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No.2504 心理・自己啓発 『「数値化」中毒』 小塩真司著(PHP新書)
2026.10.06
『「数値化」中毒』小塩真司著(PHP新書)を読みました。「なぜ手段が目的に変わるのか」というサブタイトルがついています。著者は1972年、愛知県生まれ。名古屋大学教育学部卒業、同大学院教育学研究科教育心理学専攻修了。博士(教育心理学)。中部大学准教授などを経て、早稲田大学文学学術院教授。専門はパーソナリティ心理学、発達心理学。著書に『はじめて学ぶパーソナリティ心理学』(ミネルヴァ書房)、『性格を科学する心理学のはなし』(新曜社)、『性格がいい人、悪い人の科学』(日経プレミアシリーズ)、『性格とは何か―よりよく生きるための心理学』(中公新書)、『「性格が悪い」とはどういうことか―ダークサイドの心理学』(ちくま新書)などがあります。

本書の帯
本書の帯には、「数字で報告しては、思考停止の合言葉」と大書され、「日本にしかない『偏差値』」「KPIの落とし穴」「お店の★評価」「なんでも測る社会が誤った行動を生む」と書かれています。
本書の帯の裏
カバー前そでには「『未達』は許されない。だから数字は作られる」として、「偏差値、合否判定、GPA、KPI、『いいね』の数――私たちはいつの間に、数字に操縦される人生を生きるようになったのか。評価やランキングに追い立てられ、指標そのものを目的にしてしまう社会。数値は本来、判断を助ける道具にすぎない。しかしそれが人の価値を代弁し始めたとき、学びや仕事、人生は息苦しくなり歪み始める。身近な具体例と心理学の知見から、数字とどう付き合うべきかを問う」と書かれています。
アマゾンより
アマゾンの内容紹介には、こう書かれています。
「私たちは生まれた瞬間から、数字に測られて生きている。テストの点数、通知表、級や段。受験では偏差値が人生をふるいにかけ、大学ではGPAが将来を規定する。社会に出れば、売上、評価点、フォロワー数が人の価値を代弁するかのように振る舞う。数字は『客観的』『公正』という顔をして、私たちを静かに縛る。数字が可視化されると、比較は一瞬で行われる。私たちは無意識に他人と自分を並べ、優劣をつけ、自己価値を数値に委ねてしまう。教育や仕事の現場では、本来の目的よりも『数字を上げること』そのものが目的化する」
アマゾンより
続けて、アマゾンの内容紹介には「救急の4時間基準や大学ランキングが象徴するように、指標はいつの間にか意味を失う。さらに深刻なのは、動機づけである。評価や報酬といった外発的な数字が行動を支配し、『好き』『楽しい』『意味がある』という内側からの衝動が後景に退く。だが、学びや仕事は本来、点数や成果を示すためだけにあるのではない。生きることを豊かにするためにある。数字に支配される社会を疑え。指標を使いこなせ。そして、数字では測れない価値を、もう一度取り戻すのである」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 数字に振り回される人生
第2章 指標が目的化すると、その意味が失われる
第3章 数値が制度にも影響する
第4章 私たちはつい測定に執着してしまう
第5章 概念と測定、診断について考える
第6章 数字の呪縛を解くためには
「おわりに」
第1章「数字に振り回される人生」の「数字・数値・診断・判定・選抜」の冒頭を、著者は「現代の社会に生きる私たちは、『数字』『数値』『診断』『判定』『選抜』といった現象に追い立てられながら日々の生活を送っています」と書きだしています。「エビデンスを重視する社会」では、わたしたちは普段の生活の中で「数字で自分が評価される」ということにあまりにも慣れすぎていると指摘し、著者は「さらに、どのようなものであれ、数値化することが良いのだという考え方も広まっています。背景には、何かを決定する際に『エビデンス(証拠)』が求められることもあるでしょう」と述べています。
