたブラッティは、小説に登場する2人の司祭(ダミアン・カラス神父とランカスター・メリン神父)に対立する2つの見方を代表させています。深い皺の刻まれた顔に白髪のメリン神父は保守的なカトリック教会と文字通り悪霊の実在を信ずる信仰を象徴しています。最終的に自らの命を落とすことになる祓魔式を挙行している最中も、その信仰は揺るぎません。一方のカラス神父は当初、憑依を示す証拠があるにも関わらず、幼い少女リーガン・マクニールは未知の精神病の徴候を示していると確信していました。可能な限りの身体的・心理的検査を経て漸くカラス神父は考えを改め、ついに何らかの不可解な、何らかの悪魔的なことが起っていると認めるに至ったのです。著者は、「このカラス神父の心の変容は、私にとってとりわけ魅力的だったそうです。それが私の遥か後の学問的探究と方向性について極めて重要なものであったと気づいたのは、遙か後のことである。つまり、その現象を分析的・科学的観点から調査し、しかる後に――その時初めて――悪魔憑依の真実性を確信するようになる熟練の精神科医という方向性です」と述べています。

第4章「霊による障害 憑依のスペクトラム診断」では、憑霊の介在を示すより強い徴候は、あからさまな超常現象である空中浮揚であると著者は述べています。『エクソシスト』でも最も劇的な見物でした。でも、ほとんどの人にとっては意外ですが、空中浮揚と人体の極度の捻転は必ずしも憑依のみの特徴というわけではありません。多くの歴史上の記録に登場するさまざまな聖人や導師、また近代の心霊主義者たちの多くも同様に空中浮揚しているのです。後者の事例は悪魔の影響によるものという説もありますが、必ずしも憑依状態であるわけではありません。悪名高い19世紀の霊媒ダニエル・ダングラス・ヒュームは、何十人もの目撃者の前で何度も空中浮揚したとされていますし、ヨーロッパでも数多くの報道が為されています。

17世紀に、フランチェスコ会士クパティーノのヨセフという聖人がいました。彼は明らかに憑依されていたわけではありませんが、やはり空中浮揚しています。このヨセフについては、キリスト教嫌いのコリン・ウィルソンが、1971年の古典的な著作『オカルト』において「証拠の重みで言えば、クパティーノのヨセフが恍惚状態で空を飛ぶことができたという事実をわれわれが知っているというのは、ナポレオンがセント・ヘレナで死んだという事実をわれわれが知っているのと同様である」と述べています。著者は、「想像力の乏しい人は、重力の法則がある以上、空中浮揚など不可能だと主張するが、それに対する自然な回答は、霊的存在は物理原則に従わないというものだ。天なる――そして『堕天した』――天使たちが、空を飛べないなんてあり得るだろうか?」と述べます。

たいていの憑依、特に完全憑依において、悪魔は被憑依者がトランス状態にある間に独立した悪意ある力として顕現しますが、宿主はそれに気づきませんし、後の記憶もないというのが一般的です。だが特定の特殊な状況においては、被憑依者が悪魔が出現して自分の身体(の全部もしくはほとんど)を乗っ取っていることに気づいていながら、自分ではどうすることもできないという場合もあるそうです。証言によれば、このような精神状態は自分自身が映っている映画を見ているようだといいます。著者は、「詮ずるに、結局のところ救いを求める賢明さこそが強力な力となるのである。その過程において真摯に悪魔に抵抗する人は最終的に勝利する。これらの宇宙的局地戦は究極的な善と悪の闘争の先触れであり、いずれわれわれは誰もが、意識するしないに関わらずそれに参加することになるのだ」と述べるのでした。

第6章「心の問題 虚偽の事例およびその他の医学的課題」では、特定の神経症はかつては、当人の意識が外部の影響力に乗っ取られたような印象を与えるために超常的なものと誤解されていたことが紹介されます。場合によっては現在においてもでです。その好例がトゥーレット症候群です。これは異常な運動性チック症状を起し、時に冒瀆的な言葉を吐いたりすることで知られています。著者は、「私はそのような事例を多く診て来たが、このような症状は過去においては、困惑する目撃者によって狂気もしくは悪魔憑依の事例と誤解されていたことは想像に難くない。トゥーレット症候群が神経症の一種として理解されるようになったのは1800年代末のことである」と述べています。

