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No.0257 宗教・精神世界 『はじめての宗教論 右巻』 佐藤優著(NHK生活人新書)
2011.02.04
『謎解き 太陽の塔』に書いたように、太陽の塔の正体がイエス・キリストであったという仮説を知って、キリスト教について書かれた本が読みたくなりました。
そこで、『はじめての宗教論 右巻』佐藤優著(NHK生活人新書)を読みました。
著者は、「知の怪物」と呼ばれる作家で、元外務省主任分析官です。
同志社大学大学院神学研究科を修了しており、キリスト教についての造詣の深さはよく知られています。著者自身もプロテスタントですが、初の本格的な宗教についての著書ということで、読むのを楽しみにしていました。
見えない世界の逆襲
本書の目次構成は、次のようになっています。
序章:「見える世界」と「見えない世界」―なぜ、宗教について考えるのか?
第1章:宗教と政治―神話はいかに作られるのか?
第2章:聖書の正しい読み方―何のために神学を学ぶのか?
第3章:プネウマとプシュケー―キリスト教は霊魂をどう捉えたのか?
第4章:キリスト教と国家―啓示とは何か?
第5章:人間と原罪―現代人に要請される倫理とは?
第6章:宗教と類型―日本人にとって神学とは何か?
まず著者は、「なぜ宗教を扱うのか」「なぜいま宗教を論じるのか」を説明します。少し前にスピリチュアルがブームになりましたが、このことは宗教と密接な関係があるとして、著者は次のように述べます。
「スピリチュアルにおいては、二つの世界が想定されているからです。『見える世界』と『見えない世界』です。この二つの世界を結びつけるところに宗教の特徴があります。この両者の連関がどうなっているのか、あるいは連関は全くないのか、かつて人間は、このような問題意識を持っていたわけです」
しかし、近代になって「見えない世界」に関することは捨て去られ、「見える世界」が中心に扱われるようになりました。そのために人間は「見えない世界」について論理的に思考することが苦手になったというのです。でも、いくら苦手になっても、その問題を解決したいという気持ちはあります。なぜなら、人間は必ず死ぬからです。そして、人間は自分がいずれ死ぬことを知っているからです。人間は死についての根源的不安を抱えている動物であるとして、著者は次のように述べます。
「死あるいは死後の世界、すなわち『見えない世界』に対する関心や恐れはどうしてもある。だからこそ、宗教なんてもう時代遅れのものだと思っている人ほど、宗教と名乗らない宗教(自己啓発、マルチ販売など)にたやすくひかかってしまうわけです」
だからこそ、もう一度、「見える世界」と「見えない世界」の関係について考えなければならないと、著者は言うのです。興味深かったのは、官僚制と「見えない世界」との関係について論じた部分です。官僚制などというと「見える世界」の代表ではないかと思われますが、著者は次のように述べます。
「官僚の仕事というのは合理的で、宗教とは程遠いものに思われるかもしれません。官僚とはまず、マニュアルどおりに動く存在です。あるポジションに就いた人間がマニュアルに即して仕事をやると、誰がやっても同じ結果が出る。これはかつて外務官僚であった私は言うのだから、間違いありません」
なるほど、強い説得力がありますね。さらに著者は述べます。
「この点は宗教、特に祭祀(宗教儀式)と一致しています。祭祀では、ある特定の手順を踏まえれば、同じ効果が出てきます。余人をもって代え難い人物というのはいません。禊ぎにしても祓いにしても、手順が必要です。この祭祀と魔術も神話的です。
近代とともに後退した魔術的なものは、官僚制と親和性が高いのです。本質的な共通点として、両者ともにマニュアルが先行し、自分の頭で考えることを必要としません。換言すれば、事柄を遂行するにあたって教養は必要とされません。両者の形式的な違いに惑わされず本質に目を向ければ、近代以降の宗教性の一つの落ち着き先が見えてくるでしょう。世俗化して以降、宗教的な祭祀が官僚制の中に押し込められたことによって、逆に官僚制の中に、変貌し世俗化した宗教が保全されたと言ってもいいかもしれません」
さて、宗教とは二つの世界を結びつけるものですが、英語の「レリジョン」はそもそも「結び合わせる」「結びつける」という意味です。神と人を結びつける、超自然なものと自然を結びつける、そして「見えない世界」と「見える世界」を結びつける・・・・・何かと何かを結びつけることが宗教の本質なのですね。
本書は、タイトルに「宗教論」銘打っていますが、宗教全般について論じたものではありません。キリスト教、それも著者が信仰するプロテスタントの立場から宗教について語ったものです。あくまでキリスト教神学に照準しながら、聖書の正しい読み方から神学的思考の本質までを明快に解説した本なのです。