「数値化は息苦しい」では、数値化は「息苦しさ」を生み出すといいます。わたしたちは見えない部分があるから「諦める」ことができるとも言えるのかもしれないとして、著者は「数値によって可視化することの価値はあるとしても、どのような隠れた部分も可視化していくと、まるで自分の価値が数値で表現されるかのような錯覚に陥ってしまうのです。テストの点数や模擬試験の偏差値は、学力の一部を反映しているにすぎません。そこには、創造的な発想の豊かさや、他者への思いやりの心や、勉強以外の作業に熱中して取り組む姿勢は反映されません」と述べています。
SNSを頻繁に利用すると、他者の輝かしい側面を多く目にすることになります。FacebookでもInstagramでも、多くの人々が「素晴らしい自分の行動」「珍しいもの」「映える風景」を投稿します。著者は、「そのような投稿を目にすると、投稿しているキラキラした他者と、自分とをつい比較してしまうものです。そして結果的に落ち込み、抑うつ、自尊感情の低下といったネガティブな結果が生じてしまうという研究結果が報告されています。ほかにも、Facebookのような他者との比較を容易にするSNSを利用すると、妬みの感情を増幅させてしまうという研究結果もあります。オンラインであっても他人と比較する機会が増加すると、心理的な苦痛が増加してしまうのです」と述べるのでした。
第2章「指標が目的化すると、その意味が失われる」の「進捗を数値化すると起こること」では、KPIという言葉が取り上げられます。KPI(Key Performance Indicator)は「重要業績評価指標」とも呼ばれ、最終的な目標(こちらはKGI[Key Goal Indicator]と呼ばれます)の達成に向けて、進捗がどの程度か、成果がどの程度上がっているのかを測定するための指標のことです。最終目標に向けて進んでいく途中の、重要なプロセスに割り当てられる数値です。
「グッドハートの法則」では、イギリスの経済学者であり、金融政策の研究で有名なチャールズ・グッドハートが登場します。彼は、政府が経済指標を使って金融システムを管理しようとすると、人々がその指標の動きを予測して行動を変えるため、政策の効果が失われてしまう現象を指摘しました。この指標を一般化したものが「グッドハートの法則」です。これは、「ある指標が目標となると、それはもはや良い指標ではなくなる」という原理を指します。
グッドハートの法則はもともとは経済政策の文脈で提唱されました。しかし、その後、教育・行政・ビジネスなど、数値指標によって人々の行動が管理・評価されるあらゆる分野に適用できる普遍的な洞察として知られるようになりました。グッドハートによれば、ある「指標」が報酬や利益、評価と結びつけられると、人々はその指標を最大化すること自体に集中し、もともとの目的や価値を忘れてしまう傾向があるといいます。政策や制度が善意によって設計されていても、指標が目標に変化していくことで、人々の行動は「数値を上げる」方向に最適化されていくというのです。
この現象は経済の世界に限らず、どのような場面でも数値化された指標が目標になると、人々はその数値を「良く見せる」ための行動に最適化していくとして、著者は「指標が人々の行動を方向づけるとき、私たちはしばしば『目的』と『手段』を取り違えてしまいます。測定や数値化は、本来であれば現実をより正確に理解し、改善の手がかりを得るための有効な道具になります。しかし、指標そのものが評価や報酬の基準として機能しはじめると、道具が目的へと変化していき、人間の行動はその数値を守り、高める方向へと最適化されていくのです」と述べています。
「コブラ効果」では、グッドハートの法則と同じような現象を、別の角度から表現するものとして、「コブラ効果(Cobra Effect)」というものが紹介されます。毒蛇のコブラのことです。この言葉は、ドイツの経済学者ホルスト・ジーベルト(Horst Siebert)によって広まりました。政策や制度のインセンティブ(報酬)設計が誤っていると、人々がその仕組みを「逆手にとって」行動するようになり、意図した目的とはまったく逆の結果を生むことがあります。つまり、善意で設けられた仕組みが、かえって悪い結果を引き起こすことがあるのです。それが、コブラ効果です。
グッドハートの法則もコブラ効果も、単なる逸話ではありません。現代の社会にも、この構造は至る所に見られます。企業での営業ノルマ、学校でのテストの平均点、さまざまな組織で設定されるKPIなど、どれについても、数値を追ううちに本来の目的が見えなくなる危険性をはらんでいるのです。著者は、「だからこそ、私たちは『どんな数値に注目するか』よりも、『何のためにその数値に注目するのか』を問う必要があります。数値はあくまでも『目安』であり、『目的』ではないのです」と述べるのでした。