同様に癲癇や発作性疾患もまた過去においてはしばしば、脳の神経細胞の活動障害などではなくて悪魔の仕業とされてきました。これには例えば癲癇大発作や「欠神発作」(かつては「小発作」と呼ばれていた)、より「局所的」な痙攣、身体の特定の部位の重度の痙攣なども含まれます。このような局所的症状の複雑な変種、例えば側頭葉癲癇は幻覚や嗅覚過敏、謂れなき恐怖や怒りや喜び、さらには既視感など極めて多様かつ異常な症状を呈すると指摘し、著者は「このような奇妙な症状を呈し、さらに患者自身が発作中の出来事を憶えていないことなどから、この疾患は特に目撃者を混乱させる。『エクソシスト』においてもリーガンは当初、この種の発作性疾患と診断されていた」と述べます。

著者にとっては、とある2つの複雑な事例が明らかな悪魔憑依における痙攣の診断にとって有益でした。いずれの事例も、診断技術のみならず、被憑依者を扱う上で適切な医師の指示に従うことの批判的妥当性を強調しています。著者は、「第一の事例は非常に人口に膾炙した、悪名高いアンネリーゼ・ミシェルの件である。彼女は若いドイツ人女性で、1976年に一連の悪魔祓いを受けた後に死去した。彼女の物語はいくつかの映画やTV番組で採り上げられた。2005年の映画『エミリー・ローズ』もその1つであり。子供の頃、アンネリーゼは発作を起して鬱状態になった」と述べています。

極めて稀ではありますが、医学的疾患と悪魔による攻撃の両方が同時に1人の人を襲うという可能性は常に存在しています。アンネリーゼの事例もそうだったのではないかと思われますが、記録を見る限りにおいては確証はありません。彼女の事例は間違いなく悪魔の攻撃を受けている人は同時に医師の指導も受ける必要があるという点を強調しています。特に患者が医学的に見て衰弱している場合はそうです。被憑依者の中には鬱病になる者もいれば、その状況に耐えかねて自殺を図る者もいるといいます。裁判の結果、アンネリーゼに悪魔祓いを行なった2人の祓魔師は過失致死罪で有罪となり6ヶ月の投獄が言い渡されましたが、後に抗告審判において保留となりました。ドイツ・カトリック教会の聖職者の多くはそもそも当初から憑依自体に懐疑的でしたが、この判決を受けてその後長年にわたって祓魔式を認可しなくなりました。

13世紀、カトリック神学者トマス・アクィナスは、純然たる自然的病因で足りる場合、聖職者は超自然的病因に飛び付いてはならないと警告しています。彼を初めとする思想家たちは精神疾患と霊的な病が独立して存在することに気づいていたのです。のみならずアクィナスは「狂気」を器質的要因に帰しています。一見したところ「現代的」な観点ですが、それを知って驚くのは歴史に無知な者だけだといいます。理想的な祓魔師と言えば、ローマ典礼は単に「知識に秀でていること」のみならず円熟や高潔などの個人的資質を求めているとして、著者は「過度に感情的もしくは無教養な聖職者や司祭は、ものを知らない医師や弁護士と同様、悪魔による病のような複雑な状況に対する正しい判断を下すことはできない。それには忍耐、注意力、判断力が不可欠である。明敏かつ熟練の祓魔師の中にはほぼ独力で悪魔の攻撃を識別するだけの知識を備える者もいる。それでもなお、少しでも疑わしい場合や医療上の必要が生じた場合には専門の医師の助言を求めるべきであると助言される――それこそ、何世紀にも亘って私の職業に受け継がれてきた聖なる役割なのだ」と述べるのでした。

第7章「キャサリン――母親、主婦、被憑依者 彼女が受けた一連の祓魔式と、儀礼の実際」では、キリスト教でも宗派により、またそれぞれの宗教により異なる儀式があることが紹介されます。悪魔の攻撃の可能性をどの程度まで一般人が受け入れているかというような文化的な差異もまた悪魔祓いのやり方に影響を及ぼします。特定の憑依の特定の特徴に加えて、司祭=祓魔師や悪霊の性格の差も場を支配するといいます。著者は、「ローマ典礼の使用は一応必須とされるが、カトリックの祓魔式は多種多様である。例えば司祭=祓魔師が採用する祈りと自発的な対話の組み合わせは常に一期一会のものだ。カトリックにおける祓魔式の祈りは、神の助力を乞う『嘆願deprecatory』、悪魔に退去を命ずる『厳命imprecatory』に分類される。正式な儀式はその両者を組み合わせるが、厳命の祈りを唱えることができるのは叙階された司祭のみである」と述べています。

