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No.0398 宗教・精神世界 『オウム真理教の精神史』 大田俊寛著(春秋社)
2011.07.30
『オウム真理教の精神史』大田俊寛著(春秋社)を読みました。
前著は古代宗教論でしたが、本書はスリリングな現代宗教論となっています。
世に、オウム真理教に関する書籍は多く出ています。しかし、本書はあらゆる意味で秀逸なオウム論となっています。帯には「近代の暗黒面を暴く」と大書され、以下の文章が記されています。
「『最終解脱者』になる人物を教祖に掲げ、超人類によるユートピア国家の樹立を目論み、ハルマゲドン誘発のため生物化学兵器テロに踏み切ったオウム真理教。
その幻想は、何処に由来し、何故にリアルなものとなりえたのか。
オウムを現出した宗教・哲学・政治思想の流れを精査するとき、
我々は近代の内奥にひそむ漆黒の闇に直面して戦慄する。
気鋭の宗教学者 渾身の現代宗教論!」
本書の目次構成は、以下のようになっています。
序章
第1章 近代における「宗教」の位置
1.そもそも「宗教」とは何か
2.キリスト教共同体の成立と崩壊
3.近代の主権国家と政教分離
第2章 ロマン主義―闇に潜む「本当のわたし」
1.ロマン主義とは何か
2.ロマン主義の宗教論
3.宗教心理学
4.神智学
5.ニューエイジ思想
6.日本の精神世界論におけるヨーガと密教
第3章 全体主義―超人とユートピア
1.全体主義とは何か
2.カリスマについての諸理論
3.ナチズムの世界観
4.洗脳の楽園
第4章 原理主義―終末への恐怖と欲望
1.原理主義とは何か
2.アメリカのキリスト教原理主義
3.日本のキリスト教原理主義
4.ノストラダムスの終末論
第5章 オウム真理教の軌跡
1.教団の設立まで
2.初期のオウム教団
3.オウム真理教の成立と拡大
4.「ヴァジラヤーナ」の開始
5.国家との抗争
6.オウムとは何だったのか
「おわりに」
前著『グノーシス主義の思想』もそうでしたが、本書の場合も非常に構想的に書かれており、目次を見ればオウム真理教の精神史そのものが的確に俯瞰できます。
わたしは本書を一読して、「DNAリーディング」の本だと思いました。本書のタイトルに入っている「精神史」という言葉は、わたしの造語である「DNAリーディング」と同義語であることに気づきました。
『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)という著書でも紹介しましたが、「DNAリーディング」とは、ある思想の先祖を探る、すなわち思想的源流をさかのぼることです。
たとえば哲学なら、ソクラテスの弟子がプラトンで、その弟子がアリストテレスというのは有名ですね。また、ルソーの大ファンだったカントの哲学を批判的に継承したのがヘーゲルで、ヘーゲルの弁証法を批判的に継承したのがマルクスというのも知られていますね。マルクスの影響を受けた思想家は数え切れません。こういった影響関係の流れをたどる読書がDNAリーディングです。
さらに、DNAリーディングの具体例をあげてみましょう。わたしは、『法則の法則』(三五館)という著書をDNAリーディングによって書きました。きっかけは、「引き寄せの法則」という言葉が大流行していたことからでした。
「引き寄せの法則」とは、自分の強く願望するイメージは引き寄せられて必ず実現するという法則です。わたしは、「法則」という概念そのものについて興味を持ちました。
そこで、まず、「引き寄せの法則」の関連本を片っ端から全部読みました。『「原因」と「結果」の法則』『ザ・シークレット』『思考は現実化する』『ザ・マスター・キー』などを読んでいくと、「引き寄せの法則」というものは、どうもキリスト教のプロテスタント運動に源流がありそうだということに気づきました。
そこから、ニューソート思想というプロテスタントの流れを知り、さらにアメリカの思想家エマソンやスウェーデンの大神秘家スウェーデンボルグの思想にまで行き着いたのです。
さらに、スウェーデンボルグのルーツは新プラトン主義を大成したプロティノス、その原型であるプラトンその人にまでたどり着きます。
