No.0290 芸術・芸能・映画 『街場のマンガ論』 内田樹著(小学館)

2011.03.10

『街場のマンガ論』内田樹著(小学館)を読みました。

著者の「街場シリーズ」は大学の講義録を書き起こしたものが多いですね。

でも、本書は授業の内容とは関係ありません。

さまざまな媒体に発表されたマンガ論のコンピレーションです。

マンガから日本人を考える

本書の帯には「マンガ好きですが、何か?」と、マンガの吹き出しのように書かれています。著者は、「まえがき」で次のように述べています。

「僕たちの世代にはマンガのヘビー・リーダーが少なくありません。きっとマンガとの出会いをイノセントな多幸感のうちに経験できた特権的な世代に属していたせいでしょう。

1950年前後に生まれた僕たちが最初に夢中になって読んだのは『鉄腕アトム』や『鉄人28号』や『赤胴鈴之助』や『まぼろし探偵』でした。戦後マンガの黄金時代がまさに幕を開けようとしているそのときに、ぴたりと時計の針を合わせたように僕たちはマンガを読み始めたわけです。ヘビー・リーダーになるのはもう当然でしょう」

何とも幸福なマンガとの出会いですが、著者はさらに述べます。

「それは僕たちが中学生になって、ラジオから流れる音楽を聴き始めたころに、ちょうどアメリカン・ポップスの黄金時代とピンポイントで遭遇したという僥倖にも通じています。マンガがいちばん面白く読める年頃と音楽のいちばんわくわく聴ける年頃が、それぞれのジャンルの黄金時代と重なったということは、ほんとうにラッキーだったと思います」

本書の目次は以下のような構成になっています。

「まえがき」
第一章  井上雄彦論
第二章  マンガと日本語
第三章  少女マンガ論
第四章  オタク・ボーイズラブ論
第五章  宮崎駿論
第六章  マンガ断想
第七章  戦後漫画家論
「あとがき」

なお、第七章には「戦後マンガは手塚治虫から始まった」とのサブタイトルがついており、内容は養老孟司氏との対談です。

『SLAMDUNK』、『バカボンド』、『リアル』などの作者である天才マンガ家・井上雄彦氏への傾倒ぶりは尋常ではありません。

著者はその鋭い知性から、とかくクールな人であると思いがちですが、村上春樹とかこの井上雄彦といった贔屓の才能を前にすると、とことんミーハーになってしまうという人間臭い一面を持っています。なんとなくホッとしますけれども。

著者独自のマンガ論が炸裂するのは、第三章「少女マンガ論」ではないでしょうか。

本書での著者の対談相手である養老氏は知的健啖家として知られる人ですが、少女マンガだけは苦手だそうです。

著者によれば、少女マンガには独特の記号論があり、それを少年期に身につけていないと、なかなか読めないものだとか。

日本のマンガの特性は表意文字(図像)と表音文字(音声)を並列処理する日本人の言語構造と不可分であるというのが著者の持論です。さらに、これがそれぞれ「真名」(漢詩漢文)と「仮名」(やまとことば)の2種類の性化された記号体系となり、それが今日では「少年マンガ」と「少女マンガ」に分化しているというのです。

著者は、世の中には2種類の男がいると断言します。「少女マンガ」を読める男と「読めない男」です。マンガ・リーダーの中でも「少女マンガを読める男」は少数派に属するわけですが、それは少女マンガが少年マンガとは違う記号体系に属しているからです。つまり、少女マンガを解読するためには少年マンガとは別のリテラシーが要求されるからだというのです。

著者は、「マンガには複数の発話水準が存在する」と述べます。

少年マンガには「実際に口に出して言った言葉」、「心の中で思ったが、口に出さなかった言葉」、「擬態語」の三種類の言葉しかありません。

このうち、「口に出して言った言葉」と「擬態語」というのは物質化した、現実の声です。

一方、「心の中で思っただけの言葉」というのは文学史でいう「内的独白」です。

少年マンガには、現実の音声と内的独白という2種類の記号資源があるのですね。

ところが、少女マンガには「心の中には存在するのだが、そのことに本人さえ気づいていない言葉」というもう一つの発話水準があるというのです。

少女マンガとは、少年マンガが利用することのできない発話水準にアクセスできるわけです。著者は、次のように述べます。

「あえて大風呂敷を広げれば、この『自分がそのようなことを思っていることを本人さえも意識化していないこと』を記号化しうる能力こそ、女性に特化されたエクリチュールの際立った特徴なのである。