では、キリスト教における神学のポイントとは何か。著者は次のように述べます。
「何のために神学を勉強し、何のために知識をつけるのか? これは救済のためです。何の悩みもなくて私は幸せである、いつまでも現在の生をエンジョイしたいという発想で、死をも恐れないような人に関しては、神学は不要です。神学は基本的に悩める人のための学問です。救済を必要とする人のための学問です。もっとも神学的立場からすると、救済が必要ないとか、私はいまのままで満ち足りているとか、死は怖くないということは、哲学者キルケゴールが言うところの『非本来的絶望』です。絶望的な状況にあってもそれに気付いていないという最低のカテゴリーの絶望である。こういうことになります」
神学について語る著者の語り口は熱いです。西洋思想における霊魂論、啓示の意味や原罪という発想のとらえ方、日本人がキリスト教を受容する際の論理、さらに著者は、神学の立場からみた現代人の倫理のあり方について語ります。
本書の帯には「神学は役に立つ」というキャッチコピーが踊り、「あとがき」の冒頭は「本書は実用書である」という一文ですが、本書を読むと、日本人には一見縁が薄い神学というものの有益性が見えてくるような気がします。そして、なぜ神学、そして宗教が必要なのかということについて、著者は次のように述べます。
「つまり われわれは制約されている存在だということです。人間は自らの限界をきちんと認識しなければなりません。神なき世俗化の時代、ヒューマニズムの時代において、人間の合理性のみが突出し、自分たちが思う形で世の中を設計できると思ってしまう。それによって神の座に自分を置いてしまう。そのためにいろいろなトラブルが起きています」
このような人間の「相対化」において 歴史上もっとも力があったのは宗教でした。宗教は、そもそも人知を超えたものの存在を認めています。そして、人間が科学の進歩によって自らを絶対的な存在、すなわち神としてしまう弊害が起こって、核や環境破壊などの新たな問題を引き起こしています。
第6章に出てくる次の言葉は、著者が最も言いたいことではないかと思います。
「だからこそわれわれはもういちど、『見えない世界』について、すなわち超越性の問題について、これを焦眉の課題として捉えないといけません。だからこそ、宗教の意義についてあらためて考えないといけないのです。キリスト教の論理では、人間は神に命じられて、この世界を管理する責任がある。その管理責任を果たさないといけない」
これを別の言い方でいうと、21世紀という現代にマッチした公理系が求められるとして、著者は次のように述べます。
「公理とは、たとえばアインシュタインの相対性理論のような、ある理論領域で立てられる基本前提のことです。科学をやっている人は現在、あまり公理系を立てませんが、何らかの作業仮説は立てるでしょう。そうしないと、認識のフレームができないからです。つまり、現下必要なのは、新たなる認識のフレームです。人間が生きていくうえでの思考のフレーム。あるいは命のフレームと言ってもいいでしょう」
これは、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で、イワンに「神がいないなら何をしても大丈夫なのか」と何度も問うている問題であると、著者は言います。
そして、著者は「神がいなくとも、何をしてもいいということには絶対になりません」と訴えるのです。このように、宗教を学ぶことは自己を絶対化せず、相対化できるはずだという実用性につながります。
本書は、宗教についての入門書を予想させながら、その内容はかなり高度な知的レベルにあります。「宗教とは何か」というよりも、「キリスト教とは何か」ということを根本から考えさせてくれました。
わたしは、かつて『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)という本を書き下ろしたとき、キリスト教をはじめとする一神教について徹底的に勉強しました。
現在、エジプトの反政府運動が大きな話題になっています。この背景には、イスラム原理主義が厳然としてあります。キリスト教やイスラム教といった世界宗教を知らずして、国際情勢は絶対に語れません。本書を読んで、わたしは久々にキリスト教の本質というものを考えました。その意味で、本書はキリスト教を学び直す良いきっかけになったと思います。
それにしても、さすがに著者のキリスト教の理解レベルはハンパではありません。姉妹本である『はじめての宗教論 左巻』(NHK出版新書)を読むのが楽しみです。
「宗教衝突」の深層