No.2505 国家・政治 『エビデンスの罠』 杉谷和哉著(PHP新書)

2026.10.07

『エビデンスの罠』杉谷和哉著(PHP新書)を読みました。「数字と物語に囚われない思考法」というサブタイトルがついています。著者は、岩手県立大学総合政策学部准教授。専門は公共政策学。1990年大阪府生まれ。京都府立大学公共政策学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。京都文教大学非常勤講師などを経て現職。著書に『政策にエビデンスは必要なのか』(ミネルヴァ書房)、『日本の政策はなぜ機能しないのか?』(光文社新書)など。

本書の帯

本書の帯には「『嘘のデータ』と『よくできたストーリー』は世界をどう変えているのか」と書かれています。また「推薦」として、「佐伯啓思氏(京都大学名誉教授)『データ万能の時代に賢く生きるための必読書』」「三宅香帆氏(文芸評論家)『数字と物語、どちらにも危うさがあると教えてくれるのが、杉谷さんの知性なのだろう』」とあります。

本書の帯の裏

帯の裏には「フェイクニュースの時代、私たちは何を信じるべきか?」として、以下の項目が並んでいます。
■ある学生寮の思い出
■エビデンスの歴史
■エビデンスの歴史
■企業におけるエビデンス――科学的管理法とKPI
■監査という儀式
■外国人問題におけるグラフの恣意的な読み違え
■誰が言っているかが重要?——―徳認識論
■党派性から離れることは難しい


アマゾンより

カバー前そでには「エビデンスや物語との賢い付き合い方を考える」として、「業績評価から政策まで、あらゆる局面でエビデンス(確かな根拠、特に数値やデータ)が求められる時代。しかしデータには恣意的な解釈や嘘がつきもの。ならば数字に表れない物語を重視すべきなのか? だがよくできたストーリーが人心を惑わすこともある。気鋭の公共政策学者が、数値によるマネジメントの歴史や陰謀論の問題などを取り上げ、『賢慮』を行う道を探る」と書かれています。

アマゾンより

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
「エビデンスを使いこなすために」
第1章 エビデンスvs物語
第2章 エビデンスの歴史
第3章 企業におけるエビデンス―科学的管理法とKPI
第4章 なぜ数字は信頼できないのか
第5章 フェイク時代のエビデンスとナラティヴ
 終章 エビデンスとの賢い付き合い方
    ――フェイクの時代に何を信じるべきか?
「おわりに」
「脚注」
「参考文献」

「はじめに」の冒頭を、著者は「『エビデンス』という言葉が世間を飛び交うようになって久しい。ありとあらゆる局面で、『それはエビデンスがあるんですか?』といった、『煽り』のような文言を見かけないだろうか」と書きだしています。語源を踏まえるならば、「evidence」とは、一目見れば誰の目にも明らかな情報を指しているといいます。語源に可能な限り忠実になれば、エビデンスはいわば、誰もが同意できる、議論の余地がない明白なものなのです。

わたしたちがよく目にするのは、「エビデンス」が数値やデータを指している用法でしょう。ビッグデータが利活用可能になった現代では、さまざまな統計情報が世に溢れています。これらを分析すれば、現代のトレンドから望ましい解決策が明らかになることもあります。また、統計をはじめとした数字が示すデータによる実態の把握は、わたしたちの実感とは異なることがしばしばあるとして、著者は「多くの人がこうだ、と思っている事態は、実はSNSで一部の人が盛り上がっているだけだという話も、ありがちなことだろう。『それってあなたの感想ですよね?』というフレーズが広まったのには、それなりの理由がある」と述べています。

エビデンスが正しい社会認識を助けるならば、適切な問題解決につなげることもできます。公共政策の分野においては、エビデンスを活用する志向が世界的に強まっており、日本でも有効な政策立案を実現すべく、EBPM(Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成)の動きが加速しているといいます。日本におけるEBPMは、2016~2018年ごろに本格化しました。2022年12月21日、当時の総理大臣である岸田文雄首相が、「行政事業レビュー」という取り組みにおいて、EBPMの手法を取り入れることを明言しました。

