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No.2494 芸術・芸能・映画 『アカデミー賞入門』 角川新書
2026.09.14
『アカデミー賞入門』松崎健夫著(角川新書)を読みました。映画評論家の著者は、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了。『ZIP!』『米粒写経 談話室』『WOWOWぷらすと』など、テレビ・ラジオ・ ネット配信番組に出演。『キネマ旬報』『ELLE』『FINDERS』、 映画パンフレットなどに多数寄稿。『映画.com』映画評論、『読売旅行』旅の本と映画を定期掲載中。ゴールデングローブ賞国際投票者、キネマ旬報ベスト・ テン選考委員、 京都国際映画祭クリエイターズ・ ファクトリー部門などの審査員。共著に『 現代映画用語事典』ほか。わたしは、著者が出演しているYouTube動画「そえまつ映画館」をよく観ています。

本書の帯
本書の帯には黄金のオスカー像の写真が使われ、「他の映画祭のような“選考委員会”がない映画賞」「最高の栄誉は約1万人の投票で決める!」「映画の祭典で読み解くアメリカ激動の100年史」「『ローマの休日』『スター・ウォーズ』『ラ・ラ・ランド』誰もが知る名作が作品賞をとれなかった理由とは?」と書かれています。

本書の帯の裏
帯の裏には、「賞創設から約100年の歴史を一挙に辿り、急激に変化する映画業界を徹底分析!」として、以下のように書かれています。
〇技術賞に輝いた『ゴジラ-1.0』と『関心領域』の共通点は低予算、少人数でビジョンを実現させたこと
〇配信映画は“映画”なのか? 劇場公開への強いこだわりの理由
〇トム・クルーズはなぜ主演男優賞をとっていないのか
〇〈赤狩り〉への反省がこめられた『オッペンハイマー』の作品賞受賞
〇『国宝』のヒットと国際長編映画賞部門ショートリスト入りに見る「長編映画は儲からない」説の落とし穴
〇インディペンデント映画を応援し、若い映画人を育てたい。『ANORA アノーラ』への評価は危機感の裏返しだった
さらに、「アカデミー賞が映し出すのは、文化伝統と社会変化の間で揺れる映画業界人たちの心。設立の経緯や歴史をふまえ、選考の理由や背景に注目してみれば、もっと奥深い映画体験が待っている」と書かれています。
カバー前そでには、「アカデミー賞をもっと楽しむための着眼点」として、以下のように書かれています。
◆「何が受賞したか」より「なぜ受賞したか」に注目。
◆作品賞は「最も優れた映画」に贈られるわけではない。
◆もともとはハリウッドの映画人が仲間に贈る「内輪の賞」だった。
◆アカデミー会員の大量増員によって選考される作品に大きな変化が起きている。
アマゾンの内容紹介には、「これ一冊でアカデミー賞の『なぜ』がわかる!」として、「世界で最も有名な映画の祭典、アカデミー賞。1929年の第1回から一度も途切れることなく続いてきた映画界最高の栄誉である。この賞が大きな転換点を迎えている。ハリウッドの内輪の賞から国際的な評価へと存在意義が変化し、投票権をもつアカデミー会員を大増員。Netflixなどによる配信映画の台頭と、劇場公開へのこだわり・・・・・・。アカデミー賞の誕生から、激動の現代までを読み解く入門書」とあります。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 そもそもアカデミー賞って何?
コラム①オスカー像
第二章 選ぶ人、選ばれる人
コラム②伝説のオスカー売却騒動
第三章 歴史は語る
コラム③東京国際映画祭の歴史
第四章 近年の転換点
コラム④アカデミー賞の歴史で黒人監督は
まだ一度も受賞していない
第五章 選考基準の謎
コラム⑤選考基準の謎(ゴシップ編)
第六章 技術賞にも注目
コラム⑥ロバート・レッドフォードの功績
第七章 アカデミー賞の“今”を徹底分析
「おわりに」
「主要な参考文献と出典」
「アカデミー賞 関連略年譜」
「はじめに」には、「『映画は社会を映し出す鏡である』といわれることの筆頭がまさにアカデミー賞。アカデミー賞で重要なのは『その年に公開された映画の中で、必ずしも一番優れた映画が受賞するとは限らない』という点にあります。受賞結果にはその時代のアメリカ社会が反映されているため、『何が受賞したのか?』ではなく『なぜ受賞したのか?』あるいは『なぜ受賞できなかったのか?』という点こそが重要なのです。そこを突き詰めていくことで、ハリウッドの映画人が何を考え、アメリカ社会がどのような方向へ向かおうとしているのかが見えてきます」と述べています。トランプ政権を予見したかのように、近未来を舞台に社会の“分断”を描いたブログ「シビル・ウォー アメリカ最後の日」で紹介した2024年の作品のようなハリウッド映画が散見されるようになったのは、その好例だとか。
映画は“時代の要請”と呼べるような不思議な現象を生み出すことがあるといいます。例えば、ブログ「教皇選挙」で紹介した2025年に開催された第97回アカデミー賞では脚色賞に輝いた2024年の作品です。日本でも10億円を突破する興行収入を記録したヒット作ですが、奇しくも上映中の4月21日に教皇フランシスコが逝去して、実際に〈コンクラーベ〉=〈教皇選挙〉が行われました。これを受けて、日本では観客数が急増。Amazonプライムでの配信が始まっていたアメリカでは、視聴者数が3200%増になったという現象が起こりました。著者は、「これまでも、原発事故を描いた『チャイナ・シンドローム』(1979)が公開された12日後にスリーマイル島原子力発電所事故が起こり、企業買収を描いた『ウォール街』(1987)公開直前にブラックマンデーが起こるなど、「映画は社会を映し出す鏡である」ことを裏付けてきました」と述べます。