歴史的には、悪の霊を祓おうとする試みはここ数世紀におけるカトリックのそれよりも単純な行為でした。ローマ・カトリック教会と東方正教会は悪魔祓いのための正式な儀式と手続きを創り上げました。カトリックの儀式よりも古い東方正教会の一連の儀式を確立したのは、4世紀の小アジア、すなわち現在のトルコ出身の主教にして教父・大バシレイオスです。儀式において悪魔に命ずることのできる資格に関する規則はカトリックと東方正教会で異なっていますが、双方とも、ほとんど常に主副祓魔師に対して対話を制限しています。著者は、「プロテスタント主流派の伝統においては、仮に行なわれるなら、悪魔祓いは同様に伝統的な規則を墨守するが、正式な祈りは標準化されていない。聖公会の『特別祈禱書 The BOOK of Occasional Services』には祓魔式の条項が含まれているが、これらの条項には特定の祈りや祓魔師の『聖務日課』などは示されていない」と述べます。

祓魔式などの儀式においてはラテン語ローマ典礼、それも旧版である1614年のテキストの採用を好まれていますが、著者は「今なおラテン語テキストの使用許可を求める世界中の数少ないカトリック司祭は、ラテン語の方が強力かつ美しいと主張する。またラテン語は暗示の可能性を除外することができる。何故ならその意味を理解できるのは悪魔だけで、被憑依者はその限りではないからだ。さまざまな悪霊の方もまた千差万別の性格や知性の程度を示すので、それに伴って祓魔式自体も多様なものとなる。伝統的な教えによれば悪魔は元々堕天使であるから、極めて知的である。だが人間と同様、この知性はそれぞれの悪魔によって著しく異なっている」と述べます。

第8章「真剣な研究者」では、ジェイクスという人物の葬儀で著者がロレイン・ウォレンと会ったことが紹介されます。彼女について、著者は「著名だが何かと物議を醸している『超常現象研究家』である。夫のエドと共に、彼女は映画『死霊館』シリーズの中心人物となっている。これは彼らの体験に基づくもので、大ヒットを飛ばし、10億ドル以上の興収を叩き出した。まさにこの主題に対する全世界の大衆の飽くなき興味を裏付ける形となった。生前のジェイクス神父とA神父は、この夫妻の事例の幾つかを巡って私と論じ合ったことがある。そこで私は、映画に描かれていない実直で詳細な話を聞くことができた。ロレインは雄弁で丁重な女性であった。私が故人とどれほど親しかったかを知っており、生前の彼には『いつも親切にして頂きました』と語った。同じことを多くの人が表明しているのを聞いてきた。中には、ジェイクス神父は『これまでに出逢った中で一番親切な人』だったと述べた者もいた。1つの人生としては悪くない遺産だ」と述べています。

国際祓魔師協会(AIE)の会長として有名だったガブリエーレ・アモルト神父についても言及しています。アモルト神父は2016年に死去しましたが、今なおさまざまな批判に曝されています。『エクソシスト』で知られるハリウッドの映画監督兼脚本家のウィリアム・フリードキンは、永年にわたって彼がアモルトの最も印象的な事例に関するドキュメンタリー制作に奔走していたことを語っています。アモルトは最終的にその詳述と撮影を許可しました。その映画『悪魔とアモルト神父――現代のエクソシスト』は、2018年に公開されました。著者は、「悪魔祓いの現場に居合わせた数多くの人々(これまたアモルトの手続きが物議を醸した理由の1つ)が被憑依者の解放を糠喜びしていたが、映画の結末では女性患者の憑依状態が再発したことが示される。敢えてこのような事例が選択され映画化されたことは残念至極である。何故なら、悪魔祓いが失敗に終った(あるいは、単なるインチキであった)という心象を残すからである。だが私は、アモルト神父が何度も悪魔祓いを成功させていることを知っている」と述べています。

