No.0192 SF・ミステリー 『悪の教典(上下巻)』 貴志祐介著(文藝春秋)

2010.10.10

悪の教典(上下巻)』貴志祐介著(文藝春秋)を読みました。

いや、面白かった! この一言です。ハードカバー上巻434ページ、下巻411ページ、合計845ページを一気に読みました。

戦慄のサイコホラー、超弩級のエンターテインメント

この本は、まず装丁のクオリティが非常に高いですね。書店で見かけたら、誰でも思わず手に取り、読んでみたくなるのではないでしょうか。今度刊行する『ムーンサルトレター』(水曜社)は上下巻の2分冊を予定していますが、本書のように2冊あわせると互いに引き立て合うようなデザインにしたいと思います。

さて、本書のストーリーは、とても単純です。IQが高く好青年でもあるサイコパスの青年が高校教師となります。彼は持ち前の頭脳で、次々と同僚たちを罠に嵌め、教え子たちを皆殺しにしようとします。上巻の帯にある「ピカレスクロマンの輝きを秘めた戦慄のサイコホラー」というコピーそのままです。

著者は、デビュー作『黒い家』(角川ホラー文庫)で保険金殺人を題材にしました。その直後に、あの和歌山毒物カレー事件が発生し、あまりにも『黒い家』の内容に酷似していることから話題になりました。『黒い家』は1999年に森田芳光監督によって映画化され、その後、韓国でもリメイクされています。

『黒い家』も本書『悪の教典』も、「人間はどこまで悪になれるのか」がメインテーマです。そう、貴志祐介は「悪」をエンターテインメントとして描ける作家なのです。現在、吉田修一の『悪人』がベストセラーになっていますが、「悪」が時代のキーワードなのかもしれません。それもまた、現代日本の世相を表しているということでしょうか。

それにしても、本書の主人公・蓮実聖司の壊れっぷりはハンパではありません。自分が殺した2人の生徒の死体を持て余したあげく、「木の葉は森に隠せ」というチェスタトンの名言を思い出して、生徒全員を殺して死体を転がしておけば2体の死体も隠せるなどと途方もないアイデアを思いつきます。そして、すぐさまそれを実行に移すというトンデモない奴なのです! 子どもの頃から他人への共感能力に欠けていたという設定ですが、それだけではこの前代未聞のサイコキラーぶりは説明できないでしょう。

蓮実は、殺人に及ぶ前、いつも口笛である曲を吹きます。「モリタート」という曲です。「殺人物語大道歌」という意味だそうですが、もともと『三文オペラ』で使われる曲です。

『三文オペラ』はミュージカルの原型のような作品で、ベルトルト・ブレヒトの戯曲にクルト・ヴァイルが曲をつけています。その舞台は、切り裂きジャック事件の衝撃から間もない19世紀末のロンドンで、裏切り、投獄、殺人などがてんこ盛りのギャングの物語です。「モリタート(殺人物語大道歌)」は「三文オペラ」の中で最も有名な曲です。英語版をパティ・ペイジやエラ・フィッツジェラルドが歌いました。その曲は「マック・ザ・ナイフ」の題名で、ジャズのスタンダードになっています。

人間の本性は善であるのか、悪であるのか。これに関しては古来、2つの陣営に分かれています。東洋においては、孔子や孟子の儒家が説く性善説と、管仲や韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も断固たる性悪説であり、フロイトは性悪説を強化しました。そして、共産主義をふくめてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。毛沢東が、文化大革命で『論語』や『孟子』を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。

性悪説といえば、蓮実が教師になる前に外資系の金融会社に務めていた頃、深夜、勤務先のオフィスに侵入しようとしたエピソードの中で次のように書かれています。

「欧米企業のセキュリティの厳重さは、あらゆる意味において我が国とは比較にならない。日本では、事務所荒らしなどの外部からの侵入には一応の対策を講じるものの、従業員に対しては、いまだに性善説に立っている会社が多いが、欧米においては、警戒の対象は、第一に従業員である」

現在、ドラッカーの『マネジメント』がよく読まれているようです。まさに”マネジメントの父”であるドラッカーは性善説の人でした。

また、ドラッカーの最も嫌悪したものは「独裁」であり、独裁とはマネジメントの反対語であるといった趣旨の発言もしています。独裁主義国家の相次ぐ崩壊や凋落を見ても、性悪説に立つマネジメントが間違っていることは明らかでしょう。

マネジメントとは何よりも、人間を信じる営みであるはずです。しかし、お人好しの善人だけでは組織は滅びます。人生の達人の中には、若いうちに、いわゆる「飲む」「打つ」「買う」をはじめとした世のさまざまな誘惑には軽く触れていた方がよいと言う人もいます。横領などの悪事にしても、自分がやるのはまずいが、そういう悪事に手を染める人間がいることを知っておくのは無駄ではありません。つまり、悪に染まってしまってはいけないが、悪を垣間見るということも、生身の人間を扱うマネジメントには必要だと言えるでしょう。

それでは、本書はマネジメント、あるいは人生において「悪を垣間見る」ことの教典になるのでしょうか。わたしは、残念ながら、まったくならないと思います。

蓮実聖司のサイコキラーぶりは、あまりにも常軌を逸していて、日常生活における人間関係的な教訓はほとんど導き出せません。というか、あまりにも間抜けな失敗も繰り返す、このサイコキラーにはユーモアさえ漂っています。

わたしは本書を読む途中で、「もしかしたら、この本ってギャグなのか?」と思ったくらいです。もちろん、蓮実は大量殺人鬼であり、とんでもない”外道”なのですが、どことなく憎めないキャラなのです。なんというか、愛嬌があるのです。こんな愛嬌のあるサイコキラーは、これまでにいなかったのではないでしょうか。

著者が本書を執筆するに当たって、大変な物議を醸し出しだあの「バトル・ロワイヤル」をイメージしていたことは間違いないでしょう。しかし、たしかに蓮実に狂気はあるのですが、なんだか明るい狂気というか、軽やかな狂気というか、「バトル・ロワイヤル」のような恐怖をまったく感じません。

映画「バトル・ロワイヤル」の主人公である教師を演じたのは北野武でした。また、貴志祐介原作の『黒い家』の映画版は、大竹しのぶが主役を演じました。それぞれ、とっても怖い名演だったわけですが、本書『悪の教典』が映画化されたとしたら、主役の蓮実聖司を演じるのは誰でしょうか?

頭が良くて、感じが良くて、女子生徒の人気を集める30代のイケメンという設定です。なによりも、表の顔と裏の顔とのギャップを感じさせるキャラでなくてはなりません。妻夫木聡、玉木宏、香取慎吾、国分太一なども思い浮かべましたが、堺雅人が最も適役ではないかと思います。主人公の蓮実役にはけっこう悩まされましたが、黒いポルシェを乗り回す美術教師役は、なぜか谷原章介のイメージしか浮かびませんでした。

最後に一言つけ加えるならば、本書はたしかにものすごく面白くて一気に読ませます。しかしながら、読み終わった後には何も心に残りません。ストレス解消にはなります。いわば、コミックやアクション映画に近いエンターテインメントなのだと思いました。

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