- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.2284 プロレス・格闘技・武道 『証言 橋本真也』 長州力+佐山聡+前田日明+藤波辰爾ほか著(宝島SUGOI文庫)
2023.11.23
『証言 橋本真也』長州力+佐山聡+前田日明+藤波辰爾ほか著(宝島SUGOI文庫)を紹介します。「破壊王とアントニオ猪木『相克』の真相」というサブタイトルがついています。 一条真也の読書館『長州力 最後の告白』 『証言1・4橋本vs.小川 20年目の真実』、『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』、『俺たちのプロレス名勝負読本』で紹介した本を再編集した内容になっています。
本書の帯
本書のカバー表紙には橋本真也と小川直也の写真が使われ、帯には「“凄惨ガチ”試合『1・4』の全部隊裏!」「なぜ猪木は橋本を『標的』にしたのか?」「29人激白!!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、以下のように書かれています。
長州力
「猪木会長には、
ちょっとついていけない部分がありますよ」
佐山聡
「猪木さんが大阪からの新幹線で
小川に“指令”を出したと聞いた」
前田日明
「『次、小川をスパナでカチ食らわせ』
と橋本に電話した」
山崎一夫
「橋本の控室で、猪木を罵倒し続けた
長州に感じた違和感」
藤田和之
「1・4は、試合後の乱闘も含めて
プロレスだと思っていた」ほか
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「1999年1月4日、東京ドーム――。橋本真也と小川直也の3度目の対戦は、『1・4事変』として後世に語り継がれる大事件となった。『U.F.O.』を設立し古巣に喧嘩を売るアントニオ猪木、現場を仕切る長州力、そして小川のデビュー戦で噛ませ犬とされた橋本。三者三様の思いが交錯した末の凄惨な試合―。満身創痍の橋本はその後、『引退特番』という地獄へ。29人の目撃者が語る破壊王と燃える闘魂、『相克』の真相!」
本書の「目次」は、以下の通りです。
第一章 1・4事変「黒幕」猪木の真意
第二章 小川陣営が見た「黒幕」猪木の魔性
第三章 橋本VS小川「至近距離」の目撃者たち
第四章 破壊王「引退」の真実
第五章 破壊王「解雇」の真実
第六章 破壊王の「孤独」
第七章 破壊王の「死」
特別コラム 橋本真也「忘れられない」名勝負
橋本真也 小川直也
新日本プロレスvsUFO「対立と確執」完全年表
第一章「1・4事変『黒幕』猪木の真意」の「証言 長州力 聞き手●水道橋博士」では、長州力の証言が紹介されます。まず、99年1月4日の東京ドームで行われた橋本真也vs小川直也での小川の”セメント暴走”、通称「1・4事変」が取り上げられます。新日本プロレスの強さの象徴でもあった”破壊王”橋本が、元柔道世界王者の小川にセメントを仕掛けられ、完膚なきまでに叩き潰されました。まさに、プロレス界を根底から覆しかねない大事件でした。「日大アメフト部の事件に酷似」では、インタビュアーの水道橋博士が「この事件の真相には諸説あるんだけど、小川が猪木の指令を受けて”仕掛けた”というのが一般的。ただ、けしかけた猪木も、あそこまでやるとは思っていなかったという説もある。抽象的な言葉で、『橋本を潰してこい』と言われた小川が、キャリアが浅かったから、やりすぎてしまったという。個人的にこの話は、先頃世間を騒がせた日大アメフト部の危険タックル事件に実によく似ていると思う。『噛ませ犬事件』のところでも、この話はしたけど、猪木が内田監督で、小川が危険タックルを仕掛けた宮川選手、そして佐山サトルが井上コーチと考えればわかりやすい」と述べています。