第3章「数値が制度にも影響する」の「キャンベルの法則」では、グッドハートの法則が、指標が目標となると指標の意味が失われるという、行動の変容を警告したのに対し、もう1つの重要な法則として「キャンベルの法則」が紹介されます。これは、測定がもたらす社会的な腐敗の問題を、より直接的に指摘したものです。アメリカの心理学者ドナルド・T・キャンベル(Donald T.Campbell)は、1976年に教育評価や社会制度の研究の中で、社会的決定に用いられる定量的指標が重要視されればされるほど、その指標は不正行為や歪んだ行動を引き起こし、社会的プロセスを腐敗させる傾向が強まることを指摘しました。著者は、「つまり、テストの点数、論文数、業績評価、犯罪検挙率など、本来は社会の改善のために導入された数値指標が、いつしか数値指標そのものが目的化され、組織や個人が『数値を良く見せる』ために動くようになってしまうということです」と説明します。
「グッドハートの法則とキャンベルの法則の比較」では、グッドハートの法則とキャンベルの法則は、ともに「測定が人間の行動を変える」という本質的な問題を指摘していることが紹介されます。グッドハートの法則は「測定が行動の目的化を引き起こす」現象を説明しており、キャンベルの法則は「測定が制度の腐敗を引き起こす」現象を説明しています。前者が人間の合理的適応の側面を、後者が社会における道徳的な側面の崩壊を、それぞれ捉えているのです。この2つの法則が同時に成り立つとき、社会は「測定依存主義」の悪循環に陥るとして、著者は「指標を設定すればするほど、指標を操作する行動が増えていき、結果として指標の信頼性が低下し、さらに新しく次の指標が導入されていきます。このような果てしない循環が生じてくるのです。いや、すでに多くの場面でこのような現象が生じているのです」と述べるのでした。
第4章「私たちはつい測定に執着してしまう」の冒頭を、著者は「グッドハートの法則やキャンベルの法則で表されるような現象が進展していくと、さらに測定された数値にとらわれてしまい、『測定されたものだけに価値がある』という価値観が社会の中に広がっていきます。測定された数値や指標が制度に影響するだけではなく、さらにはわたしたちの行動や思考そのものを支配するようになり、『測定された数値は良いもの』『見える数値が正しい』という考え方が『当然のもの』となる」といいます。
「偏差値が世の中を左右する」では、日本国内の大学の状況に目を向けると、偏差値が最も多くの人々の行動を左右し、日本社会全体の価値観として浸透していることが紹介されます。一種の「文化」ともなっているのが「偏差値(受験偏差値)」です。しかし、著者は「そもそも偏差値(Tスコアとも言います)という値は、統計的に得点分布の中で平均値からどれだけ離れているかを示す数値にすぎません。心理学や教育測定の分野では、あくまでも集団内での位置を理解するための『統計的指標』として用いられるものです。偏差値そのものには、『高い=良い』『低い=悪い』という価値判断は本来含まれていません。ところが、日本では一般的に、『偏差値』は『受験偏差値』を指すのが当然になっているのです」と述べています。
偏差値が進学指導や受験の判定に用いられるようになったのは、1950年代でした。その後、予備校や塾での偏差値の利用が広まり、そのうち受験生個人の集団内の位置を表現するだけでなく、偏差値が「受験をする学校・大学」に結びつけられ、あたかも学校・大学の評価であるかのように使われるようになったのです。著者は、「模擬試験と偏差値がなければ、受験生は自分の位置づけがわからず、やみくもに受験してしまうかもしれません。偏差値という数値を利用することは、教育を合理化し、受験の公平性を高めるという点では、一定の社会的意義をもちます。しかし、偏差値というひとつの数値だけが絶対的な社会的評価に結びつくことで、教育が本来目指すべき多様な価値が見えにくくなっているのも事実ではないでしょうか」と述べます。