男性語話者には、これができない。

というのは、私たち男性は、自分が思っていることを全部記号化するという作業に知的威信を賭ける傾向があるからである」

まことに鋭く独創性のある指摘であると思います。

著者の鋭い分析眼は、少女マンガの中でも、特に「少年愛マンガ」と呼ばれるジャンルに向けられます。1970年代、竹宮恵子『風と木の詩』、萩尾望都『トーマの心臓』、池田理代子『オルフェウスの窓』、山岸涼子『日出処の天子』、魔夜峰央『パタリロ!』などの「少年愛」をテーマにした古典的名作が集中して登場しました。

少年愛マンガは突然、群れをなして登場してきたのです。

どのような「流行」にも必ずその先駆的形態という「前史」が存在すると確信する著者は、この謎について考え、ついには次のような仮説に行き着きます。

ちょっと長いですが、重要な箇所ですので、引用したいと思います、

「少女マンガ家たち、とりわけ『花の24年組』と呼ばれた才能あふれる世代(竹宮恵子、萩尾望都、大島弓子、山岸涼子、青池保子、木原敏江、樹村みのりら)はまさに全共闘世代に属しています。彼女たちは、その多感な20歳の前後に同世代の少年たちが、『攘夷』の幻想に取り憑かれて、ほとんど自己処罰的に機動隊に殴られて、血を流し、倒れていくのを見ていました。そして、その姿におそらくある種の共感を抱いた。

75年にベトナム戦争が終わり、全共闘運動が終わったとき、彼女たちは、傷つき、戦いの目標を失い、失意のうちに日常生活に召還していった同世代の少年たちの後ろ姿を見送っていました。そして、こう思った。『あなたがたがもう戦わないのなら、私たちがその戦いを受け継ごう』

そして、そのとき、彼女たちが攻略すべき対象に選んだのが、アメリカのマチスモ文化でした(それこそが日本列島を、ついで朝鮮半島を、ついでインドシナ半島を焼き尽くした暴力の心理的な培地のように彼女たちには見えたのです)。

アメリカの男性分化を根底的に批判し抜くこと。

その目的のために選択されたのが、『アメリカの男性が抑圧し、排除してきたもの』に理ありとし、その審美的価値を顕彰するという、戦術的迂回であったのです」

その審美的価値とは、「ヨーロッパ」、それも19世紀末の耽美と退廃のヨーロッパ文化でした。少年愛マンガはひたすらヨーロッパを描き、けっしてアメリカを描かなかったのです。シャーロック・ホームズばりの驚くべき推理と言えますが、著者も自分で言っているように、「けっこうつじつまの合った話」だと思います。

もちろん、この仮説には異論もあることでしょう。フロイトが何でもかんでも性欲と結びつけたように、何かというと学生運動や反米に結びつける発想を好まない人もいることと思います。しかし、続いて述べられる著者の以下の発言を読むと、俄然この仮説が信憑性を帯びてくるのです。

「彼女たちが集中的に少年愛マンガを描いていた同じ70年代末から80年代にかけて、実際にはかつてない勢いでウエスト・コーストの文物が日本に入ってきておりました。『POPEYE』や『Hot-DogPRESS』といった若者雑誌は毎週のようにアメリカの最新流行を紹介しており、若者たちはロックを聴き、サーフィンを楽しみ、経済的に豊かになった親たちは子どもたちをハワイや西海岸に遊学させる支出を惜しみませんでした。流行の現象面だけを見れば、この時期ほど日本の若者が『親米的』だったことはありません。表層的には、日本とアメリカは文化的にはほとんど一体化しているように見えていました。

けれども、まさにその同じ時代に、際立って時代感覚にすぐれた少数の先端的な少女マンガ家たちは、決然とアメリカに背を向けて、アメリカの男性文化が徹底的に排除してきたところのある種のカルチャーを、いとおしげに、細部にいたるまで描いていったのです」

まさに歴史のアイロニーを感じますが、これは大きな説得力がありますね。

なにしろ、わたし自身も学生の頃には『POPEYE』や『Hot-DogPRESS』を愛読していましたし・・・・・。

さて本書には、マンガだけでなく、著者のアニメ論も収められています。

「空飛ぶ少女のために」は宮崎アニメの身体性を論じたものですが、著者は「空を飛ぶ」というモチーフへのこだわりに注目します。

宮崎アニメには空飛ぶ少女がよく登場するというのは多くの人が指摘しており、よく知られていますが、著者は次のように書いています。

「『空を飛ぶ少女』への偏愛を宮崎駿は隠したことがない。「風の谷のナウシカ」でも、「魔女の宅急便」でも、「天空の城ラピュタ」でも、「紅のブタ」でも、宮崎駿は『空飛ぶ少女』をほとんど悦楽的な筆致で描いた。それは描いている宮崎自身の心の震えがそのまま図像化されたようなみごとな造型であったと思う」

