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No.0108 人生・仕事 『大学教授という仕事』 杉原厚吉著(水曜社)
2010.07.06
『大学教授という仕事』杉原厚吉著(水曜社)を読みました。
版元の社長である仙道弘生さんが、「一条さんは大学の客員教授をされているので、よかったら読んでみませんか?」と紹介してくれたのです。仙道さんは、わたしが一面コラムを担当している「互助会通信」という新聞の編集をして下さっています。
ベールに包まれた謎の職業
本書の著者は東京大学名誉教授であり、2009年より明治大学研究・知財戦略機構特任教授を務めています。本来の専門は数理工学だそうですが、だまし絵の研究で有名であり、「図形計算コンサルタント」を名乗っています。著者は、「はじめに」に次のように書いています。
「大学教授というと職業はベールに包まれている。授業を受けもち、教壇に立って講義をする姿までは、想像しやすいし、見たことにある人も多いであろう。しかし、それ以外の時間は、どこで何をしているのであろうか。強いて想像してみると、実験室にこもりっきりで食事以外に部屋から出てこない教授の姿や、所かまわず積み上げた本のなかに埋もれて論文を書き続けている教授の姿などを思い浮かべるかもしれない。一方、よく見かけるのは雑誌で連載記事を受けもつ教授、テレビの政治番組にレギュラーで出てコメントを述べる教授、新聞の書評欄でよく見かける教授、いつも遺跡調査をしているようにみえる教授、たくさん著書を出している教授などである。このようによく見かける大学教授は、一人ひとりがまったく別の職業のようにみえる。どれが本当の―あるいは普通の―大学教授の姿なのかさっぱりわからない。こんなところが、大学教授に対する一般的な印象なのではないだろうか。」
そういう当人である著者は、テレビ番組「世界一受けたい授業」などでおなじみの名物教授です。その名物教授が、大学教授たちの講義、研究、論文執筆、学会、出版活動、テレビ出演、そして家庭生活などを、余すところなく明かしてくれます。
わたしも客員教授ではありますが、しょせんは「客員」ですから、「専任」の教授の方々がどんな仕事をしているのか、またどんな生活を送っているのか、初めて知ることがたくさんありました。いろいろと勉強になりました。特に、「入試問題の漏えい防止」とか「出題ミスへの対応策」などは、企業のリスク・マネジメントにおいても非常に参考になりました。
考えさせられたのは、著者が学生に自分の意見を押し付けず、なるべく対等に議論するというくだりです。著者は、次のように述べています。
「研究指導というと、教員が一段高い立場にいて学生を導くというニュアンスがある。しかし、こちらが本当に一段高い立場に立っているかどうかは、学生による。学生のなかには、能力においてこちらを凌ぐかもしれないと感じる者も少なくない。以前に自分で考えてみたけれどうまく解けなかった研究テーマを、学生に話すことはよくある。たいていは、むずかしくて解けないだろうなと内心思いながらである。ただし、自分が昔に挑戦して解けなかったということはなるべく言わないようにしている。なぜなら、それを言うとむずかしい問題らしいという先入観が学生に入ってしまい、解ける問題も解けなくなるといけないからである。『こんな問題があるんだけど、いつかちゃんと考えたいと思っているんだ』というような感じで話す。するとたまに、それを学生が解いてしまうことがある」
わたしは、この文章を読んで、著者が素晴らしい教育者であることがよくわかりました。『論語』の「子罕篇」には、「子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」という語句が出てきます。「後生畏るべし」はしばしば「後世畏るべし」と書き誤られます。しかし、本来は「後生」です。文字通り「後から生まれたもの」で、年少の後輩を言う言葉ですね。
「先生」といえば、日本語では学校の教師、医者、弁護士、議員など特別の資格を持つ人をいう敬語ですが、中国語では単に先に生まれた人のことであり、その反対が後から生まれた人、すなわち「後生」なのです。ですから「後生畏るべし」とは、「若い人を侮ってはいけない。今と比べて将来どれほど伸びるか分からない(可能性を持っている)のだから」という意味になります。
もちろん弟子が容易に師を超え得るというのは理系特有の現象であり、文系においては珍しいことかもしれません。しかし、本書の著者は、ある意味で学生の可能性をリスペクトしているのです。真に「後生畏るべし」を体得している人だと思いました。