「エビデンスを使いこなすために」では、エビデンスの隆盛に対して、その向こうを張る議論も近年では増加していると紹介されます。現代思想の研究者で、現象学やフィールドワークなど幅広いアプローチを駆使することで知られている論者、村上靖彦による『客観性の落とし穴』(筑摩書房)は、「アンチ・エビデンス」の議論の典型の1つだといいます。数値化がもたらす競争、数値化によって蔑ろにされる個々人の人生の豊かな経験・・・・・・これらを列挙した村上は、エビデンスに振り回される現代社会を批判し、数字に囚われる愚かさを説き、統計で全てを判断することには限界があると論じます。著者は、「村上の論述は明快で、『客観性の落とし穴』は幅広い読者を得たようである。数字に振り回され、それに辟易している現代人がいかに多いかが、このことからもわかる」と述べます。

第1章「エビデンスvs物語」の「『客観性の落とし穴』によるエビデンスへの疑義」では、著者は「一人ひとりのかけがえのない経験――これを尊重する社会のありようのほうが望ましいのではないか」と問いかけ、このような問題提起をした書籍として、現象学を専門とする村上靖彦の『客観性の落とし穴』(筑摩書房)が挙げられるといいます。村上によれば、エビデンスを重視する社会がもたらすのは、個々人の経験の軽視です。数字で人々の活動や行動を測る時、必然的に人々の序列化が生じます。その序列は大抵の場合、「生産性」や「どれだけお金を稼いだか」で決められます。この発想が行きつく先は、「役に立たない」とされる人々を抹殺することを肯定する「優生思想」にほかなりません。

エビデンスを妄信する社会の行き着く先をこのように描き出したうえで村上は、人々が能力主義に縛られ、競争を強いられている社会のありようを批判します。そして、数字への盲従ではなく、人々の経験や語りを重視することで、「一人ひとりの顔と声から出発して社会を作る」べきだと論じ、それをモデルにした制度を目指すべき姿として提示するのです。著者は、「この事例として村上が着目するのが、相互扶助を基盤としたケアが存在している、大阪の西成に代表されるようなコミュニティである」と述べています。

「『エビデンス社会』への不安」では、一般的に言って、政策評価において基準とされるのは、「効率性」であったり、「有効性」であったりすることが多いといいます。前者は、いわゆる「コスパ」に該当するもので、投入した資源と、得られた成果の比率を通じて算出されます。投入されたコストが少なく、得られた成果が大きいのであれば、その政策は高く評価されます。これに対して後者は、その政策にどれだけ効果があったのかに着目します。今日流行しているEBPMは、この「有効性」に主として着目し、政策の改善を図らんとしているのといいます。

政策の基準として一般的に用いられる概念は、個々人の経験よりも、広く全体的な傾向をつかむための情報になりがちです。公共政策が、広く多くの人々に提供されるものである以上、こういった情報に立脚して進めざるを得ない面があるのですが、政策分野によってはそうした情報だけでは適切な対処ができないケースがあることにも注意が必要だとして、著者は「たとえば、障害者福祉政策がそうした事例に当てはまる。障害者と一口に言っても、その実態は人によって多様である。この場合、十把一絡げに結果や成果を数値化するようなマネジメントはうまくいかない可能性が高い。それこそ、抽象的な数字やデータではうまく把握できない実態があり、それらを捨象して対応することは、かえって問題を悪化させることにつながる」と述べます。

「民主主義の機能不全とエビデンスへの期待」では、エビデンスに依拠することで、不安定な政治に振り回されない政策形成システムを作り出せないかとする発想は珍しくないといいます。そもそも、古代ギリシャ以来、民主主義は不満足な結果をもたらすものとして警戒され、論難の対象となってきました。民意に従っていると、愚劣なリーダーが選出されることがありますし、誤った決断が下されることもあります。分断が深まり、ポピュリズムや排外主義が多くの民主主義国に広まる今日において、この問題はより一層、大きな課題として我々に立ちはだかっているとして、著者は「民主主義の機能不全は、私たちの生存すら脅かしている。その最たるものの1つが気候変動問題である。日本でも近年、異常気象問題が深刻化している。夏の気温はますます上がり、災害は激甚化している。地球環境は悪化の一途をたどっており、脱炭素の動きを一刻も早く進めなければ、取り返しのつかない事態がますます深刻化するに違いない。にもかかわらず、民主主義国家における脱炭素の方向には暗雲が立ち込めている」と述べるのでした。