この後、著者は映画の「フェミニスト解釈」に疑義を申し立てたりしながら、80年代以降のアメリカで「氷の微笑」などに代表される「女性嫌悪映画」が量産されていた同時期に、日本のスクリーンでは、たおやかで、献身的で、それでいて活動的で勇敢な宮崎アニメの少女たちが圧倒的な人気を得ていたことを指摘します。そして、最後に著者はこう述べるのです。

「世界は十分に美しく、それはどのような人間にとっても生きるに値する。これが宮崎駿の究極的なメッセージだと私は理解している。そして、このようなメッセージは、現に世界を最高度に愉悦的に享受している存在を経由してしか伝わらない。『空飛ぶ少女』はその理想型である。ひろびろと遮るもののない視野、人工的騒音をはるか眼下に見下ろすほとんど無音の聴覚野、肌に触れる風の爽快な冷気、そこに身を浸すことの悦楽を宮崎駿は私たちに伝えようとして、それに成功した。これに類する映画的達成を私は他に知らない」

最後に、わたしが膝を打ちながら読んだのが第六章「マンガ断想」に収められている「アメコミに見るアメリカのセルフイメージ」というエッセイでした。

著者によれば、アメコミの「スーパーヒーロー」のほとんどはアメリカの「セルフイメージ」であるといいます。

「生来ひよわな青年」がなぜか「恐るべき破壊力」を与えられ、とりあえずは「悪を倒し、世界に平和をもたらす」ために日々献身的に活動する。

ところが、世の人々からはあまり感謝されず、「おまえこそ世界を破壊しているじゃないか」といった心ない罵詈雑言を浴びて傷つきます。

たしかに、「スーパーマン」も「バットマン」も「スパイダーマン」も、主人公は高い理想を掲げ、日々こつこつと世界の平和に寄与しているにもかかわらず、理解を得られません。これは、アメリカの自画像そのものなのです。

であれば、日本のマンガにもまた日本人のセルフイメージが反映しているのでしょうか。

著者は、「日本のマンガには日本人の理想がはっきりと描き込まれている」と断言したうえで、次のように述べます。

「日本の戦後マンガのヒーローものの説話的定型は『生来ひよわな少年』が、もののはずみで『恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ』の『操縦』を委ねられ、『無垢な魂を持った少年』だけが操作できるこの破壊装置の『善用』によって、とりあえず極東の一部に地域限定的な平和をもたらしている、というものである。これは『鉄人28号』から『魔神ガロン』、『機動戦士ガンダム』、『マジンガーZ』を経て、『新世紀エヴァンゲリオン』に至る『ヒーローマンガの王道』である」

そして、ここから著者の想像力は一気に飛翔します。

つまり、「恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」とは日米安保条約によって駐留する在日米軍であり、それを「文民統制」している「無垢な少年」とは平和国家日本のセルフイメージに他ならないというのです。

「鉄人28号」にあてはめれば、「鉄人」とは米軍(および創設されたなかりの自衛隊)であり、その操作を委ねられる「戦後生まれで、侵略戦争に加担した経験をもたない無垢な正太郎少年」は「憲法九条」そのものです。著者は、次のように述べます。

「戦後マンガは『軍隊』(巨大な暴力装置)と『憲法九条』(イノセントな心)が『合体』するときにだけ『よいこと』が起こるという物語を執拗に、ほとんど偏執的に繰り返してきた。つまり、戦後マンガは日米関係だけを集中的に描いてきたのである。マンガ家たちは、この定型的定型を通じて、国民の集合的無意識を表象し続けてきたのである」

著者は、65年にわたる戦後の平和と繁栄が、一つの「物語」の上に築かれてきたというのです。その物語とは、日本がアメリカの軍事的属国でありつつ、その支配に倫理的なイノセンスで対抗してきたという内容です。そして、日本国民のほとんど全員は、無意識のうちにその物語に加担してきたというのです。

「少年愛マンガ」といい、この「戦後ヒーローマンガ」といい、著者の分析はすべての問題の核心がアメリカにつながってゆくという、まるで「唯物論」ならぬ「唯米論」を思わせます。しかし、異様な説得力があることもまた事実ですね。

本書の帯の隅には、『日本辺境論』で語りつくせなかった「日本人論」と書かれていますが、その言葉に偽りはないと思いました。

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