本書『オウム真理教の精神史』は、まさにDNAリーディングの書であり、20世紀末の日本に出現したオウム真理教という異貌のカルト教団の思想的ルーツをさまざまな角度から探っていきます。その軌跡はスリリングで、わたしは久々にこんなに面白く、知的好奇心に富んだ本を読んだ気がしました。本書の「序章」で、著者は多くのオウムについての研究書を紹介しながら、次のように述べています。
「オウムを論じた学問的著作は、オウムのような宗教団体が発生した原因について、客観的な分析を行うことができたのだろうか。
残念ながらその答えは、明らかに否である。本来であれば学問の役割とは、研究対象から十分な距離を取った上で、その現象がどのような時代背景から生まれてきたものなのか、あるいは、一定の理論的枠組みに照らしてどのように理解されるのかを考察することにあるはずだが、90年代半ばの当時は、『ポストモダニズム』や『ニューアカデミズム』と呼ばれる反近代主義的なイデオロギーがなお強い影響力を保っていたこともあり、オウムに関する言説は、そうした潮流に大きく左右された。研究者たちは、オウム事件に対して冷静で客観的な分析を行うどころか、オウム信者や社会一般に対する筋違いな扇動を行ったり、過去の自らの言動に対する弁明に終始したりといった振る舞いを、しばしば露呈したのである」
前著と同様に、著者は中沢新一氏に対して痛烈な批判を投げかけていますが、興味深いのは中沢氏とともに「ニューアカ」のヒーローだった浅田彰氏や、その一世代後の知的アイドルである宮台真司氏などの理論にも疑問を呈している点です。
著者によれば、哲学者ニーチェの「永劫回帰」の世界観や「超人」幻想といったものがジル・ドゥルーズやミシェル・フーコーらの業績によって「ポストモダニズム」として復権したといいます。そして、ニーチェの「超人」を浅田氏は「スキゾ・キッズ」と呼び、宮台氏は「ブルセラ少女」と呼んだだけにすぎないというのです。さらに著者は、次のように述べています。
「90年代に執筆されたオウム論に見られる特徴だが、暗黙のうちにポストモダニズム的なパースペクティブを前提とし、その観点からオウムを評価・批判しようとすることも、厳に慎まなければならないことである。特に、一時期の中沢や宮台らの振る舞いに見え隠れしていたものだが、ポストモダニズム的な『超人』幻想に自ら感染し、自身を1人のカリスマとして演出しようとするかのような態度は、学問に携わる一研究者として守るべき規矩を明らかに逸脱したものであり、論外であると言わなければならない」
本書には、「宗教」そのものに対する著者の見方がふんだんに語られていますが、それはわたしにとって非常に共感できる内容でした。著者は次のように述べます。
「人間は生死を超えた『つながり』のなかに存在するため、ある人間が死んだとしても、それですべてが終わったわけではない。彼の死を看取る者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、そのことを感じ取る。人間が、死者の肉体をただの『ゴミ』として廃棄することができないのはそのためである。生者たちは、死者の遺体を何らかの形で保存し、死の事実を記録・記念するとともに、その生の継続を証し立てようとする。そしてそのために、人間の文化にとって不可欠である『葬儀』や『墓』の存在が要請される。そこにおいて死者は、『魂』や『霊』といった存在として、なおも生き続けると考えられるのである」
物質的な生物としては、死者はすでにこの世から消え去っています。そのため、「魂」や「霊」というものはあくまでフィクショナルな存在です。著者は、それを現実には存在しない「虚構の人格」と呼びます。そして、「虚構の人格」は、人間の社会が成り立つためには常に必要不可欠のものであるとします。
人間社会は、生死を超えたこの人格的存在を中心に据えることによって、その統合を保つのだというのです。そしてこの「虚構の人格」は、時代の変遷においてその形を変え、それとともにさまざまな社会形態を創出してゆくとして、著者は次のように述べます。