とあるAIEの集会の後、著者はローマ在住のアメリカ人ジャーナリスト、マット・バグリオと会いました。彼は2009年に一条真也の読書館『ザ・ライト――エクソシストの真実――』で紹介した著作を上梓しています。ローマで夕食を採りながら彼のインタヴューを受けたそうですが、著者は「憑依の可能性について、私の精神科医としての見解を聴きたいという。同書は合衆国の司祭ゲイリー・トーマス神父が祓魔師になるために訓練を受ける実録である。トーマス神父は現在ではカリフォルニアで聖職者として多忙な日々を送っているが、バグリオに対しては驚くほど明け透けに自分の個人史や訓練を受けている間の感情などを語っている」と述べます。 ブログ「ザ・ライト」で紹介した2011年の映画は同書を原案としていますが、著者は「映画の方は悪魔祓いという主題を滅茶滅茶にしてしまうハリウッドの馬鹿げた流儀の見本のようなものだ。バグリオが書いている老練なイタリアの司祭たちは、学識深く献身的な集団である。彼らも、また私の知るトーマス神父も、厄介な訓練生でもなければ、また映画の中でアンソニー・ホプキンスが演じたような奇矯な老祓魔師でもない」と述べています。

カトリックの間では、現在では公認祓魔師の数は過去最多となっています。近年の教皇たち、例えば「進歩的な」フランシスコ教皇らが全面的に支持してきた傾向です。著者は、「カトリックにおける公認祓魔師は司祭でなければならない。平信徒の参加者も時には祓魔師に準ずる規則に従うが、能動的過ぎる役割は公式には認められていない。プロテスタント、特に福音派の間でも祓魔師の訓練と健全な儀式に対する真剣かつ詳細な注目が集まっている。彼らの新人祓魔師育成の努力はさほど公開的ではなく、しばしば徒弟制度に類似し、そして平信徒をも含める傾向がある。プロテスタントの精神医療専門家による公的組織もまた相談を受け付けている」と述べます。

第9章「悪霊信仰の歴史、超常現象および侵襲という観念の出現」では、驚くべき学識で知られる現代の傑出した人類学者エリカ・ブルギニヨンが、調査に当たった488の文化の4分の3で憑依を記録する文書を発掘したことが紹介されます。証拠の不在は不在の証拠ではないという事実からすれば、原始的な先史文化における憑依信仰は普遍的であったと言えるとして、著者は「悪霊に関する信仰もまたそうである。そしてブルギニヨンの業績が示すように、これらの信仰はおそらく有史以来のあらゆる地域、あらゆる文化に見られるものである。この点は強調しておかねばならない。人間の歴史上、あるいは先史時代を含めて、悪霊、およびそれと戦うもしくは祓う方法が特定の文化もしくは下位文化の中に存在しなかった時代というものはない。それぞれの悪霊もしくは祓いに関する理解がどのようなものであったにせよ。同じことは、現代の今日においても真実なのだ」と述べています。

絶滅するどころか、霊性に関する関心はほとんどの人間に砦として残りました。中でも最も顕著なのは、サタンを含む悪魔や悪霊に関する信仰が持続もしくは増大したことです。特に合衆国では伝統的な宗教活動が高いレベルで維持されています。ほとんどのアメリカ人が今なおキリスト教徒を自認していますし、圧倒的なパーセンテージの人々が神を信じ、驚くほど多くが悪魔の観念を受け入れています。同時に特にヨーロッパで、それにアメリカでは若い人々の間で世俗化も進行しています。しかし、多くの地域で近代的な歴史的宗教が復興し、あるいは猛烈な勢いで異教を駆逐する兆しは依然として残されているとしています。

例えば、100年前には、アフリカ諸国の多くは異教もしくはイスラム教が支配しており、キリスト教は僅か10%程度でした。それが今日ではアフリカ一円で50%がキリスト教信仰を告白し、それ以外のほとんどはムスリムとなっていると指摘し、著者は「アフリカ全土、それにアジアと南アメリカの多くの地域で悪霊に関する強烈な信仰が普及している。キリスト教隆盛の理由の1つは、多くの発展途上文化がペンテコステ派――世界最速で広まっているキリスト教の宗派――を受け入れたことである。その成長と共に悪魔に関する信仰、およびそれと戦うための儀式も根強く続いている。それは過去数十年の間、世界中の先進国でも途上国でも拡大を続けた」と述べます。

