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No.0566 国家・政治 『世代論のワナ』 山本直人著(新潮新書)
2012.03.22
『世代論のワナ』山本直人著(新潮新書)を読みました。
本書の帯には「バブル世代vs.ゆとり世代」「団塊の世代vs.新人類」「不毛な対立が組織を滅ぼす!!」というコピーが踊っています。著者は1964年生まれ、慶應義塾大学法学部を卒業後、博報堂を経て、現在はマーケティングおよび人材育成のコンサルタントだそうです。
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに―世代論という情報戦」
1章:若者論というノイズ
2章:世代ラベリングを解体する
3章:変質した世代論
4章:就活に作られた世代
5章:職場に流れ込む「煽り」
6章:手探りの対話から
7章:楽しいタテ社会を作る
「あとがき」
「はじめに――世代論という情報戦」の冒頭には、次のようなじつに興味深いエピソードが紹介されています。
「数年前のことだ。週末の午後にテレビをつけたら、プロ野球中継をやっていた。どこの試合かな?と画面の隅を見るとこんな表示があった。
『日―ソ』
私の頭の中に一瞬こんな感覚が横切った。
(日本対ソ連?)
そんなわけがあるはずもない。『日本ハム対ソフトバンク』のオープン戦だったのだ。ソフトバンクが球団経営に参入して初めての春だったので、『日―ソ』というのは野球中継では、全く見慣れない文字列だったのである」
この一文から本書は始まるわけですが、冒頭の「つかみ」として上手いですね。旧ソ連といえば、アメリカとの「冷戦」を思い出しますが、著者は「世代間の冷戦」というものを指摘し、次のように述べています。
「ここ最近、いろいろなメディアが『昭和』を回顧している。
いわゆる団塊世代が第2の人生を始めるようになったことも関係あるのだろうか。
60年代の学生運動の頃を振りかえるようなものも多い。
そこで起きたことは、世代間の価値観の対立だった。
そして、いろいろな衝突が起きた。
それは熱い戦いであり、衝突は目に見える形で起きていた。学園紛争などは、まさに戦いである。物理的な衝突だった。
一方、それに比べると現在の対立はもっと冷たい感じがする。
そして冷戦という言葉が浮かんだのである」
著者は、今の日本で起きている世代間の断層を「冷戦に似ているな」と感じました。すると、たしかに共通するキーワードが浮かんできたそうで、次のように述べています。
「まず、それぞれが『不信』の状況にあること。そして『情報戦』が過剰になることである。冷戦時代は、お互いのことを信用していない。どうせ自分たちのことしか考えていないのだろう?という不信が根っこにある。
そうなると、とにかくお互いのことを知っておこうとする。ただし、根底に不信がある限り情報を集めても安心できない。情報は不信を高めていく。
この時代には諜報部員たちの活動を描いたいわゆる『スパイ物』の映画や小説が全盛を迎えたのも、そうした背景があったからだ」
それでは、著者は世代論の否定者なのでしょうか。そうではないようで、著者は次のように述べています。
「私は世代論というものを根っから否定しているわけではない。異なる世代の人々の行動理由を知るためには、有効な方法の1つではある。しかし、最近の世代論があまりにも安易なラベリングを誘発していることが気になっているのだ。
そもそも、私自身も世代論を書いたことがある。『話せぬ若手と聞けない上司』(新潮新書)という本を、2005年に上梓しているのだ。その時は、自分が会社員時代に体験した新人研修と、その後の若手との対話をベースにして、彼らの世代を自分なりに論じた。しかし、同じ世代の者でも1人ひとりは全く異なる人間である。世代を論じようとして感じたことは、むしろ世代で括ることの怖さでもあった。
そこで行き着いたことは、『若い世代を理解できなくてもいいから、まず1人の人間として認めよう』という単純な視点であった。
異世代の考え方や感覚がわからないのは当たり前なんだから、理解する必要はない。ただ、安易に存在自体を否定するようなことはしないで、『認める』ということから、すべてが始まると思ったからである」
2章「世代ラベリングを解体する」では、「太陽族」とか「安保世代」「団塊の世代」、あるいは「バブル入社世代」など、さまざまな世代ラベリングが紹介されます。