「相互に引用される研究論文」では、Google Scholar(グーグル・スカラー)という、Google(グーグル)のサービスが紹介されます。これは、世界中の学術論文や研究資料を無料で検索できる、研究者や学生のための検索サービスです。通常のGoogle検索がニュースや一般のウェブページを対象としているのに対し、Google Scholarでは、学術誌の研究論文、大学の紀要論文、学会発表資料、博士論文、書籍の各章・項目など、学問的な信頼性の高い文献だけを対象にしています。著者名や論文タイトル、研究テーマなどを入力して検索できますし、検索結果から論文の全文や出版元へのリンクにアクセスできる場合もあります。
このように、Google Scholarは研究を進める上で、どのような研究が行われているかを把握するのにとても有用なサービスなのです。もちろん、通常のGoogle検索でも論文を探すことはできますが、研究以外の情報も多数含まれるため、的確に学術的文献を見つけたい場合にはGoogle Scholarがより適しているといいます。著者は、「このサービスでは、論文の検索だけでなく、論文に掲載されている引用文献・参考文献リストを情報源として、『どの研究論文がどの論文に引用されているのか』、そして『どの研究がどれだけ他の研究に影響を与えているのか』を知ることもできます。つまり、学問の世界の『つながり』を可視化する機能をもっているのです」と説明します。
Google Scholarは、もともとGoogleの検索技術の原点であった「引用関係による評価」という学術的な発想を、再び研究の世界に返したサービスだとも言えます。研究の成果をつなぐ引用のネットワークをたどることで、新しい発見の糸口を見つけることができるGoogle Scholarは、まさに「知の地図」を描くと言ってもよいようなツールなのです。Google Scholarがサービスを始めたのは2004年11月、日本語化は2006年からのようです。著者は、「このようなサービスが広まることで、研究を取り巻く世界も大きく変化してきました」と述べるのでした。
「『測りすぎ』社会」では、アメリカの歴史学者ジェリー・Z・ミュラー(Jerry Z.Muller)が、グッドハートの法則やキャンベルの法則など、指標の濫用がもたらす逆効果に関する古典的知見を踏まえた上で、現代社会における「測定の過剰信仰」に強く警鐘を鳴らしたことが紹介されます。著書『測りすぎ:なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(原題:The Tyranny of Metrics,2018)の中で彼は、定量的な測定指標がしばしば本来の目的を見失い、かえって制度や人々の行動を歪めてしまうと指摘しました。
ミュラーはこのような傾向を「測定執着(metric fixation)」と呼びました。それは、定量的な指標を専門家の判断や経験、あるいは文脈的な理解に代わる唯一で過度な評価手段と見なす心の状態や社会的な制度のことであり、「測定依存主義」とほぼ同義の概念です。ミュラーによれば、測定執着は3つの要素から成ります。第一に、本来は個人の経験や洞察、専門知識に基づいて下されるべき判断を、「測定可能な数値」に置き換えられると信じることです。第二に、測定された数値の公開と透明化によって、目的が自動的に達成できると信じることです。
第三に、人々を動機づけるためには、測定された数値に報酬や罰則を結びつけることが正しいという信念です。この信念は、経営管理や教育政策に深く浸透しています。営業成績をボーナスに直結させる企業の人事制度や、テストの点数で教員を評価する教育制度、あるいは「いいね」の数やフォロワー数で人気や価値を判断するSNS文化は、その典型例です。こうした仕組みでは、人々が「数値を良く見せること」に力を注ぎ、実質的な改善や学びの深まりが後回しにされてしまうといいます。著者は、「研究者が短期的な研究業績ばかりを追い求めることで、長期的な創造性が損なわれることは容易に想像できます。教育現場でも、テストの平均点が自治体ごとに比較されると、教師が『テスト対策』に集中してしまい、より本質的な教育上の活動がおろそかになる可能性が生じます」と述べるのでした。