第3章「企業におけるエビデンス――科学的管理法とKPI」の「『数値化の鬼』とドラッカー」では、KPIという指標が取り上げられます。KPIとは「重要業績評価指標」などと訳される概念ですが、安藤広大氏は著『数値化の鬼』(ダイヤモンド社)の中で「目標を達成するための数値化された指標」と定義しています。KPIの概念もいささか曖昧な部分があり、定義に微妙な違いが見受けられるようです。別の書籍では、「ビジネスの状況を把握し、打ち手の判断をするための計測データ」とされており、論者や用いられる分野によってニュアンスが異なっているといいます。

「『監査社会』――監査の仕事が爆発的に増えた」では、数字による企業マネジメントが浸透してくると、その事態について別の角度から議論しようとする試みが現れたことが紹介されます。代表的な議論の1つが、異端の会計学者、マイケル・パワーによる『監査社会:検証の儀式化』(邦訳は東洋経済新報社)です。同書においてパワーは、「監査の爆発的拡張」(audit explosion)が見られ、ありとあらゆるところで監査の導入されている実態を指摘しました。

そもそも監査とは何でしょうか。監査の起源についてはいくつか議論がありますが、代表的なものとして挙げられるのが、「所有者」と「管理職」が同一でない組織、すなわち「株式会社」の誕生に合わせて生じたとの見解です。出資者に対して、会社の経営が問題なく行われているかを問う必要が生まれ、そこで重宝されたのが、監査でした。会社の所有者に不利益を与えるような財務の流れが行われていないかどうかなどのチェックの需要が高まったのです。

パワーは、監査が多くの領域に浸透していくことで生じる現象を「ディカップリング」(decoupling)と「コロナイゼーション」(colonization)というキーワードを用いて説明しています。ディカップリングとは、英語で「分離」や「切り離し」を意味します。監査社会においては、監査システムと組織の活動が切り離されます。そして、監査プロセスを管理する部署が組織内に明確に創設される兆候が表れるのです。著者は、「外部監査は基本的に、組織に対して大きなプレッシャーを与え、組織の活動を時には大きく揺るがす。組織はそうした外部監査の脅威から自分たちを守るために、監査プロセスを管理する部署を作る。しかし、この部署の目的は適切な監査を通じて組織を正しいものにすることにあるのではなく、外部からやってくる監査のプロセスを管理し、はっきり言えばそれをうまく切り抜けることにある」と説明します。

したがって、ディカップリング下で生まれた「緩衝材」としての部署は、組織の実質的な改善に資することはありません。単に組織が自らの正当性を主張するための、言うなればアリバイ作り的な作業に終始するからです。パワーはこれを「合理化された監査の儀式」と呼びました。達成すべきとされていた内実が伴っておらずとも、とりあえず外形的には「やった」という事実があればそれでよしとしてしまうというのです。著者は、「外部からの統制によって組織のありようを律し、不正を防ぐために設計された監査という営みが、結局は自分たちの身を守るためだけに用いられてしまう。このような構図は政策評価をはじめとして多くの領域で見られる」と述べます。わたしは互助会保障株式会社の社外監査役を務めているのですが、「儀式としての監査」という考えには納得できる部分がありました。

『監査社会』は多くの反響を呼びました。有名なものの1つが、『監査文化の人類学』(水声社)という論文集です。この本は、人類学者マリリン・ストーンらが中心となった論文集であり、執筆者ら自身の経験をもとに、監査が浸透した領域における実践が生々しく描かれているとか。著者は、「意外なことに、この論文集の著者らは、監査という営為を批判的に眺めつつも、それを全否定することはしていない。ここにそこの本の魅力があるのだが、いずれにしても、『監査の爆発的拡張』が広まった実態を知るうえで格好の著作と言える」と述べます。このような進展や展開は、人類学者のデビッド・グレーバーの言う「ブルシット・ジョブ(無意味な仕事)」とも関連しているといいます。