いった霊的状態に関する最高の歴史家は祓魔師か神学者、あるいは伝統的なキリスト教信者であると思っているなら、それもまた間違いです。今から100年ほど前に世界史上における苛虐および憑依の状態についての古典的な文献を記したのは、ドイツの街テュービンゲンの教授トラウゴット・K・エースターライヒでした。不可知論者で博識家のドイツ人であったエースターライヒは超心理学の初期の信奉者となりました。著者は、「これはフロイトをも密かに魅了していた学問分野である。彼の1921年の著作の翻訳である1930年刊の浩瀚なる『原始時代、古代、中世、現代における悪魔その他の憑依』は、その詳細さにおいて現在もなお並ぶものがない(作家のウィリアム・ピーター・ブラッティは、『エクソシスト』執筆前に同書を読み、あの架空の物語の背景となる細部を大量に流用している)」と述べます。

エースターライヒはさまざまな文化における不随意的憑依の事例を何百も引用していますが、それらは著者自身が相談を受けた事例の多くと驚くほど酷似しているそうです。そうした事例の1つが、例えばアフリカにおけるアニミズム信仰であると指摘し、著者は「そこでは霊の力が人間に憑依してさまざまな未知の言語を話したり、隠された知識を披露したりすることが報告されている。また彼は歴史上のヒンドゥー教徒の憑依の事例も挙げている。それは神々と『下位の力』の活動によって起ると見なされていたが、この完全なる不可知論学者によれば、それはわれわれを『危険なまでに悪魔信仰に近づける』。また近年の多くの異教および非西洋的な資料も引用されているが、そこに報告される憑依事例はキリスト教およびユダヤ教における事例と概ね類似している。さらに彼は世界中の宗教の文献にある事例も収録している」と述べます。

ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)

世紀を超えてこの3つの一神教――キリスト教、ユダヤ教、およびイスラム教は悪魔祓いにおける公式な試みを儀式化してきたと指摘する著者は、「聖水や聖油のような物品を用いはすれど、これらの宗教における悪魔祓いの観念は他のほとんどの宗教伝統よりも『霊的』な方面へと転じた。この三つの宗教において発達した鍵となる概念は、憑依し苦しめる存在と戦いこれを追い出すためには主として霊的な手段が用いられねばならない、何故なら彼らは霊的な敵だからである――彼らは霊であり、物質的存在ではないのだというものであった」と述べています。このたりは、拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)でも詳しく説明されています。

毎年行われているチャップマン大学によるアメリカ人の不安に関する調査の2018年度版で、アメリカ人の25%が占星術を信じ、41%が過去に異星人が地球を訪問したと信じていた(そして35%はそれは最近のことであると信じていた)。ことがわかりました。さらに、4分の3以上が少なくとも1つ以上の超常現象の事例を信じていた(例えばビッグフットだとか幽霊、念動力など)ことも判明しています。著者は、「その種の映画の氾濫やニューエイジ的観念を擁護するセレブの存在からして、ハリウッドの多くはそのような観点を半可通に信じているようである。このジャンルの好例が1999年の映画『シックス・センス』である。ブルース・ウィリス演じる主役の精神科医は最終的には幽霊であったことが明らかになる。とある才人は言った、健全な宗教の教えを信ずることを止めた人は『無』を信ずるようになるのではない。『全て』を信ずるようになるのだと」と述べます。

第10章「アリス 悪魔祓いの成功事例と、原因と解決に関する追記」では、悪魔祓いの半可通は、悪魔祓いというものを魔術の儀式だとか一連の神秘的な呪文であるとか考えがちだということが紹介されます。例えば白いヴ―ドゥーのようなものです。つまり、著者は「正しい祈りの文句(あるいは、例えば聖塩や聖水の適切な使用)さえ遵守すれば万事上手く行くようなものだと。私はこれを悪魔祓いにおける『聖ゲオルギウスの龍退治』モデルと呼んでいる。身体や精神の病気と同様、憑依や苛虐の被害者は『魔法の弾丸』や『即効薬』を欲しがる。つまり自分は何も努力しないで何もかも上手くいくような術式である。これは人間の自然な願いではあるが、近視眼的なものだ。慢性病の患者が瞬時に全快するということはない。ほとんどの病気には回復のための時間と努力が必要なのだ。悪魔の攻撃も同じことである」と述べます。