この水道橋博士の見解を「ああ、そういう見方もあるんだな」と感心したという長州は、「日大のフットボールの話で言えば、あそこには伝統があるから、コーチにきついことを言われて、追いつめられて突っ込んだのはわかりますよ。責任もすべて監督が取るべき。それが監督というものだから。ただ、あのプレーが終わったあとに、ああいうタイミングで突っ込んでしまう、あの宮川選手も怖いなっていう気はしましたね。橋本と小川の件で言えば、小川だって伝統ある大学を出て、大学や柔道の現役引退からそんなに時間がたってるわけじゃなかったから、僕は小川がああいうことをやるとは思っていなかった。僕にはやる人間には見えませんでしたね。だから、あれをやってしまう小川というのは、さっきの宮川選手と同じような意味で、怖いなっていう感じはありますね」と語っています。
「証言 前田日明①」の「前田にぞんざいな態度を取った橋本」では、1・4の橋本vs小川戦をテレビ観戦したという前田の以下のコメントが紹介されます。
「あの頃の橋本は、新日本内部でよく思われてないっていう噂が俺の耳にもいっぱい入ってたんだよ。たしかにあいつはあの頃、妙に調子に乗ってたんだよね。俺が恵比須のホテルのシガーバーにいた時、橋本と偶然出くわしたことがあってさ、その時に思ったよ。『ぞんざいな態度で周りから睨まれてるって聞いてるけど、ああ、本当のことだったんだ』ってね。俺に対してもそういう態度だったからね。たぶん猪木さんに対しても、当時の橋本は偉そうな態度を取ってたんじゃないの。だから、『こんなに調子に乗ってたらいつかやられるんじゃないか』って思ったんだよ」(前田日明)
前田日明といえば、アンドレ戦や佐山戦など、いまに伝わるシュートマッチの当事者として有名です。そんな前田だからこそ、1・4事変には思うところが多々ありました。「俺が新日本にいたら絶対に小川をシバいてる」では、以下のように語っています。「もしも俺がずっと新日本にいたら、逆に面白くなってたと思うよ。俺は絶対に小川にもあんなことをさせなかったと思うんだよ。間違いなく逆にシバいてるよ。リング上に関しては百戦錬磨でもあるし、たとえ小川相手にヘタを打ったとしても、プロレスなんだからリング下にあるスパナでもなんでも持ってぶちのめしたらいいからね。やられるくらいならなんでもやってたと思うよ。よしんばやられたら、控室に乗り込んでやり返せばいいだけの話。それをあとからちゃんと書いてくれるマスコミだっているんだから。だから、俺は『やったもん勝ちだ』って言うんだよ。やっちゃえ、やっちゃえのカーニバルみたいなもんだよ」(前田日明)
前田の発言の中で一番わたしが興味を抱いたのは、猪木がシュート指令を下した理由を推測した次のものです。
「猪木さんには別の計算もあって、あの試合の3カ月前に髙田が調子に乗ってヒクソン(・グレイシー)と2度目の試合をやったんだよね。あれなんかはっきり言って完全にビビり負けなんだよ。プロレスを代表した人間がああいう無様な試合をしたんだから、そこで猪木さんは世間のプロレスに対するイメージを変えたかったのかなと思うんだよね」(前田日明)
「証言 藤田和之」では、1・4事変のときのリングサイドには小川のスパーリング・パートナーを務めた藤田和之もいたことが紹介されます。後に「猪木イズム最後の継承者」と呼ばれた藤田は、「1・4は、試合後の乱闘も含めてプロレスだと思っていました」と述べ、「もう、プロレスの仕組みはオープンにしたほうがいい」では、以下のように語っています。