ブルシット・ジョブは無意味であるだけでなく、その存在は有害さをももたらします。行政学者の役重眞喜子は、自治体職員のマネジメントが危機的な状況にあると論じ、その背景に「ブルシット・ジョブ」があると指摘しています。役重は、自治体職員が縛られている「規範」と現実のズレが、「できないことをできたことにする」という「欺瞞」につながると論じます。こうした欺瞞を取り繕うために、大量の書類仕事が生まれるというわけです。著者は、「自治体における『ブルシット・ジョブ』の構造は、儀式化した監査のありようを描く『監査社会』とも大いに関係していると見てよいだろう。数十年前に提示された『監査社会』のレンズは、今なお曇ってはいないようである」と述べています。

「監査という儀式」では、「監査社会」は科学的管理法を背景に生まれた我々の社会の1つの症状だと言ってよいと述べます。監査そのものが「儀式化」してしまう現代は、誰もが「アカウンタビリティ」を求めているポーズをとっているだけで、それを実際には求めていない時代だとも言えるわけです。求める側も求められる側も儀式の一環として行っているだけで、そこで示されている数字には、本当のところはさほど興味はないし、それを正確な意味で理解しているわけでもないといいます。ここで著者は、「この点に関しては本物の『儀式』を思い浮かべたほうがわかりやすいだろう。『地鎮祭』という儀式がある」と述べるのでした。

地鎮祭は、土木工事や建築工事に着工する前に行われるもので、工事の安全を祈願するものです。仏教に基づく仏式と、神道に基づく神式があり、ここではよりメジャーとされる神式に基づいて解説しています。「地鎮祭」の特徴的な3つの行事として、「祓の行事」、「起工の行事」、「供物の行事」があります。「祓の行事」では、半紙と麻で切って作った「切麻」などを用いて土地を祓い清めます。「起工の行事」は、施主・施工主が草を刈って地面を掘り、神に工事の開始を奉告するものです。「供物の行事」は、神霊を鎮めるために鎮物の品を捧げるものです。

地鎮祭を行わなかった時に、工事で事故が起きたり、建てた建物が大きな災害に見舞われたりしたら、「地鎮祭を行わなかったからだ」と思う人もいるでしょう。襲うのは大きな後悔です。しかし、地鎮祭とこれらの事故の間に、実際に因果関係があると考える人はほとんどいないでしょう。それでもなお、我々はこの後悔や不安を嫌って儀式に取り組むとして、著者は「たとえ、災害が起きたとしても、『地鎮祭をやっていたからこの程度で済んだ』と思える。こういった心理的負担を軽減する観点から言えば、儀式は確かに合理的なのだ」と述べています。

そして、こうした構図は、儀式化した監査にもおおむね当てはまるといいます。著者は、「並べ立てられている数字について、それに実質的な意味があるのか、それがどういった意図で配置されているのかといった点はさして重要ではない。もちろん、これらの数字の意味や意義を理解しているに越したことはないのだが、実際には何かしらの問題が生じたり、外部から説明を求められたりする時に、数字を示すことができれば、それでいいのである」と述べるのでした。この地鎮祭を例に出して監査の本質を明かした点は画期的だと思いました。著者のセンスの良さを感じました。

第4章「なぜ数字は信用できないのか」の「『測りすぎ』――数字によるトリック」では、数値や指標を用いたマネジメントは、わたしたちの社会を飛躍的に進歩させたことが指摘されます。しかし、それは同時にさまざまな問題も引き起こしているといいます。こうした事態を活写した著作も枚挙に暇がないほどですが、中でも有名な一冊は、『資本主義の思想史』(邦訳は東洋経済新報社より刊行)の著者であり、ヨーロッパ知性史を専門とするジェリー・Z・ミュラーによる『測りすぎ』(原題はThe Tyranny of Metrics、邦訳は『測りすぎ:なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(みすず書房)です。