文系には珍しいと言いましたが、わたしは自分の学生のときのゼミの先生を思い出しました。早稲田大学政治経済学部の「孫田ゼミ」を担当された孫田良平先生です。労働問題の大家であり、ゼミでも「労働賃金」をテーマとされていました。あるとき、卒論のテーマが話題となり、孫田先生は次のように言われたのです。
「誰か、三浦梅園の『価原』をテーマに選んでくれませんか?いつか自分でも研究したいのですが、なかなか時間が取れなくて・・・」
それを聞いた瞬間、わたしは「何がなんでも、『価原』をやろう!」と思いました。江戸時代の国東半島に生まれた自然哲学者・三浦梅園の経世論である『価原』は、おそろしく難解な書物でした。日本で初めて米ではなく貨幣で武士に給与を払うべしと主張した、すごい本なのです。
架空の島を設定していることから、トマス・モアの『ユートピア』を連想し、智恵熱が出るほど構想に苦しみながら、卒論の提出締切り日の前夜に、ほぼ一夜漬けで書き上げました。その題名は、「三浦梅園『価原』における賃金思想と経済学的ユートピア」。
孫田先生は非常に喜ばれ、わたしの卒論に最高点である98点をつけて下さいました。この卒論はけっこう話題になり、「週刊朝日」にも紹介されたほどです。全体の構成案を極限まで考え抜き、一気に書くというスタイルは、わたしのその後の執筆活動に確実に影響を与えたと思います。このときの孫田先生の喜んだ顔が忘れられません。
北陸大学では、「孔子研究」の授業後に中国人留学生からよく質問されますが、ときどきドキッとするような鋭い質問が来ることがあります(日本人からは来ないのが残念です)。そのとき、「この学生は、いずれ孔子研究の道に進むのでは?」と思うのです。
わたしの講義で抱いた疑問から儒教への関心が深まり、本国である中国に帰って学問を深めるようなことがあれば、本当に素晴らしいと思います。わたしも教師冥利に尽きますし、何より孔子様への最大の恩返しにもなります。
それから、教授との面談の約束をすっぽかす学生が多いというくだりには、驚きました。北九州市立大学の学生さんが取材時間を間違えて遅れて来たのですが、著者によれば、東京大学にも約束時間を忘れる学生がたくさんいるというのです。著者は、次のように書いています。
「最近気づいたことであるが、面談の約束をすっぽかす学生のなかには、自分のスケジュールを記入して管理する手帳の類をもっていない者が少なからずいる。そういう学生は、自分がいつ誰と会う約束をしていたかを、頭のなかの記憶だけに残しておき、その記憶を頼りに行動している。人は忘れる動物であるから、記憶だけに頼っていたのでは約束を忘れてすっぽかしてしまうのも当然であろう」
なるほど、なぜ学生が約束を忘れるのかがよくわかりました。最高に頭脳優秀なはずの東大の理工系の学生でも、手帳がなければ約束を記憶できないわけです。さらに、著者は次のように書いています。
「手帳をもっていない学生に初めて出会ったときは、とても驚いたが、二人目からは、約束をすっぽかされた理由がはっきりして、むしろすっきりした。そして、そういう学生には、世の中には手帳というとても便利なものがあって、それを使えば記憶に頼るという苦しみから解放されるんだよということを、真面目に教えてあげる。それでも相変わらず手帳をもたないままの学生もいて、世の中は私の理解の範囲を越えている」
やれやれ、名物教授である著者の困惑した顔が目に浮かぶようですが、そんな学生たちにはドラッカーの「タイムマネジメント」を叩き込んでやりたいですね。そう、「汝自身の時間を知れ」です! それにしても今時の学生は、手帳はともかく、ケータイなどの電子機器にスケジュールを入力することすらできないのでしょうか?
最後に、本書に不満があるとすれば、わたしが一番知りたい「学生たちに静かに講義を聴かせる方法」が書かれていなかったことです。(苦笑)まあ、第1章のタイトルが「ストレスの少ない職業」ですから、著者にはそんな苦労は無縁なのでしょうね。
本書を読んだのは仙道さんに薦められたからですが、じつはもう一つ理由があります。6日の夕方、金沢で開催される「石川県私立大学協会」の総会記念講演で講師を務めるからです。わたしが客員教授をしている北陸大学はもちろん、教育先進県として知られる石川県の私立大学の理事長、学長、学部長、教授の方々がたくさん集まられるということで、大学教授という職業についての基礎知識を得ておこうと思った次第です。