「だいたい、プロレスのリングでは前座の下のほうで勝ったり負けたりしてた僕や桜庭(和志)さんがPRIDEで勝ってるのに、IWGPチャンピオンになった永田先輩が、総合に出たら勝てないって時点でおかしいじゃないですか(笑)。それはもう、やってることが違うから仕方ないんですよ。でも、1人だけ、それを超越できた男がいましたよね。高山善廣ですよ。僕も一度PRIDEで試合しましたけど、高山さんだけは、たとえ総合で負けてもどんどん評価が上がっていった。プロレスラーが、あのリングでなにをすべきかがわかっていた人でしたよね。橋本vs小川戦とは全然違う話になっちゃったけど(笑)。改めて振り返ってみて、高山善廣という男はすごいプロレスラーだなって思いますね」(藤田和之)
第二章「小川陣営が見た『黒幕』猪木の魔性」の「証言 佐山聡」では、当時、UFOの代表として小川のセコンドを務めていた佐山聡が登場します。彼は、新日本プロレス退団後に第一次UWFに加入し、格闘技の匂いのするプロレスをつくりあげました。「新日本への“いらだち”から猪木は小川を投入」では、以下のように語っています。「たとえば、ロープに飛ばされてバーンと体当たりする。そこでバーンと体をぶつけます。これは(プロレスの)ナチュラル。しかし、総合格闘技ならば、そもそもロープに投げられるということはありえない。UWFもナチュラルとは少し少し違う。UWFは、お客さんに関節技はこんなふうに決まるんだと理解してもらわなくてならなかった。あれは将来、格闘技をやるための過程。繰り返しやってはならない。プロレスのナチュラルと格闘技は別物です。ただ、これは僕の解釈。猪木さんがどんなふうに考えていたのかはわかりません。猪木さんには昔のストロングタイルでやりたいという気持ちはあったはず。ただ、自分が動けるわけではないので、もどかしいというか。それで小川を使ったんでしょう」(佐山聡)
第三章「橋本VS小川『至近距離』の目撃者たち」の「証言 金沢克彦①」の「試合直前に“シュート”にストップをかけた猪木」では、元「週刊ゴング」編集長の金沢克彦が「これは取材のなかで複数の関係者に確認したことなんですけど、猪木さんは最初は『仕掛けてしまえ』と言っていたのが、途中で考え直して、試合の直前になって佐山さんに『やっぱり普通の新日本の試合でやれ』とストップをかけたらしいんですよ。それを佐山さんは、小川の入場には付き添っていないから、試合開始直前のリング上で『新日本ルールに変わったから』と伝えたんですけど、小川はもうアドレナリンが出ちゃてたから、止まらなかったんでしょうね。『仕掛けてしまえ』という指令がなくなったといっても、じゃあ、どうすればいいのかもよくわからず。『どうせ最後はノーコンテストでいいんでしょ』という感じで、ボコボコにしてしまった。だから、ああなってしまったことに対しては、猪木さんも佐山さんも想定外というか、びっくりしたと思うんですよ。あの1・4の10日後くらいに業界関係者の重鎮のパーティの席で、竹内宏介さん、池孝さん、門馬忠雄さんらマスコミの大御所の人たちのところに佐山さんが来て、『このたびはご迷惑をおかけしてすみませんでした。小川に興奮剤を飲ませたら効きすぎちゃったみたいで』と言ってきたらしいです」という新事実を明かします。もっとも、これは佐山流のジョークで、興奮剤の正体は単なる健康食品だったそうですが・・・・・・。
「証言 田中ケロ」の「1・4に猪木会長が絡んでいたのは確か」では、元新日本プロレスのリングアナウンサーだった田中ケロが、この1・4事変の後、橋本vs小川の遺恨対決がドーム興行に欠かせないドル箱カードに化けたことを指摘します。