著者は、新しい世代はある時に登場するものの、じつは彼らは既に存在していたといいます。青春期に入った若者が、何らかのメディアに影響されて新しいスタイルを生み出す。あるいは新しい行動を起こす。それによって、メディアから命名されるからです。このような「世代論の切り口」について、著者は次のように述べています。世代論をどう分類するかには、いくつかの研究がありますが、著者は大きく3つの切り口で捉えます。それは、「文化的側面」「消費行動的側面」「資源配分の側面」の3つです。
3章「変質した世代論」では、著者は「風邪をひいたかな?」と思ったときに、わたしたちはどのように考えるだろうかと問いかけます。
「昨夜は冷えたから」とか「空気が乾燥してきたから」といったように、まずは環境変化のことを考え、周囲で風邪が流行していれば「うつされたかな」と思います。一方、「自分の手洗いの仕方が悪かった」などと反省する人は少ないでしょう。ここで、著者は次のように述べます。
「90年代半ば、日本経済の変調が進んできた時にも、そんな感じだったと思う。まずは政策に矛先が向く。次いで、金融機関などの責任が問われた。そして、会社内でも犯人探しが始まる。その頃から、企業内において若手社員の問題がクローズアップされるようになってきた。もともと若い社員というのは、いろいろな問題を抱えていて当然である。ただし、90年代後半になって、耐性の低さやコミュニケーション力の問題がクローズアップされるようになった」
就職氷河期というくらいですから、各社とも採用人数を絞っていたはずです。バブル期とは逆なわけで、本来は優秀な社員が入ってくるのではないでしょうか。それなのに、なぜ若手社員の態度などが問題にされたのか。その理由について、1つには、「若者バッシング」の波が職場まで溢れてきたことがあるとして、著者は次のように述べます。
「目立った犯罪が起きて『キレやすい若者』の存在が報じられる。そして、職場でも似たような若手社員がいると、『ああ、やっぱり』となってしまうパターンだ。また、ちょうどインターネットや携帯電話の普及期であり、当時はまだ世代間格差が大きかったことがある。ネットや携帯を使いこなすのは、若者が中心だった。上の世代から見ると『コミュニケーションが苦手』な典型的なイメージに映るのだろう。『若者が変わった』という話をするには絶好の材料が登場したのである」
しかし、著者によれば、隠れた理由が別にあるそうです。それは、「会社がうまくいかないことへの八つ当たり」だといいます。著者は、次のように述べています。
「社会全体に余裕がなくなって、会社も曲がり角を迎えた。
そんなイライラした気分の中で、ふと職場を見ると若手社員が他人事のようにノホホンとしているように見える。ここで、自分たちの育成方法を省みる社員は少数派だった。若手社員のほうもマイペースで、飲みに行って説教しようと思っても、メールや携帯で予定を入れて消えていってしまう。そんな10年ほど前の光景に比べれば、最近は若者を異星人扱いしてバッシングする傾向は収まっているかもしれない。しかし、それは相互理解が進んだからというわけではなさそうだ。
若者に対して嘆いたり怒ったりするよりも、つかず離れずの距離感を維持するようになっているのではないだろうか。まさに『冷戦』のような感覚である」
世代論の花形は、なんといっても「団塊の世代」でしょう。もともとは作家の堺屋太一氏による言葉ですが、命名されるや一躍、さまざまなマスコミに取り上げられました。今でも、マーケティングにおける大きなキーワードとなっていますが、これについて著者は次のように述べます。
「団塊の世代が定年前にメディアに持ち上げられた最大の理由は何だったのか。それは、彼らがメディア側、とりわけ新聞などの活字メディアにとって、『最大にして最後の一大顧客』だったからだと思う。
新聞の購読率や、購読時間はどの調査を見ても、若くなるほど読まなくなる。クルマや酒の比ではなく、一番大変なのは『若者の新聞離れ』なのだ。いまのメディア環境を考えれば、今後購読率が上がることは考えにくいだろう。
かくして、新聞は団塊の世代と二人三脚にならざるを得ないのである。それはテレビにしても、同様の問題を抱えている」
この著者の指摘に、わたしは大きく納得しました。また、最近の世代論でよく登場する言葉に「フリーター」があります。この言葉についても、著者は次のように述べています。
「フリーターという言葉が登場したのは、1987年のことだった。定職を持たない、ということは危うい生き方ではあったものの、好景気の中では問題視されなかった。むしろ、若者に対する羨望と嫉妬が入り混じったような感覚で語られたと思う。バブルが崩壊して、就職氷河期がやってくると若い世代の不遇が明らかになってくる。ただし、それは社会全体の問題として捉えられる前に、世代固有の問題として受け止められてしまった」