第一章「そもそもアカデミー賞って何?」の「アカデミー賞に権威があるのはなぜなのか?」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「映画賞なるものは、世界中に数多あります。現在、日本国内だけでも年間200を超える映画賞や映画祭があり、その数を正確に把握するのは困難と言われているほどです。そんな中でも、アカデミー賞は映画界における最高の賞として国際的な権威があり、一般的な知名度も高い賞として知られています。例えば『広辞苑』(第7版)にも、〈アカデミー賞〉の項が存在するほどです。そこには、“アメリカ映画芸術科学アカデミー(1927年創立)からアメリカ映画界における各年度優秀作品、男優・女優、監督、技術部門、外国優秀映画などに与えられる賞”と説明されているのを確認できます。最初にまとめると、この権威には以下のような理由が挙げられます。①全世界で授賞式が生中継されること②アカデミー賞という言葉の知名度③受賞者のその後のキャリアへの影響④長年とぎれず開催していること」
第1回の授賞式が開催された1929年は、まだ映画に音が付いていない〈サイレント映画〉と、音の付いた〈トーキー映画〉とが混在していた時代でした。第1回アカデミー賞で初代作品賞に輝いた『つばさ』(1927)は、サイレント映画でした。部分的に音声の付いた世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(1927)が、1927年に劇場公開されたことを考慮すると、少なくともアカデミー賞は、トーキー映画の歴史をほぼ網羅していることになると指摘し、著者は「つまり映画史において、その年にどのような作品が評価されたのかをいつの時点でも参照できる点でも重宝されているのです」と述べています。
「アカデミー賞には24の部門がある」では、2025年現在、アカデミー賞には、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞、脚色賞、撮影賞、美術賞、音響賞、編集賞、視覚効果賞、歌曲賞、作曲賞、衣装デザイン賞、メイク・ヘアスタイリング賞、長編アニメ映画賞、短編アニメ映画賞、国際長編映画賞、短編実写映画賞、長編ドキュメンタリー賞、短編ドキュメンタリー賞、キャスティング賞の全24部門があることが紹介されます。アカデミー賞には“主要部門”と呼ばれる部門があります。それは、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞と脚色賞の脚本部門のいずれかを指す5つの部門のことで、“主要5部門”と呼ばれることも多いです。
これら主要5部門はアカデミー賞の授賞式においても、式典の終盤に発表され、映画ファンも期待の賞です。ハリウッドの大物監督や大物俳優がプレゼンターを務め、彼らが壇上でその年の受賞者を発表し、受賞者に〈オスカー像〉を手渡すことが慣わしになっています。著者は、「この主要5部門を全て制することは非常に困難で、アカデミー賞98年の歴史では、『或る夜の出来事』(1934)、『カッコーの巣の上で』(1975)、『羊たちの沈黙』(1991)の3例しかありません。直近だと、第97回で作品賞に輝いた『ANORA アノーラ』(2024)が、作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、編集賞の5部門に輝いていますが、主演男優賞にはノミネートすらされていません。ひとつの作品で主演男優賞と主演女優賞を同時に受賞することは、映画の主人公に該当するようなキャラクターが男女2人いない限り、かなり困難だからです」と説明します。
「作品賞」では、〈ディレクターズ・カット〉という言葉が取り上げられます。これは、「ディレクター」=「監督」の意図した編集版のことですが、往々にして、映画館で上映されるバージョンに対しては監督ではなくプロデューサー側に最終編集権があるからこその別バージョンであることが説明されます。ちなみに本来〈ディレクターズ・カット〉という言葉は、監督の権限内で撮影したフィルムを一時的に編集した一般上映を意図しないバージョンのことを指していましたが、『ブレードランナー』(1982)にリドリー・スコット監督の意図を反映させた『ブレードランナー ディレクターズカット 最終版』(1992)が劇場公開されたことをきっかけに、この言葉が一般的になったという経緯があるそうです。
1980年代以降、作品を監督した人物がプロデューサーに名を連ねるケースが増えた理由のひとつは、“最終編集権”を得るためだといわれています。そういった経緯から、『アルゴ』(2012)のベン・アフレック監督のようにプロデューサーとして作品賞のオスカー像を手にするといったケースも見られるようになったそうです。『アルゴ』は、アフレック監督が製作のみならず、主演も努めたサスペンス映画です。1979年のテヘランで起きたアメリカ大使館人質事件と、その裏で敢行されたCIAによる救出作戦の行方を追い掛ける。監督として『ザ・タウン』(2011)で見せた緩急自在な演出をベンが本作でも繰り出し、謎に包まれていた救出作戦の全貌を活写。その一方で、貫録たっぷりに指揮を執るCIAエージェントを熱演しました。
2008年度の第81回まで作品賞のノミネート本数は5本でしたが、2009年度の第82回から“最大10本”に変更されました。芸術性の高いアート志向の作品がノミネートされることが増え、エンタメ系の大作映画が候補から漏れるようになったことから、改善策としてノミネート本数そのものを増やすという対策を講じた結果でした。そのきっかけとなったのは、ヒース・レジャーがジョーカー役を演じて第81回の助演男優賞に輝き、前評判も高かったクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008)が、候補から外れてしまい議論を呼んだことだったと言われています。以降、候補作品は10本から8本の間で推移しています。