「結局、あの1・4があったことで、橋本vs小川というカードが多くの人に注目されるようになって、また試合自体、緊迫感のあるいい試合になったんですよね。だから、もしかしたら猪木会長の狙いどおりだったのかもしれない。ああいう”事件”がなければ、橋本vs小川がここまで注目されたりすることはなかったと思いますからね。だから藤波さんと長州さんが名勝負数え唄を展開していて、それがややマンネリ化してきた頃、藤原さんが”テロリスト”として乱入したことがあったじゃないですか(84年2月3日・札幌中島体育センター)。あの時と構図は一緒なんじゃないかと思うんですよ。あれも猪木会長が藤原さんに対してけしかけたと言われていますけど、その真偽はともかく、あの乱入があったからこそ、新しい展開が生まれて、新しい熱を生むこととなった。橋本と小川の一件についても、結局はそうなったんじゃないかと思います」(田中ケロ)
「証言 永島勝司①」では、元新日本プロレス取締役の永島勝司の証言が紹介されます。これがまた、リアリティ満点です。「事前の取り決めも“ノーコンテスト”だった1・4」では、いつもと違う緊張感は漂っていたものの、試合そのものは通常のプロレスルールだったことを指摘します。この試合の「ブック」は最初から「無効試合」に決まっていたとして、以下のように述べます。
「それまでの流れもあったから、この試合は勝敗をつけないことにしたんだ。橋本と小川には、当日に『無効試合で』って伝えた。(レフェリーの)タイガー服部には俺から伝えてないから、ちゃんと理解していたかどうかわからないけど、少なくとも関係者の間ではそれで話はついていた。でも、反則してレフェリーが不在になってるのに、なかなか試合が終わらないんだよな(笑)。すぐ反則を取っちゃうと試合時間が短くなりすぎるから、誰かが試合を止めさせなかったのかもしれない。それで小川がガンガンやってるし、橋本がぜんぜん動かねぇし、周りも騒ぎ出したから、これでやっと無効試合だなと。俺はダグアウトで長州と2人で観てたんだけど、試合が終わって乱闘が始まったから、『光雄(長州)、行け!』って言って背中を叩いて、アイツがドドドってリングに向かっていったんだよ。そこから騒動がもっと大きくなっちゃったんだけどな」(永島勝司)
試合は6分58秒でゴング。事前の取り決めどおりに「ノーコンテスト」で終わりましたが、試合後も小川のマイクパフォーマンスや乱闘が続き、リング上は収拾のつかない状態になりました。舞台裏では「誰がこのアクシデントを仕掛けたのか」という犯人探しが始まりました。
「試合が終わったあと、すぐに猪木に電話をしたけど、猪木は『俺はそこまでの指示は小川に出してない』と。『ガチに見えるプロレスをやれって言っただけだ』って言うんだよ。そのあと、小川にも電話して30分くらい話したんだけど、小川は『観てくれましたか? 僕は極めてませんよ。全部ちゃんと解いてます』と。たしかに、小川のスリーパーはプロレスの範疇だった。ガッチリ喉に入ってない。それを橋本が必要以上に怯えちゃったんだよな。だから『ちゃんと観てたよ。お前はなにもやってねえよ』って言ったの。小川は『わかっていただければ』って電話を切った。あの試合はパンチや蹴りもいいのが入ってたけど、プロレスの世界では1発、2発くらい入っちゃうのはかまわないのよ。でも、3発目が来たらこれは故意と思われても仕方がない。これは一応マナーというか、暗黙のルールであるわけね。あの時の小川もそこまではやってない。1発目が来た時に橋本が『あれ?』と思ってしまったことが問題なんだな」(永島勝司)
この永島勝司のコメントにすべては言い尽くされていると思います。あの試合はたしかに猪木の言う「ガチに見えるプロレス」であり、小川はそれを忠実に演じただけに過ぎません。つまり、小川はいい仕事をしたのに、橋本が一方的にビビったのです。ここまで橋本が怯えた原因のひとつに、小川が新日本の新たなエースに抜擢され、自分がその踏み台になってしまうという「恐怖」があったのかもしれません。それともうひとつ、橋本のコンディションの悪さが挙げられます。橋本とともに「闘魂三銃士」の1人だった武藤は、「あの時は橋本のコンディションが絶対的に悪すぎたんだよ。観ててそのインパクトがあったもん。あんなに太ってるから、ちょっとでも練習を怠ったら体が重いと思うよ。たぶん、あの時はレスラー人生でもいちばん重いぐらいだよね。普段のコンディションを維持した橋本だったらああはいかないっていう気はしますよ。意外と瞬発力はあるし、力もあったし」と述べています。橋本のベスト体重は120キロぐらいでしたが、当時は140キロ以上あったと言われています。練習を怠ったのは、前田の言うように「調子に乗ってた」のかもしれませんね。