第5章「フェイク時代のエビデンスとナラティヴ」の「『エビデンス嫌い』――陰謀論を信じる人との対話」では、哲学者であり作家のリー・マッキンタイアの著書『エビデンスを嫌う人たち』(国書刊行会)が紹介されます。同書は、陰謀論を信じる人たちと著者(マッキンタイア)が実際にやり取りを重ねるさまや、そこで生じるさまざまな不条理を活写した異色の本です。著者は、「マッキンタイアの本には、地球平面説を信じていたり、新型コロナ感染症が陰謀であると考えていたりする人々が登場する。この人々は、科学的に立証されているはずの気候変動に対して疑義を呈し、その対策に否定的な政治家を支持している。そして、気候変動は一部の利害関係者らによって仕組まれた壮大な茶番であるとし、自分の都合の良いエビデンスをチェリーピッキング(数ある選択肢の中から自分に都合の良いものだけを選び取る行為)し、自説を主張する『専門家』をスターのように扱う」と述べています。

このような論者らとの間に、どのような対話が可能なのでしょうか。マッキンタイアは否定論者らと粘り強く対話を続けた上で、相手の主張に「共感」を示し、「敬意」を払った上で「傾聴」する姿勢が必要だとしています。相手の主張を頭ごなしに否定しても、相手が態度を変えるとは考えられません。そうではなく、相手の主張に対して一定の共感を示し、社会について考える姿勢に敬意を表し、その主張に耳を傾けることによって、相手の心を開かせることができるのだというのが、マッキンタイアの結論なのです。著者は、「マッキンタイアはこのように、陰謀論者らとも根気強く対話を続ける必要があると説く」と述べています。

「誰が言っているかが重要?――徳認識論」では、近年の哲学分野では「徳認識論」と呼ばれる立場の研究が進んでいることが紹介されます。徳認識論について端的に言えば、知識を形成する主体に関して、その「徳」に注目する理論です。ここで言う「徳(知的徳)とは、「開かれた心」、「正直さ」、「知的な謙虚さ」、「忍耐力」、「知的自律性」などであり、これらを備えている主体が形成する「信念」は、たとえば「知識」と呼ぶに値するような、信頼のおけるものだと考えるのが徳認識論の基本的な立場です。これらを備えていない主体が唱える「信念」は、たとえどれだけ大層な肩書があったとしても、社会において尊敬されるべき優れた「知識」とは呼べないのです。

この観点に立脚すれば、ある特定のアクターの発言が正しいかどうかは、その発言者に「徳」があるか否かで判断すべきであり、たとえその発言の内容が正しく見えても、全面的に受け入れるべきではないという話になります。徳認識論は「徳」という観点を持ち込むことで、誰を信じるべきかという古典的なテーマに新たな形で挑んでいるのです。しかし、徳認識論の努力にもかかわらず、現実に目を向ければ、多くの人々は、発言している主体の肩書を見て発言を聞いています。たとえば、あまり名の知られていない大学の教授よりも、東京大学教授やハーバード大学教授の発言の方が重く受け入れられるでしょう。

こうした肩書は、その持ち主がいわゆる認知的な「徳」を備えていることの証明だと思われがちですが、実際には高名な大学の教授や名誉教授であったとしても、自身の専門分野を逸脱した事象について意見を開陳したり、最新の研究を踏まえていなかったり、自説に反するエビデンスを意図的に無視していたりします。こうした場合、その主体が認識的徳を有しているとは言い難い。よって、その主体が展開する主張を信頼するにあたっては留保が必要であるとして、著者は「裏返せば、陰謀論者たちは知識人や専門家を批判しがちではあるが、自分たちの知見を支持する論者に対しては疑いの目を向けることなく、全面的な支持を与えているという構図を指摘できる。この非対称性もまた、陰謀論が抱える問題の1つだと言えるだろう」と述べます。