「監督賞」では、2025年の時点で過去最多の受賞者は、第8回の『男の敵』(1935)、第13回の『怒りの葡萄』(1940)、第14回の『わが谷は緑なりき』(1941)、第25回の『静かなる男』(1952)で計4回も監督賞を受賞したジョン・フォードであることが紹介されます。『駅馬車』(1939)や『捜索者』(1956)など、西部劇の名作を世に送り出した巨匠ですが、意外なことに『駅馬車』はノミネート止まりで、受賞作に西部劇がひとつもないという結果でした。もっとも『駅馬車』がノミネートされた第12回アカデミー賞では映画史上に燦然と輝く超大作『風と共に去りぬ』が作品賞・監督賞・主演女優賞・助演女優賞・脚色賞を始めとした8つのオスカーを含む10部門を受賞したので、相手が強過ぎたと言えるでしょう。
またウィリアム・ワイラー監督は、第15回の『ミニヴァー夫人』(1942)、第19回の『我等の生涯の最良の年』(1946)、第32回の『ベン・ハー』(1959)で、(フランク・キャプラ監督と並んで)計3度の受賞を果たし、12回も候補になった最多記録を保持しています。最高齢で監督賞を受賞したのは、クリント・イーストウッド監督。『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)で2度目の受賞を果たしたのは74歳のときでした。反対に最年少での受賞は、デイミアン・チャゼル監督。32歳のときに『ラ・ラ・ランド』(2016)で受賞しました。
第二章「選ぶ人、選ばれる人」の「受賞スピーチ」では、プレゼンターからオスカー像を受け取った受賞者は、その場で受賞スピーチを行うことが紹介されますが、その時間は45秒以内と決められているそうです。著者は、「興奮のあまり言葉にならない者がいる一方で、事前にメモを用意して確実に読み上げる者もいます。どちらが正解というわけではありません。1989年度の第62回に名誉賞を受賞した黒澤明監督が『私はまだ映画がよく分かっていない』と語った名スピーチがあれば、1990年度の第63回に『グッドフェローズ』(1990)で助演男優賞に輝いたジョー・ペシのように、ひとこと『ありがとう』とだけ呟いて、恐縮しながら壇上をあとにしたような例もあったりと、人それぞれです」と述べています。
受賞スピーチでは、45秒の制限時間を超えると会場のオーケストラが退場を促す音楽を演奏し始めます。これは、1942年度の第15回に『ミニヴァー夫人』(1942)で主演女優賞に輝いたグリア・ガーソンが5分30秒にわたってスピーチをしたため、ルールが決められたのだそうです。また、授賞式を観ていると、技術部門の受賞者に対しては時間が厳密である一方で、俳優部門の受賞者に対してはやや柔軟だという印象があります。そのため、エイドリアン・ブロディが第97回に『ブルータリスト』で主演男優賞に輝いた際、史上最長となる5分40秒のスピーチをして再び顰蹙を買いました。わたしも衛星放送でリアルタイムで観ていましたが、あれは確かに長過ぎましたね。内容も良くなかったです。
「アカデミー賞狙いの作品は12月公開!?」では、アカデミー賞にノミネートされる作品の多くは毎年12月頃を狙って劇場公開されるという傾向があります。そこにはアカデミー賞の規定とにらめっこする、ハリウッド映画業界の事情が介在すると指摘し、著者は「例えばみなさんが、『昨年観た中で一番良かった映画ってなに?』と聞かれたなら何と答えるでしょうか? おそらく多くの方は、直近に観た中で割と良かった映画のタイトルを挙げると思います。ですからそういった質問を受けたのが1月から2月頃だった場合、前年の1月から3月頃に上映された映画に対する記憶は曖昧だと思うのです。ハリウッドの映画人であっても、それは同じです」と述べています。
「アカデミー賞を受賞することの意義」では、映画は“社会を映す鏡”。アカデミー賞でも、その時代を反映した作品が作品賞に選ばれてきたという歴史があるとして、著者は「例えば、ユダヤ人に対する排斥を初めて題材にした『紳士協定』(1947)や、離婚家庭の増加を背景に親権を巡る裁判の行方を描いた『クレイマー、クレイマー』(1979)などはその好例です」と述べます。内6回アカデミー賞では、『オッペンハイマー』(2023年)が作品賞ほか最多7部門を受賞しました。著者は、「この映画は、広島・長崎への原爆投下を是としなかった初のハリウッドメジャー映画。これまで原爆投下に対しては、「第二次世界大戦を終結させた功績がある」というアメリカ側の論理が度々言及されてきましたが、『オッペンハイマー』ではそのような一方的な視点を排除した点が特徴でした。むしろ、キリアン・マーフィが演じた科学者ロバート・オッペンハイマーが、人智を超えた科学技術に対して畏怖する姿が描かれています」と述べています。
この映画ではオッペンハイマーの視点で描かれた場面はカラー、オッペンハイマーの視点ではない場面ではモノクロと使い分けられています。このことから、オッペンハイマーが実際に見ていないものは、オッペンハイマーの視点で描かないというルールによって作られていることも重要であるとして、著者は「例えば、被爆地で撮影されたフィルムを上映する場面では、オッペンハイマーが映像を直視できないというくだりがありました。演出上のルールに従えば、彼が見ていないものは映画の中で(カラーでは)描かれないということになります。広島や長崎の惨状が描かれなかったことに対して一部批判がありましたが、今作では演出上のルールに従ってあえて劇中に映し出されないことの理由は、オッペンハイマーが見ていないからと解せるのです」と述べます。ブログ「オッペンハイマー」に書いたように、わたしはこの映画に対して根本的な批判を行っています。
わたしが「オッペンハイマー」を批判するのは、そこには広島と長崎への原爆投下に対する後悔や反省の念がまったく見られないからです。しかし、著者は「確かに『オッペンハイマー』の描写は、被爆国に暮らす私たち日本人にとっては物足りないと感じさせる部分もあります。とはいえ、惨状を描いていたとしたら、その描写に対しても批判が生じていた可能性もあるでしょう。重要なのは、アメリカのメジャー映画会社の作品が原爆投下を初めて否定的に描いたことにあります。これはスタート地点になるでしょう。この映画をきっかけに、私たち日本人が望むような表現に近づいてゆく。その時、『オッペンハイマー』は時代の風雪に耐えられず、『描き方が古い』と揶揄される作品になるのだと思います。そういった変化は、ネイティブ・アメリカンの人々を“インディアン”と呼び、西部劇の悪役に仕立ててきたハリウッド映画の反省にも表れてきました。急激な変化ではなく緩やかな変化によって、より多くの人たちの理解を得ることは重要とも言えるでしょう」と述べています。
