No.0047 芸術・芸能・映画 『澁澤龍彦 映画論集成』 澁澤龍彦著(河出文庫)

2010.04.16

澁澤龍彦 映画論集成』澁澤龍彦著(河出文庫)を読みました。

「趣味」と「思想」が溶け合った映画論

わたしは映画論の類が好きです。これまでたくさん読んできましたが、本書はとにかく面白かったです。

まず、わたしの趣味と完全に一致している。というより、わたしが澁澤の影響を受けているだけかもしれませんが。(笑)

澁澤は徹底的に自分が興味のある話しかしません。映画史全体に対する目配りなど一切しないのですが、それでいて映画というメディアの本質を暴き出し、自身の思想をも語ります。

本書の「解説」で、この澁澤に離れ業について評論家の川本三郎氏も次のように書いています。

「澁澤龍彦は徹頭徹尾、趣味の人である。自分の好きな世界にしか興味を示さない。ただ好みの小宇宙に入り込む。あまりに徹底しているのでついには趣味が強固な思想になってゆく。『趣味』と『思想』という本来、相容れない二つのものが澁澤龍彦のなかでは自然に無理なく溶け合う。」

冒頭に、いきなり「恐怖映画の誘い」というエッセイが出てきて、わたしを狂喜させてくれます。わたしは恐怖映画が三度の飯より好きなのです。

澁澤は、恐怖映画を大きく3つのジャンルに類別します。

第1は、心理主義ないしサスペンス・ドラマ。
第2は、グラン・ギニョルないしショック映画。
第3は、怪人ないし怪物映画(SF映画をふくむ)。

そして、澁澤は次のように書いています。

「そもそも出発当時から、映画は物語であり、同時に見世物であったから、幻想映画あるいは恐怖映画と呼ばれる種類のそれもまた、当然、古来の怪談あるいは幻想文学のすべてのモティーフを利用すると同時に、さらにスペクタクルの要素、つまり、多かれ少なかれ血みどろのグラン・ギニョル趣味を利用せざるを得なかった。したがって、もし恐怖映画をモティーフ別の観点からのみ分類するとすれば、それは昔からよく行われてきた怪奇小説の分類法と、ほとんど変わらない結果を示すことになるであろう。」

第1は、ヒッチコックの「サイコ」とか「白い恐怖」などの諸作品、あるいは「何がジェーンに起こったか」や「回転」などが代表的です。
第2は、アンリ・クルーゾーの「悪魔のような女」とジョルジェ・フランジュの「顔のない眼」を筆頭に、「生血を吸う女」「骸骨面」「ギロチンの二人」などの作品ですね。

グラン・ギニョルというのは、19世紀末のパリの浅草みたいなモンマルトルに創立された恐怖芝居の小屋です。日本でいえば因果物めかした鶴屋南北とか、血みどろの無残絵で知られる月岡芳年などのテイストです。

第3の分類に属する怪物映画で主演を演じた俳優たち、すなわち、ロン・チャニー、ボリス・カーロフ、ベラ・ルゴシ、ピーター・ローレ、クリストファー・リー、ピーター・カッシングなどの著名な怪奇映画スターたちに澁澤は限りない賞賛を贈ります。

そして、彼らが演じたフランケンシュタイン博士、フランケンシュタインのモンスター、ドラキュラ伯爵、ヴァン・ヘルシング教授、あるいはジキル博士とハイド氏、カリガリ博士などの怪人たちへの共感を語ります。

わたしは昨年、『よくわかる「世界の怪人」事典』(廣済堂文庫)を監修しましたが、怪人というテーマには心惹かれるものがあります。

前代未聞の怪人カタログ

さて、『澁澤龍彦 映画論集成』の中でも「ドラキュラはなぜこわい? 恐怖についての試論」というエッセイが特に秀逸です。

冒頭で、いきなり澁澤はこう述べます。

「あえて極言するならば、文化も宗教も、狂気も夢も、すべて人間の不安の投影でしかなく、恐怖による虚無からの創造物だと称することができよう。恐怖こそ、すべての人間の上部構造の原因なのである。」