第四章「破壊王『引退』の真実」の「証言 藤波辰爾」では、1・4事変の後、新日本プロレスのレスラーや関係者の中で、橋本真也と最も深く関わりを持った藤波辰爾が登場。あの一戦の半年後に新日本の代表取締役社長に就任した藤波は、絶縁状態だった新日本とUFOとの関係改善であり、1・4事変の後処理でした。そのため欠場中だった橋本と何度も個人的に会って話し合い、2000年4・7東京ドームでの「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!スペシャル」の跡は、橋本の引退を翻意させるために奔走しました。01年10・9東京ドームでの橋本復帰戦では自ら相手を務め、最後は橋本のチキンウィング・アームロックで敗れました。橋本の団体内独立への道筋をつけたのも、結果的に橋本を解雇したのも藤波でした。
「“反新日本”“反プロレス的”だった猪木」では、小川による掟破りの”セメント暴走”と呼ばれた1・4事変について、藤波は「それを許してしまったのは、橋本に油断と過信があったためだ」ととらえ、以下のように語ります。
「あの時、橋本にちゃんと気構えができていたら、もし小川が仕掛けてきても咄嗟に自分の身を守ることはできたはずなんですよ。僕らの時代のプロレスはそうだったから。『なにかあったら行っちゃうよ』という感じがあったから、みんなそういう心構えをつくっていたのよ。だから僕が前田(日明)と大阪城ホールでやった時(86年6月12日)もそう。あの時の僕は、『もしかしたらなにかあるな』という思いがあったから、自分自身を守る防御策は、できる範囲で全部やった。まずはコンディションづくりですよね。自分が少しでも怯んでしまったり、動きが鈍くなったら、前田の思う壺でサンドバッグになってしまうから。あとは前田の様子を見ようっていうのがあったんだよね。どいうつもりでこの試合に臨んできたのか、序盤戦で警戒しながら探るというね」(藤波辰爾)
「前田日明②」の「橋本が追ん出されて、武藤とか蝶野、アイツらはどうしてたのって」では、元祖セメントレスラーである前田日明が「物語」というキーワードを使って、以下のように語っています。
「闘魂三銃士でいうと、武藤敬司も蝶野正洋もキャラクターで一話完結の物語をつくろうとしたでしょ。使いまわしでボロボロで継ぎ接ぎだらけのキャラクターでさ。橋本も似たようなもんだよ。それで猪木さんが小川を使って『本当の劇場型プロレス、物語を見せなきゃいけない』と思ったんじゃないのかな。はっきり言って物語があったのは俺まででしょう。本来、日本のプロレスというのは、プレイヤー1人ひとりの中に体を張った物語があって、それを紡いでいくもんなんですよ。それは力道山やアントニオ猪木から繋がってきたもんなんだよね。だけど、俺のあとに誰に繋がってるか? 誰にも繋がっていないでしょ」(前田日明)
「とにかく物語をつくるということに関してはアントニオ猪木の右に出る人間はいないですよ。企画力に関して言えば、ワールドリーグ戦とかをやった力道山のほうが猪木さんよりも上なんだけど、猪木さんは力道山がやってきた企画に物語をつけたよね。だから猪木さんの試合って思わせぶりなセールがいっぱいあるじゃん。大木金太郎の頭突きを食らい続けてもなんとか踏ん張って立ち向かっていくあの姿とか。それを観た人たちが『絶対に効いているんだけど猪木は必死に耐えているな』と思って、そこに自分の人生の物語を被せていくわけでしょ。だからそういうのもあって、俺は闘魂三銃士とかにちゃんと興味を持ったことがないんだよね」(前田日明)