コラム②「伝説のオスカー像売却騒動」では、オスカー像は転売や譲渡が禁止されていることが紹介されます。これは、売却されたオスカー像がオークション市場に出回ってしまったことを機に、1951年になって設けられた規定です。しかし、規定が適用されてから約40年も経過した1992年にある騒動が巻き起こりました。『我等の生涯の最良の年』(1946)で第19回アカデミー賞の助演男優賞に輝いたハロルド・ラッセルが、自身のオスカー像を競売にかけたのです。『我等が生涯の最良の年』は、第2次世界大戦後、3人の復員兵が同じ軍用輸送機に乗り合わせる物語です。故郷の町の飛行場に着き、彼らはそれぞれ出迎えを受けます。その中の1人であるホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)は、両手を失い義手になった傷痍軍人です。彼の家族と恋人はそれを見て声を失い、母は泣き出してしまうのでした。
実は、ハロルド・ラッセルにはオスカー像を手放さざるを得なかった理由がありました。それは、妻の医療費を工面することでした。そもそもハロルドは、兵役中の爆発事故で両手を失い、演技経験のないまま義手の退役軍人役を演じた“アマチュア俳優”でした。「映画を通して障害を持つ退役軍人に希望をもたらした」として、アカデミー特別賞も同時受賞していますが、これはアカデミー史上、同一の演技に対して2つの賞を授与した唯一の事例だそうです。その後、ハロルドは世界退役軍人基金の副会長を務めるなど、退役軍人を支援する活動に従事。1960年代から1980年代にかけては、障害者雇用に関する大統領委員会の議長を無報酬で務めていました。結果、彼のオスカー像売却は規定の対象外とされたのですが、それはそんな彼の姿に敬意を表した“大岡裁き”だったというのが通説になっています。
第三章「歴史は語る」の「アカデミー賞はハリウッドの映画産業を讃えるためのもの」では、ハリウッドの撮影所における労働組合活動について言及しています。MGMの共同創始者であり、独裁的な経営者としても知られていたルイス・B・メイヤーは、労働組合に対して先手を打つべく、監督や俳優などハリウッドの人気者に接触。俳優や監督だけでなく、製作者や脚本家、撮影や編集、音楽など映画の技術者といった各部門の実力者を集めた会員制の協会を1927年に設立することに着手。この団体こそが、現在の〈映画芸術科学アカデミー〉だったのです。著者は、「表向きには、当時のトップスターだったダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードが提案したことにしながら、彼らに労働組合との調停にあたらせることで世間への印象操作をする思惑があったと言われています。ちなみにふたりは、実生活では夫婦でもありました。映画製作だけでなく社会問題に対しても意識が高かったブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリー(元)夫婦のような存在を、フロントに据えたと考えるとわかりやすいかもしれません」と説明します。
〈映画芸術科学アカデミー〉設立に際しては「映画芸術および科学の質を向上させる、文化・教育および芸術の発展のために指導者間の協力を助成する」という名目がありました。その前提のもと、特に功績があった人物に対して毎年賞を与えることをダグラス・フェアバンクスが提案。「労働問題のような硬い話は置いておいて、みんなで仲良く食事でもしながら、その年に一番良かった映画人を祝おう」と、晩餐会形式の授賞式を開催することになったのが、現在まで続くアカデミー賞のはじまりでした。著者は、「つまり、大手映画スタジオの経営者たちが労働組合の問題を懐柔するために、仲間の労をねぎらう場として開催したのがアカデミー賞授賞式だったというわけなのです」と述べています。
1929年5月16日にハリウッドのルーズベルトホテルで開催された第1回の授賞式は晩餐会形式で行われ、受賞者には受賞の旨が3ヶ月前に通達され、招待状が送られていたそうです。また招待状には、各賞の受賞者名(当日の参加者)が既に記載されていたとか。そのため、授賞式は映画人の集まるパーティが中心で、受賞者を表彰する式典そのものはわずか4分22秒で終わったと伝えられています。著者は、「第1回アカデミー賞授賞式が開催された1929年は、世界恐慌の時代とも重なります。当時のハリウッドで、独裁的な権力を握っていた大手映画会社の経営者たちは〈タイクーン〉と呼ばれていました。意外なことにこの言葉は、江戸時代の徳川幕府の将軍のことを海外で『大君』=『たいくん』と呼んでいたことに由来します」と説明しています。「SHOGUN」が大ヒットするはるか前から、ハリウッドは日本趣味だったのですね。
「晩餐会として始まった授賞式はラジオやテレビの中継を経てショー形式へと変貌」では、〈授賞晩餐会〉の形式で始まったアカデミー賞授賞式が第16回になって現在の授賞式に近い形式のものとなったことが紹介されます。ここには社会的な歴史の流れが関係しているとして、著者は「『カサブランカ』(1942)が作品賞に輝いた第16回の授賞式は、第二次世界大戦の渦中である1944年3月2日に開催されました。投票権を持つアカデミー会員のうち約200名が戦地に徴集されていたというご時勢に、『戦時中に晩餐会とは何ごとか』という世論があったことから、会場がルーズベルトホテルの斜め前にあるチャイニーズ・シアターに移り、会場が劇場になったことで授賞式は晩餐会形式からショー形式へと変化。現在のような授賞式になったのです」と説明します。