「学問上でなお多様な議論が存在していることは確かだが、多くの学説においては、宗教の原初的な形態は『祖先崇拝』に関わるものであったと考えられている。すなわち、もっとも原始的な段階における宗教とは、家族内の死者を『祖先の魂』として祀るというものだったのである。そして家族は、『祖先の魂』を中心に据えることによって、その結束を保っていた。土地や家、田畑など、家族が所有するさまざまな財産を究極的に保持しているのは、『祖先の魂』であると考えられたのである」
著者いわく、このような所有の形態には、いくつかのメリットがあるといいます。まずその1つは、所有の正当性を示すことができる点。2つ目には、所有のあり方が安定するという点。さらに、著者は次のように述べます。
「こうして原始的な社会においては、祖先の魂を中心にして、家族的共同体が営まれていた(祖先崇拝の段階)。しかし人間が形成する社会や共同体のあり方は時代とともに推移し、より大規模なものとなる。そしてそれとともに、人間相互の『つながり』のあり方も、より複雑なものに変化する。そうした場合、死者の葬儀や供養は個々の家族ごとに継続されるにしても、共同体全体の『つながり』を証し立てるためには、祖先から子孫へ継承される『魂』の系譜という単線的なものでは十分ではなく、より高度で精妙な『虚構の人格』の存在が要請されるということになっただろう。その人格は、『魂』よりも抽象度が高く、むしろ個々の霊魂同士のつながりや、死後のあり方を定めるものであったと考えられる。そしてその存在は、一般に『神』と呼ばれる」
これまで『葬式は必要!』および『ご先祖さまとのつきあい方』(ともに双葉新書)などの著書でわたしが一貫して主張してきた葬儀や先祖供養の重要性を、著者が非常に説得力のある学問的言語を使って強調してくれるので、すっかり嬉しくなってしまいました。そして、オウム真理教のようなオカルトごった煮宗教を肯定する浅はかさと、「葬式は、要らない」などという妄言を吐く浅はかさは明らかに直結していることに気づきました。そういう浅はかな人の代表が言うまでもなく某宗教学者ですが、要するに宗教というものの本質がわかっていないのでしょう。逆に、宗教の本質を理解している著者は、次のように述べています。
「宗教とは何か、という問いに改めて回答しておくと、私はそれを、『虚構の人格』を中心として社会を組織すること、そしてそれによって、生死を超えた人間同士の『つながり』を確保することである、と考える。『虚構の人格』は、自然的には存在しない架空のものに過ぎないが、逆にそれゆえに、融通無碍にその形を変えることができる。そして人間はこれまで、さまざまな神話や儀礼を案出することにより、さまざまな『虚構の人格』を創設し、その存在に基づくさまざまなタイプの社会を作り上げてきたのである」
これまで「宗教」を定義したあらゆる文章の中でも、これは飛び切りの名文です。なぜ、人間にとって神話と儀礼が必要であるのか? その理由を、著者は見事に解き明かしています。
本書には、麻原彰晃を魅了した多くのオカルト的なるものが登場します。たとえば、メスメルの動物磁気、ブラヴァツキー夫人の神智学、ニューエイジ思想、ノストラダムスの大予言、フリーメイソン陰謀論、日ユ同祖論、ヒヒイロカネ、ヒトラーと『我が闘争』、桐山靖雄と『変身の原理』、川尻徹と『滅亡のシナリオ』etc・・・・それらのすべてが麻原のオカルト趣味を刺激し、その集大成としてのオウム真理教を成り立たせていたのでした。
著者は、オウム真理教の源流をロマン主義、全体主義、原理主義の3つに求めます。それら3つの思想には共通性があるとして、次のように述べます。
「ロマン主義、全体主義、原理主義という思想的潮流は、そのすべてが、何とかして死を超えた『つながり』を取り戻したいという切実な願望に基づくものであると同時に、それにまつわる空虚な幻想であると捉えることができる。すなわち、ロマン主義は『本当の自分』という生死を超えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに『強固で緊密な共同体』を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される『神との結びつき』を求めることによって生み出される幻想なのである」