「政策とは一種のナラティヴ?」では、政策そのものがある種のストーリーラインを有したナラティヴであると見る立場すらあることが紹介されます。著者は、「単純化して言えば政策とは、ある特定の問題を解決するための手立てを指している。政策形成にあたっては、客観的なデータや根拠、政策の因果関係である『エビデンス』を活用した分析が必要とされているが、それを社会において実装する際に必要になるのがナラティヴである」と述べます。たとえば、富裕層への減税が、結果として経済全体を改善させ、富裕層でない社会層の人々も潤うという発想があります。「トリクルダウン理論」として知られるこの理屈は、シャンパンタワーに喩えられ、上のグラスに水を注げば、下に置いてあるグラスにも行き渡るというあらすじで描かれます。

終章「エビデンスとの賢い付き合い方――フェイクの時代に何を信じるべきか?」の「エビデンスを示しても、万人が同じ結論に至るわけではない」では、数字そのものは客観的で、動かしようがないものに見えるといいます。しかし、そもそもの集計の仕方に悪意があったり、数字の解釈が偏っていたりする場合も少なくありません。数字があるからといって、万人が同じ結論に至るのは、ありえない想定なのです。そもそも、政治的な価値観はエビデンスに基づいていなくともよいのです。著者は、「もちろん、個々の政策論や方針、価値観を支える要素については、正確な情報が求められるし、それをめぐる議論があってしかるべきだろう。だが、政治的な判断は、必ずしもエビデンスに基づいて行われるわけではない」と述べます。

要するに、「自分と同じ情報を得れば、自分と同じような立場にみんななるハズだ」というのは、根拠のない思い上がりなのです。そうした思い上がりを前提に、「お前は金をもらっているのか」などと言うのは、他者や社会に対する理解を欠いた態度であるといいます。著者は、「エビデンスを用いることはもちろん大事なのだが、その濫用は、このような態度を助長しかねず、かえって問題の解決から遠ざかると言わざるを得ない」と述べています。

「『善く生きる』とは何か」では、著者が岩手に赴任して間もなくの頃、ある震災関係の施設を訪れたことがあったそうです。そこには、被災された人々のさまざまな語りが紹介されていました。いずれも壮絶な体験で、筆者の胸を打ったそうですが、とりわけ印象に残ったのが大要、次のようなものでした。曰く、震災による津波で、家や財産など、形のあるものは全てなくなってしまった。けれども、人と人との関係、人の優しさといった、形のないものは残った。今後は、このような形のないものを大切にできる、善い生き方をしたい、と。

「本書のまとめ」では、著者は「エビデンスの罠が張り巡らされている、フェイクニュースの時代において結局、我々は何を信じればよいのだろうか?」と読者に問いかけます。エビデンスを用いる際に注意点について、著者は自身の経験も踏まえた上でのチェックリストを以下のように提示します。
1.数字・データを使うことを目的にしない
2.指標が人の行動を変えることを理解する
3.過剰な「アウトカム」志向を避ける
4.データがない場合もあると認識する
5.それでもな、数字を使うのは大事である

「おわりに」では、技術革新、新たなテーマを前に「全てが変わる」と色めく人々、けれども実際にやってみるとうまくいかなくて・・・・・・という話は、古今東西繰り返されてきた事象だと述べます。そうした過去の期待の積み重ねの果てに今があるのならば、我々は現代の熱狂に浮かされるだけでなく、これまでの取り組みの成功と失敗から学んだうえで物事を考えていく必要があるとして、著者は「もちろん、技術の進歩をひたすら毛嫌いし、冷笑する態度もまた危険である。新しい技術や発想に対する批判は当然必要だが、それが空回りすることもしばしばある。ここにおいても必要なのはやはりバランスなのだが、それをうまくとるのは容易ではない。本書は、そのバランスをとる一環として記された本である。結論はいささか凡庸に映るかもしれないが、極端な立証ばかりが耳目を集める現代にあっては、必要な立場であるに違いないと筆者は確信している」と述べるのでした。本書を読んで初めて知ったことは多かったですが、「儀式としての監査」の考え方は大きな収穫でした。