「映画祭を開催する意義」では、アカデミー賞と国際映画祭の違いが紹介されます。その大きな違いとして「会期」が挙げられます。例えば、世界三大映画祭(カンヌ国際映画祭・ヴェネツィア国際映画祭・ベルリン国際映画祭)の場合は10日前後の会期が設けられていますが、アカデミー賞は授賞式の当日だけです。アカデミー賞は授賞式がメインであるのに対して、映画祭では作品の上映がメインだからです。アカデミー賞は約1万名いる映画芸術科学アカデミーの会員によって投票さます。映画祭では10名前後の審査員の合議によって賞が決められるとして、著者は「例えば、ヴェネチア国際映画祭の審査員の数は審査委員長を含めて10名。そのメンバーは毎年変わります。つまり、審査員の構成によって、その年々の傾向が変わるということなのです。特に、その年に審査委員長を務めた人物の好みは、受賞結果に影響を与えるとも言われてきました」と説明します。
国際映画祭では、マーケット(マルシェ)と呼ばれる新作映画を売り買いする場が設けられています。日本で公開される外国映画の多くは、買い付けの玄人の目を通して既に選ばれた作品です。つまり、選りすぐられた作品だけが日本に入ってきているのです。一方で、邦画の大手映画会社の場合は、その年の公開作品として10本前後の映画をラインナップし、作品の出来不出来にかかわらず自社作品として(出演者の不祥事などがない限り)劇場公開します。しかし、洋画の場合はワーナー・ブラザースやディズニーのような大手スタジオの作品であっても、社内で選別された作品が劇場公開に至るというプロセスの違いがあるとして、著者は「例えば、『キネマ旬報』誌などで映画の年間ベストが発表される際に、わざわざ〈邦画〉と〈洋画〉に分けられる意味もこういった基準の違いと無関係ではありません」と述べています。
カンヌ国際映画祭には〈カメラ・ドール〉と呼ばれる新人監督賞枠が設けられています。河瀨直美監督は『萌の朱雀』(1997)で記念すべき第50回カンヌ国際映画祭のカメラ・ドールを当時最年少で受賞しました。これは今なお日本人監督唯一の受賞例です。彼女の作品は何度もカンヌに招かれ、第66回にはコンペティション部門の審査員、第69回には短編コンペティション部門と学生映画を対象としたシネフォンダシオン部門の審査委員長を務めています。著者は、「河瀨直美監督が今なおカンヌで高く評価され、愛でられている理由、それは、彼女が世界に先駆けて『カンヌが見つけた新しい才能』だったからなのです。日本よりも海外における評価の方が高く感じるのはそういった理由があるからで、カンヌが長年にわたる”発見と育成”を重視している証だともいえるでしょう」と述べています。これを読んで、河瀨監督作品がカンヌで受ける理由がよくわかりました。
自身の映画をどの映画祭に出品するのかという選択や各々の映画祭が持つ特徴に対する目利きは、彼らの映画人生にも影響を与えます。このことは、毎年10月末から開催される東京国際映画祭にとって不利に働くといいます。カンヌ国際映画祭は5月に終わり、ヴェネチア国際映画祭も9月に終わったばかり。さらに、年明けの2月にはベルリン国際映画祭が待っている時期にあたるからです。著者は、「国際的に著名な映画作家たちは世界三大映画祭を目標にする傾向があるので、当然のことながら東京国際映画祭への出品を敬遠してしまう。そのため、東京国際映画祭には三大映画祭で取り上げられなかったような作品しか残っていないという厳しい現実があるのです。歴史ある世界三大映画祭に敵わないことは東京国際映画祭の運営に関わる方々も承知していて、その対策のひとつとして主要国際映画祭の受賞作や既に他の国際映画祭で上映された有名監督の作品を、賞に絡まない〈ワールド・フォーカス部門〉として上映しています」と説明します。
「カンヌ国際映画祭とヴェネツィア国際映画祭は政治的対立状態にある」では、カンヌより古く世界三大映画祭最古のヴェネチア国際映画祭は1932年に第1回が開催されたことが紹介されます。その起源は、1895年に現代美術の国際展覧会としてはじまったヴェネチア・ビエンナーレの映画部門でした。絵画や彫刻、音楽や舞踏、建築や文学と同じように、「映画も芸術のひとつとして認めていこう」という時代の潮流が生み出したもので、映画が「第七藝術」=「七番目の芸術」と呼ばれる所以でもあるといいます。著者は、「当時のイタリアはファシズムに傾倒し、独裁体制を確立した時代でもありました。ヴェネチア国際映画祭も政治と無縁ではなく、最高賞は首席宰相だったベニート・ムッソリーニの名を冠した〈ムッソリーニ杯〉と呼ばれました。1938年、ヴェネチア国際映画祭はレニ・リーフェンシュタール監督のドキュメンタリー映画『オリンピア』に最高賞を贈りました」と述べます。
『オリンピア』の受賞に対して「ファシズムを礼賛する作品に最高賞を与えるとはいかがなものか」と怒りを露わにしたのは、フランスの文化人たちでした。著者は、「思い返せば、フランスには、『1895年にリュミエール兄弟が〈映画の誕生〉をもたらした国だ』という威信があります。フランスのカンヌ国際映画祭が誕生したのは、映画の評価を自国で実践するというフランスと、ファシズムに傾倒するドイツやイタリアとの政治的対立が大きな理由だったのです」と述べます。1939年にフランス政府の援助を受けて開催されるはずだった第1回カンヌ国際映画祭ですが、第二次世界大戦の勃発によって中止となってしまいます。実際に第1回が開催できたのは、戦争が終わった1946年になってからでした。カンヌ国際映画祭で上映される作品や受賞作品は時おり「政治的だ」との批判を浴びることがありますが、著者は、「その原点には政治的な抗いが存在していたことを考えると、カンヌ国際映画祭の本質が理解できるかもしれません」と述べるのでした。