うーん、こんなに自分の考えをうまく整理できたら、さぞ気持が良いでしょうね。また、次の文章がわたしの心に強く残りました。
「よく知られているように、麻原が説法において好んで繰り返した言葉は、『人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない』という文句であった。こうしてオウムは、人々に剥き出しの死の事実を突きつけることによって多くの信者を獲得したが、その活動において結局は、死にまつわる数々の幻想を弄ぶことに終始し、人の死をどのようにして弔うかという、古くかつ新しい問いに対して、適切な回答を見つけることはできなかった」
宗教学者の島田裕巳氏は無縁社会のみならず孤独死を肯定しています。彼の「人はひとりで死ぬ」という言葉も、麻原の「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」につながっているように思います。言うまでもないことですが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」などとことさら言う必要などなし! 問題は、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。
本書の最終部分で、著者は「日本の問題」について語ります。なぜ、オウムのような団体が日本で発生したのか。著者は次のように述べます。
「最初に、仏教と葬儀の問題について。近代においては、国家が主権性を保持して公領域を独占するため、伝統的な宗教は社会の周縁部に追いやられ、次第に空洞化する傾向を持つ。伝統宗教の空洞化は、欧米を始めとして、近代のシステムを受容した国々すべてに見られる現象であるが、日本の場合はその傾向が特に著しい。日本の仏教は江戸時代までは、寺請制度の存在によって政治体制の中枢に組み込まれていたが、明治以降はその地位から除外され、その後は次第に民衆からの支持を失うという右肩下がりの状態が続いている。
現在のところ日本人の多くは、葬儀を挙げる際に仏教式を選択しているが、普段の生活で仏教と関わりを持つことは少なく、葬儀のときにだけ僧侶が現れて、高額の読経料や戒名料を『布施』として請求してくることになるため、どうしてもこれに反感を抱きやすい。仏教という伝統宗教が空洞化を余儀なくされていること、また、葬儀が公的な仕方で行われず、個々人の『私事』と位置づけられているため、その方法はどうしても恣意的なものとなり、誰もが納得のゆく仕方で故人を弔うのが難しいということ、これらの事実が、オウムというカルトの出現と成長を後押ししたことは、否定しえないだろう」
著者の言う「葬儀が公的な仕方で行われず」という問題はわが社のような民間企業のレベルでは無力ですが、「誰もが納得のゆく仕方で故人を弔う」という問題に関しては大いに解決の余地があると思っています。「オウムの出現と成長」および「葬式無用論」の両方のキーマンとなった島田氏の責任はあまりにも大きいと言えるでしょう。
ぜひ、本書の著者・大田俊寛氏と島田氏の討論を望みたいと思います。本書の「おわりに」で、著者は次のように書いています。
「日本の宗教学は、オウムという対象に自らが躓いたことを、率直に認めなければならない。しかし同時に、そこで終わってはならない。なぜなら、学という営みは根本的に、過去の行為に対する批判と反省の上に成り立つものだからである。オウムに躓いたことそれ自体ではなく、なぜ躓いたのかということに対する反省を怠ったとき、宗教学という学問は、本当に死ぬことになるのだろう」
日本の宗教学界には鎌田東二や島薗進といった本物の学者がいるとわたしは考えていますが、大田俊寛という超新星の登場を心から寿ぎたいと思います。本書を読んで、わたしは「葬式は必要!」ということを再確認しました。
それにしても、処女作でグノーシス主義を、第2作でオウム真理教を論じ尽くした著者の着眼点の鋭さと構想力の豊かさには脱帽です。著者が次に選ぶテーマは何か。今から楽しみでなりません。
願わくば、宗教の核ともいえる葬送儀礼そのものを扱ってほしいです。