第5章「概念と測定、診断について考える」の「性格を捉える」では、20世紀の終わり頃から21世紀にかけて、「ビッグ・ファイブ・パーソナリティ」という性格を捉える枠組みが、心理学の研究の中で広がってきたことが紹介されます。これは、外向性、神経症傾向、開放性、協調性、勤勉性という5つの特性(次元、傾向)で人間の性格全体を捉えようとする試みです。ビッグ・ファイブ・パーソナリティは、辞書から取り出された性格を表現する単語を、調査と統計的な方法によって抽出した結果、見出されてきたものです。外向性は活発さや積極性、社交性など、神経症傾向は落ち込みや不安、怒りの抱きやすさや感情的な不安定さ、開放性は好奇心の強さや新しい考え方を受け入れること、協調性はやさしく他者を優先すること、勤勉性は真面目で計画的、目標志向的な傾向を表現します。著者は、「この中で、特に勤勉性(誠実性とも呼ばれます)は、この数十年間で注目が集まってきた概念です」と説明します。
「原因と結果を混同しない」では、自動車を運転していて、アクセルを踏むとスピードメーターの数値が上がり、アクセルを離してブレーキを踏むとスピードメーターの数値は下がることが指摘されます。当たり前ですが、アクセルを踏むと実際にスピードが上がり、スピードメーターの数字も上昇します。では、アクセルを踏まずに、スピードメーターの数字だけを何かの方法で上昇させたらどうなるか。自動車の実際のスピードが上昇するかというと、そうではありません。いくらメーターを操作しても、実際の自動車のスピードは影響を受けないのです。現実の社会での測定や診断でも、これと同じような現象が生じるとして、著者は「テストの点数、売上高、業績評価、健康診断の数値、そしてランキング等々、これらはすべて『メーター』のようなものです。本来これらは、その背後にある『実際の状態』や『実際の変化』を知るための道具にすぎません。テストの点数は学力を示す指標であり、売上高は事業の健全性を推し量るひとつの目安です。しかし、しばしば人々は、その『メーターの数字』そのものを上げようとする行動に駆り立てられてしまいます」と述べます。
本来、測定値は「現実の変化を反映する結果」にすぎません。ところが、その結果を操作することで「原因」そのものを変えられると錯覚してしまうのです。これが、社会においてしばしば起こる混同だといいます。たとえば患者の健康状態を測る指標として血圧や体重がありますが、それを「下げること」自体が目的になると、本来の健康改善という目的が見失われます。著者は、「健康診断の数日間だけ気にかけて健康的に過ごしても、一時の数値の改善が生じるだけです。一時的な節制で数値を下げることはできても、日常的な生活習慣や体質が変わらなければ、根本的な改善にはつながらないのです」と述べます。
また、性格診断が「完璧な予測」をしてしまうのなら、わたしたちの自由は失われます。「あなたはこういう人です」と診断された瞬間に、それが「変わることのない運命」になってしまうのですから。そのとき、わたしたちは自らの選択や努力、偶然の出会いによって未来を変える力を手放してしまうことになります。完璧な予測とは自由の終焉でもあると指摘し、著者は「人間の行動や感情、思考がどれほど複雑で、状況に左右されやすいものであるかを、心理学はむしろ明らかにしてきました。科学は不確実さを消し去るための技術ではなく、不確実さを理解するための営みです。その不確実さがあるからこそ、私たちは変わることができるのです。未来が未確定だからこそ、努力や偶然、学びが意味をもつのです」と述べるのでした。
「予測できないところに意味がある」では、AIが行う予測は、統計的には正しいものであるのかもしれませんが、それは、「個人の可能性」や「変化の瞬間」まで見通しているわけではないといいます。たとえば、ある人がこれまでずっと内向的であっても、ある出会いや出来事をきっかけに人前で話すことが楽しくなるかもしれません。あるいは、不器用だった人がある日、誰かの言葉に励まされて努力を重ね、見違えるように成長することもあります。著者は、「もしAIが、あなたに『あなたはこういう人です』『10年後にはこうなります』と断言したとき、その言葉をどのように受け取るでしょうか。もしかすると、それが一種の“自己成就的予言”として作用し、自分でも気づかないうちに、AIの提示した未来像に合わせて行動してしまうかもしれません」と述べます。