「タイガーマスクが出てくるまでは新日本のリングは物語全盛だったんですよ。そこで佐山(聡)さんが物語がなくても通用する動きを試合でやったもんだから、『プロレスには物語がなくてもいいんだな』って勘違いをする後輩が出てきた。しかも教育係となるべきだった俺らの世代がUWFにごそっとそれ以前と以降のプロレスが完全に断絶したんだよね。長州さんなんかも周りがつくった物語のなかで動く人でしょ。だから自分でアングルを考えて、体を張ってやるってタイプの人ではないんだよ。橋本は長州さんと仲が悪かったって聞くけど、本当はそういう意味ではあの2人は近親憎悪なんだよ。2人とも自分の物語のつくり方がわからない。だから橋本は小川にやられても自分でなんとかしようとせずに『これ、誰が責任を取ってくれるんだ? 誰かなんか考えろよ』みたいな感じだったでしょ、どうせ。あのね、自分で考えられない物語って突っ張り切れないんだよ。だからテレ朝に『即引退SP』っていう企画を勝手につくられるんですよ」(前田日明)
企画力ということでは、長州力がプロデュ―スした新日本プロレスvsUWFインターナショナルの対抗戦は大ヒット。そのメインイベントでUインターのエースであった髙田延彦は新日本の武藤敬司に完敗したわけですが、U戦士として髙田の先輩にあたる前田は、こう述べます。
「もし、俺が武藤とやったらハイハイと言いながらノックアウトするか、アイツが知らない技で足か腕を折ってたよ。なんでUインターは仕掛けなかったのかね? いくらカネがなかったからと言っても、そこからアングルができるじゃん。それでさらに注目をされて応援をしてもらえるよ。やったもん勝ちだよ。『ちゃんと真剣勝負をやったのになんでそれがダメなんだ?』ってさ、わかっていながら言っちゃえばいいんだよ。結局、ファンというか世間がついてきてくれればどうにでもなるんだよ。それは俺自身が経験してることだから。長州さんの顔面を蹴っ飛ばしたことだって、アンドレ戦だってそうでしょ。アンドレの時は向こうから仕掛けてきたからやり返しただけだけどさ、それがプロレスじゃん。その水面下の大きさというか広さがプロレスですよ」(前田日明)
最後に、橋本の死因について前田は述べるのでした。
「レスラーの体を蝕む一番の原因ってね、受け身なんですよ。プロレスのリングにはスプリングが入っていて、100キロくらいの人間がなにしても大丈夫な構造になっているから、受け身を取った瞬間にはそんなにたいしてダメージはないんだけど、あのスプリングによる跳ね返りが徐々に体にダメージを与えていくんじゃないかなって思うね。あのスプリングがあるからこそ、年中試合ができるわけだけど、それゆえにっていうさ。受け身を一発取るにもダメージなんで、本来は体の休息期間っていうのがなければいけないのに、それがないからどんどんどんどんダメージが溜まっていくんだよ。橋本が死んだのは40歳だっけ? 早いよね。かわいそうに。そんな悲劇の物語はいらなかった気がするよね」(前田日明)
歯に衣を着せずに言いたい放題、橋本に対しても厳しい言葉を吐いた前田ですが、最後の「かわいそうに」の一言で救われた気がしたのはわたしだけではないと思います。それにしても、約四半世紀も前の試合が今でも語られ続け、こんな570ページを超える文庫本になるとは驚きです。そんな試合、力道山vs木村政彦、アントニオ猪木vsモハメド・アリ、髙田延彦vsヒクソン・グレイシーぐらいしかないのではないでしょうか。1・4事変とは、プロレスと格闘技が最も交差した時代の「まぼろし」だったように思います。最後に、今は亡き橋本真也選手の御冥福をお祈りいたします。合掌。