さらに、「パラサイト・シングル」という言葉に対しても、著者は次のように述べます。
「いつまでも親元から離れない若者たちが『パラサイト・シングル』と名付けられた。これも、社会や家族の構造的な問題が指摘されているはずなのだが、言葉は1人歩きしていく。親と一緒に住んでいるのだから『共生シングル』でもよかったかもしれない。
『パラサイト』の持つ語感とも相まって、この言葉は『働かずに自立できない若者』の象徴として、否定的に取り上げられるようになった。この頃には『フリーター』も当然のように『困った人』になっている」
「パラサイト・シングル」「フリーター」とくれば、もう1つ「困った人」を表現する言葉を忘れてはいけませんね。そうです、ニート(NEET)です。著者は、「ニート」についても次のように述べています。
「これは、Not in Education,Employment,or Trainingの略だ。教育も受けず、働かず、かつ職業トレーニングも受けていない人々、という意味である。英国で生まれた言葉なのだが、元々は16歳から18歳の年代を対象としている。
そして、2004年に『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』(玄田有史・曲沼美恵著、幻冬舎刊)という本が出版されて、一気に広まった。
この言葉によって、『働かない若者』はあらためて『ニート』としてカタカナで規定されることになった。しかし、英国と異なってその年齢範囲は幅広い。後に厚生労働省は『家事も通学もしない15~34歳』と定義をする。
しかし、こうした定義や統計を追う人々は少数派である。この言葉も、フリーターと同様に、メディアの食いつきは強くイメージが先行した。
簡単にいうと、『困った若者』という感覚がこの言葉にはついてきてしまったのである」
5章「職場に流れ込む『煽り』」では、著者は、さまざまな情報が世代間の障壁を高めてしまうことを指摘し、次のように述べています。
「まず、世間の若者論がノイズ化していること。メディアはいつの時代にも、特定の世代にレッテルを貼ってきたこと。そして、そのレッテルも若者文化という切り口から、やがて『氷河期世代』のように、社会の中での問題点で論じられるようになったこと。
そうした、ラベリングが全世代に行われて、みんなが自分検索をして、とりあえず『自分ラベリング』をしたまま、お互いを横目で見ているような状況になっているのである。
私は、表面的な世代ラベリングがもたらす負の効果について書いてきた。ただし、それぞれの世代がおかれた環境を知ることは、職場において重要だと考えている。情報によってもたらされた冷戦を脱して、雪融けの道を探ることが目的だからだ」
本書で最も興味深かったのは、7章「楽しいタテ社会を作る」です。著者は、きわめて単純な事実を指摘します。それは、会社という仕組みに問題があるとはいえ、まだまだ機能しているということ。また、それに代わる画期的なシステムはまだ見えていないということです。著者は、「会社」という仕組みについて、次のように述べます。
「学校を出たばかりの若者でも、どうにか生活できるほどの報酬を与えられる『会社』という仕組みは、それなりによくできているのだ。会社は、まだまだ能力も資源も足りない若い人にも、働き以上の報酬を先払いする。また、病に倒れた場合にも一定の保障はある。能力が発揮できない状況でも、ある程度の報酬を支払うこともある。
最近は厳しくなったとはいえ、会社というのはこうして『資源の再配分』という機能を有してきた。これは、人間の社会において、形を変えて継続されてきた互助機能の1つだ。家庭やムラが持っていた機能とは異なる形で、会社もまた『人同士の助け合い』という側面を持っているのである」
著者は、ここで「タテ社会」という言葉に注目します。これは、中根千枝氏の大ベストセラー『タテ社会の人間関係』によって広まったキーワードです。
この本について、著者は2つのことを指摘しています。1つは、この本の内容自体はいま読んでも「やっぱり日本はそうだよな」と思うような側面があること。もう1つは、この本の内容を知らない人の間でも、「タテ社会」という言葉が一人歩きしてしまったこと。言葉の一人歩きによって、会社で働くこと=「タテ社会に組み込まれること」というイメージが先行してしまい、これもまた負のイメージを多くの人々が持ってしまったというのです。著者は、「タテ関係」についての自説を次のように展開します。