第四章「近年の転換点」の「アカデミー賞の近年の転換点と傾向」の①「2014年~2019年 メキシコ出身の映画監督は躍進」では、アルフォンス・キュアロンが取り上げられます。キュアロンの映画人生は『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(2004)を監督したことが分岐点になりました。『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』(1989)に似た奇抜な展開を迎えるシリーズ第3作を、世界興行収入約7億900万ドルもの大ヒットに導いたことで興行的な信用を得て、作品製作に対する自由度を獲得したからです。著者は、「これは、DCコミックスの『バットマン』を映画化した『ダークナイト』シリーズを成功させたクリストファー・ノーランが、オリジナル脚本によって製作された『インターステラー』(2014)や『TENET テネット』(2020)などのやや難解と思えるような作品を100億円以上の製作費で監督するという製作の自由度を獲得したことと同様です」と述べます。
②「2016年 “白すぎるオスカー”」では、黒人俳優とアカデミー賞の歴史は、困難の歴史でもあることが指摘されます。黒人として初めてアカデミー賞を受賞したのは、1939年度の第12回に『風と共に去りぬ』(1939)で助演女優賞に輝いたハティ・マクダニエルでした。受賞スピーチで、彼女は「私の人種と映画界に恥じない存在でありたい」と語りました。著者は、「第12回の授賞式は1940年に開催されているので、一見すると早い時代から黒人俳優の地位が認められたような錯覚をおこしてしまうのですが、当時は公民権運動のはるか昔。人種隔離政策のため、彼女に用意されたのは授賞式会場の座席ではなく、なんと食堂の椅子でした。そして、彼女の受賞は新聞記事にもならなかったのです」と説明します。彼女の次に黒人俳優が受賞するのは、その24年後。第36回の『野のユリ』(1963)で主演男優賞に輝いたシドニー・ポワチエでした。彼の次はさらに19年後、第55回の『愛と青春の旅だち』(1982)で助演男優賞に輝いたルイス・ゴセット・ジュニアまで待つことになるのです。つまりこの時点では、55年の歴史で黒人俳優の受賞者は、たったの3人しかいなかったのでした。
③2022年「濱口竜介監督の受賞は何が凄かったのか?」では、ブログ「ドライブ・マイ・カー」で紹介した2022年の濱口竜介監督の作品が取り上げられます。村上春樹の短編小説を原作に描くヒューマンドラマで、妻を失い喪失感を抱えながら生きる主人公が、ある女性との出会いをきっかけに新たな一歩を踏み出す物語です。脚本家である妻の音(霧島れいか)と幸せな日々を過ごしていた舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)だが、妻はある秘密を残したまま突然この世から消える。2年後、悠介はある演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島に向かう。口数の少ない専属ドライバーの渡利みさき(三浦透子)と時間を共有するうちに悠介は、それまで目を向けようとしなかったあることに気づかされるのでした。この映画は、2022年に開催された第94回アカデミー賞で国際長編映画歌唱に輝きました。
北米での「ドライブ・マイ・カー」劇場公開時に興味深かったのは、現地の映画評の数々でした。著者は、「当時、コロナ禍にあったアメリカでは、身近な人間を突然亡くした時、その哀しみとどう向き合うべきなのか? という命題と重ねられ、人は孤独であることへの考察がなされていたのです。少なくともアメリカでは、『ドライブ・マイ・カー』が時代と寄り添った映画として評価されていました。また、アメリカ西海岸のロサンゼルスや東海岸のニューヨークの映画批評家協会賞では、英語以外の言語を使った作品を対象とした“外国語映画賞”ではなく、アメリカで上映された全ての作品を対象にした“作品賞”に選ばれています。これまでロサンゼルス映画批評家協会賞で作品賞に輝いた歴代作品には、例えば『ロッキー』(1976)や『スター・ウォーズ』(1977)があり、ニューヨーク映画批評家協会賞では『羊たちの沈黙』(1991)や『プライベート・ライアン』(1998)といった誰もが知る名作映画が、作品賞を受賞してきました。つまり、『ドライブ・マイ・カー』は映画史における“名作”たちと、同等の評価がなされているということなのです」と述べています。
第五章「選考基準の謎」の「主演と助演の境界線」では、4部門ある俳優賞をひとつの作品で複数受賞した例が少ないながらいくつかあることが紹介されます。例えば、ヴィヴィアン・リー(主演女優賞)、カール・マルデン(助演男優賞)、キム・ハンター(助演女優賞)の3名が受賞した『欲望という名の電車』(1951)と、ピーター・フィンチ(主演男優賞)、フェイ・ダナウェイ(主演女優賞)、ベアトリス・ストレイト(助演女優賞)の3名が受賞した『ネットワーク』(1976)。そして、ブログ「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」で紹介した2022年の作品は、ミシェル・ヨー(主演女優賞)、キー・ホイ・クァン(助演男優賞)、ジェイミー・リー・カーティス(助演女優賞)の3名が俳優部門を受賞した作品で、なおかつ作品賞を受賞した初めての作品でした。本書には、「今のところ、4つの俳優部門を制した作品は存在しません(2025年現在)」と書かれています。
「その年に最も秀でた作品が受賞するとは限らない」では、アカデミー賞は、誰もが納得の映画史に残るような作品が必ずしも受賞するとは限らないことが紹介されます。例えば、第55回で『ガンジー』(1982)が作品賞を受賞した際、最有力候補と言われていたのは9部門で候補となっていたスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』(1982)でした。著者は、「世界興行記録を作りながらも、作曲賞や視覚効果賞など技術部門の受賞のみで、作品賞では『ガンジー』に完敗したスピルバーグは、第58回の『カラーパープル』(1985)でも主要9部門で11候補になるも無冠に終わっています。アカデミー賞は実話を描いた作品や実在の人物を演じた俳優に授与した例が多く、『ガンジー』にも同様の要素を指摘できます」と述べています。