著者は、AIの予測が「あなたの未来を当てる」のではなく、「あなたの未来を作ってしまう」といいます。AIの予測は、わたしたちの思考の助けにはなります。しかし、同時に、「自分の内側で考える力」や「わからなさに耐える力」を少しずつ奪っていく危うさも秘めています。AIが進化するほど、「予測の精度」は高まります。しかし、予測の精度が高まるほど、わたしたちの自由は小さくなるかもしれないとして、著者は「だからこそ、人間が手放してはならないのは、『誤差』や『揺らぎ』といった不確実な領域なのです。そこには、AIが扱えない偶然や創造、選択の自由が見えるのです」と述べています。
「決定論に陥らないために」では、人の成長や変化は、さまざまな予測不能な偶然と選択の積み重ねによって起こるものだということが指摘されます。そして逆説的ではありますが、このことは、近年注目を集めている性格や知能の「遺伝」の研究とも関係しているといいます。心理学や行動遺伝学の研究では、性格や知能といった特性がある程度の割合で遺伝的に影響を受けていることが明らかにされています。これはつまり、わたしたち一人ひとりが「生まれながらにもつ傾向(セットポイント)」を備えているということです。
たとえば、どのような状況で居心地よく感じられるか、どのような活動に没頭しやすいか、といったことにも遺伝的な影響はあるといいます。ただし、この「遺伝」は、親から子にそのまま伝わるものでもないということは覚えておくべきだともいいます。伝わるのはあくまでも遺伝子であり、同じ親から非常に多様な遺伝的なバリエーションをもつ子どもたちが生まれる可能性があるのです。著者は、「いずれにしても、人間の能力もスキルも性格も、なんであれ、遺伝から影響を受けます。けれども、それは『人間の行動や運命がすべて遺伝で決まっている』という決定論ではありません」と述べます。
このように見ていくと、「遺伝か環境か」という二分法はもはや成り立ちません。遺伝は環境によって開かれ、環境は遺伝によって意味づけられます。人の成長とは、その2つが織り合わされて生まれる、動的で一回性のプロセスです。したがって、そこには単純な予測は存在しません。どんなに精緻な遺伝情報を解析しても、どんなに詳細な環境データを収集しても、人の生き方や心の変化そのものを完全に見通すことはできません。わたしたちが生きているのは、遺伝と環境が交わる「今この瞬間」なのであり、その交わり方は、一人ひとりで異なると指摘し、著者は「未来は、その無数の相互作用の中から、予測不能な形で次第に見えてくるものです。だからこそ、人間には自由と可能性が残されているのです」と述べます。
重要なのは、「予測がある」ことと「決まっている」ことを混同しないことです。心理学的に言えば、わたしたちがもつ遺伝的な気質や過去の傾向は、行動の確率を高めるにすぎません。どんなに統計的に正確なモデルであっても、個人の選択や偶然の出会いをすべて説明することはできないのです。未来が完全に予測できてしまう世界は、わたしたちが自由に変化し、失敗し、学び、成長する余地を失った世界でもあるとして、著者は「だからこそ、AIの時代に必要なのは、『予測を使いこなす力』よりも『予測を超えて選択する力』なのではないでしょうか。遺伝もAIも、未来を描くための素材にすぎません。最終的にどのような道を歩むかを決めるのは、いつの時代も、私たち自身なのです。少なくとも、それを信じて生きていくことが大切なのかもしれません」と述べるのでした。
第6章「数字の呪縛を解くためには」の「さまざまなバイアスへの対処」では、
わたしたちは物事を判断するときに、多くの認知的なバイアスに基づいて行ってしまうことが、これまでの心理学の研究知見で指摘されているといいます。たとえば、いったん何かを信じてしまうと、自分の信念や仮説を支持する情報ばかりを集め、反する情報を無視したり軽視したりしてしまいます。これを「確証バイアス」と言います。就職希望者を面接するときに、応募者の第一印象が良いと、その人物の良いところを探し始めます。そして、好意的で回答しやすい質問を繰り返すことで、「やはりこの人物は素晴らしい」と感じてしまいます。