「会社の中は、タテ関係の論理がたしかに強い。そして、タテ関係よりもヨコ関係の方が楽しいイメージはあるだろう。若手の同世代で集まって騒いでいる方が、上司とメシを食うより遥かに気楽ではある。そうはいうものの、タテ関係への憧れのようなものも結構あるのではないだろうか。小説や映画などでは、先輩と後輩の絆を描いたものや、師弟関係をテーマにしてヒットしたものも多い。
スポーツの世界でもそうだ。だからこそ、スポーツの監督はいつの時代でも「理想の上司」の上位にランクインするのである。
現実にないから憧れる。たしかにそうかもしれない。
ところが、仕事を振り返った時の達成感というものを思い出してほしい。
それは、多くの場合、タテ関係がうまく機能していたのではないだろうか」
最後に、「あとがき」で著者は次のように述べています。
「相変わらず『ゆとり世代』のようなラベリングも聞くが、現場の人事担当者に聞くと『一変した』というほどの違いはないという声が多い。気質の変化は、もっともっと長い時間をかけて起きてきたのである。世代の特徴はたしかにあるものの、地層のようにある年からクッキリと変化が起きるわけではない。実際には、ジワジワとグラデーションのように変化が起きて、『気がついたら変わっている』ということが多い。
ただし、メディアはせっかちだ。というよりも、受け手の側がせっかちになっているのかもしれない。安易であっても『ゆとり世代』のようにわかりやすい決めつけが求められてしまう。こうした分析は今後もなくならないのだろう。職場など実際の現場で求められているのは、こうした世代『論』ではない。大きな潮流の変化を知りながら、異なる世代がコミュニケーションをしていくための手がかりが大切なのだ」
著者は、会社でもスポーツチームでも、人々は常に「共通する何か」を探しているといいます。そして、この「共通する何か」ほど忘れ去られてしまうものはないとして、著者は次のように述べます。
「昔で言えば『社是』『社訓』があり、現在でも『ミッション』や『ビジョン』が言語化されている。しかし、それはあくまでも『会社』の話だ。それぞれの現場では、自分たちが働いていく上での『共通する何か』を探し続けなくてはいけないのだ。
異なる世代間のコミュニケーションも、全く同じだ。世代の違いを強調するよりも『共通する何か』を発見することがまず第一である。その上で、世代の置かれた状況を踏まえて、違いを認め合うことができれば空気感はかなり変わると思う。
本当に強いエネルギーは、異なる価値観の者が一体となって何かに取り組んだ時に生まれると思う。世代の溝を超えることで、『何かいいこと』が1つずつ生まれていく。そんな現場が増えていくことを願っている」
この「共通する何か」という言葉には、グッときました。会社が発展していくためには、まさに「共通する何か」を求めることが必要です。小賢しいマーケティング用語を駆使するよりも、口下手でもいいから、全社員で「共通する何か」を愚直に求めていきたいものです。そして、つまらないラベリングにより、いたずらに世代間の対立を煽るなど愚の骨頂!
孔子は「孝」というコンセプトを唱えました。「孝」とは、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったかと思います。ここで、孔子とドラッカーが直線的につながってきます。
陽明学者の安岡正篤も、このことに気づいていました。安岡はドラッカーの”The age of discontinuity”という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代であると述べています。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのです。
「老」すなわち先輩・長者と、「子」すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶ。そこから「孝」という字ができ上がったというのです。
つまり、「老 + 子 = 孝」なのです!
これは、企業繁栄のためには「継続」と「革新」の両方が必要であるとするドラッカーの考え方と完全に一致します。いわば、マネジメントの神髄です。ベテランと若いスタッフが一緒に協力する。これに尽きるわけですね。そして何よりも大事なのは、先人たちの思想を継いで、新しい器に入れるということです。
「なぜ、この会社が生まれたのか」「なぜ、この事業をやるのか」という使命感や志、いわば会社の思想的DNAをうまくつないでいくことが承継の本質であり、会社発展の条件ではないでしょうか。