No.0372 人生・仕事 『断謝離』 やましたひでこ著(マガジンハウス)

2011.07.05

『断謝離』やましたひでこ著(マガジンハウス)を読みました。

すでに昨年のベストセラーであり、テレビや雑誌でも大きく取り上げられました。わが妻も、いつの間にか「ダンシャリアン」になっていましたね(笑)。わたしも遅まきながら、やっと本書を読みました。

整理・片づけ本の最終兵器!

最近、築80年以上の超ボロ家である自宅の一部を改装しました。ちょうど、わたしが骨折して松葉杖をついていた頃なので不便この上なかったです。

しかしながら、やはり家がきれいになると嬉しいものです! 妻も、この時とばかり、いろいろ不要なものを処分していました。わたしは、「屋上で煙草を吸っていようかと思う」と言っていました(笑)。もちろんウソですが、わたしも急に片付けに興味が湧き、本書を読んだ次第です。

著者は、石川県在住の主婦で、たしか小松市の方だったと思います。本当は、オレ九州の人間だから、北陸の何市がどこの県とか、わからんのよ(笑)。もちろん冗談ですが、著者は「クラター・コンサルタント」を名乗っています。

「クラター」とは聞き慣れない言葉ですが、「がらくた」という意味だそうです。本書を一読して、以前、ヒットした『捨てる技術』という本に似ているとも思いました。でも、本書のほうが少々スピリチュアルな印象です。

そもそも、「断謝離」とは、いったい何か。本書の「はじめに」で、著者は次のように書いています。

「断捨離は単なる掃除・片づけとは異なります。『もったいない』『使えるか』『使えないか』などのモノを軸とした考え方ではなく、『このモノは自分にふさわしいか』という問いかけ、つまり主役は『モノ』ではなく『自分』。『モノと自分との関係性』を軸にモノを取捨選択していく技術です。『このモノは使える』→『取っておく』ではなく、『私が使う』→『必要』という考え方です。主語は常に自分。そして、時間軸は常に『今』。今、自分に不必要なモノをただひたすら手放し、必要なモノを選んでいく・・・。その作業は『見える世界』から『見えない世界』に働きかけ、結果、自分自身を深く知ることに繋がります。そうすると、ココロまでもがす~っと軽くなる。ありのままの自分を肯定できるようになります」

また、著者は次のようにも述べています。

「私たちの生活とは、普段の地味な家事作業で成り立っています。結局、日常において「清々しい場=聖なる空間」をキープするということは、常にその繰り返しなのではないでしょうか。目を閉じることもなく、静かに座るわけでもない。けれどモノに向かい合うことは、自分に向かい合うこと。部屋を整えていくことは、自分を調えていくこと。ココロが行動を変えるのではなく、行動がココロに変化をもたらす。行動すればココロがついてくる。いわば断捨離は『動禅』」

この「動禅」という言葉には、「はっ」とさせられました。たしかに、行動すればココロがついてくるというのは事実ですね。著者は、実際には「禅」ではなく「ヨガ」に親しんでいるそうです。大学時代に入学したヨガ道場で、心の執着を手放す行法哲学「断行・捨行・離行」に出合ったそうです。その後、モノの片づけを通して、誰もが実践できる自己探求のメソッドとしての新・片づけ術「断捨離」を生み出したわけです。

著者は、「片づけ」というものに対して、「必要なモノの絞り込み作業。絞り込む際の軸は、『自分とモノとの関係性』そして『今』という時間軸。つまり、そのモノと自分が今、生きた関係かどうかを問い、取捨選択していく行動」と定義しています。また、次のような一文を読めば、「断捨離」が単なる片づけ術ではないことがよくわかります。

「時間は『今』の連続ですから、その生きた存在のモノは常に更新されていきます。つまり、常に入れ替え=新陳代謝です。そしてさらに、その片づけ作業を真剣に行っていくと、自然とモノを取り入れるのも吟味するようになります。なぜなら、いかに余計なモノに囲まれて生活しているかがよくわかり、本当に気に入った、必要なモノしか欲しくなくなるからです。これが『断』の状態。断捨離とは、この、『断』と『捨』を行うことで至る、モノの執着から離れ、軽やかで自在な状態(=離)と定義できます」

本書を読んで一つだけ気になったのは、モノの執着から離れることを説いているわけですが、このアドバイスに従うと、わが書斎を覆いつくしている大量の本や玩物などもすべて処分しなければならなくなります。でも、わたしの蔵書やガラクタは、わたしにとって必要なものです。それは資料として必要ということもありますし、側に置いて見ているだけでアイデアが湧いてきたり、心がリラックスしたりするといった効果も含みます。

以前、『捨てる技術』がブームになったとき、これに反旗を翻した人物がジャーナリストの立花隆氏でした。立花氏は猫ビルという書斎ビルで仕事をされているそうですが、そこには膨大な本や雑誌やコピー類などが収められています。

『捨てる技術』のロジックに従えば、いずれも即座に捨てたほうが良いようなものばかり・・・・。しかし、それらを捨てずにストックしていることによって、立花氏は驚異の「知的生産」を可能にしているのでした。当時、立花氏は『捨てる技術』について、「何でもかんでも捨てろというのは大間違い」と反論していました。普通の人は立花氏のように知的生産を仕事としているわけではありませんが、それでも一見「ムダ」なものでも取っておくということが「心のゆたかさ」につながることは確かにあると思います。

ところで、最終章である第5章「爽快感と開放感、そしてご機嫌!」の最後に著者が書いている一文が印象的でした。次のような内容です。

「私は、究極的には、すべてのモノは神様と地球からの借り物だって思っています。
例えば、土地を買う、家を買うとは『維持・管理する権利』を買ったようなものだ、と。
買うっていう概念自体、人間が勝手に思い込んでいるものであって、地球には関係ないことです。土地だけでなくて、すべてのモノはもともとただの物質でいろんな化学変化や人為的工夫でモノとして存在して、そこにいろんな概念や付加価値をくっつけて流通させているわけですから。所有とは結局、思い込みです。でも、だから所有をやめろということではなくて、そういう本質的なことを理解することで、自然とモノを大事にしたいという気持ちが湧いてくるというところが肝心なんだと思います。
せっかく持つのなら『ま、いいか』よりも『これじゃなきゃ』と思えれば、維持管理も楽しいもの。そして、究極は、あらゆるモノが地球からの借り物なんだと考えていけたら・・・自ずと感謝や畏敬の念が湧いてきます」

「あらゆるモノが地球からの借り物」という考え方は、アニメ映画の世界観にも通じます。そういえば最近、DVD化されましたね。モノに執着するわたしはレンタル・ショップを利用せずにアマゾンで購入してしまいましたけど(笑)。また、「自ずと感謝や畏敬の念が湧いてきます」という言葉にも共感しました。

掃除や片づけの良い点は、一心不乱にやっていると邪念が取れて、心がきれいになること。そして、著者が言うように、「自ずと感謝や畏敬の念が湧いて」くることです。日本人は、掃除や片づけを「心の行法」としてとらえ、それを「道」にまで高めてしまった民族なのかもしれません。もはや、宗教的な次元なのです。

そういえば、掃除の世界には鍵山秀三郎氏という達人がおられます。 「掃除の神様」とまで言われる方ですね。本書を読んだ後、なんだか鍵山氏の本を再読したくなりました。

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