一方で第一印象が悪いと、それだけで質問が厳しいものになっていき、回答に窮する様子を見て「やはり能力がない」と判断してしまうことが生じます。最近見たニュースや印象的な出来事によって、判断を行う際に影響を受けてしまうこともよく生じます。これは「利用可能性ヒューリスティック」と言います。多くの情報があるときに、何か目立つ情報を目にすると、自動的に多くの別のことについても判断してしまうことがあります。これを「代表性ヒューリスティック」と言います。相手の職業について「大学教授」と聞くと、几帳面で真面目で、世界中のあらゆることに精通しているのだろうと自動的に推測してしまうかもしれません。ひとつの目立つ情報に引っ張られて、判断が大きく歪む場合があります。このようなステレオタイプ的な判断も、代表性ヒューリスティックのひとつの例です。
今の状態を変えることに対して何かしらのリスクを感じ、本当は変えたほうがよいにもかかわらず変えられないことを「現状維持バイアス」と言います。いったん契約したサブスクリプションサービス(オンラインドライブや動画配信サービスなど)について、オプションを見直したり解約したりすることをせず、つい更新し続けてしまうのも、このバイアスが影響しているからかもしれません。著者は、「これらの他にも、私たちの物事の判断には、多くの認知的なバイアスが影響を及ぼしています。これらは私たち人類が進化してきた中で獲得してきた『クセ』のようなものです」と述べています。
数値的な証拠(エビデンス)を用いることは、わたしたちのバイアスに満ちた判断を修正することにつながります。そして、世の中に「人間の判断の不確実さ」という知見が広まってくるにつれて、ますます証拠(エビデンス)が重視されるようになっていきます。どのようなことでも数値化して見えるようにする背景には、わたしたちの判断そのものに対する疑念も関係していると考えられます。しかし、本書と同じPHP新書から刊行された杉谷和哉著『エビデンスの罠』では、エビデンスという数字と物語に囚われない思考法が説かれています。
「数値が『道徳』にすり替わる」では、ビジネスにおいて売り上げが下がれば担当者の怠慢と見なされ、学校で平均点が下がれば教師の努力不足と断じられるといいます。数字という「結果」が、そのまま人間の「善悪」や「誠実さ」を示しているかのように錯覚してしまうのです。しかし、数字はそのまま道徳の証拠になるわけではないとして、著者は「数字がゆらぐ背景には、偶然も関与しますし、環境の変化、データの取り方、組織内の制度的要因など、さまざまな要素が絡み合っています。数値の異常や悪化は、必ずしも誰かの不誠実さや不正の有無を直接的に示すものではないのです」と述べます。
数字が不自然に見えたときに、わたしたちがまず意識すべきことは、それを「不正だ」と即断することではありません。必要なことは、「どのような仕組みや状況の中でその数字が生まれたのか」を丁寧に考え続けることだといいます。むしろ、制度や指標そのものが行動を歪ませている可能性もあるとして、著者は「数値の背景にある『構造的な要因』に目を向けることが、数字に振り回されない判断につながるのです」と訴えます。
「法則は過去の統計的事実」では、わたしたちは「未来を知りたい」という欲求を強くもっているといいます。受験の合否、就職の可能性、転職の成功率、恋愛の相性、寿命の予測など、こういった問いはすべて、「未来をあらかじめ知りたい」という願望に根ざしています。AIによる個人予測の進展は、この願望を現実のものにしつつあるように見えます。そして、未来を予測しているように見える科学的な研究知見を知ると、それは「自分の将来が確実なものになるかもしれない」という希望につながります。しかし、著者は「その確率的な未来予測というのは、あなたにとって確実なものであるとは限らないのです。どこまで行っても不確実さから逃れることはできないのです。ですから私たちは、不確実さを受け入れる必要があるのではないでしょうか」と述べています。
「多層的な自己理解の回復」では、わたしたちは「今、ここ」に生きているのであり、過去の法則の中に生きているわけではないといいます。アメリカのパーソナリティ心理学者マクアダムス(McAdams,D.P.)は、人のパーソナリティを「3つの層」から捉える枠組みを提唱しています。
1.傾向的特性(レベル1)――ビッグ・ファイブ・パーソナリティのように、安定した特性として集団の中での位置を示す。
2.特有の適応(レベル2)――その人が直面する状況の中での目標、価値観、動機づけを示す。何を大切にし、どんな方向を目指しているのかを理解する。
