No.0363 小説・詩歌 『月の上の観覧車』 荻原浩著(新潮社)

2011.06.27

『月の上の観覧車』荻原浩著(新潮社)を読みました。

おそらくは、今もっとも直木賞に近い作家であろう著者の最新作です。「二度と取り戻せない時間」への哀しみを描いた作品を集めた短編集となっています。

苦くて、苦くて、愛おしい8篇。

本書には、次の8つの短編が収められています。

故郷を捨て、都会で証券マンとなった男が、これまでの人生を振り返る「トンネル鏡」。

最愛の妻を亡くし、精神を病んだ男が幻の金魚を飼う「金魚」。

マジシャンだった祖父の葬儀で起こったささやかな魔法を描く「上海租界の魔術師」。

夫が定年退職を迎える日に、ご馳走を用意して家で待つ妻の心中をのぞく「レシピ」。

盆休みに郷里に帰った男が自殺した初恋の相手を想う「胡瓜の馬」。

夢を追い求めて離婚した男が、年に一度だけ娘と会う「チョコチップミントをダブルで」。

認知症の老婆がゴミで隠したかったものを暴く「ゴミ屋敷モノクローム」。

すべてを失った後、月光の差し込む観覧車の中で、今は亡き愛する者たちと束の間の再会を遂げる「月の上の観覧車」。

いずれの作品にも、哀しい現実を生きている人物が登場します。彼らは、みな、自分の過去を振り返り、「自分の選択は正しかったのだろうか」、「自分が悪かったのではないか」、そして「もし人生が二度あれば」といったようなことを考えています。

本書に登場する男たちは、いずれも40代で、バブルの頃に青春を謳歌した人々です。

そう、ちょうど、わたしと同年代の男たちなのです。

彼らはみな生活に疲れ、夢に破れ、これまでの人生を後悔したりしています。

彼らについて、著者は「波」2011年6月号のインタビューで次のように語っています。

「じゃあどうすればよかったのか、お前はどこで間違えてしまったのかと言われても、きっといくら考えたところで、明確な答えは見えてこないでしょうしね。すでにやってしまったことは動かしようもなくて、そして明日も人生は続いていく。他にやりようがあったかと自問すれば、やっぱりなかったような気がするし……。彼らの抱えている感情は”悔やむ”というほど執念深くないんだけど、誤魔化しようもないくらい苦い」

著者は、「改めて考えてみると、このグズグズ感が、男ですよね」とも述べています。

本書の中でも、「レシピ」の主人公である主婦などは決断力があり、グズグズした男共とは対照的です。著者は、「ただグズグズと、布団の中で反芻を繰り返す(笑)」と男の情けなさを嘆いています。

そこで、インタビュアーは次のように問いかけます。

「ただ、考え続けていることによってこそ、誰かを記憶にとどめているという部分もありませんか。『ゴミ屋敷モノクローム』では、ゴミを溜め込んだ老婆を説得する市役所の男性職員が語り手ですが、彼のお母さんの『捨てたくないけど、見たくないものってあるだろ』という言葉が印象的でした」

この問いに対して、著者は「忘れないということと、何かとつながり続けていることは、確かに近い心性なんでしょうね」と答えています。

「忘れない」、そして「つながる」の対象は、死者です。

本書の全作品には、何らかの形で死者が登場し、生きている主人公は死者を思い出し、死者とつながろうとしています。

優しい幽霊こそ登場しませんが、いずれの作品も死者が重要な役割を果たしているのです。

そして、生者にとって「死者の記憶」というものがいかに生きていく上で影響を与えるものかということを本書は描いています。

いま、「死者の記憶」といいましたが、「死者」と「記憶」は同義語かもしれません。

だから、葬儀や墓といったメディアは「メモリアル」そのものなのです。

映画化もされた『明日の記憶』というベストセラーがありますが、著者はまさに「記憶を描く作家」であり、「死者を描く作家」であると再認識しました。

記憶=死者を描く作家の真骨頂が、表題作でもある「月の上の観覧車」です。

観光ホテルに隣接した遊園地の経営に行き詰まった老人が、最後に観覧車に乗るという物語です。彼がゴンドラに座っていると、いろんな懐かしい人々に出会います。

それらの人々は、もちろん今は亡き人々でした。

「月の上の観覧車」には、次のように書かれています。

「誰にでも、死者とつかのま出会える瞬間がある。私はそう信じている。おそらく、その瞬間は人それぞれに違い、いつ、どこで訪れるのかがわからないために、たいていの人間が見逃しているだけなのだ。私の場合、場所は観覧車だ。条件は月が出ていること」

この一文を読んで、わたしは『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)に「満月の夜は、幽霊が見えやすい」と書いたことを思い出しました。

古今東西、幽霊の目撃談は満月の夜が圧倒的に多く、また小説や映画などに幽霊が登場するときも必ずといっていいほど満月の夜です。

わたしは、「おそらく、満月の光は天然のホログラフィー現象を起こすのだろう。つまり、自然界に焼きつけられた残像や、目には見えないけれど存在している霊の姿を浮かび上がらせる力が、満月の光にはあるのだと思う」と書いています。

それともう一つ、満月の光には人間の「こころ」を変容させ、記憶の中の死者とアクセスさせる魔術的な力があるのでしょう。

満月の夜は、幽霊が見えやすい

さて、「波」のインタビュアーは、「シビアな物語なのに、どこかに必ず人生への肯定感がある。不思議な読み味でした」と、本書の感想を述べます。

これに対して、著者は次のように語っています。

「登場人物たちは”たら、れば”を自問し続けますが、決して過去に戻れるわけではない。この”戻れない”ということ自体が、実は救いなのかもしれませんね。ゲームならリセットが出来るけど、もし人生が何度でも繰り返せてしまったら、逆に間違いを繰り返すことは許されない。それはものすごく辛いことなのかもしれません」

著者は、今回は自分の中の引き出しを全部開けてみたそうです。

自分の中の「人生」を、まるごと書いたそうです。

その意気込みは、読者にもじゅうぶん伝わってきました。

わたしは、「荻原浩は、この作品で直木賞を取るかもしれない」と思いました。

最後に、本書で一番印象に残ったのは、「胡瓜の馬」に出てくる沙耶という女性のセリフでした。主人公の初恋の相手だった沙耶はロックが大好きで、自分でもバンドを組んでボーカルとして歌っていました。主人公と彼女が付き合っていた頃、世間ではイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が流行し、町中どこでも流れていました。

沙耶は、「ホテル・カリフォルニア」のそんな扱いについて怒り、次のように言うのです。「テレビとかでカリフォルニアの観光風景みたいなののBGMにしたりしているだろ。馬鹿じゃないんね。ホテル・カリフォルニアは、商業主義に侵されちゃって、ロックの精神(スピリッツ)はもう死んだって歌ってる曲だ。ロッカーへの鎮魂歌なんだ。あれが歌ってる『ホテル』ってのは、どこにも行けない魂の墓場のことだよ」

わたしは、このセリフを読んで、とてもビックリしました。

もちろん、「ホテル・カリフォルニア」の込められたメッセージについてはある程度は知っていましたが、歌の中の「ホテル」が「魂の墓場」だったとは!

そういえば、「胡瓜の馬」はお盆の迎え火の物語です。

でも、「魂の墓場」という言葉のインパクトがわたしの脳天を直撃しました。

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