他にも、「その年に最も秀でた作品が受賞するとは限らない」実例として、ブログ「ローマの休日」で紹介した1953年のウィリアム・ワイラー監督作品が挙げられます。オードリー・ヘプバーンが初のハリウッド映画出演にして主演女優賞に輝いた誰もが知る名作ですが、第26回で作品賞など8部門を制したのは『地上より永遠に』(1953)の方でした。著者は、「表層的には大人の男女による不倫劇ですが太平洋戦争終結から8年が経過した時代に第二次世界大戦を再検証した点が、劇場公開当時は朝鮮戦争中だったアメリカにとって重要だったのです。そういった歴史的な視点によって評価された作品は、時代と共に記憶が薄れ、風化してしまいがちです」と説明します。
また、『スター・ウォーズ』(1977)も「その年に最も秀でた作品が受賞するとは限らない」実例として挙げられています。同作は、遥か彼方の銀河系を舞台に繰りひろげられる善と悪の壮大な戦いを描いた「スター・ウォーズ」シリーズの記念すべき第1作であり、記録的に大ヒットしました。ジョン・ウィリアムズによるテーマ曲や、ルーク、レイア、ハン・ソロなど魅力的なキャラクターなど世代を超えて語り継がれるSF映画の金字塔です。しかしながら、第50回で圧勝したのは、ウディ・アレン監督・主演・脚本の『アニー・ホール』(1977)でした。著者は、「『スター・ウォーズ』(1977)は技術賞での受賞にとどまりましたが、アカデミー賞においてSFというジャンルに対する評価は低い現実があります。また、その年の興行記録を打ち立てるようなメガヒット作品を、映画芸術科学アカデミーの会員たちが何故か敬遠しがちだという傾向も存在しています」と述べています。
「アカデミー賞の“出来レース疑惑”を払拭させた事件」では、2017年に開催された第89回授賞式では、作品賞の発表を最後に残した時点で、ブログ「ラ・ラ・ランド」で紹介した2016年のミュージカル映画が監督賞、主演女優賞、撮影賞、美術賞、作曲賞、歌曲賞の6部門を受賞していたことが紹介されます。同作はこの年の最多受賞は確実だったのです。作品賞のプレゼンターは、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイの2人でした。彼らが作品賞を発表する際、前代未聞のミスが起こりました。作品賞として『ラ・ラ・ランド』のタイトルが呼ばれ、登壇した関係者が受賞スピーチを開始。暫くして『ラ・ラ・ランド』のプロデューサーであるジョーダン・ホロウィッツがカードを掲げながら、「受賞したのは『ムーンライト』(2016)だ!」と困惑する会場に向けて改めて発表したのです。著者は、「一度発表した受賞結果が覆されるのは、もちろん初めての出来事。奇しくもこの珍事は、“出来レース”疑惑の絶えなかったアカデミー賞が、“ガチの勝負”であったことを証明することになったのです」と述べるのでした。
第六章「アカデミー賞は“裏方の人たちにスポットライトが当たる場所”では、2025年に開催された第97回授賞式は、ロサンゼルスで起こった山火事の影響で延期の可能性があったことが紹介されます。開催すること自体に対して、特にロサンゼルス地区に居住する映画人たちからの賛否があったのです。当日の式典は、ロサンゼルスを舞台にした映画の名場面を集めた映像で幕が開きました。映像に続いて登場したアリアナ・グランデは、第12回の歌曲賞に輝いた『オズの魔法使』(1939)の劇中歌「虹の彼方に」を歌いました。著者は、「それは、彼女が前日譚である『ウィキッドふたりの魔女』(2024)に出演しているから、という理由だけではありません。『オズの魔法使』には『There’s No Place Like Home』=『お家が一番』という名台詞があります。この言葉は、被災者の想いを代弁するものであり、式典の中盤では消火にあたったロサンゼルスの消防士たちが登壇するくだりがありました」と述べています。
第七章「アカデミー賞の“今”を徹底分析」の「トム・クルーズの名誉賞と俳優賞授賞の未来予想」では、スティーヴン・スピルバーグ監督がアカデミー賞と長らく縁がなかった理由のひとつとして「映画をヒットさせ、お金まで儲けている才能ある若い監督に、名誉まであげるのか?」という気持ちが働いた点を挙げたことが紹介されます。トム・クルーズの場合にも、同業者による同様の嫉妬と羨望があったのではないかと言われ続けてきました。映画芸術科学アカデミーの20%以上を俳優の会員が占めるため、俳優の好みが反映されると噂されてきたのも、その一因かもしれません。しかし、トムは第98回アカデミー賞で〈アカデミー名誉賞〉を授与されました。映画芸術科学アカデミーは、トムの受賞理由として「スタント・コミュニティ」への影響と献身を挙げています。40年にわたってトップを走り続けてきたキャリア、プロデューサーとしても成功し、ブログ「トップガン マーヴェリック」で紹介したアクション映画ではパンデミック後の劇場興行を復活させた功績があることも挙げています。
「授賞式生中継の今後」では、アカデミー賞自体も歴史的な転換期を迎えていることが指摘されます。アカデミー授賞式の視聴率は、ブログ「タイタニック」で紹介した1997年の超大作が作品賞など11部門を制した第70回をピークに、下降の一途を辿っていました。第70回には約5000万人がアメリカ国内で視聴したところから、2000年代には4000万人、2010年代には2000万人台にまで落ち込みます。2021年の第95回を中継した際にはコロナ禍の影響もあり、史上最低の1040万人台を記録。その後、持ち直したものの、近年は1800万人前後で推移している状況です。視聴率が下がると、アカデミー賞に対する注目度も下がり、興行収入にも影響を及ぼすようになります。そこで2019年に開催した第91回では、〈人気映画部門〉という新たな部門を設立するとのアナウンスがありました。また、同じく第91回では生中継に対する視聴率の伸び悩みから、放送時間を4時間を3時間に短縮することを事前にアナウンスしています。