3.ライフストーリー(レベル3)――人生の出来事を自らの言葉でつなぎ合わせ、意味を与える「物語」として自己を理解する。
性格診断やAIによる分析が示すのは、主としてレベル1の情報にとどまります。そこでは、わたしたちの性格はあたかも「固定された数値」として描かれ、変化や成長の余地が見えにくくなります。しかし、本当の意味での自分自身の理解は、レベル2とレベル3の部分にあるといいます。それは、価値観をどのように考え、自分自身の物語をどのように描くのかということ。わたしたちは「今何を大切にしているのか」「どんな経験が自分を形作ってきたのか」「これからどう生きていきたいのか」という問いを通じて、自分自身を再解釈し続ける存在だといいます。そして、自分の人生を「物語として語る」中で、新たな自分自身に気づく可能性も生まれてくるとして、著者は「物語というのは、固定された過去を語るものではなく、今の自分自身が過去を作り替えて、未来を創り出すような行為だと言えるのです」と述べるのでした。
「究極的なアウトカム」では、人生にとって、何が究極の結果(アウトカム)になるのかという問いが発せられます。これは、“究極の問い”とも言えるものなのかもしれないといいます。1つの考え方として、著者個人としては、「死ぬ間際になって、『ああ、いい人生だったな』と思えること」ではないかと感じているそうです。著者は、「そこまでに、どのような経験を積み重ねるのかはわかりません。また、苦境もあるでしょうし、楽しい経験もすることでしょう。その時々で選択肢に悩み、『これでよかったのだろうか』と後悔することもあるでしょう。その上で、人生全体を眺めたときに、自分の人生から自分自身の物語を思い描き、『これでよかった』と思えることが、究極の自分のあるべき結果(アウトカム)ではないのかな、と思うようになってきたのです」と述べます。
「集団を見る立場から」では、集団の最適化を目指すことで、個人の幸福が犠牲になることがあると指摘されます。もちろん、社会の安定や制度の持続可能性は重要であり、集団の視点をなくすことはできません。とはいえ、やはり、その中で生きている人々は「集団のため」だけに生きているのではなく、「自分のため」にも「身近な人々のため」にも生きているといいます。著者は、「今、目指している『良い結果』が誰にとっての『良さ』なのかを考え続けることは、私たちにとって非常に大切なことです」と述べています。
「まとめ――数字の向こうにあるもの」では、わたしたちの社会は「測る」ことに支えられながらも、同時に「測りすぎ」によって苦しんでいる社会でもあります。測定や数値、そして統計的な法則は、現実を理解する上で欠かせない道具です。しかし、それを使う私たちの意識のあり方によっては、数値が現実を歪め、幸福を遠ざけることにもなりかねません。著者は、これから注意すべきポイントを6つ挙げています。
1.測定は「道具」であり「目的」ではない
2.測ることができないことの価値を忘れない
3.集団の最適化と個人の幸福を混同しない
4.予測は未来を保証しない
5.多層的な自己理解を取り戻す
6.不完全な道具と賢く付き合う
「おわりに」では、20世紀の初頭にフランスで開発された知能検査が取り上げられます。当時、義務教育が普及する中で、授業についていくことが困難な子どもたちの存在が問題になっていました。その中で開発された検査が、知能検査だったのです。学校に通う前に子どもたちを検査し(検査士がフランス中に派遣されたそうです)、問題がある子を見つけ出す――スクリーニング検査として開発されたのでした。フランスでは、遅れに対応する特別支援学級も整備されていきました。
しかしこの検査が普及していくにつれて、特にアメリカ合衆国での扱いが典型的ですが、知能検査は「賢さ」を表す検査だと見なされるようになったのです。著者は、「私たちは何度も同じことを繰り返してしまいます。今後、AIによる何かの判定が進んでも、多分それを知能検査と同じように使ってしまうのです。それが、私たちが逃れることのできない『測りすぎの病』なのです」と述べるのでした。本書の内容は非常に説得力があり、またわたしの考えとも大きく合致しました。わたしは本書を何冊も購入し、わが社の役員や友人に配りました。すべてのビジネスパーソンが読むべき名著だと思います。