悪魔祓いを描いていると称する映画は、儀式に関するこのようなステレオタイプ的な見方を助長しているといいます。至聖なる聖職者や正しい祈りの文句さえあれば万事上手くいくというわけです。著者は、「自分が悪魔の攻撃を受けていることを知った人は恐怖し絶望する。しばしば祓魔師や造詣深い判別人の所へ行く前に不適切な、あるいは効果のない手段に頼る。知り合いから地元の治療師や自称『霊能者』を奨められることもある。たとえ善意であれ、このような非正統的な術者の多くは無力だし、時には有害である。中にはカネ目当ての、あるいは腹黒い者もいる。まさしくオカルティストそのものもいるのである。また自称『超心理学者』だとか『悪魔学者』などにはとても手に負えない。私は超心理学者だとか霊能治療家だとかの手に掛かって一時的には寛解したとしても、結局状況が悪化したという事例を数え切れないほど見てきたのである。これらの術者に共通するのは、カネを要求することである。それもしばしば大金を」と述べています。

精神医療の分野と同様、すぐに全快することは稀です。アモルト神父はよく「霊的な手助け、例えば真摯な祈りと罪の告解はしばしば、祓魔式よりも有益だ」と言っていました。同様に、彼の後継者である国際祓魔師協会会長グラモラッツォ神父は「憑依された人に対する助けの90%は祓魔式以外のところで起る」と著者に言ったそうです。著者は、「多くのプロテスタント著述家が指摘してきたことだが、福音書の中でイエスが行なった悪魔祓いは簡素で直接的で、複雑な定式などとは無縁の簡潔な命令であった。だが私の見るところ、歴史上で福音書のイエスほど素速く頻繁に成功した者は他にいない。信じようと信じまいと。とはいえ、何も私はより正式な祈りに利点がないと言っているわけではない。祈りやそれ以外の伝統的手法、例えば断食などに効果があることは広く認められているが、その成功率は千差万別である。個別の被害者側の努力がしばしば憑依事例の成功において重要であることは判明しているが、ここでもまた他と同様、個別の結果について一般化したり予測したりすることは困難である。祓魔式は悪魔の力を「弱め」、それによって各自は自力で戦うための内なる資質を培うことができる――通常は、より一般的な霊的手段によって」と述べます。

エピローグ「これらの現象の背後にある真実 何故悪魔は攻撃するのか」では、「何ゆえに悪霊は人を襲撃し、さらにはその人の肉体を乗っ取ってしまうことを選択するのか?」としばしば訊ねられるという著者は、「サディズム、それに『不幸は仲間を好む』という事実が答えの一部であると私は確信している。だがそれ以上に、その深層において、昔ながらの説明では彼らが人間を嫌悪するのは彼らの極度の嫉妬と神に対する憎悪の故であるとされている。彼らが斯程に誇り高くまた嫉妬深い存在であるならば、神(および特に神人)は彼らの憎悪と苦痛を刺激するというわけだ。そしてまた、彼らの胸糞悪い活動はわれわれ人間に反映されている神の似姿に向けられているようにも見える。そう、彼らはわれわれを堕落させ、彼らの『側』へと取り込みたいのだ。これは確実なことと思われる。われわれ人間は愛するという能力を保持している。それは神を拒んだ悪魔たちが失った、あるいは棄て去った能力である。悪魔の世界はわれわれの愛ある人格を毀損し、霊性を破壊し、そして可能なら肉体的な死をもたらそうとする」と述べています。

儀式論』(弘文堂)

そして最後に、著者は「腐敗したといえども純然たる霊であるから、悪魔の力と知性は人間の力や知性を凌駕している。故に彼らが混乱と悲惨を創り出す能力も人間より高いのである。そういうわけであるから、彼らよりもさらに強い力によって縛っておかない限り、そのようなことが実際に起るのである。多くの思想家はまさにそのことを教えてきた。聖なる存在、聖なる対立者――神、天使、聖人、聖なる存在、そしてなにより有能な祓魔師――のみが、真に彼らに立ち向かい、被害者を救済する力を持つのであると。だがそうであっても、被害者たる人間は通常、彼らの努力に協力せねばならない。とある哲学者によれば、サタンと悪霊はもしも妨げがなければわれわれを皆殺しにするだろうという。私はかつてこの考えを一種の迷信、中世的な誇張であると考えていた。だが今の私は、この言葉が真実であると確信している」と述べるのでした。本書は、単なる宗教やオカルトの本ではなく、精神科医の視点から悪魔祓いという儀式について考察した内容で、大変興味深かったです。拙著『儀式論』(弘文堂))の内容と共通する部分も多々ありました。