わたしは、人間が言語の習得とともに抱えてしまった「死の恐怖」こそが宗教も芸術も哲学も生んだのだと日頃から言っていますので、澁澤説には大いに共感しました。

シネマトグラフィー(映画)は、誕生したとき、「第七芸術」と呼ばれました。

その新芸術が、すでに19世紀の文学が捨てて顧みなくなった人類の強迫観念ともいうべき、もろもろの恐怖を蘇生させ、しかも、これに新しい表現形式を与えたわけです。

澁澤は、「スクリーンの上に生きて動き出すようになった吸血鬼も、フランケンシュタインも、狼男も、ゴジラのごとき巨大な怪獣も、すべて非合理的であるがゆえに現実的な、古くてしかも新しい、人類の強迫観念の視覚化にほかならなかった」と断じ、さらには「吸血鬼ドラキュラはなぜこわいのか?」という問いに対して、次のように答えます。

「この答えは簡単である。もっとも本質的な恐怖は死の恐怖だからである。ドラキュラは死んでも死にきれず、夜間、墓地から抜け出してきて、村人たちの血を吸う。死を忌むべきもの、危険なものと見なした古代人にとって、これ以上の恐怖は考えられなかったであろう。」

澁澤が一目置いたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、「死者は、残されている者にとって危険なのである」と書きました。

さらにバタイユは、「もしも彼らが死者を埋葬しなければならないとすれば、それは死者を保護するためよりも、死の伝染性から彼ら自身が退避するためなのである」と述べています。

澁澤は、このバタイユの言葉を引用して、「このような信仰は、現在でも、わたしたちの潜在意識の奥底に残存しているのではなかろうか」と書いています。

たしかに、葬式が「村八分」の例外とされた原因を「死因が伝染病であった場合、埋葬しないと伝染するから」と見る意見があります。ちなみに葬式とともに「村八分」の例外とされた火事についても、「消化しないと隣家に燃え移るから」というのが原因だったという見方もあります。

しかしながら、わたしは、やはり「生者の命を救うこと」と「死者を弔うこと」の二つだけは村八分などを超えた不変の「人の道」であったと思っているのですが。

そして、かくも恐怖映画を愛した澁澤にとって、一番こわい映画とは何か。 それは、「吸血鬼ドラキュラ」でも「フランケンシュタイン」でも「エクソシスト」でもなく、中川信夫監督の「東海道四谷怪談」でした。

こういうところも、澁澤龍彦がなかなか油断できない人物であることを示していますね。

さらに澁澤は、映画を通じて、いろいろなことを縦横無尽に語ります。

たとえば、大島渚の「絞死刑」について、「申すまでもあるまいと思うが、私は死刑反対論者である。その理由は、一言をもってすれば、理想主義的倫理はすべて幻想であると信じているからである」と述べています。なるほど。

そして、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」の試写会では、こんなことを言っています。

「試写会を見終わって、暗い夜道を歩きながら、わたしの友人がこんなことを言った。『車とクロロフォルムさえあれば、簡単に女の子が手に入れられる。そんなことは、僕だって、昔から考えていたことだよ』と。わたしもそれに答えて、『僕だって、何べん考えたか知れやしないよ』と言った。」

いやあ、危険な匂いをプンプンさせた素晴らしすぎる発言ですよね。さすがはエロティシズムの伝道師です!

最後に興味深かったのは、「E・Tは人間そのもの」というエッセイの中で、「E.T.」の作中、主人公の少年が理科の授業中に解剖用のカエルを片っぱしから逃がしてやるシーンについて触れ、澁澤が次のように述べている部分です。

「みなさん御記憶のことと思うが、九州の漁民がイルカを虐殺するのはけしからんといって、アメリカから船を仕立ててやってきて、イルカを逃がすために、漁民の張った網をやぶろうとした連中があった。イルカはかわいい動物だと頭からきめこんでいるので、イルカを捕える人間は鬼みたいに見えるのであろう。むろんスピルバーグ監督には、このエコロジストのような単細胞なところはあるまいが、動物愛護はえてして手前勝手な意識を生み出しがちだということを指摘しておきたい。」

これで思い浮かぶのは、和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米映画「ザ・コーヴ」(ルイ・シホヨス監督)が第82回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞したことです。

澁澤が上記の文章を書いたのは、「E.T.」の公開直後ですから、おそらく1982年だと思われます。今から28年も前に、イルカ愛護の偽善を見抜いていたわけですね。それにしても、死刑制度には反対し、女の子の拉致を妄想し、イルカを救おうとするエコロジストを「単細胞」と呼ぶ。もう、こわい者なしですね!

こんなに澁澤の「思想」がストレートに伝わってくる本も珍しいのではないでしょうか。 その人の考え方は、そのまま思想を語るよりも、映画という窓を通すことによって、より鮮明に示されるのかもしれません。 なんだか、いろんな映画論が読んでみたくなりました。

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