「もはやアカデミー賞は“ハリウッドの祭典”ではなく、国際的な映画産業を評価する場に」では、第97回にブログ「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」で紹介した2024年の映画が長編ドキュメンタリー賞を受賞したことは、変化の兆しを示す好例でした。この映画はアカデミー賞を初めて受賞したパレスチナ映画(ノルウェーとの合作)でした。ハリウッドの黄金期の映画産業は〈タイクーン〉と呼ばれ絶対的権力を持った経営者たちによって支配されていましたが、パラマウントのアドルフ・ズーカー、ワーナー・ブラザースのハリー、アルバート、サミュエル、ジャックというワーナー家4兄弟、コロンビアのハリー・コーン、MGMのルイス・B・メイヤー、後発のユニバーサルのカール・レムリといったハリウッドのメジャー映画会社の創設者が総じてユダヤ系です。著者は、「現代においてもスティーヴン・スピルバーグのような大物監督がユダヤ系であることから、ハリウッドは長らくユダヤ系の政治信条に寄っているのではないかと指摘されてきたのです。『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』は、イスラエル軍やユダヤ人入植者がパレスチナ人を襲撃する姿を撮影した作品。以前のアカデミー賞であれば受賞どころか、候補になることさえなかったと思います」と述べます。
「配信映画は“映画”なのか?」では、「映画館での上映を意図しないストリーミング配信を基本とした映画」を位置づけるポイントが3つあるといいます。1つ目は、映画史における〈映画の誕生〉が、映画を発明したエジソンではなく、初めて映画の有料上映を行ったリュミエール兄弟の方だとされている点。「広辞苑」に“映写機で投影するもの”との記述があるように、映画とは箱の中に映し出された映像を観るものではなく、映写機によってスクリーンに投影された映像を不特定多数の観客と共に観るものなのです。2つ目は、エジソンの〈キネトスコープ〉が“ひとりで観る”ものであったことに対して、リュミエール兄弟の〈シネマトグラフ〉の方は“不特定多数の人間と観る”ものだったという点。著者は、「“ひとりで動画を観る”という機構は、パソコンやスマートフォンで映画を観る行為に近いといえます。つまり、劇場のスクリーンで上映されることを意図しない作品は、そもそも“映画”とは呼べないのではないか? という見解が、映画史的な観点から生まれるのです」と述べます。
〈映画の誕生〉という映画史的な見解が「リュミエール兄弟ではなくエジソンによるもの」と覆されない限り、映画史の観点から言うと、“配信作品”を“映画”と呼ぶことはできないというわけです。そして3つ目は、エジソンがアメリカ人で、リュミエール兄弟がフランス人であるという点です。著者は、「〈キネトスコープ〉を開発したアメリカ側の視点では、映画史云々の御託は関係なく『“ひとりで動画を観る”ことだって映画でいいじゃないか』と、寛容になれる理由を持っています。しかし、スクリーンに投影された映像を不特定多数で観ることが〈映画の誕生〉と映画史的にも認められているフランス側からしてみれば、“配信作品”を“映画”と認めてしまうと〈映画の誕生〉という指標をアメリカに渡してしまうことになるのです」と述べるのでした。
「『オッペンハイマー』は〈赤狩り〉に対する反省を描いた映画だった」では、映画界における〈赤狩り〉の時代を振り返っています。ハリウッドから追放された人物の中には、喜劇王のチャールズ・チャップリンもいました。『ライムライト』(1952)のプロモーションでイギリスへ渡る船上にて再入国の許可が取り消され、突然の国外追放命令を受けたのです。『チャップリンの殺人狂時代』(1947)でチャップリンが演じた連続殺人犯が「1人の殺害は犯罪者を生み、100万の殺害は英雄を生む」と戦争を皮肉った名台詞が、戦勝国であったアメリカにとって反米的だと解釈されたことが原因の1つだといわれています。この仕打ちに対する謝罪を込めて、映画芸術科学アカデミーは1972年になってチャップリンに名誉賞を授与しました。著者は、「20年ぶりにアメリカの地を踏んだチャップリンは受賞スピーチで寛容な姿勢を見せましたが、喜劇王の面影は既にありませんでした。彼は俳優としての最盛期を〈赤狩り〉によって奪われてしまったのです」と述べています。
そして、『オッペンハイマー』です。著者は、「いっけんすると『オッペンハイマー』は、核開発に対する天才科学者の苦悩を描いた作品のようですが、その根底には、国籍や民族、人種や性別、信条や宗教などを理由に、ある特定の人物を排斥しようとする不寛容な国際社会の傾向に対して『〈赤狩り〉のような愚かな時代を繰り返してはならない!』という強い意思表示を感じさせるのです。それこそが『オッペンハイマー』を映画芸術科学アカデミーの会員たちが支持した理由だとも思わせます」と述べています。しかし、アメリカが反省するべきは〈赤狩り〉などよりも人類史上初の核兵器を使用した〈原爆投下〉ではないでしょうか。『オッペンハイマー』は〈赤狩り〉の映画だから意味があるのだなどという意見には到底共感することはできません。
「おわりに」の冒頭に、著者は2025年11月16日にトム・クルーズがアカデミー名誉賞に輝いた際の受賞スピーチを抜粋・意訳したものを紹介しています。それは「映画は、私を世界中へと連れて行ってくれます。そして、お互いの違いを認め、尊重することを教えてくれるのです。同時に、私たちがどれほど多くの点で似ているのか、その人間性も示してくれる。どこから来た人であっても、映画館の中では一緒に笑い、一緒に感じ、一緒に希望を見出す。それこそが芸術の力なのです」という言葉です。この言葉に、わたしは猛烈に感動しました。「トム・クルーズは映画の神様だ!」と痛感しました。本書は、〈オッペンハイマー〉への評価は別として、わたしの知らないことがたくさん書かれており、大変勉強になりました。すべての映画を愛する日本人に読んでほしい名著です!